神宿りの木 クロガネ編 8
視界に入ってきたのは、暗闇だった。濃くなったモヤが辺り一帯を支配するが、表面に明暗が多少あり、陰影を描きながら目の前を早足で通り過ぎていく。
体が動かなかった。指先すら重く感じる。瞬きを繰り返し視界をクリアにすると、モヤは透明な壁の向こう側で漂っており、横たわっている体の周辺は円形に守られていた。
重たい頭をずらせば、モヤを注視しながら警戒している千木良の顔がすぐ近くにあった。クロガネを守るように膝に載せ抱きかかえてくれている。付近のモヤが薄いのは、彼女が契約している召喚鬼のおかげらしい。頭が動いたのに気づいたのか、千木良がこちらを見下ろした。
「起きたのね。」
「鐵は、どうして俺から離れ暴れている・・・。」
「わからない。私が着いた時には、こうなっていた。今はユタカが抑えてくれている。」
あそこ、と彼女が指さした方に顔を向ける。
モヤの下で、燃えるような赤髪をしたユタカが、両手の拳、そして食いしばった歯の間から火を噴き出して天井のモヤを睨みつけていた。離れた場所からでも、彼の怒りに似た敵意が感じ取れた。
いつも眼帯で隠していた左目が露わになっている。人間であれば白いはずの結膜は黄色く、瞳孔はは虫類のように黒く細長い。
彼が放つ炎は激しく燃えながら、モヤがクロガネと千木良の元へ行かぬよう牽制しているのがわかる。
眉間はぐっと寄せ、大きく足を開いて肢体を支えながら肩で息をしている。かなり苦しそうだ。服も端が破けている。スマートな戦闘を好む彼にしては、荒々しい姿だった。頭上で蠢くモヤはその体を波打たせながら天井を我が物顔で闊歩している。
その体はいつもより濃く、そして禍々しい。
クロガネは、同居人の力を外から見たことがない。初めて客観的にみる相棒のモヤは、どこかおぞましい。
円を描くように走っていた炎が一瞬途切れると、すかさず空から触手を数本突進させてきた。針のように太く鋭利な攻撃がユタカの体を突き刺そうと降り注ぐ。ユタカは再び噴出させた炎でモヤを焼くが、内二本が炎を貫通しユタカの肩を狙う。
彼は床を滑りながら間一髪で避けたが、表情がまた一段と苦しげに歪んでいた。
「原始存在であり、最も神様に近いユタカが苦戦している。」
「鐵・・・。」
内なる友の元へ行こうと体に力を込めるも、力が入らない。腕に力を込めているのに、体はまったく持ち上がらない。
千木良が彼の肩を押さえる。
「まだ駄目。ククリが境界線を張ってる外に人間に戻った貴方が出たら呼吸すら出来ない。」
「鐵を止められるのは俺だけなんだ。俺は―。」
「お前はまだ若葉なのか。」
そう問いかけていたのは、離れた場所で戦っているユタカだった。
炎の壁を自身の周りに展開させ、モヤの攻撃を防ぎながら、顔はしっかり此方に傾けている。
熱量でうねる髪はやがて逆立ち、毛先から炎を産む。体の輪郭も炎に包まれ、体は高ぶる炎に包まれていく。手の指先が鋭くなり、爪が伸び色が肌の色を失い褐色に染まる。頬には、うろこ模様が刻まれていく。
「若葉はまだ、そこにいるのか。今のお前は、どちらだ。」
人間のそれだった右目もついに黄色く染まり、爬虫類の目になる。口先と顎が前に伸び、爬虫類の顔になる。体は炎を吸いながらどんどんと巨大化していき、四つの足で立っていたのは、紛れもなく、絵本や創作物で目にする竜であった。
赤黒い皮膚に、たてがみは燃える炎で作られている。
一度首を振って、迫り来るモヤに向かって咆哮を放つ。野太い声は空間全てを震わせた。
だがモヤはひるむどころか、さらに表面を唸らせ、雨のように触手を振らせてくる。
千木良が作る結界にも触手は降ったが、透明なバリアに弾かれ破られることはなかった。
「ククリヒメは境界を司る。内を守る白衣家の結界術とは似て非なるもの。括る力は例え鐵でも破れない。」
でも、と千木良は再び胸元で抱いている彼を見下ろした。
千木良はいつも無表情で、いつも空虚を見つめているようなおぼろげな瞳であった。此処にいて、此処を見ていない。そんな印象。
今は、まっすぐクロガネという男を見下ろしている。
千木良の後ろ側で、炎が横切った。
「あなたと鐵は私の力では括れない。貴方が掴まないと。」
「千木良・・・。もう大丈夫だ。動ける。」
「わかった。ククリは貴方につけておくから。」
千木良に支えられながらふらつく足で、なんとか体を支える。
全身が脱力状態でひどい倦怠感と疲労感に包まれている。だが、行かねばならない。止められるのは、いや、止めなければならない。俺自身の手で。
千木良にうなずきかえすと、結界のような守りが消えた。
気配を感じた時には、頭上に振り下ろされた一撃を千木良が柄を素手で掴むことで阻止してくれていた。
吉良が、端麗な顔を醜く歪め、頭上に刀を振り下ろしてきた。全ての憎しみを憎悪が宿った双眸で向けられる。
クロガネは吉良の横を通り過ぎた。後ろから何か怒鳴られたが、聞いている場合ではない。
ククリが彼の足下で金色の輪を描きながらくるくる回る。
召喚鬼の力があっても、露出した肌に触れる空気はチリチリと痛み、酸素は焼けた匂いがして走る度息苦しい。
けれど走るしかなかった。自分を信じてずっと隣に居てくれた友が必死に戦っているのだ。枷を外してまで。
炎が踊り、闇が波打つ中で足を止めた。頭上で激しく表面を蠢かせるモヤは、天井を全て覆い、ユタカの炎が無ければ此処は深淵に染まっていただろう。それぐらいモヤの黒は濃い。
改めて、客観的に友を見る。
生まれてからずっと共に居た、体の一部。まるで内臓を取り出して凝視しているような気味悪さだった。
このモヤを、ずっと体内に入れていたのかと関心さえする。生まれてからずっとだ。
モヤにもう言葉も意思も通じない。かつて、一人の男が人生を生け贄に全身全霊で抑えていた化け物は、解き放たれて自由を謳歌している。言うことを聞くわけがない。
あの中に友の意識と自我も一緒に持っていかれてしまったのなら、取り戻さなければならない。
―もう失うのはごめんだ。
睨み合っていた両者だが、モヤが激しく渦を巻きながら、一本の柱を落とし頭上に落としてきた。竜の炎でも焼けなかった柱を、彼は避ける事無く甘んじて受け止めた。降りかかるモヤに、ククリが砕けて消えた。
竜の咆哮が聞こえた気がするが、もう全身は闇に包まれていた。
風が通り過ぎる轟音が耳の横を通り過ぎる。耳障りな低温と、時折混ざる金切り声。
全身が闇に包まれる。モヤであるので感触は無いはずだが、濃縮された空気の塊が頬を撫で外套をはためかせるのを感じた。モヤが皮膚を通して侵入してきたが、あえて動くことはしなかった。体内に戻ろうとしているのではない、改めて浸食しようとしている。
長い時間をかけて押さえ込み操れるようにしたのに、解放されて喜んでいる。彼を喰った時とは全く異なっていた。
化け物の命を吸い込むという行動原理に意思などなく、生物の運動習慣に似た摂理であったが、何故か命を求めることはしなかった。
代わりに、闇の中へ引きずり込もうとしている。同化だ。
体も、意識も、自身を形成するありとあらゆるものを飲み込んで分解しようと牙を見せている。
闇の中で、彼の欠片を見つけた。目には見えてない。闇しかないのだ。だが分かる。
息が出来ているのすらわらかぬ濃厚な闇の中で、身動きがとれなくなっていくが、それでも必死に腕を伸ばした。
あがいてもあがいても、闇か絡め取る。
手を伸ばしても、叫んでも届かない。彼は、そこにいるのに。
体に絡まるモヤが見せるのは、悪夢だけだ。
そう、永い悪夢。
彼はずっとこの悪夢を見ていたんだ
闇の中で、たった一人。
―自我を保っていられたのは、胸の中で大事に抱えた、一人の少年と交わした大事な約束。
―そして、たくされた命
自分が誰なのか、もう分かっている。だから怖くは無かった。
化け物に輪郭線を侵されることも、体を分解されることも。
ただ一人を探し続けた。
闇の中で体は全て溶け、意識すら喰われる中、声は突如届いた。
「もう、なにやってるのくろがね。」
幼子の声が直接脳に響いてくる。闇の中でも、しっかり際立つ強さで。
「僕と君は一心同体。そうだろ?」
闇が急激に身を引いていき、真白に染まる。明るくなった世界に目がくらみながら、その姿を探そうと目を凝らす。
「失礼しちゃうよねー。僕が最初からいないだなんて。」
声は辺りに反響していた。場所は特定出来ない。
はたと足を止める。姿は見えないが、ちゃんと向かい合っているとわかる。
「僕は僕、君は君。ずっと一緒さ。僕はずっと此処にいるじゃない。」
「そうであったな。すまない、若葉。私はお前を見失っていた。」
「そうだ。母さんから伝言預かったよ。過去から現在へ、最後のピースを運んできてくれてありがとう、だって。」
「確かに受け取った。若葉、」
「なあに?」
「ずっと聞きたかったのだ。私を恨んでやしないかと。私さえいなければ、お前はお前のまま大人になった。撫子だって、生きていただろう。」
「ううん。母さんにはお役目があったから、きっと同じになる。僕は、君と出会わなかったら、とっくに十杜かエキに喰われて死んでいただろうね。僕が弱虫なのは変わらないから。
むしろ、僕を生き残させるために、母さんがくろがねとの縁を導いてくれた、そう思うよ。」
胸の奥が疼く。喜びが体に染み渡る感覚は、ずいぶん久しい。目を閉じて、姿が見えぬ友の言葉を噛み締めた。
「礼を言う。それだがけが、気がかりだった。」
「君がここに理由はあるんだ。だから、もう少しだけ体をお願いね。全部終わったら、また会えるよ。」
「若葉・・・。」
「さあ、嫌だろうけど、やっかいなモヤモヤをまた取り込んでもらうよ。」
「嫌なものか・・・。あれはもう私の体なのだ。あの力がなくては、お前を守れない。」
闇の中で笑い合った感覚がした。
その瞬間、私は鷹司明良であった鐵であり、離ゆく少年は桜栄若葉だった。
同じ体の中で、二つの魂が溶けていくのを感じた。
そして、二千年の間共に眠り馴染んだ化け物の琴線を握りしめた。
好き勝手暴れ回った悪ガキを叱りつけながら、触手の先まで意識を巡らせ操って黙らせる。
化け物にも感情に似た何かがあると気づいたのは、いつの頃だったか。
仕事を終え鷹司明良は化け物を抱きしめながら体の中に帰り、クロガネは目を開けた。
全てを体の中に仕舞い込み、視界に入ってきたのは濁った空気が充満し半壊した広場と、チリチリと燃える残り火。
それから、口から火を漏らしながらも凜々しく身構えている火竜がいた。
彼の背丈を倍にしても足りぬぐらい大きくなった竜が、首をもたげ鼻先を近づけてくる。
『やっと終わったか。ホント、手のかかるガキンチョだよ、お前は。』
「すまなかった。帰ったら何でも食わせてやる。人型に戻れそうか?」
『うーん。時間掛かるかなぁ。どっかの実行部隊にバレるよね。』
「瑛人に連絡して、水縹で上手く隠蔽してもらおう。」
辺りを見回したが、あるのは鬼妖の死骸だけで、吉良斗紀弥と千木良の姿はなかった。
*
通りを歩いていると、目の前に子供が二人、手を繋いだまま現れた。
右は黄緑色の髪をした女児、左は水色髪の男児。
髪型と服装が違うだけで、同じ顔をしている。
まず右の女児が小さな口を開く。
「右近の桜様、ご帰還をお待ちしておりました。」
彼は外套を軽く払って、しゃがんで目線を合わすようなことはせず、そのまま見下ろした。
「都にあったのは左近桜だったと記憶しているが。」
「本物の樹木は。」
「ですが帝一族守護の配置において、左近は橘家、右近に鷹司家―現在の桜栄家でございます。」
次いで左の男児が、やや口角を上げながら言う。
だがそれは笑みでは無い。目線は鋭く、幼子が出来る表情ではなかった。
双子のようにそっくりな子供達は、代わる代わる口を開いた。
「晴れて呪いは解けたご様子。」
「お喜び申し上げると共に、お役目に戻って頂かなくてはなりません。」
「全ては神のご意志。」
「「さあ、神籬のためにお勤めを。右近衛大将殿。」」
ピッタリと揃った声に、彼は僅かに怪訝の色を眉の間に見せた。
「一つ聞いていいか。シンは本当に、マガツカミなのか。」
「貴方様はもう真実を手に入れたご様子。」
「霧の中に隠された如実を、もうご存じのはず。」
男児が小さな手で彼の懐を指差した。
そうか、とだけ漏らして彼は細く息を吐いた。
「俺は一度たりとも神なんぞの為に動いたことはない。ただ、守りたい者を守るために動く。」
「それでよろしいかと。」
「運命のレールとやらは常に交わりましょう。」
「改めて、」
「「肉体の奪還お喜び申し上げます。お帰りなさいませ、右近の桜様。」」
目の前から双子のように瓜二つの子供達は消えていた。
冷たく静寂が降りかかる廊下には、彼の靴底が擦れる音だけが響いた。
*
列に並んだ人間が一人ずつ、焼香台の前に立ち抹香を香炉の炭の上にくべながら礼をしていく。
薄暗い礼堂の中では、僧侶が祈りを捧げる高台の前に置かれた水盆の水だけが青白く光っていた。
三人前の水は余裕で入りそうな巨大な盆がまず土台にあり、その上に掌サイズの小さな水盆がいくつも浮いて円を描きながらも並んでいる。一番上の水盆から落ちた水が、水盆同士を渡って土台の盆に入り、香炉がくべられるたび僧侶の祈りに合わせて水滴が浮かんでいく。
水盆の向こう側、僧侶が目を閉じて祈るのは、魔夜那という女の神だ。僧侶が所属する宗教は独自のルートを辿って構築されたもので、その神を一般的には右の神と呼ばれている。
クロガネとユタカは、堂内の二階部分にある飾り屋根のくぼみで、水縹の重鎮でありながら先日戦死した老人の葬儀を見下ろしていた。
その重鎮の顔と名前も知っているが、親しみは特になく、参列するつもりも弔う意思もない。
「一ヶ月前にあった清野長老殺害や待鳥集長の失踪、結局全部隠蔽したねー元老院は。」
真新しい眼帯を左目につけたユタカが、腰に手を当てながら興味もなさそうに人間の列を見下ろした。
水盆の青白さに、赤髪が不思議なコントラストを描いていた。
「赤畿の襲撃はあくまで物資を狙った強盗だと断定し、そう噂を流すことで大衆を欺いた。あいつらは己の威厳や権力が大事なようだ。」
「レイコ経由で真実は伝えたんだろ?」
「いや、レイコの意向により、赤畿が語り継ぎを求めて不可解な動きをしているということだけだ。人間が必死に隠してきた歴史の真相を頭の悪い権力者に晒すわけにはいかないからな。」
彼は懐から一冊の本を出した。
それは、待鳥集長が寄越した本に似ているが、表紙に書かれている本のタイトルは違っていた。
「箕有楽が待鳥に渡したものは不完全な口伝集。それに清野や火群、水縹の口伝も入れてこれが本物の歴史を記した。なぜこれを千木良が持っていたかは謎だがな。」
「待鳥集長も、心が読めるくせに偽物を渡されたって何で気づかなかったんだろう。」
「いや。あの狸なら気づいていた。本物が俺かレイコの手に渡ればそれでよかったんだ。」
「どうして?」
「・・・さあな。それより、辰巳の巻物を燃やした件、赤畿に責任を押しつけたんだ。いきなり背後を狙われても文句を言うなよ。」
「だってさぁ。元の姿に戻らないとやばかったんだもの。巻物を服の中にしまってたのすっかり忘れてたよ。」
「あとでレイコにこき使われろ。」
足下の焼香台で、ざわめきが起きた。
中に浮いていた水盆が全て激しく震えだし、中に入っていた水を全てこぼした。
かと思えば、一番下の大きな水盆から水が逆さ滝のように溢れて噴出する。
焼香台に立っていたのは、茶髪のか細い青年だった。
彼はその光景を、片膝を引き寄せ抱きながら、しっかりと捕らえていた。
「あの真水には神の意志が宿っているとされる。まさに帝の証。」
「バレたりしないの?」
「神籬が人の形をしていると知っているのは、ごくごく僅かだ。待鳥や星読みの巫女すら知らぬだろう。赤畿もまだ、ただの樹木を探している。」
水が噴き出したことに戸惑う青年は、あたふたと手を動かしながら兄に助けを請う。
祝詞を止めて、僧侶が何か笑いながら言ったので、上手く誤魔化すだろう。
色の違う両の目で、しっかりと見定める。守るべきものと、真実を。
「神籬はその名の通り、その身を捧げ神を宿す存在。世界崩壊を止めるなら神籬が役目を果たさねばならないが、同時に瑛人は弟を失う。沙希も抗うだろう。世界と未来を天秤に掛けるまでもなく。」
「あんな可愛い顔した子に全てを託す日がくるとはな。人間達はいまだに、世界が歪みだした音を聞こうともしていないってのに。
お前はどうする気だ?世界と友人、どちらを取る。」
「愚問だな。俺は大切なものがいない世界など興味はない。」
「安心しろ若葉。お前の左目は、まだ緑だ。」
クロガネは立ち上がると、外套を翻しながら、その場から消えた。
そうまるで、モヤのように。