第二部 南十字は白雨に濡れる 10
ひきつぼし星団の結界内にある裏の森。
森の奥の、さらに奥。
鬱蒼とした木々に囲まれ人の気配も全くない、半ば忘れ去られたような場所に、その舞殿はあった。
八角形の高床舞台で、床板と丸柱は本殿のものより古く歴史を感じる濃い茶色をしていた。
八本の柱に合わせた八角形屋根の下には、それぞれの辺に御簾が掛かって結ばれている。
舞台の周りに柵は無く、格子もないため解放された空間となっていた。
床には大きな円の中に星座図が描かれ、おおいぬ座のシリウス―天狼星が一際大きく、鮮やかに存在を示していた。
舞殿の周りには普段何も無いのだが、今は儀式で使う道具を乗せる台座や、
神楽を演奏する奏者のスペースに畳と倚子が置かれている。
四方には、南斗六星のシンボルマークが描かれた細長い旗が立っていた。
舞殿の中央で、ポケットに両手を入れながら立っていた畢宿は、天を仰いだ。
星座図の真上は、丸く屋根が切り取られていた。
その昔、この舞殿で儀式を行ったり、星詠みをしていたという。
近代になって余り使われることはなかったが、黄王は次の壬辰の日に儀式を行うと決めたため、最低限の準備は成されている。
天狼星を媒体に宇宙の門を開く儀式。
儀式のみでしか使われない、通称奥宮。幹部しか入れない場所。
舞殿から見上げる空は、今にも雨が降り出しそうな暗い色をしていた。
結界の中でも、空は現実のものであるため、雨が降ればこの舞台も奏者達の倚子もずぶ濡れになるだろう。
気配を感じて、振り返った。
葉を重ねるように立ち並ぶ木々の根元には濃い闇が生まれており、開け放たれた舞殿の側に来て、ようやく姿形がハッキリ捉えられるようになる。
闇を纏っているのかと錯覚してしまった。
こちらへ真っ直ぐと歩を進めるその者の肩には、漆黒の羽織が乗っていた。
着物の袖は通さず、歩く度裾や袖が踊る。
よく見るとその羽織には星の模様が描かれているのを畢宿は知っていたが、舞殿の上からは確認出来ない。
羽織の下は半袖のワイシャツと黒いズボン。もう夏休みだというのに、制服で来たのだろうか。
長めの前髪の下にある表情は窺えず、口は一文字に固く閉ざされている。
畢宿はポケットに手を入れたまま、舞殿の階段を下り、砂利の上に戻ってその者と向かい合った。
彼も、畢宿の前で足を止めた。
森の中にいるせいだろうか、空気がひんやりと冷たくなったように感じた。
吹き抜けるかすかな風に乗って、雨の匂いがする。
舞殿の周りに、薄く霧が立ちこめ始めていたのを、畢宿はそこで初めて気がついた。
静寂を破ったのは、畢宿だった。
「来ると思っていたよ。」
目の前に立つ彼に話しかけているようで、どこか独り言になってしまった。構わず続ける。
「此処の結界は簡単には壊せないが、仕組みを理解していれば案外簡単に解ける代物らしい。結界石を壊してるのは、お前の式神だな。結界術が得意な猫の妖怪がいたな。
更衣に俺の出自や身の回りを調べさせていたのも、お前だろう。」
対峙する彼は何も答えない。
だが、ゆっくりと、顔を上げた。
双眸にどんよりと絡みつく憂鬱さ、苛立ち。感情を読み取れるのはそこだけで、眉間に皺はなく、口は閉ざされたまま。
強者を前に畢宿の腕に鳥肌が立った。こんなに強いプレッシャーを向けられたのは、出会ってから初めてのことだ。
「俺を、殺しにきたか。」
反応は返ってこない。
漂いだした霧に問いかけている気分になる。
だが、彼は確かに目の前に現れ、此処で対峙している。
昔は簡単に抱き上げられたほど小さかったあの少年が、随分立派になったものだと昔を懐かしむ。
これから行われる命の取り合いを前にして、我ながら呑気なものだと呆れてしまう。
始めからこうなることは、分かっていた。
遅いか早いかだけのことである。
「じゃあ、始めようか。」
その問いかけが合図になった。
畢色がポケットから手を出し、対峙する青年―四斗蒔透夜が握りしめていた拳を解いてゆっくりと右手を胸の高さに挙げた。
僅か数秒の静寂が一分にも永遠にも感じた。
―いつか来ると思っていた、その時がそっと舞い降りた。
「星廻交降術」
「斗(ひきつぼし)流射抜」
「辰星波弾(しんせいはだん)!」
「一矢!」
同時であった。
透夜が手から青白い太い光線が発射され、畢宿の手からは紫掛かった白い矢が放たれた。
両者の術がぶつかり合った瞬間、森に鎮座していた闇が攻撃の間だけ解き放たれる。
透夜の肩に掛かった羽織が激しく波打つが、剥がれることはなかった。
畢宿が放った矢は震えながらも空中で透夜の一撃をせき止めていた。
攻撃を受けながら、畢宿は全身に力を込めぐっと両足を踏ん張った。
透夜の実力はよく知っていたが、技を交えた事は一度も無かった。日室誠司でいる間は、弱いフリをしていなくてはならなかったので、霊力を封じて生活していたからだ。
初手、彼の実力を体で感じるためあえて受けてみたが、質量の重さと霊力の濃さに腕が吹っ飛びそうになっている。
ただでさえ特級の実力は高いというのに、七星開祖摩夜が羽織っていたと言われる品を身につけているせいで、透夜自身の霊力と防御力を上がっている。
透夜自身が日室誠司に教えてくれたことである。
このままでは質量に押し負け、光線に焼かれて死ぬと判断した畢宿は、砂利の上に転がって回避した。頭を掠めるように青白い光線が通り過ぎて、背後にあった舞殿を粉々に砕いてしまった。
人知れず短くため息を吐いて、薄暗さが戻った森の中へと走った。
「六連星。」
光線を切った透夜は、右手の人差し指と中指を顔の前で立て、地面に向かって振った。
その瞬間、指先から青白い光の弾が六つ生まれ、逃げる男の背中に飛んでいく。
人間の投球では不可能なスピードで敵に迫るため、光の尾が出来上がる。
まるで横に流れる流れ星のようであった。
軽く振り返って気配を察した畢宿が走る足はそのままに、左手で印を結び、追ってくる六つの弾のうち四つを自分の背中付近で作り出した白い弾で打ち落とした。
だが残り二つがしつこく追いかけてくる。木々の間を複雑に走り抜けてみても確実についてくる。
追撃機能があるようであった。
高く飛んで木の枝に飛び移りながら、体を半回転させて白い光線を放ち追撃弾を打ち落とした。
―わずかな心の隙を確実につかれた。
追撃を仕留めたことで一瞬の安心があった。靴の裏が枝の上に乗るのと同時、空から再び六つの弾が降ってきた。
体重を足に乗せきる前の攻撃に、飛んで避けることが出来なくなってしまった。
「宿曜盤。」
畢宿の手に、占いで使う占星盤が現れた。
四つの円が重なったそれらには文字がびっしり書かれており、円がそれぞれ回り出す。
外側から三つめの円が止まり、畢と書かれた字の下に、四つ目の円に書かれた命の文字が重なる。
「遠距離、衰。亢宿。」
そう早口で告げると、盤の亢の文字が紫色に光った。
頭上まで迫っていた弾丸が、揃って斜め右手方向―亢と書かれた文字の方に折れ曲がった。
そのまま弾が逃げた先へ盤を投げてから全て爆発させ、自身は爆風に巻き込まれる前に枝から飛び降りて再び地面を走った。
今のは星団に伝わる、占いによって生み出された効力を具現化させるもの。
宿曜占星術を使う人間なら一度は使ったことがある道具。
自分の宿を基盤に方位を決め、導き出した結果に吉凶を宿すのだが、どうにも手応えは薄かった。
きっと七星の術も同じように星の位置や暦を元に計算されているのだろう。
一度の使用で、全回避は不可能、影響力もさほど得られないのを悟った。
斗流の技も、元を辿れば七星。相性が悪すぎる。
ぐっと眉根を寄せ、視線だけで軽く上を確認した。
透夜はきっと、あの黒い鳥の背にのって木々の上からこちらを狙っている。
生い茂る草が視界を遮ってくれてはいるが、先ほどの追撃弾や、木々の破壊を気にしない技を討たれれば一網打尽。
土地勘を頼りに、左にカーブするように折れる。
森が突然途絶えた。
目の前には細い、けれど簡単に渡れない川が流れていた。
小石が積み上がった河原を飛ぶように抜け、一番大きな岩の上で高く飛び上がり、向こう岸に着地する。
くるりと向きを変えると、森を抜けてくる黒鳥の頭が見えた。
手で印を結ぶ。
「幻想神獣召喚・南方朱雀。」
畢宿の頭上に、半透明な赤い鳥が現れたのと、甲高い鳴き声が森を裂くように轟いたのは同時であった。
体は透けてはいるが、羽を広げると四メートルはあり、五本の尾の長さもそれぞれ一メートル半はあるだろう。
赤い羽毛はぎっしりと詰まっており、動くたびに金色の粒子が舞った。
嘴を上下に大きく開き、首を左右に伸ばした朱雀は、頭上に見える黒い鳥に向かって飛び上がった。
衝撃で川の水が跳ねるが、畢宿は印を解かぬように黒い敵を睨み付けていた。
飛び立った朱雀は真っ直ぐと黒鳥の腹めがけて突進をした。
黒鳥の上から透夜が技を放ったが、透明な体をすり抜けただけで手応えは無かった。
朱雀は黒鳥の腹に噛みつき、口から炎を出した。
黒鳥は声を上げることはなかったが、苦しそうに空中で身悶えして、嘴から逃れそうと羽をばたつかせる。
「焼きつくせ!」
そう命じると、朱雀の体全体から炎が上がり、口からも吐き続けている炎の威力も上がる。
あっという間に黒鳥は炎に包まれ、具現化が解かれた。
隙を見逃さず、別の印を刻む。
炎を纏ったまま、朱雀は一度旋回してから、地面に落ち続ける人物に突進する。
体から吹き出す炎は更に高く勢いより燃えさかった。
朱雀から甲高い悲鳴が聞こえ、赤い羽根が散り散りに抜けて朱雀の具現化も強制的に解かれてしまった。
「鼓星。」
朱雀の残骸が消える中で、落下していたはずの影もまた視界の中から消えた。
顔を左に回した時には、半透明で青白い長方形結界の中に捕らわれていた。
畢宿の足元には陣が描かれている。
「内側に向けた結界術か。これは横浜では出さなかった技だな。」
川辺に降り立っていた透夜は、ただ黙って結界内に閉じ込めた男を睨み付けているのみ。
先ほどから、技の名以外で言葉を発しようとしない。喋るつもりはないようだ。
「見事な結界だが、捕らえるだなんて生ぬるい。殺すつもりでこい。」
結界が、内側から割れた。
ガラスが粉々に落ちるように、青白い半透明な破片が小石の上に落ちていく。
透夜の眼前に畢宿の拳が迫っていた。
一瞬で迫った拳に乗った霊力と威力は、遠慮も手心も一切無い。
当たれば凄まじい一撃であったであろうが、透夜の鼻先に当たる事無く、青白いカーテンに塞がれた。
カーテンに触れた畢宿の拳が熱くなる。分厚いコンクリートを擦ってしまったような摩擦熱が皮膚を焼く。
細かく星が描かれたカーテンの向こうに飛んだ透夜が印を結んだのを確認して、ほとんど本能で左に飛ぶ。
今畢宿が立っていた場所に、大量のエネルギー弾が降っていた。
避けることの出来ない豪雨のような弾丸の雨を一度受けてしまえば、回避は不可能であったであろう。
ギリギリで避けられている自分の本能にも驚いている。
カーテンを霊力で消し去り、腕を左上から右下に腕を振ることで、半月状の斬撃を飛ばした。
二発、三発と繰り返し放ち、衝突で土煙が上がる。
目線を右上に投げた。振り下ろされた刃を霊力で包んだ腕で受けた。
窪んでいるだけの、眼球の無い男の顔。顔だけでてはない、全身が青い半透明な武将がそこに居た。
透夜の虚像召喚の一つだ。
神の名を冠した虚像の腹に、白い弾丸をゼロ距離で打ち込むと、簡単に軍神は砕け散った。
右肩に痛みが走る。
舌打ちをして、肩に受けた一撃が肉を裂く前に前方に転がって距離を取り、転がりながら白い弾丸を撃っておいた。
軍神の召喚はデコイで、透夜の手に握られた雷を帯びた刀が本命。
横浜でも、あの刀で滝夜叉姫の鎖を切り、がしゃどくろの具現化を解いていたと思う。
殺すつもりで、と言った途端これだ。
右肩に生ぬるい感触とジンジンと染みるような痛みが走っている。
こちらは儀式のことも考えて殺すことも、傷を付けることも許されてないというのに。
といっても大人しく捕まってはくれないだろう。
殴るか蹴るかして気絶させねばなるまい。
――難しいことを言ってくれる。
右肩に左手を当て、傷口を直接焼いて止血する。
そのまま川に背を向けながら再び森の中に走った。
攻防は激しさを増した。
透夜が放った顔ほど大きさがある橙と青の光りの球が。畢星の後をついて回っては、透夜が放つ細かな弾丸を誘導したり遠くに飛ばしたり畢宿の思考を翻弄した。
畢宿は長身で重たそうな体の割りに軽業師のような身軽さで攻撃を避けながら、枝と枝を渡り、時には幹を蹴って身を翻しながら、攻撃を相殺させていた。
だが、防戦一方なのは変わらない。
いい加減打開策を考えねばならん。
視界の端で、それは映った。
迷わず右手側に進路を変え、森の終わりのすぐ隣にある岸壁を切り抜いて出来たような洞窟の中に入っていった。
子供の頃は大きな口だと思っていたが、百八十を越える身長には高さが足りず、少しばかり背を曲げないと通れなかった。
細い通路を抜けると、天井が随分高い空洞に出た。
無意識に足を止め、命を狙ってくる相手との攻防の最中だということを忘れた。
天然に出来たのか、ボコボコした岩肌の穴の中。
大小の穴がくっついたような形状で、左手の大きめの穴には上面が平たい横長の岩が寝かされている。
あの岩を寝床として使っていた。この洞窟内で、唯一の家具。
岩の頭上には大きく崩れた跡があり、そこが唯一の光取りだった。
この洞窟は岸壁の中では無く、外に向かって出来た空洞であったらしい。外側で岸壁に張っている蔦の葉が洞窟内にまで入ってきている。
雨の日は容赦なく雨が吹き込んで来たが、晴れた夜はよくそこから星を見た。
後を追って彼が洞窟に入ってきた気配がしたが、構わず口を開いた。
「懐かしいなぁ。子供の頃、此処に閉じ込められて修行していたんだ。この穴から見える星を見ることだけが、唯一の楽しみで――」
左の指でその穴を差した時、洞窟の天井が粉々にされて地面に落ちた。
畢星は振り返って訝しげな目線を投げかけた。
「ひどいな。これでも思い出の場所なんだが。」
喋りながら左に三歩避け、壁に手をついた。
すると、洞窟内の岩肌に白い線が走り、文様を描いたかと思えば、上下左右、床の分厚い岩も突き破って蔦が伸び、透夜の全身を拘束。さらに洞窟内に走った白い文様が変化し、透夜を縛る蔦を決して切れぬ呪具に変えてしまった。
透夜は下を向いて白く発光する蔦に自分の霊力を込めるが、火花が散るだけで切断されることはなかった。
「簡単には切れないさ。これは―」
説明の途中で、靴裏に振動が伝わってきた。
先ほど落ちた瓦礫かカタカタ音を立て、ベッドにしていた岩が真っ二つに割れた。
子供の頃、寝てる最中にナバリの不意打ちを食らっても死なないように、自ら編んで隠しておいた術式だった。文字通り命を賭けた秘術が、あっさり解けていくのを感じる。
「・・・恐ろしい子だよ、お前は。」
ブツブツと小さく呪文を唱え始めた青年を中心に揺れが大きくなり、右手側の壁が壊され文様が途絶えた。
下敷きにされてはかなわないので、筆宿は大きくなった天井の穴から飛び出して外に出た。
ついに、雨が降り出していた。
曇天から線の細かな雨が真っ直ぐ落ちている。
洞窟の真上に立っているので、森に掬っていた霧がずいぶん濃くなっていたのがわかった。
舞殿の方などもう霧に隠され見えなくなっている。
穴の下へ視線を落とした。
壁を壊しまくったのであろう、周りは瓦礫が積み上がっており、霊力が切れただの蔦が足元に落とされている。
あの時の少年が、ずいぶんと大きくなったあの子が、こちらを真っ直ぐ見上げている。
自分を殺すために、そこに居る。
どこか可笑しくて無意識に口元に笑みが漏れてしまった。
透夜にそれを見られたかどうかは分からない。
顔を戻し、岩肌の上を背を低くして走りだした。