神宿りの木 真人編 6
モノレールに揺られていた。
深緑色の対面式のシートに座りながら、ああまたこの夢かと理解する。
車窓の向こうで、中央区のビル群が通り過ぎていく。
壁面に取り付けられた巨大モニターの中で、島田議長が演説を続けている。
紙吹雪がモノレールの外で舞っている。
青い作り物の空がやけに眩しかった。
夢の中で、まるで夢のようだと感じるのは可笑しな感覚だった。
モノレールの中は薄暗く、連結部分の近くに吉田が座っていた。
背は曲がり頭はうなだれ、顔に色濃い影が掬っていて表情は読めない。
僕の隣に、兄さんは居なかった。
顔を前に戻した時、やはり彼女が現われた。
真っ黒な服を纏った黒髪の少女は、仁王立ちしながらじっとこちらを見下ろしていた。
血がこびりついた刀は持っていなかった。
代わりに総隊長が口を開き何かを告げる。だがやはり声は届かない。
口は必死に動き、何かを訴えようとする切実さは届くのだが、声はモノレールの稼働音にかき消されて微塵も聞こえてこない。
凜々しく美しい彼女が見せる、切なの眼差しに胸が痛くなる。
聞かなければならない。
応えなければならないのに、そこで夢は終わった。
*
声が聞こえて、目を開けた。
争っているような、とげとげしい声が鮮明になっていくが、
真人が聞きたい声ではなかった。
「―ですよ。我が集の人間も灰にされては困ります。拘束すべきです。」
「起きたらすぐ連れて帰ると言ってるだろう。こいつは触れた敵を灰にするだけだ。触れなければどうということはない。
それに、攻撃してきたのは被害者だ。暴行を加えられそうになって自己防衛本能が働いたのだ。」
「人命を軽く言わないでいただきたい。」
「綴守の実行部隊員だ。処遇の決定権はこちらにある。」
「事が起きたのは此処金糸雀です。ウチの人員に被害が出る前に拘束を要求します。」
「待て。」
争いを制しした一際低い声に誘われるように、真人が顔を傾けると、六本鳶松の久我族長が横になっている真人を覗いていた。
安否を気遣ってくれている久我の顔を見て、ぼやけた頭が鮮明になっていき先程の出来事を思い出す。
寝かされていたソファから飛び起きて部屋の隅に逃げた。
「どうし―」
「近づかないで下さい!僕に触れると危ないです!」
「落ち着け。」
「ぼ、僕・・・人を・・・、人を殺し・・・、」
頭に被った灰の感触が嫌でもフラッシュバックする。
人間の灰は十杜のそれより気味が悪く全身が総毛立つ。指先の震えが全身に回り、焦燥感に襲われる。
頭を抱え、荒くなった呼吸を必死に繰り返す。
近づこうにも本人が拒絶しているため、久我もそれ以上距離を縮めることはしないでいてくれた。
一際尖った声が耳に入り、真人は涙がにじむ目で顔を上げた。
部屋には久我と藤堂の他に、白に近い灰色髪を胸元まで伸ばした男性がいた。
浅黒い肌を持ち、メガネの奥に光る瞳は真人を睨んでおり、綺麗な顔をしているのに、気難しそうな雰囲気があった。
あからさまに向けられる敵意がまた体を震わせる。
「人間に対する攻撃性<シンジュ>は同盟一族に即時報告する決まりだったはずですよ、藤堂隊長。」
「今回が初の事案だ。今まで人間への攻撃は確認されていない。」
「筆頭一族とはいえ、隠し事をしないほうがいい。」
「篠之留研究員が自ら検査をしている。他者攻撃はなかった。」
「この件は元老院に報告させて頂き――」
場の空気を割るかのように部屋の扉が勢いよく開いて、別の男性が入ってきた。
「せーちゃんお待たせー。準備整っ・・・あれ、取り込み中?」
新たにやってきた黒髪の男は、無精髭を蓄え、どこか飄々とした雰囲気があった。
室内のピリついた空気感を感じたのか頭を掻いた。
歳は30代半ば辺り、背が高くむき出しの腕はたくましく、彼の肌も浅黒い。
カーキ色の服装は、サバイバルゲームでもしそうな装いだった。
「辻浪さん。あの少年を拘束するよう言ってください。」
「なんで?」
「なんでって・・・。報告はいきましたよね、彼は―」
「綴守の客人だろ?拘束なんかしねーよ。」
無精髭の男性はやや曲がっていた背を伸ばして久我に体を向けた。
「久我さん、物資の件は了解した。鬼妖警報が納まったら運ばせる。」
「感謝する。」
「いやいや。ウチの迷子をいつも届けてもらってるんだ。感謝するのはコッチの方です。
世々羅樹(せせらぎ)、綴守の問題をウチが口出す必要はないし、元老院にも伝える義務もねぇ。」
わかったな、と強めな言葉を投げられ、銀髪の男性は悔しげに奥歯を噛みしめる表情を見せたが
わざとらしく一礼してから部屋を出て行ってしまった。
「すまん、藤堂。あいつは頭固くってなー。」
「ご面倒おかけしました。すぐ連れて帰りますから。」
「そう慌てるな。綴守への物資運搬への話はつけてある。医薬品や当面の食料を少し運ばせる。今準備中だから此処で待ってろ。
破られたっていう裏門の修理もしなきゃだろ?人員も貸すから上と話着いたら連絡しろ。」
「いつもすみません。」
「困ったときはお互い様さ。それと―」
無精髭の男性が、部屋の片隅で怯えたまま突っ立っている真人を目で捕らえた。
深みのある目は、油断ならない大人の余裕が宿り、深淵のそのまた奥に何かが選っている。
そんな恐ろしさが垣間見えたが、男性は人懐っこい笑みに切り替えて、真人の前に移動して目線を合わせてきた。
「せっかく金糸雀に来たんだ、俺がツアーしてやるよ。俺は金糸雀リーダー・辻浪(つじなみ)。名前は?」
「・・・真人、です。」
「じゃあまーくんな。藤堂、こいつ借りるぞ。久我さんもゆっくりしててくれ。飯でも運ばせる。」
久我と藤堂にそう告げながら、真人が反応するより早く彼の手首を掴み部屋から連れ出した。。
体に触れられている恐怖に真人はパニックになりながらも、辻浪という男性の腕を振り払うことが出来なかった。
力強く握られているわけでもないのに。
頭の中で人間が灰になり崩れる光景が嫌でもよぎる。
自分の<シンジュ>石が暴走しているのかもしれないが、何せ制御などしたことがないし、やり方もわからない。
勝手に自分を守ってくれている垂れ流しの防御力なのだ。
今この瞬間にも、暴走して辻浪を灰にしてしまうのかもと思うと内臓が震えてきてしまう。
力を込めて腕を振り払おうとするも、無骨な手はやはり剥がせない。
「は、離して・・・!」
「そう怖がってちゃ<シンジュ>石に呑まれるぞ?」
だがあっさり向こうから手が離され、掴まれていた腕を胸の前に引き寄せながら後ずさる。
廊下の壁に背中をぶつけながら、震える瞳で男を見返す。
わかってる。この人は敵じゃない。けれど今は、踏み入れられたくなかった。
怯える真人の様子に辻浪は頭を掻いてため息をついた。
「まーくん地上人だったんだろ?<シンジュ>石がなんたるかもわからない内にこんなことになってパニくるのはわかるんだけどよ、
天御影じゃ人の命なんて軽い。今回も被害者が悪い。自分の家が襲われてるってのに、此処に隠れてこもってた連中だ。
俺は自業自得だと思ってる。」
「だからって・・・人を殺していいわけないじゃないですか・・・!」
「此処じゃ生き残ることが何よりも最優先だ。お前さんは、生き残るために、食料を奪い合って人間同士で争う
天御影の深部をまだ知らないだけだ。倫理だ道理、正義なんかじゃ腹は膨れない。ついといで。」
辻浪が背中を向け廊下を歩き出した。
戸惑ったが、辻浪の言葉と声に慈しみを感じた真人は素直に後ろをついていく。
ただ声が届くギリギリの距離を保ち、人がすれ違う度十分な距離をとった。
怯える小動物のような少年に通行人は不思議な顔を向けてきたが、気にする余裕はなかった。
人間の灰など、もう二度と被りたくはない
廊下を曲がり、階段をいくつか下りて辿り着いたのは、円形のホールだった。
何もない空間だったが、中央に唯一鎮座していたのは、エレベーターだった。
荷物運搬用のものらしく扉が大きく、高さもある。
作業服に身を包んだ男性達がエレベーター前で待機していた。
ちょうど到着音が響いて、扉が開いた。
中は車1台は入れられそうな程広かったが、詰まっていたのは、いくつも重なった段ボールや木箱だった。
待機していた男性達がテキパキと荷物を運び、外に置いてある別の台車に積み直していき、今度はそれを押して運んで行く。
乗せられた荷物達が真人の前を通り過ぎる時、僅かに太陽の香りを感じた。
荷物を運ぶ男達は円形ホールを横切り、自動扉の奥にある隣の部屋へ運ぶ。
隣でズボンのポケットに手をいれていた辻浪が口を開いた。
「今のは地上、日之郷から運ばれる支援物資だ。このエレベーターは地上との唯一の繋がりだ。
生物は通せないが、荷物はこちらへやってこられる。
地下じゃ育てられない作物、動物の肉、部品や生活用品等など。
それらを管理し天御影中に運搬するのが、俺達金糸雀の仕事だよ。」
辻浪も荷物を追って隣の部屋へ移動し、真人もついていく。
ホールの隣は、工場になっていた。
蛇のように地面を這うベルトコンベア、天井を覆う管やぶら下がった機械。
エプロンに頭巾をした白装束の作業員が休むことなく手を動かし、
今し方エレベーターから下ろした荷物は、荷ほどきがされ中身が次々選別されている。
「天御影と日之郷がコンタクトを取れた時、地上じゃあ内乱騒ぎで混乱していたらしい。
最初は地下の人間を上へ逃がそうと画策したが、生命は結界を通れねぇ。仕方なく物資を支援するって協定を結んだ。
天御影の全て、とはいかないが、多くの集で飢え死にせず済んでるのは日之郷のおかげさ。
この食料を用意してくれてる地上人の中には、物をやるから化け物の餌食になっててくれなんて思ってる奴もいるかもしれねぇが
俺達は生きていける。日之郷が天御影を豊かにしたのは確かなんだ。」
辻浪が振り返った。
「まーくんは、腹空かせて眠れないなんて経験したことないだろ?十杜の襲撃に怯えて眠れない夜もなかったはずだ。
此処の人間は自分の身を守る生存本能を一番にしている。生きるか死ぬか、それだけ考えた方がいい。」
作業員の一人が辻浪を呼んで、それに応えた時には、彼はヘラヘラした親しみのある笑顔に戻っていた。
二面性がある人のようだ。
――何故責められたのだろうか。
まるで、人を殺した云々くだらない事で喚くなと怒られた気分だった。
感情がぐにゃりと歪む違和感に喉が詰まったような息苦しさを感じた。
天御影では、人の命は恐ろしく軽いのかもしれない。
死が隣人として側にいる証拠なのだろう。
辻浪が見ていない隙に、真人はその場から逃げだした。
人が沢山いる場所にも、生きる為に必死に仕事をする意思にも耐えられなかった。
全く知らない土地の廊下を駆けながら、混乱と焦燥、逃げ出したいと喚く子供みたいな感情が絡まった頭を鎮めるのに務める。
頭にあるのは、人が灰になる受け入れられない感覚と、体内で存在が浮き彫りになってきた不可視の力。
体の中に、もしくは頭の中に未知の力があり、自分の意思とは関係ない所で刃を振るうのだ。
制御は出来ず、勝手に動き出すから恐ろしい。
廊下の向こうから、人が数人やってくる気配を察して、手近にあった扉を開けた。
下に降りる階段が続いており、真人は迷わず階段を下った。
すると、コンクリートで塗装されていない土壁のトンネルに辿り着いた。
薄く灯る青白い明かりが頭上にぶら下がっていたが、自分のつま先がギリギリ確認出来るだけの暗さが巣くっている。
そこで真人は、寝ている時に久我が掛けてくれていた外套をずっと纏っていたことに気づいた。
松葉色の外套があまりに馴染み、体が包まれてる安心感で、まるで自分のものであったかのような錯覚に捕らわれていたようだ。
返しに行かなければと使命感が過ぎるも、あの場に戻るのはためらわれた。
今は誰にも会いたくなかった。特に人間には。
久我が纏えば腰辺りの丈でも、真人だとくるぶしあたりまで来てしまう大きめの外套を引き寄せながら、土壁のトンネルを進む。
等間隔ではなく、ランダムにぶら下がった明かりの間は闇が鎮座していたが、今は恐ろしくなかった。
誰も傷つけずに済むのなら、闇は安置なのかもしれない。そんな気にさせる。
辻浪はああ言ってくれたが、やはり同族の命を奪うこの力は恐ろしかった。
天井の青白い明かりが強くなった気がする。青味が増し、トンネル内が青いライトに染められるも、下半身は闇に呑まれていく。
一直線に伸びる道を進みながら、誰かに呼ばれている不思議な感覚と、いつもの頭痛がやって来た。
頭を手で押さえながらも、進む歩を止められずよたよたとふらつき、足を引きずりながら前に動かす。
脈打つ側頭部と、脊髄を貫く痛覚が絡まって脳天を突き抜けた。
確かに、誰かが呼んでいる―――。
「そっちに行ってはだめ。」
曇天に差す一筋の陽光のように、耳に届いた声は頭を覆っていた何かを貫いて払った。
顔を上げると、綴守の刃と呼ばれる少女、沙希が隣に立っていた。
痛みに耐えていたせいで震えていた手を下ろしながら、そこが一本道のトンネルではなく、どこかの坑道になっていたことに驚いた。
半分闇に包まれた青白い世界ではなく、天御影で良く目にする土壁の横に広い道と、壁に埋められた弱々しい黄色い明かり。
隣に立つ少女は、夢で見た時より力強い眼光を携え真人を見た。
「声を聞いてはいけないわ。連れて行かれてしまう。」
「誰、に?」
「しがらみ。」
曲がっていた背をゆっくり元に戻すと、強ばっていた筋肉がほぐれていくのを感じ、震える息を吐いた。
裾を引きずってしまっていた外套を引き寄せしっかりと肩にまとう。
少女の漆黒の瞳を見ていると、不思議と落ち着いてきた。妖しい幻覚に捕まっていた気分だ。
目覚めは良くなかったが、深呼吸をして少女に向き直る。
これで会うのは何度目だろうか。
綴守最強の守りである総隊長と呼ばれる彼女は、常に単独行動をしており滅多に見かけることはない。
「あの、綴守は?」
「十杜達は全て排除した。被害は裏門と建物のみ。吉良を追ってここまで来たのだけれど、逃げられてしまった。
藤堂と合流しようと移動していたら、貴方を見つけた。戻るわよ。」
「僕は・・・戻れません。」
「人を灰にしたから?」
「どうして-」
どうして彼女がそれを知っているのかと問おうとした時、沙希は急に顔を前に向けた。
二人の前で、天井に埋められたライトとライトの間に出来た闇が膨らんだ。
渦を巻きだした闇がどんどん膨張していき、やがて人の形になった。
そこに立っていたのは、真っ黒の外套と黒い衣服を纏った短髪の若い男性だった。
印象的なのは色の違う左右の瞳。右目は赤黒く、左目は青を含んだ緑。
漆黒の装いのせいで、短い前髪の下にある広めのおでこがやけに白く映る。
突然現われた男性に、総隊長は警戒した様子は見せず、逆に一歩近寄った。
「どうしたの、クロガネさん。」
「鬼妖が近づいている。感づいたのだ。」
「神門はまだ開かせない。」
「わかっている。隙をついて俺が飛ばそう。あいつも呼んである。」
少女が一瞬戸惑いの色を眉根に宿したが、わかった、と右手に刀と呼ばれる武器を作りだし握った。
鞘の無いむき出しの刀身が弱い明かりを受けて鈍く光った。
通路の向こう側で、何かが動いた。薄暗いせいで視認は出来なかったが、真人が理解するより早く沙希が刀を構え真人の前に立った。
僅か一呼吸の間だった。姿すら確認出来なかったそれが、すぐ目の前で拳を突き出していた。
沙希が握る刀身に青白い粒子が纏われ、重いはずの一撃を刀で受け止め、衝撃が遅れて真人の左右を突き抜けた。
そこに居たのは、昔絵本などで見た鬼の姿、そのものだった。
体長は2m以上、もしかしたら3mあるかもしれない。
赤い肌に筋肉隆々の体、太い首に脈打つ二の腕。
額には2本の短い突起物が生え、裂けた口から鋭利な牙が覗き、涎が糸を引いている。
濁った白い目が、沙希を睨み付けていた。
これが鬼妖と呼ばれる化け物だと真人は理解した。
衝撃波で揺れた沙希の白いマフラーの裾が背中に落ちる前に、刃で拳を払って重めの一歩を踏み出す。
斜め上から袈裟斬りに見舞うも、見た目とは打って変わって素早い身のこなしで後ろに下がり一撃を避けた鬼は
今度は逆の拳を少女の顔面めがけて振り下ろした。
体を捻って一撃を避けるも、地面が割れ土が飛び散った。たった一撃で深くえぐられた地面に唖然とする真人。
その力量は一目瞭然だ。人間の力ではたった一撃であそこまで深い穴は作れないだろう。
青い粒子を纏いながら、少女は自分の2倍以上ある体躯の化け物の懐に入り込み、脇腹を切りつける。
すると、耳が割れるような悲鳴が狭い通路に反響した。
十杜のものとは訳が違う、人間を始めとする生物では決して出せない声は、本能的に拒絶したくなる耳障りなものだった。
その声に、真人の頭が再び痛みだす。
真人の中に巣くう何かが、鬼妖を拒絶していた。
暴れる鬼妖の一撃を高く飛んで避けた沙希が、横幅がある肩にちょこんと乗って、そのまま腕を切り落とした。
沙希の長い黒髪が踊り、暗がりでも飛び散る鮮血がよく見えた。
少女が黒ずくめの男の名を叫んだ。
すると、男が真人を向いた。
色の違う両の目が、すぐ近くで揺れる。
「お前だけ飛ばす。降りた先をひたすら走れ。」
右の赤い瞳が、ぼんやりと輝いた。
その奥に潜む何かが声を発したような気がしたのだが、気づいた時には見知らぬ通路に立っていた。
男も、総隊長も、鬼妖の姿すらない。
静寂に包まれていたが、脈打つ頭と早鐘を打つ心臓、そして緊張で荒くなった自分の呼吸音がうるさかった。
先程と打って変わって、そこは塗装された横に広い廊下が続いていた。
壁の下側、足下に青い蛍光灯が一列に取り付けられており、青いラインがずっと続いて居る。
今まで見てきた外界の通路とは全く違う。壁にデザイン性も感じるので、どこかの施設内なのかもしれない。
真人は呼吸を整え、久我の外套をそっと引き寄せた。
鬼の化け物が腕を落とされ、うち回る光景が脳裏に焼き付いていた。
血は赤かった。十杜やエキのものよりずっと赤く、独特のさびた臭いがしたのだ。
黒ずくめの男はひたすら走れと言っていたが、身震いがして、体が動かせない。
頭が混乱していた。起きてからずっと混乱している。
人を灰にし、おかしな幻覚を見て、鬼妖と対面。
今もわけもわからぬ場所に立っている。
パニックに陥る寸前の頭が悲鳴を上げ、心細さで小さな子供のように泣き喚きたくなる衝動が再び襲ってくる。
――そこに、耳障りな雄叫びが木霊した。
距離はずっと遠いが、通路の後ろから聞こえてきた。鬼妖の声だ。間違いない。
真人は本能的に、反射的に駆けだした。逃げなければならない。
久我の外套の重みを感じながらも、それを決して離さず真っ直ぐ伸びる通路を走る。
思えば、自分は天御影でいつも走っている。
何も分からぬまま、闇の中を、いつも不安のベールに包まれながら彷徨っている。
お前にはそれしか出来ないと言われているようだった。
通路に伸びる足下の青いライト以外光源は無く、分岐や扉も無かった。
ただ真っ直ぐ伸びる廊下が、先程の幻覚を思い出させる。
まだ後ろに気配は感じないが、総隊長との攻防で動きが素早いのはわかっている。追いつかれたらひとたまりもない。
どこまでも伸びていると思われた通路だったが、両開きの扉が現われた。そこが終着点だった。
誘われるまま辿り着いた冷たい扉に触れると、自動で開かれ、真人は縋る思いでそこに滑り込む。
部屋の中にも青いライトが走っていたが、それ以外電源は入っていないようだった。
そこにあるのは、沢山のモニターと備え付けられたキーボード。
名前もわからぬ機材がデスクに並び、椅子は無造作に床に転がっていた。
廃棄された施設か何かだろうが、まるで監視室のようだった。
壁にも無数のモニターが取り付けられている。
その内の1つに、突然スイッチが入り、眩い光と共に映像が映し出された。
始め、真っ白の映像で何も見えてないのかと思っていたのだが、そこに映っていたのは、色白の女性だった。
いや、人間かどうかも怪しい姿形をしていた。
手が異常に長く肘らしき関節以外太さは均等で、腰までありそうな髪は無重力の中にいるのか勝手に空中で踊っている。
大きなクッションに背を預けリラックスした様子の女は、こちらを見てニコリと微笑んだ。
その笑みに気味悪さと本能からくる拒絶を感じた時、背後の扉が吹っ飛んだ。
振り向くと、屈みながら戸口を超えてきた鬼妖が現われた。腕があるので総隊長が対峙していた個体と別の鬼妖なのだろう。
裸足の足がぺしゃりと嫌な音を響かせながら室内に侵入し、荒い呼吸で白い息と涎を溢しながら真人を見下ろす。
闇の中で浮かぶ何も映さぬはずの濁った瞳が、確実に真人を捕らえていた。
恐怖で体は震えていたが、不思議と頭は冷静だった。
鬼妖が鋭利な牙を覗かせ大きな口を開け雄叫びを上げる。僅かに身を低くして真人に突進してきた。
―――目の前で青い炎が揺れた。
鼻先まで迫っていた鬼妖が、炎に絡め取られた途端悲鳴を上げてのたうち回る。
熱を一切感じない炎は容赦なく鬼妖にまとわりつき、這い寄るへびの如く四肢を這い上がる。
必死の抵抗をみせる鬼妖だったが、あっという間に炎に包まれ、巨体はみるみる内に崩れ消し炭となってそこに落ちた。
燃えカスすら執拗に焼き切った炎が勢いを落とし、部屋の隅でくすぶりながら二手に分かれた。
ドアが吹き飛ばされた出入り口から、人が入ってきた。
白いシャツにズボンだけという軽装の若い男性は、真人の前に立った。
真人の頬に、涙が流れた。
鬼妖に喰われそうになっても流れることのなかったものが、次々溢れて落ちてくる。
真人のより色が暗い茶の髪と、真人とよく似た顔立ちをしているが、幾分するどくなった瞳と大人びた顔をしている。
「瑛人兄さん・・・やっと会えた。」
神妙な顔をした男性は、泣き崩れる真人に近づいて、そっと抱きしめた。
「お前はここにくるべきじゃなかったんだ、真人。」
兄の肩口に顔を埋めながら、再び火力を上げて周りで踊りはじめた青い炎を見た。
焔はその背をどんどん高くし、部屋中を神聖な青い色味で覆い尽くしながら、やがて真人達も包みこんだ。
熱くはなかった。ただ優しい温かみに包まれる喜びに、真人は久しぶりに安堵のため息をこぼした。