神宿りの木 たまゆら編 7
民がいなくなった綴守は静かだった。
空っぽの箱が口を閉ざし鎮座している様は、どこか懐かしさを覚える。
足裏から僅かに感じる地響きの震動が、哀愁に浸る余念を容赦無く妨げてくる。
綴守5階の廊下で、ズボンのポケットに手を入れた瑛人が感情の宿さぬ目で我が家を見下ろしていた。
落ち着いた色合いである茶の髪と白いシャツが、開け放された正門からやって来た風になびいている。
敵の侵入から家を守っていた正門、裏門が今はどちらも大きく口を開けていた。
綴守は入り口が狭い割に天井が高い構造であり、近くに立抗もあるため、どこかで火事が起これば入り込む空気で成長した火が閉鎖的な地下世界で気流を作り、大きな洞穴になっている綴守へと風が流れ込む。
鎮火作業を行っている人間はいないはずだ。自ら残ることを決めた民はいるだろうが、火事をどうこうしようとする気力はなく受け入れている頃だろう。
焼けた空気がここまで届く。吸い込む度肺を不快にさせる焦げた臭いは普段なら遠慮したいところだが、今は自分たちが行おうとしている所業の是非を自らに課せられるという点では頭を冷静にさせてくれている。
通路の向こうから、濃い色の分厚いサングラスをかけた長身の男がやって来て横に並んだ。
「真人がいなくなって、お前が取り乱すんじゃないかと心配した。」
「俺もだよ。でも、信じられないぐらい頭がスッキリしているんだ。
この10年、今日のためにあらゆる可能性を想定し動いてきたのは、無駄ではなかったということだ。」
特に嬉しそうではない声音でそう吐き捨てた瑛人は、ただ綴守を見下ろし続けていた。
「結界は無事解かれたと連絡があった。今後の指揮は滝沢に任せてある。天御影の民は実行部隊員が地上の避難所へ誘導中だ。御司守も手伝ってくれている。」
「島田議長には感謝しないと。」
「左京様とクロガネ、それからクイーンを確認しに行ったが、やはり遺体すら見つけられなかった。」
「その身の全てをかけて、結界を解除してくれたんだ。俺も、必ずやり遂げないといけないな。」
返ってくる声にわずかな強弱すらなく、考仁はサングラス越しに瑛人を盗み見た。
青白く浮かび上がる横顔には怒りも焦りも感じられない。
心は既に此処にない。冷静と言えば聞こえはいいが、ずっと兄弟を見守り手を貸してくれていた恩人や幼い頃からの友人の死ですら、これから起こす事態の前では、瑛人の心に残らない。
今の瑛人は、心を鬼にしている。感情を全て殺し、行い起こそうとしている事態にだけ意識を集中している。
それもそのはずだ。瑛人は生まれてからずっと、ただ一人の家族のために生きてきたのだ。
彼の望みは、生きてきた間培ってきた繋がり全てを断ち切らねば叶わない。
考仁はそこまで心情を察して、いつも通り何も言わず、横に並んで同じように綴守を見下ろす。
もぬけの殻となった二番目の家は、崩れた岩肌の破片が渡り廊下や店の屋根を直撃し、破片や割れた器物が散らばっている。
ちょうどこの廊下で煙草を吸っていた恩人も、今はもういない。
寂寞たる光景に、自分も人並みの感情を得たのだなと改めて思い知る。
ずいぶん長い時が過ぎた。
初めての家で家族も思い出も失い、第二の家は瑛人が計画した未来の為だけに築き上げてきた。
家というよりは、戦のために造った砦だ。温かみも普通の思い出も無いに等しい。
それなのに、後ろ髪引かれるような戸惑いが僅かに顔を見せていることを否定は出来ないでいた。
分厚いサングラスの奥から瑛人の横顔を見つめながら、ずいぶん遠くへ行ってしまった
懐かしい思い出が考仁の頭を過ぎった。
*
あれは8年程前。
イツキさんが居城としていた廃墟の改造も無事終わり、一般集民受け入れも始まって賑やかになったころだ。
クイーンや志ケ浦さんが秘蔵していた書物を譲り受け、品揃えが豪華になった瑛人お気に入りの書庫で、瑛人と考仁が思い思いに時間を過ごしていた。
「つづもりって名前にしようと思うんだ、この集の名前。」
「嫌がってたわりに、いい名前じゃないか。」
「クイーンが是非にって。折れるしかなくて。」
「どういう字を書くんだ?」
「綴り、守る。綴りにはつなぎ合わせたり、留め集めるって意味もあるそうだ。」
「お前らしい。」
絨毯に腰を下ろし志ケ浦さんにもらったばかりの戦術本をめくっていた考仁だが、無言の間に何やら感じるものがあり本から顔を上げると、瑛人は目的もなく並んでいる本の背表紙を人差し指で撫でていた。
「僕たちはたまたま水縹の集に住んでいただけで、深梛に属するのは本当は嫌だったんだ。
クイーンの庇護下だから仕方ないんだけどさ。」
この棚に並んでいるのどれも人がまとめた貴重な品ばかり。
子供に与えるにはずいぶんと贅沢なものばかりだと瑛人も気づく年頃になった。
大人達の過保護っぷりは亡き両親のおかげらしいので言い淀むしかなく、子供の自分たちは
まだなにも自由にいかない。
「此処に来て2年。外の世界について沢山勉強したけど、天御影は一族という括りが強いね。特に五大一族は勢力を振るい権力を振りかざすのに余念が無い。神眠りの日が来た時、組織が足かせになるようでは困るんだよね。」
「他の一族もシンや厄災の日は語り継ぎとやらで承知しているはず。神籬や神眠りの日も知っているのだろ?連携とまでは行かずとも、利害関係は築けるはずだ。」
「無理だと思うなー。綴守には貴族はいないし名がある長も歴史もないから、権力の椅子にしがみついてる連中は真実を説いても耳を傾けないって、父さんが言っていた。」
「なんだ、また会ったのか。」
「昨晩ね。一応考仁が会いたがってるって伝えたよ?でも、俺は恥ずかしがり屋なんだって、逃げられた。」
「俺は認められてないようだな。」
「そうじゃないよ。制約が多い人だから、あまり顔を出せないんだ。」
瑛人とは血の繋がりがない、真人の実父。
帝一族の生き残りらしいのだが、その存在は天御影の守護者であるレイコですら掴めず、闇の中で暗躍しているという。
幼い瑛人とは何度か接触しているようで、気配に敏感な考仁がぐっすり眠っている時だけやってくる。
何か特殊な能力があるんじゃないかと考仁は疑っている。
なにせ、瑛人と真人の母親は帝一族最後の女性として24時間監視されていたにも関わらず真人を妊娠したという。真人の実父がどうやって彼女に接触し妊娠させたか手がかりも証拠も全くないと聞いた。
「大人達は、シンの復活を阻止し世界の終焉を回避すると口でいいながら、神からの恩恵に甘えて具体的に動いてない。
権力者達は他者を蹴落とす事しか余念がない。クイーンでさえ、語り継ぎを尊重し静観を決め込んでいる。
神籬を守ると口では言いながら、神ではなくシンに差し出せば元に戻ると考える愚か者もいる始末。僕はそれが許せないんだよ、考仁。」
吐き出される言葉にはとげが生え、棚の端で握った腕は力み過ぎて震えていた。
煌々と燃え上がる怒りの炎が、考仁には可視化出来るかのようであった。
水面に住んでいた頃は、こんな憎しみと怒りに顔を歪めるような子ではなかったはずだ。
周りが嫌がおうにも瑛人を大人にしようとけしかけたせいだ。
いや違う。一番悪いのは、ずっと隣に居ながらも昔の心優しい子供のまま成長させて上げられなかった自分の不甲斐なさ。
瑛人が望む道は、優しいだけでは進めないと気づいてしまったからだ。
「僕は真人を器にした神も、真人を狙うシンも消し去ると決めた。この世界から神を排除するんだ。
御子として神器を授かった僕らしか出来ないこと。
これは僕と考仁だけの秘密にする。誰にも言うつもりはない。イツキさんにも、クイーンにも。」
「神から宝物を預かって、神を殺すのか。」
「これは親殺しとでもいうのかな。」
「親は雨条夫妻だけで十分だ。」
「フフ。その通りだね。」
あまりジョークを言わない兄の軽口に、風船の空気がぬけるように瑛人の怒りが引いた。
微笑んだ顔はどことなく義父の和輝さんに似ていた。
懐かしさが胸を締め付ける。哀愁がここに来てつんとした痛みに変わり鼻の奥で転がり出した。
もちろん、考仁は訳あって泣くことが出来ないのだけれど。
「どうやってやるんだ。どうせ、もう計画済みなんだろ?」
「うん。でも、神は殺せない。あくまでこの世界を切り離すだけ。
まずは、シンを封じてる結界を緩める。時間がかかるけど、時がきてシンの意識が外に漏れれば、天つ神は慌てて接触してくる。
神の意識と僕らはとても近くにあると父さんは言ってた。御使いだからね。
そこで天の場所を探ってから、次は黄泉の場所を特定する。
黄泉は地下深くにあると言われているけど、物質界にはなく、封印を任されている岩坂でさえ明確な場所を知らず祈りを捧げるだけ。」
瑛人が計算ドリルの答えを言うみたいにあっさりと声に出した。
「黄泉国を引き釣りだしてたまりに溜まっている穢れを地上世界の上に這わせる。
日之郷は都合良くドーム型をしていると聞いた。蓋がされてるなら、外側を穢れで覆いやすい。神器で作り出した内側に作用する結界で人間と世界は守る。」
「神は穢れを嫌う。唯一神が御せないものは、人間から落ちた穢れ、だったか。」
「うん。人間は神が作っていない生物だからね。元々、神にひれ伏す必要なんてなかったんだ。
人間と神が仲良く生きていたってのも、今となっては作られた記録かもしれないよ。創造主から独立する時が来たんだ。」
瑛人の指がまた彷徨ってから、色褪せた本を取り出す。
黄色い表紙の本は考仁も読んだことがある。神話について書かれた本だ。
数多くの神話書の中でも、一番古く、まとめた著者はクイーンの古い友人だという。
中身を見たいわけじゃないのか、手悪さでパラパラと紙をめくり始める。
「シンの方はどうするんだ?」
「穢れで世界を覆った後、天御影と黄泉をぶつけて魂ごと消滅させる。
元々、シンと呼ばれている第五世代の神々は、死を恐れ自分勝手な欲にかられたせいで黄泉に喧嘩を売り穢れを受け化け物として墜ちた。神力は無くなっているなら勝機はある。」
「和輝さんから習った神話では、シンはマガツカミという厄災の神だったな。」
「誰も知らないことだよ。帝一族の後継者が記憶を受け継ぐらしくて、僕も父さんから聞いた。
誰にも言っちゃいけないんだ。だから誰も知らない。」
「俺はいいのか。」
「僕と考仁はもう一心同体。これからは共犯、でしょ?」
口の端で笑いながら、いいでしょ?と問われている気がしたが、もちろん考仁が断らないのを見据えた上での問いかけだった。
瑛人は続ける。
「自分達の子孫である神が大地を穢れで満たし一度世界を死なせたという事実を隠すため、天つ神は世界を作り直し、偽りの記憶を人間に植え付け語り継がせた。
汚いものを見ないように蓋をして、地下深くに封印したんだ。
ずるいよね。大人達と一緒さ。」
瑛人が手悪さでめくっていた神話の本をパタリと閉じたので、考仁も本を脇に置いて立ち上がった。そうしないといけない気がした。
瑛人は頭が良い。自分よりずっと多くのことを考え、より多くの事を成すだろう。
血の繋がった家族を持つ苦しみも、自分にはわかってやれない。
隣にいてやることしか、いつも出来ないもどかしさが常に自分を弱い者にさせる。
「俺は、真人に会わせてやると約束した。お前はそれ以上を望むんだな。」
「うん。ごめんね。真人に絡まった運命の糸を、兄である僕が切ってあげなきゃ。無事再会出来ても、また離れるなら意味がないよ。」
「約束したのは俺なのに、置いて行かれそうだ。」
「何言ってるのさ。考仁がいてくれるから、僕は立ってられるんだ。頼りにしてるよ、兄さん。」
それにさ、と瑛人は笑った。
どこか困ったような寂しそうな笑顔は、随分背伸びした表情であった。
「考仁と沙希も一緒に、真人の誕生日会するのが僕の夢なんだ。」
希望を糧に、歩み続けることを決めた弟の姿に、胸が張り裂けてしまいそうな、初めての感覚に戸惑った。
もう水槽を見上げているだけの内気な子供ではない。
ならば―
「俺の未来を全部やる。好きに使え。俺が隣で支える。ずっとな。」
「ありがとう・・・。ありがとう、考仁。」
瑛人が提案した壮大な計画。
二人だけの秘密の作戦は、やがて天御影に戻ってきた沙希も加わった。
瑛人はあの頃から子供でいることを辞めて、智将としての片鱗を見せ綴守を確実に大きくし地盤を築いた。
実行部隊の編成と組織化が成功し水縹で一番大きく力のある集になった。
瑛人の夢は、考仁の夢になった。
もう家族を失う苦しみを味わいたくないという決意も新たにして。