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神宿りの木    たまゆら編 1

 


僕は目が覚めてからずっと、何かが欠けているような感覚を持っていた。


7歳の時に事故にあったせいで、生まれてからの記憶はなく、
人生で一番古い記憶は、こちらを見て微笑む看護婦さんたちの顔だった。
頭を強く打って全て忘れてしまったらしく、言葉、文字の書き方、食事の仕方を一から覚える羽目になった。
でも遅れは1年ぐらいで取り戻し、学校に通う事が出来た。
周りより勉強もおしゃべりも上手に出来なかったけど、友達も出来て、そこそこ楽しく生きてきた。
優しい両親と、普通の家。
満ち足りてるはずなのに、何かが足りないと感じる欠落感はあらゆる娯楽をつまらなくしてしまう。
目標も目的も、熱中するものも見つけられず、無駄にダラダラと過ごしていた。

常に求めていたそれが、死に別れた兄だと気づいたのは、三区の工場地帯にあったマンホールを開けた時だ。
空の写真立てのせいで顔も覚えていない瑛人兄さん。
記憶は何一つ残っては居なかったが、いつも側にいてくれた安心感は体が覚えている。
語りかけてくれた優しい声をもう忘れてしまったが、この下に兄が居ると、確信に近い予感があった。
自分は兄を探すんだと、使命感が急に生まれた。
だから僕は、マンホールを降りた。
死んだはずの人が、神隠しにあっただけで実は生きているという希望に、すがりたかったんだと思う。


地下世界に来て、平和は侵され常識も倫理も全く違う場所に降りたというのに
僕は生きているという実感を生まれて初めて持てた気がした。
環境にすぐ適応したので、周りに驚かれた。
驚くことではない。
僕は初めからココにくるため生まれてきた。そんなことすら思った。

友達も出来て、頼れる大人も知り合いも沢山出来た。
常に命の危険にさらされながらも、生きている実感でいつも胸は満たされていた。


驚くべきことに、本当に兄と再会出来た。
兄は確かに生きていた。此処、天御影で。
青い炎に守られ兄の腕の中で、僕はやっと欠けていた一部を取り戻せたのだ。


戻ってきたんだ―
もう絶対離れない―

そんなことも思った。

 

 

 

たまゆら編


足下から突き刺すような強い振動を感じて机にしがみついた。
棚から本が振り落とされ、この建物と、建物の外からも警報音が鳴り響くと
幾重にも重なって耳障りな不協和音となりながらも、区民に注意を呼びかける。
もう揺れが始まっているのだから、注意喚起など意味がないようにも思うが。
吹き抜けの窓から見えるドームの天井が、一気に警告の赤パネルへと切り替わった。
体感にして約1分続いた、立ってられないような強い揺れが徐々に収まっていく。
世界が元に戻り、島田は絨毯に転がって大分離れてしまった自身の杖を拾った。
執務室の扉がノック無しに開き、心配そうな顔をした娘の鏡子が駆け寄ってきた。

 


「ご無事ですか。」
「大事ない。急ぎ被害を調べろ。」
「もうやらせてます。」

 


島田の執務用机に取り付けられた内線のスイッチを入れつつ、
秘書でもある鏡子が位置がずれたパソコンを直しつつ操作をし出す。
足が悪い以外健康体ではあるが、もう高齢になった父に椅子に座るよう勧めたが
島田は断って、窓ガラスから街を覗き込む。
中央区の多くの施設は地震で壊れにくい強化ガラスを使っているし、建物の耐震はしっかりしているが
一般企業や民家は中々同レベルの耐震工事が間に合っていなかった。
行政施設がある一帯の向こうでは煙が上がっている。
不安をかき立てる警報音は遠くでまだ響いている。
天井のパネルが今の時間に合わせて夕暮れ前の空に切り替わる。

 


「震度計は震度6を観測。震源地は変わらず天御影。火災と崩壊の被害報告止まりません。また、3区、4区との通信途絶えてるそうです。」
「中央区を避難地として解放する。此処が一番頑丈だ。他のドーム区員も移動させろ。」
「院政議員が黙ってないですよ。」
「放っておけ。この緊急事態に自身の保身しか考えない輩は地下に落とすと脅してやれ。」
「議長もお早くシェルターにお入り下さい。」
「わしは此処でよい。日之郷を守るのが仕事だ。」

 

ドームの環境システムが正常に戻ったのか、偽物の鳥が空を飛び回り始めた。
地上の混乱など知らぬ顔で。

 


「神籬が天御影に降りてから、酷くなる一方ですね。」


パソコン本体ではなく、小型端末を操作しながら鏡子が父の隣に並ぶ。


「地上はとっくに神に見放された土地だった。天地平定で帝一族の子孫が降りてからは特に。
最後の神籬である彼がいたから、ここ十数年無事であったというだけ。もう崩れるだけであろう。」
「結界があるせいで、逃げる場所はどこにもありません。シェルター内にある食料品を含めた備蓄も想定人数をとっくに超えてます。いつまで保つやら。」
「保たせるのだ。3区、4区の備蓄を運搬させるんだ。
天御影にも物資は送り続けろ。エレベーターが動く限りな。」
「承知いたしました。」
「議会議長の緊急事態宣言発令する。72時間後中央区以外のドームを破棄。電力と区民を全て此処に集めろ。御司守にも動くよう伝えろ。自衛隊と協力し避難誘導と救助に尽力するのだ。」
「速やかに手配いたします。母さんはもちろん、沙希も無事ですよ、お父さん。」
「わかっておる。」

 


どこかに電話を掛けながら秘書であり娘の鏡子は退室していった。
街のどこかから、子供の泣き声が聞こえる。
怒声と悲鳴も止まない。此処しばらくの日之郷は戦後ようやく手に入れた平和から見放されている。
人間同士で争っている場合では無い、地上はもう神に見捨てられたのだとようやく気づいたのに
やはり崩壊の運命からは逃れられないというのか。

 


「無情ね。」


執務室の端に置かれたピアノの椅子に、彼女は座っていた。
もう使われなくなった品物だが、部屋から出すのも一苦労なのでそのままにしてある。もう装飾の一つだ。
窓の外を眺めながら、憂いを帯びた悲しげな横顔が普段の彼女とかけ離れた色合いを見せている。
手にはいつもの煙管を握っていた。

 


「わしもちょうど同じ事を思っていましたよ。道の先に崩壊があるとわかっていながらも
人間は歩き続けてきました。だがいざ道の端にたどり着いて終焉が見えてくると、置かれた状況を疑い、
理不尽に恨みを抱かざるをえない。まあ、神に理不尽も何もないでしょうがね。」

 


体の向きを変え、本棚から落ちた本を拾って元にもどす。
この作業はもう何度目か。もうどこにどの本があったか覚えてしまった。
大事なものなら閉まって安全な場所に移動しろという娘の警告を聞かず、わざわざ身近に置いてある大事な品だ。
日之郷の歴史をまとめたものや、過去の偉人が著した物語。今は絶滅した植物や生き物図鑑など。
ほとんどがデータとして保管されるようになった昨今、これらは大事な紙媒体なのだ。

 


「日之郷の人口もここ数日で半分です。シンの懐である黄泉に行ってしまいました。」
「人間は本当に無力ね。もちろん零鬼もね。」
「わしはあがきますよ。最期まで。」

 


レイコが本を整理している島田へ顔を向けながら、口の端に笑みを作った。

 


「お前が変わらなくて安心したわ。」
「今では孫が足掻いてるんだ。私が歩みを止めるわけにいかないんですよ。歳は取りましたが、やれることはある。」


遠い昔を思い出す。
出会ったばかりの頃も、無表情で何者にも興味がないという態度を取りながら
胸の内に熱いものをもっている若者だった。
日之郷を率いるのは彼しかいないと確信した。
まさか、もっと遠い昔に出会った友人の子孫であったとは驚きで、彼の孫が御子になったのも驚いた。
運命とは、必然とは本当に面白い。
レイコはピアノの蓋を開けた。
掃除はされていたのだが、長年動かしていなかったのだろう。蓋を開けるとギィという錆びた音と重みがあった。
ピアノ椅子から席を立つ。


「ねぇ、いつもの弾いてちょうだい。」
「議長がこんなときにですか?今も忙しく働いている部下らに怒られます。」
「音が漏れないようにしてあげるから。さ、早く。」
「指が動きますかな。」

 


むすっとした顔をしながら、杖をついてピアノに近づいた彼は、素直にピアノ椅子に腰掛けた。
杖は鍵盤の近くに立てかける。
鍵盤に皺だらけになった指を置いて、呼吸を整えて鍵盤を弾く。
あれから40年。
お互い耐えた方ではなかろうか。


「あら、衰えてないじゃない。シベリウス。」
「わしをそう呼ぶのは貴方だけですよ、クイーン。」
「フフ。その曲好きなんだもの。」

 


初めて会ったとき、彼はこの曲を弾いていた。
その作者の名前の響きも気に入って、彼のあだ名にした。
今でもあの時のことを思い出せるというのに、思い出すら、神は奪いにくるというのか。
この土地は神の土地。
零鬼は左の神が産んだが、本来は根の国の住人だ。
道が絶えた今、現世が無くなれば零鬼も消える。


「また弾いてちょうだいね、シベリウス。私の最後の友達。」


独り言を彼の背中に投げかける。
小声で吐いたので、当然当人には届いていなかった。

 

 

 

 


天御影最大の集と言われている水縹所属・綴守の天井が遂に崩れた。
天井と言ってもむき出しの岩肌がそのまま鎮座していただけで、加工もしてないし保護ネットを張っていたわけでもない。
それは天井岩がかなりの大きさと分厚さ、頑丈さもあったのでそのまま利用していたらしいが、
ここ数日の大型地震は巨大岩に亀裂を作ったようだ。
真人は、改めて此処が地下世界だという恐怖を感じていた。
蟻の巣のように土と岩を掘り進んで穴を作っただけの世界だ。
コンクリートで補強された場所はほんの一部で、ほとんどの道が地層をそのまま残している。
真人の耳にも、他の集に繋がる道が多数崩れたという話が入っている。
この綴守の天井が崩れたのは、絶対的だと思われていた居住に対する安全性が崩れたことを意味する。
集民は怯えあまり外に出なくなったが、他に逃げる場所もない。
それが地下の欠点だった。
崩れれば、押しつぶされるだけ。
どこに逃げてもそれは変わらない。
結界があるので、天御影から上へ逃げられないのだ。
もちろん、地上に逃げたところでこれだけ揺れが多発すれば上も被害は出ているだろうし、ドームの外を出れば人間は生きていけない環境が広がっている。
閉塞感と焦りが、集全体に走り人々は皆ピリピリしていた。
綴守内部は、実行部隊員がいつも忙しそうに右往左往している。
十杜の駆除はもちろん、今は他の集へ救助や支援物資の運搬で借り出されている。
仲の良い8班メンバーともしばらく顔を合わせていない。
真人も実行部隊に所属しているのだが、隊長藤堂から言い渡されたのは自宅待機だった。

 


「僕も手伝わせて下さい。物資運びぐらいなら出来ます!」
「ダメだ。お前の<シンジュ>石は対十杜共にしか使えない。外では一般人と同じだ。
自己防衛が取れない隊員は待機と決まっている。」
「こんな時にじっとしてなんか―」
「そういうの、迷惑だからやめなさい。」


口を挟んできたのは、驚くべきことに総隊長雨条沙希だった。
いつも無表情で凜とした美しさがある彼女だが、真人から見てもわかるぐらい疲労困憊している様子だった。
顔色は悪く、寝不足なのか僅かに目つきが鋭くなっている。
無意識に放たれる敵意に一瞬言葉が詰まるが、負けじと真人は食らいつく。


「お願いです。何かやらせてください。僕も実行部隊です。」
「では、貴方が土砂崩れにあったらどうする。捨て置けと言っても綴守の人間はきっと貴方を助けるでしょう。
貴方は瑛人の弟だと皆知っているから。
救助してる間に、その隊員も被害にあったら?二次災害がさらなる悲劇を呼ぶのよ。そこで散らなくていいはずだった命が散るの。」
「・・・それは・・・。」
「役立たずを外に出して、無駄に仕事を増やすわけにはいかないのよ。何かしたいと思うなら、何もしないで。それが最善策よ。」


長い髪とマフラーをなびかせ、彼女は去って行った。
兄瑛人と暮らすようになり、兄の幼なじみである総隊長とも仲良くなれるかと期待したが
彼女は今までの距離感を詰めるようなことはしなかった。
綴守の剣として、常に独りで存在し続けた。
彼女の背中を見送っていた藤堂が、サングラスの奥にある瞳を真人に向けた。

 


「瑛人の側にいてやってくれと、沙希も思ってるんだ。」
「え?」
「お前の前では決して見せないだろうが、あいつはやや神経質で内気なとこがある。
この事態に僅かながら殺気立ってる。だが、お前が側に居れば落ち着くはずだ。
司令塔のあいつがしっかりしてないと、綴守の指揮系統が乱れる。外に出ている連中にとって、司令室からの指示だけが灯台の明かりなんだ。」

 


黒い指空き手袋をした大きな手が真人の頭に乗る。
7年前、兄瑛人が地下世界に迷い込んで総隊長の両親に保護された時、
同じく保護されていた藤堂と一緒に育ったと聞いた。
人見知りの兄瑛人も藤堂には心を許しており、血の繋がらぬ大事な長兄だと言っていた。
瑛人の自室にもよく訪ねてくれるので、今となっては真人にとっても頼りになる兄となった。

 


「一番重要な仕事だ。頼めるな、真人。」
「うん、わかったよ。考仁さん。」


口元にほんのり笑みを宿した藤堂だが、実際隊を動かしているのは彼である。総隊長では無い。
忙しそうに正門の方へ行ってしまった。
取り残された孤独感と、役立たずと揶揄されたような劣等感。
周りの隊員は今も忙しそうに走り回っているというのに、十杜を灰にする能力は何の役にたたない。


(・・・人間を灰にするような奴がいたら迷惑だよな。)


自嘲気味に頭の中で呟いて、真人も踵を返した。
結局あれから、人間を灰にするようなことはしていないが、
噂は綴守にも広がり、親しい人たち以外は真人に近寄ることをしなくなった。
少ない知り合い達とも顔を合わせていないので、兄瑛人・考仁以外と話すこともなくなった。
自分は兄を探して此処に来たのだ。兄の側に居るのが一番だと無理矢理自分を納得させ、兄の部屋がある特別棟に向かった。

 

 

 


その背中を、遠くから見守る人影がある。
ボリュームのある長い砂色の髪を三つ編みにして背中に流している女性で、女性にしてはかなりの長身だった。
黒いワンピースに白いエプロンを着けて、碧青色の垂れ目はしっかりと真人の背中を見つめていた。

 


「神籬であることも、シンの話も本人に話してないらしいじゃないか。」

 


真人から目を反らさぬまま、女性は小さくお辞儀をした。

 


「ご無沙汰しております。」
「いいのか?大事な本人蚊帳の外で。」
「言えば、自ら依り代となりに行くだろうから、と瑛人様が。」
「まあ確かに、自己犠牲を厭わないタイプっぽいもんな。」
「似てらっしゃいますね。」
「誰に、とは聞かないでおこう。」
「綴守までいらっしゃるのは初めてですね。何かございましたでしょうか。」
「事が起こる前に、見ておこうと思っただけ。明日はあいつの誕生日だし。ほんの気まぐれさ。」

 


突然現れた人物は、茜音と一緒に群衆に紛れる真人の背中を見守っていたが
姿が見えなくなると踵を返して光が届かぬ方へ歩いて行く。

 


「最後まで、お姿を現さないおつもりですか。」
「そういう契約だ。神籬を頼んだよ。」
「心得ております。私は枇居名(ひいな)ですから。」

 


気配が去り、茜音も主がいる部屋の近くまで移動することにした。

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