神宿りの木 たまゆら編 9
初めて空を見た感想は、落ちつかない、であった。
地上の疑似映像とは言え限りなく本物に似せた空はどこまでもどこまでも高く、左右に壁ない。
天御影で一番広い空間でさえ、天井も壁も視認出来た。
蓋がない世界がこんなにも不安になると知らなかった。
実際、蓋はある。あの空を映す天井は半円状の屋根だ。ドームの外側にもまた別の、本来の世界が広がっているらしい。
機械により人工的に新鮮な空気が作られているはずなのに、なぜか息苦しかった。
「これが地上か。思ったよりいいもんじゃなかったな。」
桃那に続いてマンホールから這い出てきたヤマトが、ずいぶんあっさりとした感想を呟く。
実際の時間は真夜中なので、星空という藍色の布に黄色い星をくっつけた光景が広がっていたようだが
避難がしやすいように時間が進められ、夜が身を引き始め地平線の上に橙と黄色が塗られている。
本で読んだことがある。これが夜明け前というやつだろう。
「もっと暗くていいんだけど。あまり明るいと天御影の民は目が潰れる。」
「でも綺麗なグラデーションよ。朝が来ると火の塊が昇るのでしょ?見てみたいわ。」
「太陽だね。偽物の映像だけど、どれだけ明るいか気になるね。」
次いで絵美と緑延も地上に降り立ち辺りを眺めた。
黒いスーツ姿でどれも似た背格好の男達―地下でいう実行部隊・御司守が、
地上と地下を繋ぐマンホールや物資運搬通路などから登ってきた民を誘導してくれている。
民達は不安がって震えていたり、明るさに目をしかめながらも避難所に歩いている。
今は地震も落ち着いているが、遠くの方でサイレンが聞こえ煙が上がっている様が見える。
天御影の中で天井に押しつぶされる未来は回避出来たが、地上も安全では無いらしい。
大衆を眺めていたヤマトが、ふと言葉を漏らす。
「誰か、アイツ見たか?」
「真人さん、だよね。見てない。」
「死んだか?」
「わからない・・・。現場は大混乱で、誰が生きて誰が死んだのか・・・。もう司令室とも情報局とも通信繋がらないんだ。」
「最後にいたのは綴守だと思うよ。綴守の民も見掛けるけど、真人さんは居なかった、かな。」
「元気なんじゃなくて?あの人、一ノ瀬さんの弟なら手厚く警護されてるはずです。運もいいようですから。」
「そうだな。勘は神がかってたし。」
風が吹く。
天御影で感じる風より全身を撫でるような優しい感触が荒れた鼓動を整えていく。
左右どちらを見ても広がる半円状の空が次第に体と心に馴染み出す。
この光景を知っている。
そんな気がするのは、体に刻まれた遺伝子がかつて当たり前に見ていたからなのだろうか。
呼吸する度明るくなる疑似的な朝焼けの中で、黒い点が四つ浮遊している。
左右に伸びている線が上下に動く。鳥だ。鳥が飛んでいる。
映像であると知っているのに、奥深く重なる雲の陰影に、どこまでも自由に飛び回る鳥が想像の通りで安堵する。
―突然、足の下から突き刺すような衝撃が脳天へと駆け巡った。
平衡感覚が一瞬で奪われ、立っていられず膝と手を地面につく。
揺れる視界で破壊音が響き、何かが爆発したような気配を感じた。瓦礫が転がるコロコロという音も聞こえてくる。
ヤマトが顔を上げ目にしたのは、地面から生える黒い触手のような何かだった。
先端に行くほど細くなる体は半透明に透けており、中に赤い点がいくつも埋め込まれていた。
地下でこんなもの見たことがない。静かだった地上世界の整った綺麗な床に、いくつも穴が開き次々触手が顔を出す。
まだ激しい揺れは続いており、声も出せない内に触手が体をうねらせる。
体全部を使って太い鞭の用に地面を叩き、無情にも避難してきた民を打ちのめしていく。
まるで虫を叩き潰すような安易さに目撃した人物は言葉を失う。
背中から強打され体を不自然に曲げながら転がる老人、脳天から振り下ろされぺしゃんこになる女性。
老若男女関係ない。暴れ回る黒い触手に赤い血の海がいくつも出来上がる。
十杜とも鬼妖にも感じたことが無いプレッシャー。
今この瞬間自分達人間は弱者であると、圧倒的生物を前に本能が叫んでいた。なぜか自分が、とても小さく不確かな存在に感じてしまう。
混乱が狂乱に変わり、喚き叫びながら逃げ惑う民の体を触手は一振りで潰していく。
天御影の実行部隊員達や御司守が賢明に声を上げ民を触手から遠ざけようと誘導しているが、そんな彼らも次々触手の餌食になる。
緑延の声が耳元で響き、現実に戻ったヤマトも慌てて立ち上がる。
未知の敵に感じた恐怖を振り払うように、ヤマトも民を守るため手の平を返して力を込める。
「は・・・?」
隣にいた桃那もバリアを張ろうと腕を前に出したが、いつまで経ってもあの半透明の守りは現れない。
緑延の零鬼、翡翠が静かに首を振るのが目に入る。
「おいおい、どうなってやがる!俺の雷出ないぞ!?」
「わ、私の結果術も発動しません・・・!こんなこと、生まれて初めてです。」
「神授石が使えなくなってるのですわ。」
「はぁ?なんでだよ!」
焦りで苛つくヤマトを一瞥しながら、絵美が手の平に大幣を出現させようとするも、やはり手に何も現れない。
「わたくしや桃那は神に仕える巫女の家系。神授石の有無に関わらず守りの力は使えたはずです。
これは、つまり。神との繋がりが断ち切れた。もしくは、神との繋がりである神樹様に何かがあったのです。」
「んな簡単にか?しかも今だと!?」
「みんな、あれを!」
桃那が叫びながら前を指を差した。
一番近くに生えた触手の根元に、十杜がいた。
地下から這い上がってきたかと思えば、その近くにいた中年男性が突如苦しみだし膝をつくと、一呼吸の間に十杜に転じた。
人間は体内の<シンジュ>石が壊れると十杜になる。だが、今十杜になった男性が攻撃を食らった様子は無かった。走って逃げていただけに思う。
逃げ惑う人々が次々に十杜に転じ、数秒ぼんやり床を見た後に、十杜本来の動きを得て人間を襲い出した。
凄まじい光景に脳の処理が追いつかなくなりそうだった。
天御影で共に生き、無事地上に脱出出来た民達は、触手に潰されるか、十杜になるか、はたまた十杜に食われるかの三択しか未来がないように思えたのだ。
何のために、生まれた土地を捨てここまで逃げて来たというのか。
救いがない絶望を前に、これは夢なのでは無いかとよくある現実逃避をしないと心がパニックでどうにかなりそうであった。
「・・・今の時刻はわかりませんが、まもなく神眠りの日です。」
「世界終焉が予告された日だ。」
ボソッとこぼした緑延の重い声音に、苛立つヤマトに嫌でも現実が押し寄せてくる。
受け入れたくなんてないが、目の前の光景に説得力がありすぎる。
神眠りの日がどういう日であるか、神話をかじった人間なら誰でも知っている。
この世界はまもなく終わる。そう言われてきたが、それが目の前に来ることなんて無いと誰しも思っていただろう。
自分もその一人だ。
神授石が神からの贈り物であると知っていても、生まれた時から備わった力は自分のものだと錯覚している。
いざ神から取り上げられてしまえばどうなるか、想像すらしていなかった。
頭が理解すればするほど心が追いつかず、流れる血が急に冷たく感じる。
彼らのすぐ近くからも触手が生えて来た。
こちらまで振りかかる細かな瓦礫を腕で防ぎながら、朝焼けとやらに透ける体の不気味さに内臓が縮む感覚がした。
歴戦の勘で危機を察知した彼らは、とにかく走って逃げ出す。力が使えない以上応戦は出来ない。
上を向き触手の動きを読みながら足を動かす。
辺りは混乱を極め、天御影より広い分逃げ場所が無いため惨劇はそこら中で起きていた。
十杜に転じる者、たった今手を繋いでいた隣人に腹を食われる者、降ってきた瓦礫に足を取られる者。
助けてくれと喉が潰れる程に絞り出された悲痛なメッセージは、空から落ちてきた触手の半透明な体に潰される。
力が使えていたとしても、此処にいる全ては救えなかっただろう。
実行部隊として民を守らねばならない責務を今は見ないフリをするしかなかった。
他者よりも、自分の生存を優先するという当たり前の本能が強く働いている。
ヤマト達は開けた場所から、四角く高い建物が並ぶエリアに入る。触手は人が集まっていた脱出口付近に集中して出現しているのだ。
かと言って、触手は前兆無く地面から生えてくる。どこに逃げたらいいのか、初めて訪れる地上で土地勘があるわけが無い。
彼らが走る左側に、また一本姿を見せ、地面が割れたせいで降りかかる瓦礫で建物のガラスが割れる音がする。
先ほどより近い距離だ。
間近で見上げる触手は、胎動しているように見える。半透明の体内は黒い液体なのか、赤い点のような何かがゆっくりと流れている。
太い根元をうねらせ、先端の部分が左右に動き、やがて走る彼らすぐ脇の通路を叩きつける。
凄まじい威力にコンクリートの地面がへこみ、破片が飛び散る。顔を守りながら、右へ軌道を変える。
と、絵美の悲鳴が聞こえ振り向くと、破片に足を取られ彼女の小さい体が地面に転がったところだった。
いち早く反応した緑延が踵を返し、ヤマトも桃那も足を止める。
「絵美ちゃん!!!!」
桃那が叫ぶ。
体を起こそうとした絵美の真後ろに十杜が現れ、彼女めがけ飛びかかってきたのだ。
大きく口を開けたことで鋭利な歯がいくつも覗き、糸を這わす涎までよく見える。
普段のクセで絵美は手を前に出し武器を取り出そうとしたが、その手には何も出現しない。
十杜に食われる人間はいくつも見てきた。首やはらわたに食いつく十杜の光景を思い出し、その場にいた全員の息が詰まり寒気に襲われる。
ヤマトも反射的に赤い雷を呼ぼうとするが、切るのは空だけ。
十杜の歯が絵美の白く細い首に噛みつく、その寸前。
横から突如現れた塊―人間の男だ―が十杜にタックルをし十杜と共に地面に転がった。
その身だけで少女を守った人間は、近くにある手頃な瓦礫を拾い上げ、十杜の頭を何回も何回も殴打する。
長い腕で抵抗した十杜だったが、頭蓋骨が割られさすがに動かなくなった。
緑延が絵美を抱えて立たせ、ヤマトと桃那も隣に立つ。
今十杜を叩き殺したのは、若い男だった。おそらく自分達と年齢は変わらない。
真人に聞いたことがある。シャツにネクタイを巻いて色のついたジャケット着ているあの格好は、地上の学生が着る揃いの衣装だ。
黒髪で体格もいい学生服の男は、十杜が暴れた時に切られ血が滲む腕を押さえながら、立ち上がり顔を合わせてきた。
「あんたら、天御影の住民だろ。真人の話をしてたな。真人は無事か。」
「え?」
「真人さんを、ご存じなのですか。」
「無事かと聞いている。」
地上人から見たら未知の化け物であるはずの十杜と戦ったあとだというのに、男の目は恐ろしい程に据わっていた。
十杜や触手による恐怖によって心が一線を越えてしまったかと思ったが、そうではなさそうだ。
彼が持つ元々の残忍さと冷酷さ。先ほどの身のこなしが、普通の人間ではないと物語っていた。
ヤマトが警戒しながら口を開いた。
「俺達も行方は知らねぇ。地上に逃げる列で奴を見ていない。」
「そうか。わかった。・・・ここから東、明るい空の方を目指せ。シェルターがある。あの触手が貫通してなければ、安全なはずだ。」
「待ってください!貴方は誰なんですか?何故真人さんをご存じなのですか。」
「真人のクラスメイトだ。あいつを天御影に誘ったのは俺なんだ。あいつの無事を確認しなけりゃ、俺は――」
刹那の間であった。
十杜のせいで頭から消えてしまっていた近場の触手が、真人のクラスメイトを頭上から叩き潰した。
肩口から地面へと叩きのめされ、散乱した血と潰れた肢体。血は桃那の靴先にまで落ちて、半歩後退しながら口元を抑え絶句する。
人の死はいくつも見てきた。無残な死に際も。
名も知らぬ真人の知人は、何故か自分達を助けてくれた。神授石ではなく力のみで十杜を倒してみせたのだ。
その男が最期に見せた表情は、後悔と悲しみが渦巻く苦しみの感情だったのが後を引いていた。
真人を知る地上人を叩き潰した触手がまたうねりだしたのを確認して、緑延が怪我をした絵美を背負い、固まる桃那をヤマトが引っ張り再び走り出す。
戸惑いが喉元を締め上げうまく呼吸が出来ないでいる。
混乱から桃那はついに泣き出してしまった。
「これも縁かな。真人さんの友達に助けてもらえたなんて。」
「うぐ・・・っ、こ、これは、動けというお告げです・・・。い、生きろと言ってるんです。」
「神がか?あいつらは人間を見放したんだぞ。」
「ええ、そうですわね。」
緑延の背中にいる絵美が弱々しい声を出した。
先ほど転んだ時に足をすりむいたのか、左足の膝から血が垂れている。早く触手から離れて治療しなければ、十杜が集まってきてしまう。
―いや、此処は地上だ。地下と違って匂いはこもらないのかもしれないと存外冷静な頭で考える。
「真人さんのお友達が言ってた避難所を目指しましょう。」
「場所がどこかもわからねぇんだぞ?無事に辿りつける保証がどこに・・・イテッ。」
浮かびながらついてきていた翡翠が、緑延の代わりに抱えていた錫杖でヤマトの頭を叩いた。
「諦めるなって翡翠が言ってる。」
「そういや、零鬼は影響ないのか?」
「神授石が停止して力は使えないけど、通じてはいるね。」
「信じましょう。真人さんは生きてるし、わ、私たちは・・・無事避難所にたどり着けます。」
桃那が乱暴に服の袖で涙を拭ったので、ヤマトも呼吸を整え前を向いた。
「神はそもそも無情だ。祈ったところで助けてはくれねぇのは身に染みてわかってらぁ。力も使えねぇなら、自分達でやるっきゃねぇな。」
「そうだよ。僕たちなら大丈夫だ。全員で逃げ切るよ。」
「ま、任せて下さい。先ほどの方のように、瓦礫だって武器になること、わかりましたからっ!」
「フフ、かっこいいね桃那さん。」
遠くから、近くから悲鳴が聞こえる。
地響きは絶えず響き十杜の甲高い鳴き声も耳かかすめる。
いつ触手が間近に迫るかも分からぬ中、彼らは走り続けた。
見慣れぬ高い建物は天御影では珍しいガラス窓を無数に貼り付けている。
茶色や赤のレンガが並んだ道に沿って植えられた、図鑑でしか見たことがなかった樹木や本物の花々。
真人がよく、天御影にきて小説やゲームの中に入り込んだみたいだと感想を述べていた。
その気持ちが今にしてようやく理解出来た。
本の中でしかなかったはずの空、空気、植物に生き物が此処には存在している。
地上世界は、まるで異世界だ。
背中で暴れる触手や今起きている災害がなかったら、あいつに案内でもさせたのに―。
無事かどうかもわからぬ友を想いつつ、足を前に動かすしか出来ないもどかしさに奥歯を噛んだ。
次の瞬間に、十杜になって仲間を襲ってしまうかもしれない恐怖も常に共にある。
けれど行くしか無い。動くしかないのだ。
徐々に昇り始めた太陽とやらに向かって。