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​3.帰省

約8時間ぶりに玄関の扉を開ける。


「ただいまー。」


反応はなかった。
玄関の靴を確認すると、父の革靴が無いのだ。母の靴も1足ない。
スリッパもはかず家に入りリビングを覗く。
シンと静まり返った我が家の中心部は、沙希の家で感じた静寂と全く違った。
時の流れのような穏やかな静けさではない。虚無感と空白が紡ぐ人を不安にさせる静かだ。
食卓の上に、1枚の紙をみつけた。


『真人へ

急で申し訳ないけど、お父さんと一泊旅行に行ってきます。
夕飯は冷蔵庫、何かあったらタンスの中のお金を使ってね。
緊急事態が起きた時だけ電話して、あとは瑛人を頼ってね☆

PS.孝仁家との食事会は二人で行ってきて!

櫛菜』


だ、そうだ。
書置きにため息も出なかった。
あの夫婦は、真人が生まれ17年経っても新婚気分が抜けずよくこうやって出かけてしまう。
子供の頃は、息子の自分より父をとる母に焼きもちをやいたりしたが、今は仕方ないな、と思うぐらいだ。
なにせ父は年に1回しか帰ってこない。
息子の居ぬ間に会ったり連絡を取り合ったりもしていないらしいのだ。
一人で息子を支える母が、たまに夫と出かけるぐらいどうということはない。
自分も成長したな、なんて生意気に自画自賛しながら、洗面所に向かった。

汗で肌にくっつく服を脱ぎ捨てシャワーを浴びる。早くさっぱりしたかったのだ。
本当は、帰宅して父がいないことに安堵していたのだ。
沙希に言った通り、真人は父に近寄りづらいという印象しか持っていないのだ。


その夜。
母がわざわざ作って冷蔵庫に入れておいてくれた冷やしサラダうどんと塩だれで味付けされた鶏肉を食べていたら、急に玄関が開く音がして、真人は慌てて廊下に上半身を覗かせた。
鍵を閉め忘れ誰かが入ってきたかと思ったのだ。


「真人、口元汚れてるぞ。」
「あき兄ぃ!!!」


顔全体で喜びを表現しようと破顔して、小走りで玄関へ向かった。
大きな旅行バックを玄関先に置いた青年は、真人の兄。
真人とそっくりだが、どこか大人びた顔立ちをした兄は、靴を脱ぐより先にポケットからティッシュを取り出し弟の口元をぬぐってやる。
当の本人は、口元の汚れより兄の登場に心を奪われていた。


「おかえり!明日の朝って話じゃなかった?」
「最終の電車で間に合うことがわかって、予定を前倒しした。」


兄はやっとそこで靴を脱ぎ、鞄をまた抱えて廊下を進む。
真人は朝会った孝仁の娘のようにピョコピョコ跳ねながら後についていく。


「母さんは?」


その問いに自分の口からは答えず、机に置いたままだった書置きを差し出した。


「威さん、帰ってきてたのか。」
「今朝ね。」
「ちゃんとあいさつしたか?」
「した、と思う…。」
「荷解きするから、飯食っちゃえ。」
「あき兄は?」
「駅弁食べた。」


重たそうなバックを引きずり階段を上がる兄を見送って、真人は大急ぎでうどんをかき込んだ。
母が居ない場合は自分で、という家訓通り皿洗いをちゃんと済ませ2階へあがり、ノックなしに兄の部屋に侵入する。


「早いな。ちゃんと噛んだのか?」
「父さんみたいなこと言わないでよ。」
「ハハハ。」


兄不在でも定期的に母が日干しをしていたベッドの布団に上がり、兄の荷解きを眺める。
兄・瑛人は都会の大学に通う3年生。真人とは4つ違う。
長い休みになると必ず実家に帰ってくる親孝行息子。
21歳とはいえ落ち着いていて穏やかな物腰は弟の面倒を見るうちに身についたと思われる。
真人はベッド脇に置いてあったプラスチックで出来たリンゴの置物を投げたりキャッチしたり遊びだす。几帳面な兄の手伝いをできるわけでもなく、手持無沙汰だったのだ。


「真人は、威さんが嫌いかい?」
「嫌い、ではないと思う。ただ物心ついてからはずっと苦手。」
「怖い?」
「ちょっと。雰囲気がね。」


威(たける)とは父の名前だ。
長男瑛人は父を名前で呼ぶ。なぜなら、瑛人の父親ではないから。
真人と瑛人は異父兄弟なのだ。
瑛人の父親が誰なのか、真人は当然瑛人も知らない。
小さいころ母親に聞いたのは、兄と弟で父親が違うってことだけ。
どこのだれなのか聞きたい気もするが、それを聞いたらいけないことは子供の二人にもよくわかっていた。時折子供の感覚の方が物を沢山考えられる大人より鋭い時がある。
特に真人は、大好きな兄とぎくしゃくしたり嫌われたくなかった。
血が半分しか繋がらない自分を、ある日突然嫌いになるんじゃないかと、怯えていた時期もあった。
母櫛菜は威が滅多に帰ってこないので、女一人で二人を育てた。
威との仲が悪いわけでも貧乏なわけでもなかったので、世のシングルマザーよりは資金面では苦労しなかったのかもしれないが、それでも男の兄弟2人は大変だっただろう。
高校生になった真人もそれはわかるようになった。
もう一つわかったことは、今住んでいる海沿いの家。高級住宅街の1件に入るらしいということ。
家自体はいたって普通の間取り。庭も大して広くない。
ただ土地代がバカ高い、と友人ヤマトに聞いたことがある。彼は真人と違い父と息子二人暮らしで結構苦労してきたらしい。
そんな住宅に長年住める収入が、父にはあるということ。
これまた不思議な話なのだ、兄弟も母も威の仕事を知らない。
母だけはどんな仕事をしているか把握していて兄弟に内緒にしている可能性もあるが、母は女よりも中身は男性に近い箇所がある。
頑固で嘘や偽りを嫌い、息子だろうが誠意を持って接する。
そんな母が二人にずっと隠し事をしているとは思えない。いや、そう思いたいという願望でもあるが。
年に1回しか帰宅しない仕事とはどんなものか考えたことはある。
どう考えたって怪しい仕事だ。単身赴任ならそう伝える筈だし、まともな仕事なら言えるはずだ。たぶん。
とにかく、夫の仕事を把握していない妻がこの世の中にはいるのだろうか。
まだ世間すべてを知ってるわけではない真人にはわからなかった。
あっという間に瑛人は鞄の中身をタンスや引出の中に収納してしまい、最後に鞄も丁寧に折りたたんでクローゼットの下に仕舞った。

 


兄瑛人が帰省して3日たった。
一泊二日で帰ってくると言っていた置手紙の期日は当に超えている。
1泊のつもりが楽しくて中々帰ってこれないのだろうと真人は呆れながらも心配はしていなかった。
午前中に緑延・ヤマトとの勉強会を終え、宿題も後は数学のみを残すのみとなった真人は
クーラーの効いたリビングで兄とソファーに並びテレビを見ていた。
夏休みの午後、これといって目新しい番組があるわけでもなく、刑事ドラマの再放送をなんとなく流している。


「真人、友達と出かけたりしないのか。」
「行ったじゃん。」
「図書館じゃなくて、遊びにさ。」
「緑延は明日から歌舞伎公演の手伝いに○都だし、ヤマトはバイト。」
「他にも友達いるだろ?」
「夏休みにわざわざ会うような友達は2人だけ。」
「高校生の友情も複雑だな。」


雑誌を適当にめくっていた兄が顔を上げず嘆く。
ソーダ味のアイスをくわえながら、そんな兄を見る。


「兄さんこそ、大学生なんだから遊びにいったりしなよ。高校生より派手に盛り上がれるじゃん。奏多さんもこっちに帰ってくんでしょ?」
「奏多もお兄さんとゆっくりしているころだよ。」
「彼女と予定ないの?」
「いないよ、彼女。」
「うっそだー。兄さんモテモテでしょ?」
「弟からの賞賛はうれしいが、俺みたいなのはネクラの部類に入るんだよ。真人こそ、高校生なんだから好きな子ぐらい出来ただろ。」


真人の脳裏に、キラキラと輝く海を背景に立つ白いワンピース姿の面影が浮かんだ。
夏休み初日、海を眺めていた沙希の後ろ姿だ。
まるで動く絵画みたいに、彼の記憶野に強く強く焼かれた情景。
刑事が犯人を追いつめ商店街を走っている場面のテレビに、視線を戻す。


「僕もいない。」
「今年も兄弟仲良くひきこもりだな。」
「僕兄さんと一緒ならそれでいいよ。あ、でも海祭りは行きたい。」
「ああ、そうだな。夏らしいイベントを1つぐらいはこなしておくか。」


8月末に行われる、地元の祭り。商店街の名前が付けられた正式名称は響きが悪いので、皆が海祭りと呼ぶ行事。
街全体で盛り上がり、出店もたくさん並ぶので観光客も混ざって大変賑わう。
一応神事も兼ねていて、夕日が沈み空が青くなったころあいに、紙の祝詞を書いた長い紙を海に流すというイベントだ。ちなみに紙は水に溶けるエコなやつ。
そして仕上げに花火が上がる。
夏の終わりを告げる、この街の祭り。
去年おととしは友人と参加したが、今年は兄と、母も誘って家族でというのもいいかもしれない。
そのとき、父はまだ家にいるのだろうか。家に3日以上の滞在をしたことない父があと1カ月以上も家にいるとは思い難いが、その時は誘ってみてもいいと、初めて思った。

 

 





暦は8月に入った。
暑さは日に日に脅威レベルを上げ続け、海沿いのこの街も熱中症対策に忙しい。
真人は相変わらず兄と家でひきこもる毎日だが、昨夜は孝仁家の庭で手持ち花火で遊び、初めて夏らしいことした。
3歳の子と一緒にはしゃぎ、スイカをごちそうになった。
母がまだ帰らぬと聞いて、孝仁は心配そうにしていたが、また夕飯に行こうと誘ってくれた。
さらに来週長女のリクエストで博物館に行くらしいので、兄弟も一緒に連れて行ってもらうこととなった。
予定が埋まると、うれしいものだ。やはり10代の夏は貴重なのだから、遊んで思い出を作らねばと心のどこかで焦ってはいたのだ。来年という近くも遠くもない未来では、なにが起こるかわからないのだから。
真人はまだ涼しい午前の内に、愛読している漫画の新刊を買いに本屋へ向かっていた。
11時前だというのに太陽の日差しが猛攻撃をしかけてきて、普段は涼しい海風も生暖かくなってしまっている。
サンバイザーだけでもかぶってきてよかった。
商店街の外れ、家から一番近い店である本屋に入る。
冷房が効いていたので、雑誌を立ち読みしたり少しだけ長居をしてから目的の本を買った。
せっかく出かけたのだから兄にデザートでも買っていこうかとも思っていたのだが、再び外に出た時のもわっとした熱気に気分がそがれ、早急に帰宅することにした。
こう暑い日に、何の対処もなく外に出てはダメだ。
本を自転車のかごに放り投げた時、後ろから声を掛けられて振り向く。
白い日傘を差した若いご婦人かと思ったが、沙希だった。
フリルのついた日傘に、ノースリーブのベルト付ワンピース。
髪は相変わらずポニーテールだった。
沙希と会うのは夏休み初日、彼女の家にお邪魔した時以来だ。
といっても、休みの日に会える確率は極めて低いので、遭遇率は上昇している。


「お買いもの?」
「本買いに。沙希は?」
「散歩に来たんだけど、暑くて折り返そうかと思ってたところ。」
「暑いよなー。俺も干からびそう。」


なんとなく一緒に通りを歩き、途中にあった駄菓子屋に誘った。
外にラムネの入った冷蔵庫を見てしまったら、急にあの炭酸水が飲みたくなったのだ。
庇の下にあるベンチに並んで座り、買ったばかりのラムネ瓶を渡す。
驚くことに、沙希は清涼飲水を飲んだことがないという。
――お嬢様なら当然か。
飲み口のフィルムを剥がし、隠れていた画鋲みたいな形のピンクの玉押しをセットして一気に押す。
ビー玉が爽快な音を立てたと同時、口を瓶に持っていきあふれ出る炭酸を吸い込む。
夏はやっぱりこれだろう。


「思いっきり押して、すぐ飲むのがコツ。零れしゃうから、気を付けてな。」


真人のアドバイスに、真面目な顔で頷いた沙希は、まるで決死の戦いを挑む前のような集中力で玉押しをセット。手の平で押すが、一回目を失敗。
2回目ビー玉は落ちたが、中身が少し零れてしまった。
様子を見守っていたらしい駄菓子屋のおばあさんが気品のいい御嬢さんの初ラムネ体験のためにお手拭をくれたので、べたべたになった沙希の白い手は救出された。
二人ならんで、ラムネの瓶をちびちび飲む。傾けるたび、沙希の瓶がカラカラ音を立てた。


「このくぼみにビー玉置いておくようにすると、飲みやすいよ。」
「凄いわ。真人は物知りね。」
「この駄菓子屋全商品マスターしてますから。」
「フフフ。」


自然に、少女は笑った。
こんな明確に笑った姿を初めて見る。とても可愛らしい笑い方だった。
鈴のようにころころと声を弾ませ、肩を少しだけ上に揺らす。クラスの中にいる時になんとなく発しているオーラは全く感じられない。
真人の体温が急上昇したので、慌ててラムネを飲む。
これで熱中症にでもなったら笑えない。
真人にコツを聞いてから、ビー玉に邪魔されることなくラムネを飲んでいた沙希が、
青いガラス瓶を太陽にかざし始めた。ビー玉を見ているようだ。


「昔そのビー玉集めてたなぁ。」
「どうやって取り出すの?」
「蓋を外せば簡単だよ。」
「この中に入ってると、一際特別に見える気がする。」


女性はキラキラしたものが好きだと聞いたことがある。
反射する半透明なガラス瓶の中にあるガラスの玉は、彼女には数カラットの宝石に見えているのかもしれない。
尚もガラス瓶を短い庇の向こうに掲げながら、沙希は続ける。


「ビー玉の中に、たまに気泡が入ってるのがあるでしょ?」
「あったあった。」
「あの中には、泡じゃなくて記憶が閉じ込められているの。
記憶だけじゃない。想いとか、歌とか、宝物。決して取り出せないもどかしさに襲われるけど、そこに存在してるとわかるだけまだ安心するの。」
「また夢の話?」
「ううん。そう、感じるの。」


暑さで少しぼんやりした意識で彼女の不思議な話をしていると、本当にビー玉に思い出が詰まっている気がしてくる。
思い出を閉じ込められ、さらに瓶に閉じ込められ、炭酸水という綿で守っている。
彼女の白い手が指先だけ強い日に当たっていて、陰と陽のコントラストが生まれていた。
更にその先にある瓶の煌めきが真人にも反射してきた。
青く輝く宝石から発射される強い輝きは啓示のように神秘的に踊っていた。


「いつか、取り出せたらいいよな。」
「うん。」
「割ってみる?」
「ダメ。泡ごと砕けちゃう。」


瓶を掲げるのをやめ庇の陰に戻すと、沙希はちょっと口を尖らせた。
拗ねたみたいな顔を見て、真人はケラケラと笑った。


 

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