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第一部 青星と夏日星 1

 

 


プロローグ

 

 

 

燃えさかる炎が森を覆っていた。
暗がりに眠っていた夜をはね除けるように煌々と周辺を照らし、木々が折れ崩壊する音が彼方此方で聞こえてくる。
熱量が風を起こし、綺麗な空気が薄れ肺が苦しくなってきた。
炎から剥がれた火の粉が空へ飛び上がり、頭上の星と交わる。
天高く伸びながら体をくねらせ膨張し続ける炎の前で、その女は微笑んでいた。
とても美しい女であった。
細い顎にすぅっと通った鼻筋。黒い瞳は火影を吸って煌めいている。
薄暗い夜の中でも分かるぐらい白く透き通る肌に、形のいい唇は微笑みの形を作っていた。
長く艶やかな黒髪が熱風にうねり、まとう上下白の巫女装束が橙に照らされている。
すぐ背後に迫っている炎も気にせず、穏やかな表情でこちらを見つめている。
慈愛に満ちた瞳はまるで、炎から逃げることよりも大事なものがあると決意を秘めているかのようである。

 


「私が封じます。安心してくださいね。」

 


優しい問いかけは子守歌を紡ぐような安心感が満ちていた。
女が持つ落ち着いた美しさに、夜の暗さと炎の煌めきが交互に交わる。
その一帯だけ神聖さが高まり、足を踏み入れられたくても出来ない悲しさで胸が詰まる。
女の元へ駆けつけようと頭では思っても、体が動かなかった。
力が入らず、筋肉を動かす信号が全て止まってしまったかのようである。
地面に崩れる体の周りに青白い柱が囲んであり、女からも炎からも遮断されてしまっているのだ。
燃え続ける森の奥の奥から、轟音がうっすら聞こえてきた。
何かが崩れる音と、野生動物のような咆哮。だが、動物にしては声がずいぶん野太く空気が震えるほどの恐ろしさを秘めていた。
女が腕を上げると、袖からすらりと伸びる白い腕がのぞいた。

一瞬のことだった。

女の背中から白い蒸気が噴き出したと思えば、目の前で燃えていた炎が氷の壁に覆われた。
燃えていた木々達も焼けた幹ごと氷の中に閉じ込められている。
炎の熱に撫でられていた肌や喉が、今度は氷の冷たさに触れて傷みを感じた。
急激な温度と環境の変化に内臓がふわっと湧き上がる。
一帯に漂う空気も、徐々に冷気に食われていくのが分かった。
炎の向こうで暴れていた騒音も消え、静寂が耳鳴りとなって頭の奥で暴れる。
さらに薄くなった空気のせいか、視界がぼやけて来たが、
こちらに向けられた笑みを見逃すまいと、地面に置いた腕で必死に体を支えた。
青い柱が消え、体が少し動くようになっていた。
震える手で土をかき分け、眼前の女に手を伸ばそうと重い腕を持ち上げる。


「いつでも、あなたを想っています。」


背後の氷はまるで生きているかのように、女の足を登り、体を這い、その美しい顔さえ覆い、女の体全部を飲み込んだ
透明度の高い水縹の壁が森ごと囲み一帯に城壁の如く建つ。
その中心で眠るように埋められた女は、目を瞑りながらも微笑み続けていた。
美しさはそのままに、今にも目を開けてくれそうな期待を抱かせながら。


氷の城壁の向こうで、冷たい星が無関心気に瞬く。

その夜、あるはずのない星を見たのだ。

 


宿命の天狼星

​第一部  青星と夏日星

 

 

 

 

午後七時半 某公園内噴水前

人口も多く、観光地が近い場所に作られたその公園は、芝生や運動場だけではなく銅像やモニュメント、遊具も多く、夜であればベンチに座り夜景を楽しむカップルやジョギングをする人たちが多いはずなのに、今人影は一つもなかった。
勢いに身を任せた騒がしい若者も、酔っ払いのサラリーマンも、別れを惜しむカップルも。
特に今は初夏。本格的に暑くなる前の夜の公園は人気スポットであったはずだ。
手入れのされた花壇の花が眠っており、綺麗に整えられた低木の向こう側には、商業ビル群の明かりがチカチカと輝き、まだそこで仕事をする人がいるのを教えてくれている。
閑散と静まりかえる公園内には、誰のためにかわからぬまま噴水が水を巻き上げている水音だけが響いていた。
噴水前に、人影が二つ現れた。
若い男女で、どちらも揃いの制服を身に纏っていた。高校生のようだ。
堂々とした出で立ちの女子の方は長身で、スカートから覗く筋肉質な足を隠そうともせず、お尻が隠れるぐらい長い髪をしていた。腰に手を当て、公園出入口方面を薄ら笑みを浮かべながら見つめる。
黒髪で神経質そうな男子の方は、その場にしゃがみ込み、白茶色のカラーアスファルトに手を当て始めた。細く長い少年の指が青白く灯りだし、地面に円形の模様が浮かび上がる。
すると、少女はアイメイクで囲んだ大きな目を細めた。
二人の前、夜が歪んだ。
公園の風景が揺らぎ、淡く発色している黄緑色の何かが現れた。
始めはアメーバのような不格好な円形姿で、体なのか手なのかわからぬ箇所を必死に動かしていた。
全体的に半透明で、向こうの景色が透けて見えた。
やがて身悶えながら体を広げ始め、地面に降りた時には四足を持つ獣のような姿になった。
鹿に似た体と足を持っているが、首もその先にある頭も無く、背中に羽のような骨が生えている。
黄緑色に濁り実態を持ち始めた体に、青い水玉模様が浮かぶ。
闘牛が赤い布めがけ駆け始める前の助走をするように、前足の蹄でアスファルトを掻いた。

 

「お兄ちゃん、アタシ一人でやる。」
「油断するなよ。」
「わかってるって。」


少女が右耳にしている青色のピアスが、噴水広場の端にある街灯の明かりを受けてキラリと光った。
次の瞬間。
少女は化け物の眼前に迫って拳を振り上げていた。
距離は二十メートル程あった筈なのに、瞬きの間に瞬間移動していた。
単純なパンチは十代の少女が繰り出すとは思えぬ体重の乗った重い一撃だったが、体の表面が波打っただけだった。
黄緑色のゴムみたいな体に衝撃が殺され、核が入っているであろう中心部に力が届かない。
打撃は効果無いのかもしれないが、まだ一撃目。このままゴリ押してみようと、出した腕を引きながら軸足に体重を乗せ蹴りを繰り出す。
今度は化け物が右へサッと避ける。トロそうな見た目の割に反射神経はあるらしい。
次の攻撃に移るため足を引こうとしたところ、化け物の体から細い触手が数本生えた。
気味の悪い生命体だな、と素直な感想を抱いた時には右足の足首と膝の下辺りを掴まれた。
肌に触れる黄緑色のそれはひやっとした冷たさがあり、悪寒で背中が震えた。
足を下に振り下ろし力業で触手を引きちぎる。
が、死角を這い背中を狙って触手が伸びてきていたのを少女は見逃していた。
細い触手が首に巻き付こうと手を伸ばす。
髪をかき分け首に触れる直前、少女の影から動物の前足が伸びてきて触手を弾いた。
白くて太い前足は、猫のようだがライオンのように大きかった。
白い前足はそのまますぅっと影の中に消える。
少女は一度距離を取るため後方に飛びながら、声だけ後ろに投げた。


「ちょっとお兄ちゃん、手出し無用だって!」
「俺じゃない、そいつの意思だ。文句は背後の気配を読めるようになってから言え、夏海。」

 


反論も出来ず、兄にバレぬよう口をとがらせている間に、
少女の足を捉えた触手をしまった化け物は背中の羽を何度か上下させた後、突然くるりと向きを変えたてしまった。
背中の羽を形作る骨がカタカタ鳴りながら大きく広がる。左右いっぱいに広がると傍らで見守る噴水すらすっぽり覆ってしまえるほど大きかった。
化け物が、街明かりで僅かしか見えぬ星空を見上げながら飛び去ろうとしているのがわかった。

 


「逃がすわけないだろ。」


地面に膝をついていた少年が、アスファルトに浮かび上がる青白い円に触れる。
円は一層目映く発光した。
円の縁に指を開いて乗せ、手首ごと回す。
回すごとに、複雑な模様が次々現れ、そして変化する。
からくり箱の仕掛けを解いていくかのような、規則的な動きをした最後に、カチッと爽快な音が夜の公園に響く。
空に飛び立った化け物の羽が見えぬ壁に当たり、壁に触れた途端青白い電気が骨を伝って化け物の体に流れる。
アメーバのようなブヨブヨの体にも痛みがあったのか、甲高い音を発しながら身悶え地面に落ちる。
固い地面に骨が当たり、金属音のような耳障りな音が響く。
化け物が電流に弱って縮こまっているその間に、夏海は腰を曲げ、両手を地面に付けた。
四足歩行の動物が威嚇するかのようなポーズを取る。
彼女の足下から青白い風が吹き上がった。風に混じって、青い雷も空気中に走る。
可視化出来る青い風が長い髪とスカートを揺らす。
アイメイクされた目の奥の瞳孔が細長くなり、開いた口から覗く犬歯が牙のように伸びる。
地面に手をついた先にある腕が、ピクピクと震えて筋肉が膨張する。
彼女から吹き出すオーラが震え怒りのような攻撃性の高いものに変貌する。
その姿は人間というより、獣であった。
地面を足で蹴り、手で弾く。
最初の一撃よりずっと早いスピードで走ると、青いオーラが帯のように伸びて夜の公園に残った。
彼女が生み出した風が爆風となって公園を駆け抜け周りに生えていた木が大きく仰け反った。
今度は避けることが出来ず、化け物の側面、脳天に次々夏海の拳が当たる。
手応えはなく化け物の体が相変わらず波打つだけが、衝撃を吸収しきれないのか、スライムのような体が押される度衝撃で弾かれた体の一部が剥がれ削られ、欠片が地面に落ち始めた。
猛攻は止まらなかった。化け物はただ降り続ける拳を受けるしか出来ない。
少女の喉から獣のような雄叫びが上がり、打ち出された最後の一撃が、化け物の体を粉々に砕いた。
甲高い悲鳴が公園に響き渡り、砕けた破片ごと化け物は夜の中に消えていなくなった。
兄が辺りに張っていた結界が解き、立ち上がる。
すると、騒音が帰って来た。
車の走行音、人の話し声、犬の鳴き声。
いつもの公園の姿に戻ったのだ。
夏海が振り返る。その目はもう人間のものに戻っており、歯も伸びてはいなかった。

 


「お兄ちゃん、今度は何もしてないよね・・・?」
「してない。」

 


ダルそうに立ち上がった兄に、夏海は満面の笑みを向けて両腕を天高く掲げた。

 


「よっしゃ~!これで欲しかったバック買える~!」

先ほどまで獣のように野性的に拳を振るっていた人物と同一とは思えぬほど、無邪気な声を上げ満面の笑顔ではしゃいでいる。
危ないところを白い動物の手に助けてもらったことなど、すっかり忘れているようだ。
兄はバレぬようにため息をついて、ポケットに手を突っ込む。

 

「白虎も、俺も手伝ったこと忘れてないだろうな。結界張ってなかったらとっくに逃げられてた。」
「感謝してます!上位の仕事回してくれてありがとう、お兄ちゃん。」
「俺の名義で受けたんだ、しっかり討伐報告忘れるなよ。」
「アイアイサ~。」

 


ふざけて敬礼ポーズを取る妹に背を向けて、兄は踵を返し歩き出した。

 


「あれ、お兄ちゃんどこ行くの?」
「今度は指名された特位レベル任務だ。ついてくるなよ、大人しく家に帰れ。」
「わかってるよー。お兄ちゃんレベルの任務なんて見学しただけで失神しそうだもん。」
「白虎。」
「御意に。」

 


兄のものとは全く違う、低い男性の声がした。若くもなく、老いているわけでもない声音は、夏海の影の中から聞こえたようである。
兄は妹を一人残してあっさり去ってしまった。
その背中が見えなくなっても、兄が去った方を夏海はしばらく見つめていた。
ジョギング中の男性がやって来て、たった一人でぼんやりしている夏海を不思議そうに見ていたが、そのまま軽い足取りで行ってしまった。
女子高生の足下に、白猫がお座りしているのにも気づかずに。
縞模様の入った白い大きな虎だった。座っていても頭は夏海の腰より上にある。

 


「素直に帰るぞ。寄り道したら主にこってり叱られるからな。儂が。」
「甘いもの食べたいなー。コンビニぐらい寄っていい?」
「口止め料次第だ。」
「はいはい、どら焼きね。」
「栗が入っているやつにしろ。」
「今時期売ってるかなー?」

白虎と共に、夏海は帰路についた。

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