第二部 南十字は白雨に濡れる 12
一昨日、気象庁から平年より大分遅い梅雨明けが宣言されたというのに
今朝から雨が降っていた。
午後三時。曇天の下で黒服に身を包んだ人々が、黒い傘を持って葬儀場の中に入っていく。
玄関横に故人の名が記されていないにもかかわらず、想定より多くの弔問客が訪れていた。
「死んでからもいいように使われてるな。」
「裏切り者で犯罪者だったんだから、仕方ないッスよ。」
「俺はまだ信じられない。美味い飯屋も酒も、全部あの人から教えてもらった。」
「皆、嵐さんと同じ気持ちなんスよ。割り切れないから、こうやって足を運んでるんじゃないですかね。」
「そうだな・・・。自分の気持ちに整理をつけたいんだろうな。」
「さて、そろそろ行きますか。どうする、一緒に入る?・・・そう、じゃあお先に。」
着慣れぬスーツを纏った二人組が人混みに消えていく。
気象庁が梅雨明けを宣言した僅か一時間後、術士協会幹部会は、協会に属する術士全員へ驚くべき声明を出した。
日室誠司はひきつぼし星団へ囮捜査官として内部潜入させていた。
ひきつぼし星団について本部は前々から目を付けており、怪しい動きを見せ始めたことで、手筈通り日室誠司と四斗蒔透夜には新宿で演技をしてもらい敵の信用を頑丈なものにした上で、相手の作戦に乗った。
抜かれた個人情報は全て敵を騙す為の偽物である。
全国同時テロを企んでいたひきつぼし星団は全員捕らえた。
だから日室誠司の葬式を行う。日程は―――。
三流作家が紡ぐミステリーより酷いシナリオだったが、これを信用したのは現場にいかなかった術士や、彼と親しかった事務方に務める職員達。
優しく穏やかな日室誠司しか知らない人間は、起きた現実を受け止められず、後から提示された納得出来る嘘を信じた。
術士協会の幹部連中は、情報漏洩の罪を認めないどころか無かったことにしたのだ。
本部襲撃で沢山の術士が怪我を負ったし、一般人も巻き込まれた事実は変わらないというのに。
真実を知っている術士達は怒るよりも呆れている様子だったが、長である本郷が自ら現場に行き事後処理も行ってくれたことで、術士や各組織も一応の納得を見せ黙ったままでいた。
幹部連中に対して、以前から何も期待していなかったというのもあるのかもしれない。
「結局、誰だったのかしら、あの人は。」
「確かめる術は、ないわ。」
「そうですね。日室誠司を演じてたどっかの誰か、で全部終わり。・・・ねえ、いつまでそこで突っ立ってるつもり?天気より辛気くさいわね。」
「比紗奈、言い過ぎ。・・・香典、預かろうか?・・・うん、兄の名前も帳簿に書いてくればいいのね。わかった。」
相変わらずのセーラー服の彼女は今日も刀を肩に背負ったまま、黒い和服に身を包んだ長身の女性と共に去って行く。
傘を叩く雨音は変わらぬ旋律を奏でては、傘を持つ手を重くさせる。
平安時代を思わせるあの場所と違って、纏わり付く濃厚な湿気が気分を苛立たせる。
朝から雨が降っていたせいか、蒸し暑さは変わらない。
傘を差す夏海の横には、すっかり大人の姿に戻った白虎が大人しくお座りをしていた。
神獣なので、その体毛が雨に濡れることはない。
雨音も、湿度も、通り過ぎる人々も、すべてうざったかった。
肌に絡みつく暑さは気持ち悪いのに、体の芯は冷えていた。
「お兄ちゃんがやったのね。アタシがお兄ちゃんの気配に気づかないわけないじゃない。」
白虎は何も答えなかった。
「お兄ちゃんが、日室さんを・・・。」
あの日、ひきつぼし星団の本殿内に侵入した後、本郷は途中で黄王を捕らえる為に離脱したが、夏海と比紗奈は本郷の指示で次から次に湧き出てくる星団員とナバリの相手をしていた。
夏海も日室を探しに行きたかったのだが、思うように先へ進ませてくれなかった。
それが敵の狙いだと気づいた時、建物群を一直線に横断する白い光線が走って、裏門の方まで突き抜けたのを見た。
誰がその攻撃を放ったのは見ていないので分からない。
その直後だった。あれだけ暴れていた敵が全員気絶してしまい、召喚されたナバリも姿を消した。
唖然とする夏海と比紗奈に構わず、派遣されていた術士達によって事後処理が行われた。実に見事な出際だったと思う。気絶している術士に拘束縄を掛け、内部に残っている書類を雨に濡らさぬように運び出す。
兄の気配を察していた夏海は内部へ走り出そうとしたが、未成年であることを理由に比紗奈と共に撤退を申しつけられてしまった。
本人達が納得していないのに、伽羅によって無理矢理結界の外に追い出された。
ホテルに戻る途中の道で、結界の外で仕事を続けていた更衣と合流し、彼の口から、日室誠司が死んだと報告を受けたのだ。
「自分で、選んだんだよね、お兄ちゃん。」
長野で一泊してからから家に戻ると、兄は式神のまろんと共に夕食を用意してくれていた。
勝手に動いたことを怒らない代わりに、兄が長野に行って何をしていたかも、教えてはくれなかった。
夏海自身も聞くのが怖くて、口から言葉を出すことが出来ず、いつも通りの脳天気な妹を演じた。
あれから兄は部屋に引きこもることはなくなったが、夏休みに入ったというのに、仕事を次々受け家に帰らぬ事が増えた。
本社や出張先に泊まることもあって、夏海が一人家に取り残される時間が増えた。
忘れようとしているのかもしれない。
長野での出来事を思い出さないように、仕事の予定をパンパンに詰めているのだと、夏海は何も文句を言わなかった。
今にして、日室誠司と一緒に居るときの兄が、一番自然であったと痛感する。
いつも通りの兄に戻ったのは嬉しいが、心の傷が癒えることはないのであろう。
胸の内を話さないのは、妹に心配掛けさせないようにか、兄としての見栄なのか。
素直に心の内を吐露して頼ってくれた方が嬉しいのに―・・・。
夏海は葬儀場の門をくぐることはせず、踵を返して去って行った。
* * *
まぶしさに目が慣れるのに時間が掛かって、しばらくまぶたを開けることが適わなかった。
少しずつ、少しずつ目を開ける。
美しい木目の天井と、どこか白んだ視界。それが柔らかな陽光が織り成す穏やかな時間の具現化だと気づいた時、ああやはり夢を見ているのだと思った。
意識が少しずつハッキリしてくると、意識のこちら側に体がくっついていることに驚いた。
もうとっくに死んでいて、体なんて無いと思っていたからだ。
目覚めから大分遅れて、気だるさと痛みがゆっくり歩行で追いついてきた。
頭の動かし方も忘れてしまったように体が思うように動かなかったので、目線だけ左を向いた。
開け放たれた大きな窓の隣で、白いカーテンが優しげに揺れている。
窓の向こうでは、白、水色、青とグラデーションの掛かった青空が広がり、白い立派な入道雲が見えた。
爽やかな風が、こちらまでやってきて、頬を撫でていくのを感じた。
最後に見た光景は、曇天と、大粒の雨、それから―
「やっとお目覚めですか。」
声がした。
意識がぼんやりしているせいか、膜がかかったように遠くからぼんやり聞こえた気がしたのだが、視線を右に向けると、その人物はすぐ近くにいた。
自分がベッドの上で横たわっていることもそこで気づかされる。
ベッドの端に腰掛け、ズボンのポケットに両手を入れながらニヤニヤとこちらを見て笑っている青年がいた。
反射的に上半身を起こすと、腹部に鈍い痛みが走って、脇に汗が滲む。
「まだ起きちゃダメですよ。穴は塞いだけど、まだ内臓はズタズタなんだから。」
腹部を押さえながら、顔を上げる。
四斗蒔透夜が、私服姿でそこに座っていた。
改めて周りを見渡す。木目調の天井と床、それから白い壁は新築かのように綺麗であった。
今横になっているベッドは窓際に寄せられ、ベッドの右手側には小さな白い棚と簡易ベンチが置かれている。
入り口付近には目隠し用のカーテンが二つ。ごく一般的な病室であった。今自分が着せられている服も、水色の病院着。
「なぜ生きている。」
どれぐらい眠っていたのか。
絞り出した声は情けなくなるぐらいガサガサで、唇は乾ききっていた。
「俺の式神に治癒が得意なのがいるんでね。ああ、一つ謝っておかないと。味方の目を欺くために、一時仮死状態にはさせてもらってたんですよ。この時代死亡診断書って重要なもんで。そのせいで、体の細胞がいくつか―」
「待て、話が見えない。俺はお前を―」
「蘆南星爾(あしなせいじ)さん。」
それが自分の名であることを、随分と長いこと忘れていたと思い出した。
遠い昔に捨てさせられ、鍵を掛けられていた体の一部が、徐々に現在の自分に返ってくるような。
相変わらずニヤニヤした気持ちの悪い笑顔を浮かべている透夜は、こう言った。
「偽の戸籍名と本名が一緒なんて珍しいですね。」
途切れる前の記憶が急速に蘇る。
豪雨の中、ひきつぼし星団の本殿で透夜と戦ったことも、三十二年間の記憶も全て。
息を短く吐きながら、体を後ろにずらし枕をクッションにしながら、壁に背を預けた
「名は形である。魂の形は変えぬ方が良いと黄王がこだわって、わざわざ名も年も同じの戸籍を見つけて来たらしい。
本物の日室誠司は、小学生の時には亡くなっていたが死亡届は出されていなかった。全て星団の指示だろう。あの人の星詠みだけは本物だったからな。」
声が掠れてきた彼に、立ち上がった透夜が棚の上に置いてある水差しで備え付けのコップに水を汲み、差し出してやる。
疑うことなくそれを受け取った彼は、喉を潤してからコップを返す。
透夜はまた同じ場所に腰を下ろした。
いたずらが成功する瞬間を迎えて満足したのか、顔はいつもの無表情に戻っていた。
「日室誠司の母親は熱心なひきつぼし星団信者だったようですね。」
「全て調査済か。」
「時間なら沢山ありましたので、更衣さんにも手伝って貰いました。」
「何日寝ていた。」
「ひきつぼし星団の本殿で仮死状態にしてから最寄り病院の霊安室で二日間、その後更衣さんの知り合いだっていう裏世界御用達のこの病院に入院させて五日、ですかね。」
「そこまでして生かした理由はなんだ。復讐か、報復か。」
警戒した声を向けると、透夜は小さく首を横に降って、眉根をぐっと寄せ難しい表情を作った。
「ひきつぼし星団の本殿で俺と戦った日を、思い出せますか。俺をかばった貴方の腹に穴を開けた、あの攻撃。」
寝ぼけた頭でもすぐ思い出せた。
今の晴天とは真逆のあの豪雨の中、弾いた透夜の攻撃が開けた塀の向こうから、真白の光線が飛んできたのを彼は確かに覚えている。
あの瞬間、狙いは確かに透夜だった。彼の体をどかし、透夜本人を拘束することで確実に命を狙っていた。
反射的に彼は透夜を庇っていたのだが、その後のことは酷く曖昧になっている。
痛みのせいだろう。
「あれは七星が使う技、星廻交降術の一つでした。横浜で合った元七星、平川って奴が使っていたものに近いです。
実際に報告したことありましたよね。でも、あの時の一撃は平川の力とは波動が違った。
この俺を拘束した黒い縄みたいなアレも、横浜で生田目結界の主導権を俺から無理矢理奪った謎の力と同じでした。
つまり、横浜に来ていたらしい組織のボスとやらが、あの場にもいて俺を狙っていた。
ボスと呼ばれていた奴が、ひきつぼし星団と手を組んでいた。または裏で操っていたと俺は睨んでいます。
そうすれば、新宿結界の破壊と、武蔵野国結界三宮を狙ったことにも合点がいきます。」
確信を得たような強気な仮説に、彼は枕に体重を預けながらそうかと一人呟く。
「俺も合点がいった。最近、黄王は何者かの声に導かれているフシがあった。
どうも昔の黄王と行動が違うから、何か違う勢力と手を組んでいるんだと疑って探っていたが、証拠は掴めずじまい。」
「奴らは今後も何かをしでかすつもりだと確信しています。武蔵野国結界の崩壊も引き続き狙ってくるでしょうし、十一年前、七星の冥王が目覚めた事件も一枚噛んでいるはず。俺は、奴らを見つけ出して、捕らえると決めました。」
顔を上げる。
黒い綺麗な瞳が、強い決意を秘めて真っ直ぐとこちらを見つめていた。
反らせない。反らすことなど、許されない。
「俺の生活や、夏海の安全を脅かす奴は絶対に許せない。だから、貴方にも生きて手伝って貰います。」
透夜が右手を顔の横まで持ち上げ、手の甲が見えるように構えた。
白い肌の上には、複雑な文様が描かれていた。星の形も混ざっているが、左右対称の複雑な図形である。
ちりっ、と肌が傷んだ気がして、自分の右手を見下ろす。
今透夜が見せた文様と全く同じものが、そこには刻まれていた。
線が全て虹色に染まったかと思えば、すーっと肌の下に溶けて消えてしまった。
「前に話しましたよね。人間を生きた式神として契約し、支配下に置く術があるって。
人流掌握心操術、通称“水魚の交わり”を、貴方が死にかけてる隙に結ばせてもらいました。」
「なぜ、俺を・・・。」
「貴方の実力は俺が体感してよく分かってます。俺の雨避け術式を瞬時に吸収、変容させてあの強力な一撃が貫通しないよう防いでくれていた。かなりの実力者だ。失うのは惜しい。一度死んだつもりで、俺に仕えてもらいます。」
どう答えたらいいか分からず、言葉が舌の上で溢れては転がって、やがて消えてしまう。どれも言葉に出来なかった。
自分はずっとこの青年を騙していた。いつか利用するのを分かっていた上で付き合って、信用を得るために側に居続けた。
彼が天狼星で、星団が狙っていることも、いずれ来る未来で犠牲になってもらうことも、早い段階で知っていた。
術士協会に対しても、情報を盗み出しただけではなく、仲間と一緒になって建物を壊したり術士を何人も傷付けて逃げた。
正体を隠し、嘘で固めた笑顔で欺き続けてきた。全ては黄王が信じる予言書に記された未来のために。
殺したいほど憎まれて、呪詛を刻まれたならともかく
こんなに爽やかで、満足げな微笑みを向けられることがあっていいわけがない。
「日室誠司は疑似人格で、お前が親しんだあいつは、もういないんだぞ。」
悩んだ末出て来た言葉は、自分でも呆れてしまう程情けない響きに乗っていた。
この青年は日室誠司という疑似人格に、かなり心酔して信頼していた。
まだ日室の幻影を追っているのではないか。
日室は偽物でも、姿形は此処に残ってしまっている。未練があって、こんなことをしたのではないか。
だとしたら無駄な話だ。剥がした仮面は二度と元に戻らない。
右手を下ろした透夜は、目線を反らさぬまま再度微笑んだ。
「偽物だろうが本物だろうが、貴方の言葉が俺の心を軽くしたのは本当だから。」
立ち上がった透夜に向かって、未練たらしく言葉を重ねる。
「・・・俺はずっとお前や、協会を利用してきたんだぞ。」
「利用されたつもりは一度もないね。本郷会長だってそう言うに決まってる。
実際、貴方の罪は個人情報漏洩。でも悪用される前に俺と会長が阻止したから未遂。
まあ、あと履歴書の偽装とか?それは、一度死んだことにしたからチャラで。そもそも日室誠司本人じゃないし。」
「そんな子供みたいな理屈通用するわけが―。」
透夜は再びズボンのポケットに両手を入れて出入り口に体を向けていたが、顔と肩だけ振り向いた。
「例え、今までの行動が全部星団からの指示だったとしても、
俺が七星の土地を離れてこっちで楽しくやれてるのも、夏海が毎日笑うようになったのも貴方のおかげ。俺はそう思ってる。
ねえ、倫理観だのなんだのと色々引き合いにだしたところで、もう遅いんだよ。
貴方に拒否権ないから。それにこれ、一度結んじゃったら解けないんだ。死ぬまで俺と一緒。最高の罰でしょ?」
自分の右手の平を指差して悪戯っぽく笑う透夜に、彼―蘆南星爾もベッドの上で薄く笑った。
これは完全敗北だった。
「新しい主人は人使いが荒そうだ。」
窓からまた柔らかな優しい風が室内に入ってくる。
太陽に焼かれた空気が、本格的な夏の訪れを感じさせた。
第二部 完