1.夏の朝
ある日僕は、雪の国に住んでいた。
どこを見渡しても真白に包まれた、寂しく閉ざされた場所で
僕らを捉えて離さない雪の女王から自由になるため
見たこともないぐらい美しく綺麗な花を探しに行くのだ。
―――誰と?
思い出そうとして、僕はそこから引き離された。
携帯アラームの軽快な音楽を止め、真人は目を覚ました。
ぼやける視界が徐々にクリアになってゆき、意識が現実とリンクし始めると見ていた夢の光景すら忘れてしまっていた。
耳に入る鳥の鳴き声や、汗で肌に張り付いたシャツの不快さが現実に追いついてじわじわとやってくる。
重たい体をなんとか持ち上げ、ベッドの上であぐらをかきあくびを一つ。
壁の時計は9時半。
しまった、と緊張が体に走ったが、すぐそれを解く。
学校なら遅刻決定の時間なのだが、今日が夏休み初日であるのを思い出した。
のろのろとベッドから降り、汗で若干湿ったパジャマのまま部屋を出る。
頭を掻きながらシャツに手を入れて腹を掻くという、ダメな人間の定番ポーズで階段をよたよたと降りつつ
もう1度大きなあくびを溢すと、階段の下を横切る木目廊下を誰かが通り過ぎた。
中途半端にあくびを止め、真人の頭が一気に覚醒した。
「父さん…。」
白いワイシャツにベージュのカジュアルパンツ。
真人のより大分明るいオレンジ混じりの茶色い髪をした30代後半の父は
だらしない恰好で登場した息子を叱るでもなく、呆れるでもなく、軽く口角を上げてみせた。
本人にそんな気はないとわかってはいるが、見下され馬鹿にされたような笑い方をされるたび真人はお腹の奥が重くなるのだ。
「帰ってたんだ。」
「おはよう、もしくはお帰りなさい、だ。」
「あ、うん…おかえり。」
夕方の疲れ果てたサラリーマンのようなテンションの挨拶に頷くことも、当然答えることもなく父はそのままリビングへ入っていった。
残りの階段を下り、冷たい廊下の上で真人は足を止めた。
ああ、できればこのまま部屋に引き返したい。
だが台所から焼けたパンの香ばしいにおいがする。
成長期は朝からでもガッツリ食べられる胃袋を装備しているものだ。
空腹に負け、彼もリビングに入った。
ダイニングキッチンは母の好みでリフォームされており、台所寄りに置かれた食卓は黄土色木目の四足テーブルで、
今日は黄色と白のストライプランチョンマットが敷かれ、ナイフとフォークが添えられている。
料理のしやすい広い台所でエプロンをした母がせっせと料理に励み、父は木目テーブルでコーヒーを飲みながら新聞を広げていた。
パジャマのまま登場した息子に気付いた母が顔を上げた。
「おはよう真人。食パンとクロワッサンどっちがいい?」
「食パンお願い。」
「スクランブルエッグ?」
「うん。」
オーダーを受け調理に取り掛かる母に朝食は任せ、テーブルに座る。
あらかじめ用意されていたオレンジジュースをコップに注いで、からからに乾いた体に水分を補給する。
この家の朝食は本当にカフェみたいだった。
和食の日もあるが、圧倒的にパンの方が多い。
マットやカトラリーに至るまでオシャレなデザインのものが日替わりで並べられ、
気分しだいではフレンチトーストにサラダ、パンケーキなども用意する母が楽しそうなので文句はない。
卵を焼き始めた母親・櫛菜は真人そっくりだった。
おまけに30台前半には見えないぐらい若く、よく真人と姉弟と間違えられる。
フライパンを器用に震わせながら、母はキッチン向こうに声をかける。
「瑛人が明日帰ってくるって連絡あったわよ。」
「本当!?」
「朝イチで電話があったの。明日の朝にはつくって。」
「なんだ真人。父さんが帰って来た時より嬉しそうじゃないか。」
「う…。」
新聞を斜めに広げながらの発言に、ジュースを飲む手が止まる。
そこに母がクスクス笑いながらテーブルに皿を並べていく。
「真人はお兄ちゃん大好きだものねー。」
「か、母さん!」
「瑛人が都会の大学行くって言い出した時猛反対してたじゃない。」
「その歳でまだブラコンか。仲良くていいが、それじゃ兄さんがいつまで経っても結婚できないぞ?」
「関係ないじゃんか、結婚とブラコン。」
皿の上に載ったバターが染み込んだ食パンをひったくるように口に運ぶ。
食パンを左手で持ちながら、右手にフォークを握り生クリーム入りの甘いスクランブルエッグを掻きこむ。
新聞から目を離さず、父が呟くように言う。
「ゆっくり食え。」
「これから、友達と図書館なんだ。」
「今日はまだ夏休み初日だろ?」
「今年はさっさと課題終わらせて遊ぼうってなってるんだ。」
「遊ぶことは賛成だがな、ちゃんと噛め。子供じゃあるまい。」
心のこもってない上辺だけの忠告を受け流し、どんどんとスクランブルエッグを減らす。
添えられたウィンナーを齧り、食パンも齧る。
食事の間、真人は父の方を見ないようにしていたし、父もコーヒーに手を伸ばすことはあっても新聞から顔を上げることはなかった。
最後にオレンジジュースで流し込み、立ち上がる。
「ごちそうさま。」
皿をまとめ、流しに持っていく。
自分の皿は自分で片す、が家の決まりだ。
「パジャマ洗うから出しておきなさい。」
「はーい。」
「お昼は?」
「どっかで済ます。」
リビングからそそくさと退室して、普段より2倍速で階段を駆け上がり部屋に逃げ帰る。
せっかくの朝食も、食べた気がしない。
1年に1度、下手したら数年に1度しか顔を見せない父親。
血が繋がっているのに、他人と同席しているような気まずさは子供の頃から全く変わらない。
小さなため息を溢し、パジャマを脱ぎ捨て白いインナーに爽やかな水色の半袖シャツ、薄手のジーパンに着替える。
鞄の中身は昨夜のうちに用意してあるので、携帯と財布だけ乱暴にジーパンのポケットへ突っ込み、
脱ぎたてのパジャマを抱え、上がったばかりの階段を下りる。
洗面所の籠にパジャマを乱暴に放り、さっと顔を洗い歯を磨いてから、玄関でスニーカーを履く。
「行ってきまーす!」
リビングにいるであろう母と、ついでに父に呼びかけ、追い立てられるように玄関を出た。