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神宿りの木    たまゆら編 11

 

体が前に倒れる。
支えようと前に出した両手が触れたのは真っ白な床だった。
そこで驚くものを見た。いや、見えなかったから驚いた、が正しいのか。
両手は地面についている。冷たい感触もあるのに、右手は半分透け、左手に至っては、袖から先にあるはずの手の平も指も無かった。
慌てて腰を下ろし袖をまくり上げると、左腕がすっかり綺麗に透明になっていた。
まだマシな右手で左腕を探ってみると、腕はちゃんとついてるし、二の腕を摘まめば感覚はある。
どうやらただ見えなくなっているだけのようだ。
これも夢のなせる技なのか、透明人間にでも変化しようとしているのか。
先程おぞましい夢を渡ったせいなのかどうかはわからないが、意外な程に冷静な頭で目の前の光景を受け入れた真人は、立ち上がって辺りを見渡した。
壁と天井があるのかもわからないぐらい真っ白な空間だった。境目が見あたらないので、狭いのか広いのかもさっぱりだ。
さらに首を回すと、右手側に石で出来た鳥居がぽつんと立っていた。
社はない。朽ちた鳥居だけ。
上部中央にある額に文字はなく、柱と柱に注連縄が掛けられぶら下がっていた。
風も無いのに紙垂が揺れている。
近寄って、そう高いわけではない鳥居をぼんやり見上げる。
真人が目を細める。紙垂の揺れが細かくなってきている。震えている。そう感じた。
何事かと注意深く観察していると、灰色の鳥居にかけられた注連縄が、いきなり中央部分から切れ、地面にボトリと落ちる。
白い世界に、黒い線が生まれた。
真っ黒の糸のようだったそれが縦へ縦へ広がり、世界を割るような大きな切れ目となり、次に横に広げられる。
この空間を侵食するそれが大きな亀裂となり、口を開く。
だらりと開けられた口の奥の奥から、真人を呼ぶ声が聞こえてくる。
掠れた低い音が漏れのだが、それが喉が潰れた人の声だと気づいた瞬間、全身に鳥肌が走る。
黒い亀裂の中から、黒い腕が生えた。何本も、何本も。
細く骨と皮だけになってしまった腕が顔を出しては、バラバラに手招きを始める。
鳥肌が止まらない。透明になってる左腕の肌にも震えを感じる。
逃げだそうと足を引いた瞬間、真人は突然頭を抱えながら地面を転がし出した。
喉の奥から苦しげな声を漏らしながら、全身を襲う脅威を振り払うように苦しみだす。
頭が割れそうな痛みと、全身に走る震え。
透明な手で頭を抑えながら、視界の端に入ってきたモノを見る。
黒い足だ。細くて骨と皮しかないガリガリの人の足。足はいくつも地面に舞い降りて、真人に近づいてくる。
姿をちゃんと確認しようと顔を上げた時、パサリと乾いた音がしてそちらに目を向けた。
服の左袖がそこにある。ただ、その中にあるはずの腕は完全に消えている。膨らみがないのだ。
透明でも確かにあった左腕が完全に消えている。
次に、スニーカーが転がるのを確認する。靴下が床に落ちて、右足が消えている。
両手で支えていた筈の体は、左手が無いと頭が理解するとバランスを崩し床に無様に転がってしまう。
現実がわからず、我が身に起きている事態を整理出来ない程痛む頭。頭を抱える手も無くなった。
体が転がったので、こちらに近づいてくる無数の人型をはっきりと見た。

どれも体は真っ黒で、長い腕をだらりと体の脇で垂らしながら猫背で歩いている。四肢を含めガリガリで、薄気味悪いうめき声をもらしている。
ガリガリの人型が足を踏み込む度、黒いモヤが生まれふわっと舞う。
そのモヤが、自分の足下にも絡まっている。
煙のように不透明で薄かったそれが、人型が近づく度に濃くなってどんどんと体全体にまとわりつく。
パニックになりながらも、頬を伝う涙に目や肌は残っているのだとホッとする自分がいた。
体に力が入らず立ち上がることも出来ない。
これは夢だと言い聞かせている自分が惨めに感じる胸の内。


「それは、穢れだ。」


声がして苦しみながら顔を上げた。
震える視界の中で見たのは、宙に浮いてあぐらをかいている、若い男性だった。
長い黒髪を三つ編みにして、不思議な装束を纏っている。
一度綴守の地下で会った事がある。樹木が生えたあの場所で。

 

「穢れは人間からしか生まれず、生まれた穢れはまだ神力が満ちていた葦原から払われ世界の端に落ちた。
そこで生まれたのが黄泉の国。」

 


黒い人影が近づいてくるのは分かっていたが、淡々と話す男性を睨みつけるように見上げる。


「シンとはそのまま、神のこと。穢れに落ちた神々のなれの果て。
神が堕ちたことで、柵が生まれた。運命とやらがねじれたのじゃ。
人間はな、<シンジュ>石があるからヒトの形を保っておられる。あれがなければ、黄泉の国の姿にされるのだ。十杜だ。
なぜ人間共が神使である杜守と、黄泉の化け物を同じ名で呼ぶことにしたのかは知らんがな。」

 


あぐらの上で肘をつき、頬杖をつく男は僅かに口角を上げた。

 


「神籬、そなたはな。神の器ではなく、その穢れを一身にうけるために選ばれた生け贄なのだよ。」

 

真人はただただ、悠々と語る男を見上げるしか出来なかった。
もう片方のスニーカーが床に落ちる音がした。

 


「この世に生まれついた人間が長い年月積み重ねてきた業を、お前が受けるのだよ。
おかしな話だ。神が穢れを払うために落とした神樹が、人間に成り業を受け取る器になるとは。
生け贄を完成させるために人間になったとしか思えん。」


真人は何か言おうと口を開けたが、喉から漏れるのは掠れた音だけだった。声帯も消えたか。
自分の体がどれだけ残っているのか、考えるだけで恐ろしくなる。

「そう睨むな。たしかにわしが人間に嘘偽りの神話を広めた。神を失った人間にすがる存在は必要だった。
神々の威厳を保つのも大事だろうて。
何より、人間どもが束になって、神籬を匿ったりされては困るからだ。
お前が全ての穢れを一身に受けたとき、シンと共に眠るかの二柱の神を、やっと天つ神は迎えに来られる。天に帰ることを許されるのだ。
この世もお前も、全ては地上深くに残された二柱を助けるための猶予期間。
穢れさえ無くなれば神は世界を作り直し、人間への干渉も可能になる。
喜べ。やり直しが出来るのだよ。お前の犠牲でな。」


綴守の地下で賢者殿と呼ばれていた存在に手を伸ばすも、前へ伸ばしたのは空っぽの袖だけだった。
肘から先が消えている。


「おいおい。勘違いするでない。わしは敵ではないぞ。
此処は、お前のために人間が生み出した一時の猶予。まだ未来は確定されておらぬ。わしは人間を好いておるからな。」


賢者殿の手に、一本の枝が握られていた、
美しい緑の葉を何枚かつけた細い枝を、地面に投げ、差した。

 


「神樹から接ぎ木であるわしへ受け継がれた大事な記憶。役目は果たそう。これは、わしからのプレゼントだ。」

視界がぼやけて渦のように回り始め、目も失ったのだと気づく。
体のすぐ隣にガリガリの人型が群がって見下ろされていると気配で感じられたのだが、
輪郭も感覚も溶けて無くなり、自分という存在が空気に溶けるのが分かる。
眠るように意識が遠ざかり、これは死なのかどうか判断もつかないのがもどかしかった。
どこまでが夢で現実で、自分がどうなるのかさっぱりわからない。

 

 


薄れゆく意識の中で
頭をかすめるのは子供の頃の記憶だった。


その時の自分は、何も分からなかった。
目を開けることも色も知らなかったが、その声だけはよく知っていた。
言葉も教わってないからわかるわけがないのに、声を聞いているうちに、自然と体に染みこませる事が出来た。
今日何をしたとか、何があったとか。
あれを食べたとか、だれと何をしたとか。
その声だけが真人の全てで、道しるべだった。
何も出来なかった真人でも、あきとという兄があることは理解出来ていた。
兄が、自分にとって大事な人だとわかっていた。


あそぶってなに?
どうやったらはなせる?

はやくあいたいな。
にいさん。
あきとにいさん。


 

あの時の記憶は、地上で目が覚めた後自然と失っていた。
今になって戻ってくるとは、皮肉なものだ。

 

 

 

 

 

*   *   *


ほどよく揺さぶられる体と、触れる温もりが懐かしくて、しばし目を開けるのを拒んで眠気に身を任せた。
子供の頃に、こんなことがよくあったと思う。

懐かしいあの家で、世界の半分を占めていた子供部屋で眠ってしまうと、必ず寝室へ運んでくれた寄る辺であるあの背中。
もう自分はそんな年齢ではないなと恥ずかしくなって、つかの間の安らぎに別れを告げて目を開けた。
紺色に近い青が支配する世界で、階段をゆっくり降りているようだった。
見覚えは嫌でもある。


「さすがだね。言わなくても、行きたい場所わかってくれてる。」
「お前ならそうすると思ってな。まだ寝てろ。」
「お言葉に甘えて、しばらく背負われてることにするよ。誰も見てないし。」

 

兄の背中に抱かれ身を任せながら、視界をゆっくり右下に落ちる世界に憂鬱な気分になる。
体はぐったりして、正直自分で歩ける自信はなく、指先すら重い。
頭もはっきりしないが、自分が行った儀式が失敗しせっかく手に入れた神器が壊れたのは覚えている。


「沙希は。」
「わからない。突然生えて来た触手にさらわれた。後を追おうとしたが、お前を助けて此処にくるのがやっとだった。神器がなくても御子だ。無事だとは思うが、力が使えないのが不安だ。」
「シンが最後の抵抗をして俺達を無効化させたんだろ。でも、さすがのシンも此処は侵入出来ないみたいだ。」
「ああ。静かだ。崩壊の様子もない。」

 


この階段に手すりも規則性もない。螺旋になったりでたらめに折れたりしながら、ずっとずっと下に続く。
天御影よりずっと深い此処は、選ばれた人間じゃないとそもそもたどり着けない境界線の狭間にあり、力がなければ無限階段に迷わされるだけ。
果たして、今の自分達はどちらだろうかと、またぼんやり眠気に引き寄せられた頭でなんとなく考える。


「俺が悪いんだ。神器を使って無理を通そうとした。」
「俺達が動かなくても、世界は崩壊した。まもなく神眠りの日だからな。どうせ壊れるなら、暴れても問題はなかったはずだ。」
「真人、無事かな。」
「時間は残っている。俺達も生きている。それが答えだ。」
「考仁、」
「どうした。」
「ありがとう。」
「ああ。」

 

ずいぶん弱々しい声をだす瑛人を、考仁はただ背負って運び続けた。
階段はまだまだ続く。
瑠璃色のコップの中に迷い込んだ小人の気分だった。
此処には青い掠れた膜と、階段があるだけ。
時折青い粒子が蛍のように浮かんで上に昇っていく。
どこかでサングラスを落としてしまったため、裸眼で向こうの壁側を這うように並べられた階段の上で佇む人影を見た。
深めの青い狩衣と、水色の袴をまとった男性が何も言わずこちらを見下ろしていた。
遠いので顔はよく伺えないが、服から覗く肌はわずかに発光し、華奢で儚げな印象を受ける。
首から下げた紐先にある勾玉が明暗を繰り返す。呼吸しているかのように。
考仁は足を止めず、左の神と呼ばれたその人と見つめ合っていたが、階段が右に折れたので、視線を外して足下に集中する。

今の彼には、弟を落とさないように運ぶことの方が重要であった。
僅かに、階段の下が白み始めた。
どうやら迷路から抜け出せそうだ。
背中に背負う瑛人が長く息を吐き、か細い声を漏らす。

 


「夢を見てた気分だ。真人と話して、一緒に食事をしたんだ。凄いことだと思わない?」
「諦めるな。また一緒に過ごせる。誕生日を祝うって、約束したんだろ?」
「うん。」
「真人は無事だ。沙希も生きてる。4人で真人の誕生日会をしよう。」
「久しぶりに、考仁の料理食べたいな。ケーキも焼いてくれる?」
「もちろんだ。だから、まだ満足するなよ。やることは沢山残ってる。」


肩口で瑛人が小さく笑った。
辿り続ける階段が真っ直ぐ整い、下り続ける内に床が見えてきた。
岩肌の地面である。
黒石に青い粒子が閉じ込められた不思議な石がパズルのようにきっちり隙間なくくっついて、宙に浮いている。
その地面には、門があった。
階段がやっと終わり、岩の地面に降り立つ。
目の前にそびえる門は、水色の柱と両開きの石造り扉があるだけ。
扉の向こうには何もない。ただ、扉のみがそこに立っている。
兄の背中からよろよろと降りた瑛人が、その門を見上げてため息をついた。


「本物の神門。シンが封印されている場所。またこうしてたどり着けるとはね。」

神門の周辺だけ白んでいたがそれが収束し、紺色の帳が落ち、星に似た光が漂い出す。
球体の連なりが現れそれぞれ重なりだすと、くるくると神門がある地面の周りを回り出す。
神門から水色の粒子が漏れ続け、合わさった扉の隙間から光が漏れている。
扉の向こう側がどれだけ眩しいのかよくわかる。
考仁の側から離れ2,3歩歩いた瑛人が膝から崩れたので、考仁が慌てて支えるも、瑛人は地面に座り込んでしまった。

「以前僕は神門に挑んでシンを消そうとした。しっぺ返しを受けて<シンジュ>石に似た力を得た。
体は弱り続けて、車椅子生活だったこともあったね。」
「篠之留さんのおかげもあって、お前は無事復活した。今度も大丈夫だ。
成すべき事を、お前は知っている。・・・ならば、安心だ。」
「考仁?」


言葉の中に違和感を感じて顔を上げると、考仁は自分の胸に手を当てて微笑んでいた。

 

「俺の力を使え。」

 

胸に手を当てた箇所が白く光り、ゆっくり剥がした手の中に、光り輝く勾玉があった。
言葉の意味を察した瑛人の顔が一瞬で強ばる。

 


「それは御子の力そのものだ!今それを手放せば考仁は―――」
「構わん。」
「いまさっき4人で誕生日会をしようって言ってたじゃないか!?料理もしてくれるんだろ?かっこつけて退場なんて許さないよ。」
「俺の心は、常にお前達と共にある。これで真人を助けてやってくれ。」


座り込む瑛人の手を取って、勾玉を握らせる。
こんな状況じゃなければ勾玉を突き返して策を練ると強がるところだが、瑛人は察してしまう。

考仁がそうするしかないと、気づいたのだ。
自分達は三神の御子。神籬を守るためにある。
真人に何かが起きたのだろう。
本当は力が入らない震える手で大事そうに勾玉を包み、引き寄せ握りしめる。
勾玉から漏れた光が指の隙間から考仁の穏やかな顔を照らす。
彼の体は端々から粒子化して崩れていく。
泣きそうな顔をした瑛人を見て、考仁はその微笑みを濃くした。

 


「今度は大丈夫だ、瑛人。遠慮せず使え。」
「ごめん・・・考仁・・・俺のわがままで・・・、考仁を、いつも振り回して・・・。」
「わがままなど、一度も言ったことないだろう。俺にとって、今も昔も変わらず、お前達が大切だ。」


微笑みながら、考仁の頬に涙が流れた。
考仁は、幼少期に受けた仕打ちのせいで泣けない体になったと自分で言っていた。
瑛人も長い付き合いだが、彼が泣いてる姿を見たことが無かった。
初めて見る兄の涙は、なぜこんなに綺麗で温かいのかと切なくなる。

 

「俺を人間にしてくれて、家族として受け入れてくれて、感謝している。」

 

瑛人の目からも涙が溢れ、何か応えねばと口を開いたところで、考仁の大きいはずの体は一瞬で粒子化して消えてしまった。
考仁の体だった粒子はゆっくり上へ昇りながら消えてしまった。
頭の中でありとあらゆる言葉と思いが渦巻いたが、それら全てを無視して瑛人は立ち上がった。
本当は足に力が入らず膝から下が震えているが、気にしている場合ではない。
引きずるように足を前に前に出して、神門の前に立つ。
胸の前で握りしめていた指を解くと、勾玉が宙に浮かんで一際目映く輝いた。
瑛人はそれを鷲掴みにしながら神門を睨みつけた。


「真人を・・・返せ!!!!」

 


衝撃音が空気を揺らしてから、ぎぎぎと鈍い音を奏でながら門が内側から開く。
ゆったりとした動きで重厚な扉が口を開き、白い光が目をくらませる。
瑛人は目を細めながら手にした勾玉を突き出し続け、やがて手にしていたそれが形を変え、一本の矢となった。
瑛人は一度腕を引いてから、腕を左右に振って風を切って矢を弾く。
矢は凄まじい勢いで神門の奥に飛んで消えた。
震える瑛人の手から、足から青白い粒子が生まれ、体が端々から崩れていく。先ほどの考仁のように。


「大丈夫だよ真人。俺が必ず助けるから。」


瑛人が一歩踏み出して、神門の向こうを目指す。
体はどんどん崩れ腕から無くなっていくが、瑛人はその体がある限り歩み続けた。
紺色の帳が降りる世界は神門から溢れる光で輪郭線を無くし、周囲の見分けがつなかくなって門を含め全て白い光に吸い込まれて消えた。

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