神宿りの木 たまゆら編 6
地震による崩壊で発生した火事は、鎮火する人手がないため放置されたままであった。
岩と土しかない場所が多い天御影なので早々に全てが火の海になることはないだろうが
貴重な酸素がどんどん消費されていく。
一方で、気温が下がりだしたのが気にかかる。まだ秋の暦なのに、吐いた息が白い。
逃げ遅れた人に手を貸しながら、橘左京は11層まで上ってきていた。
一般集民を近くに居たどこかの集の隊員に任せ、錫杖を抱えたまま袖を合わせ一息つく。
「私服で来たら良かったわぁ・・・。動きづらくてしゃーない。」
「こんな非常事態でも、ぼーさん姿に珍しがって足を止める一般集民は見てて面白かったわよ。」
「ホンマいい性格しとるで・・・。さ、あんさんもさっさと避難しぃ紫。」
幼なじみの女は、冷めた目で2,3回まばたきしてから、ふいっと顔を向こうに向けた。
「嫌よ。アタシも一応実行部隊だし。撤退命令出るまでいるわ。」
「もう此処はいつ崩れてもおかしない。階級低い隊員は1階層付近で応戦って命令は出てるやろ。」
「何よ、あたしが弱いって言ってるの。」
「そうとちがうけど、紫の能力じゃ瓦礫崩れてきても対処出来んから、危ない言うとるんよ。」
「あたしがどこへ行こうか、あたしの勝手でしょ。」
今度は口をとがらせ、腕を組んで抗議の姿勢を示す。
「こんな時に子供みたいな事言うんやない。」
「だって・・・あんたは残る気でしょう。」
「わいは結界張れるから、最後までしんがり。こないな時に役に立たなアカンやろ。
普段お勤め優先で実行部隊の仕事ほとんどしてへんのさかい。」
「地上に逃げる気ないくせに。」
さすが幼なじみ。
言わずとも、腹の内はバレバレということか。
本当はもっと下の階層で留まるつもりだったが、紫が側から離れようとしないのでここまで上ってきた。
押し問答を繰り返している内にも、地震は絶えず襲ってくる。
大半の集民は10階層以上に避難を完了しているので、実行部隊員もさらに上へ向かって仕事をしている。
さて、どう言ったら離れてくれるのかと頭を掻いたところで、気配が突然現れた。
錫杖を握って警戒したが、近づいてくる若い男の顔を見て、左京は錫杖を下げ丁寧にお辞儀をした。
「ご無沙汰しております。右近の君。」
「ああ。会ったのは子供の頃以来か。」
全身黒い衣服に身を包み、背中に纏う重そうな外套もやはり黒。
なので唯一覗く首から上の肌がやけに白く映える。
短い前髪の下にある双眸は、左右で色が違っていた。
「まさか陰暦で帝にお仕えし、都を守る守護に就かれていたお方が、遠い未来の此処に立っていらっしゃるとは。」
「俺も驚いている。全ては子孫である桜栄家の頑張りだ。」
「本当は、わいらが揃わんほうがよかったんやろが。」
「時が来たということだ。帝をお守りするのが我らの役目。」
「それにしても・・・、以前お会いしたときと雰囲気変わりはりましたな?」
低い声を漏らし僅かに視線を下にした男―無色のクロガネの瞳に、少し影が差した。
彼が飼っていた化け物の気配が丸々無くなっているのだ。何かあったのは明白だろう。
人格が融合されたままなのは変わらないようであるが、ずいぶんと人に戻っている。
「神が接触してきて、俺から化け物を抜いて去っていたらしい。」
「なんと・・・。」
「すぐ気を失ったので姿を見てないが、沙希が目撃している。桜栄家が過去からの来訪者を歓迎するよう言い伝えていたのはこのためであろうとも言える。」
「結局、化け物とやらが何者かわかってはるん?」
「2000年以上融合してもさっぱりだった。わかっていたのは命を吸い取るというだけ。神がどうして欲したのか。」
「左様ですか。」
「だが、長いこと共存していたおかげで力はまだ使える。威力は半減したが、手伝わせてくれ。」
「それは心強い。」
クロガネが、懐から一冊の本を取り出した。
本というよりは、厚紙を表紙に見立て紐で結んだだけの紙束だ。
「わいもクイーンに言われて読みましたで、それ。」
「人間の始祖が大事に語り継いできた真実とやらだが、シンについて覚えていたのが清野だけだったとはな。各一族でもかなり内容がすれ違っていた。」
「失敗した伝言ゲームかと思てましたが、そもそもスタートから作為を感じますねぇ。」
「人為的、とは違うかもな。」
「神々が思ってたよりでしゃばってはるようで。六本鳶松の始祖、金鵄も一役買わされたのでしょうや。」
「これをお前に託したい。」
「・・・なるほど。そのためにいらしたわけですか。ですが、わいはそれを持てへんなぁ。だって―」
二人の会話を割って、紫が焦った声を出した。
彼女が指を差す先には、暗がりから赤い肌をした化け物がゆったりとした足取りで近づいてくる。
鬼妖だ。
人の気配を追って、こんな上層階までやって来たのだろうか。
「あちゃー。案の定手を出してきますか~。」
「結界を解いて欲しいのは同じはずなのだがな。」
「神籬まで逃げられると思うて、焦ってはるんやろ。」
「血眼になって探しているということか。俺が前線を張る。」
「はい。・・・すまんな、そういうことやから、」
尚も懐から武器を取り出そうとする紫を見て、左京は顔の前で印を結ぶ、
彼女は金色の円に包まれ、足が地面から離れた。
「ほなな、紫。水土理を頼んだで。」
円球の中で避難の声を上げながら、半透明の壁を拳で叩く。
足下に紙の束が一緒に入れ込まれたことを彼女はまだ気づいていない。
最後に見たのは、穏やかに微笑む幼なじみの、覚悟を決めた力強い双眸であった。
紫を包んだ円はその場から消え、左京はこちらにゆっくりと進軍してくる鬼妖達に目を戻す。
決して走ること無く距離を詰めるのは余裕の表れか。見下されているのだろうか。
パッと見ただけで5体。だが、気配はもっとある。
「お前は祝詞を頼む。」
「お一人で戦うつもりかいな?」
「時間稼ぎぐらい出来る。今は結界解除が最優先だ。」
「承知いたしました。」
クロガネの外套がふわっと巻き上がり、端からモヤにかわる。
かつて、鷹司明良を飲み込んだ化け物は消えたが、長年体の中にいたおかげで
モヤの力はそのまま使えるようになっていた。もしかしたら、鷹司自身の<シンジュ>石が力を発揮したおかげかもしれない。
これはありがたい偶然。いや、長年共に生かしてやったんだ。それぐらい助力してくれなきゃ困る。
白濁した瞳がクロガネを捉え足に力を込めたと同時に、闇を払って筋肉の塊を包み込む。
鬼妖にモヤが触れ、その感触に眉が僅かにつり上がる。
力は使えているが、火力が下がっている。力の根源である本体がいないのだから、当たり前の現象なのだろうが、長年行ってきた戦闘に違和感が生じて反応が遅れてしまう。
利き腕が真逆になったような、上下が入れ替わったような。
文字にすれば簡単で対策も一つなのだが、その違和感は致命傷レベル。
なぜなら相手は鬼妖なのだ。
―今は四の五の言っている場合ではないな。
さらに踏み込んだクロガネの後ろで、左京が足下に陣を描き錫杖を構えた。
金色の光が広がり、細かな粒子が天井へと舞い上がる。
粒子は天井を超えて、染みこむように固いコンクリートの中へ入り込んでいく。
左京が口から祝詞を唱える度、粒子は応えるように増量し舞い上がる。
脇から、鬼妖が一体左京を狙って拳を向けたが、絡まったモヤに切断された。
さらに、帯のようになった黒いモヤが鬼妖の喉を掻き切った。
左京を守るようにクロガネが戦い、左京も祝詞を決して止めなかった。
だが、鬼妖の猛攻は止まらない。
数は増える一方で、左右または上から拳が振ってくる。
体の周りにモヤを纏わせて自動的な防壁として展開しているので
不意打ちを食らうことはないが、以前と同じ動きをしては威力不足で逆に不利に陥りかねない。
肉体の機能もほぼ人間に戻ってしまっているため、心拍数が上がり息が荒くなる。
「クロガネはん!」
左京が叫び声を上げたので顔を向ける。
彼が足下に展開していた陣から噴き出す金色の粒子が、上に行くほど黒く侵食されていた。
天井をすり抜けて上へ向かうことも放棄している。
ただでさえ力が普段通り使えず苛立っているところを邪魔をされ、彼にしては珍しくハッキリと悪態をついた。
モヤで鬼妖達の間に壁を作りつつ、下がって手で陣に触れる。
侵食してきた部分が徐々に浄化され、正常な色味に戻る。
膝をつくクロガネの表情に焦りが見え始め、左京はより一層表情を険しくさせた。
「わいも加勢しましょう。」
「無駄だ。奴らは俺達が死ぬまで押し寄せる。なら、動ける内にやり遂げなくては。続けてくれ、橘。」
「・・・わかりました。」
クロガネが歯を食いしばる様を見て、錫杖を握り直した左京は再び祝詞を唱え始めた。
粒子が再び舞い上がり、天井を目指し上ってゆく。
モヤの壁を突破してきた鬼妖の濁った目が二人を捉えた。荒い息を整えながら、クロガネは立ち上がる。
きっとこれが最後の勤めになる。
天地を分けている結界には触れる物に牙をむく防衛システムのようなものが覆い被さっているため、
レイコが結界を解くにしても、システムを切らねば意味が無い。術が届かないのだ。
神籬が居ない今、帝の守り手である橘家と桜栄家でしか解除は不可能だろう。
だから俺達は此処に来た。
わかっているのに、指先が僅かに拒絶の色を示す。
―こんなところで、若葉の肉体を失っていいのだろうか。
どうしてもそんな事を考えてしまう。
今やらねばならない。それも痛いほどわかっている。
だが若葉にとってこれは関係のないことだ。
確かに桜栄家の血は入っているだろうが、彼の役目ではない。
体を守ると約束をしたというのに――。
クロガネの迷いを見透かしたのか、体のだるさが僅かに消えてなくなった。
鉛のようであった足から痛みが引き、乱れた呼吸が楽になる。
―ああ、怒ってる。
きっと口をとがらせているに違いない。
心も軽くなったところで、安堵の息を短く吐いてから、背中からモヤを噴き出しながら走り出す。
地面を強く蹴り、高く飛び上がりながら正面にいた鬼妖の顔面を鷲掴みにする。
手の平からモヤを爆発させて焼き殺し、その肩を借りつつ左にいた鬼妖を蹴り、右にいる個体の拳を発動させたモヤで包み切断する。
ドサリ、と大きい音を立てて鬼妖達は倒れたが、その屍を超えてまた新たな個体がやってきた。
息をつかせる間もなく、奴らは突進してくる。それしか出来ないとでも言いたげに。
あいつらも本気を出してきたようだ。
自分の力が弱ったせいか、彼らが強化されたせいか。
体が軽くなったばかりだというのに、1体倒すのにモヤの出力がどんどん必要になってくる。
もともと、普通の人間では倒せない相手なのだ。原始存在―左の神が産んだユタカの炎も効かない特殊な生物。
戦闘型<シンジュ>石を持っている人間でも、十杜やエキのように一撃で倒せることはほぼ不可能で、
それこそ、簡単に倒せるのは沙希と考仁―御子たちだけだった。
クロガネに御子の力はないが、似たような力があったからこそ抗えた。
消えかけの力であるが、時間を稼げれば、もう今はそれで良かったというのに。
殴りかかってきた鬼妖の顔面に、モヤを拳に纏わせ叩き込む。
と、死界から現れた一体に反応出来ず、脇腹を蹴られクロガネの体が弧を描いて吹っ飛んだ。
地面で転がる体を踏みつけようとしてきた足を切断して、転がりながら起き上がる。
そこで、どこかで起こった火事の炎が迫っているのに気づいた。
呼吸しづらいのもそのせいだったようだ。
さらに、陣を築き祝詞を唱え続けている左京の袖から、鮮血がしたたり落ちるのを確認した。
陣が結界のような役割をしているため、踏み入れようとしている鬼妖を切り刻んでいるにもかかわらず、彼に外傷を負わせている。
唱える祝詞に異を唱える力が刃となって襲っているのだ。
クロガネはうめき声を上げながら、モヤを爆発させ周囲を囲み、左京と自分を守るように
高い高い防壁で鬼妖達をシャットダウンした。
下から噴出し続けるモヤが壁を乗り越えようとする鬼妖を切り刻む。
しばらくはこれをこえて来られないはず。そう願いたい。
荒い息を吐きながら、左京の陣の中に入る。
「ハァ・・・助かりました。」
「シンか。」
「ええ。干渉、してきました。」
錫杖を構える左京の頭がグラグラと揺れている。
目元も痙攣し、意識を保っているのさえギリギリと言った様子。
「進捗は、」
「まだ半分です。」
「鬼妖どもだけならなんとかなると読んでいたが、甘かったか。」
「相手は神様ですからなぁ。」
どちらも息は荒く、劣勢に変わりは無い。
天御影に住んでいれば一度は感じる生命の危機とやらが、今は色濃く主張を始める。
なによりも絶望を感じるのは、役目を終えず無駄死にすることだ。
此処でシンの化け物達にやられるために、生きてきたわけではない。
止まるわけにもいかない。まだ終われない。
どちらもその焦りで、無意識に身をかがめて身構えた。
突然。
二人の目の前に小さな狐が現れた。
黄色い艶やかな毛並みをして、ピンと耳をたてた小狐がちょこんとお座りをしている。
尻尾は体より長く、もっさりとしており、揺れるでもなく地面にぺたりと降ろされていた。
黒い真ん丸の瞳で、二人を見上げている。
口には、一枚の白い和紙をくわえていた。
「レイコの式神か。」
「覚悟を決めろと、言ってはるね。」
小狐がくわえる紙を見て、左京が言う。
薄墨で書かれた文字や模様に覚えがあるようで
声に若干の強みが含まれている。そんな気がした。諦めと、戸惑い。
クロガネにも、なんとなくだが予想はついた。
生まれてすぐ知り合った彼女は、無駄な温情をかけたりしない。
やるべき事を成せと、背中を叩き時には冷たく送り出す。そんな女だった。
もはや足に力が入らないのか、錫杖を杖にして立つ左京は震える息を長めに吐いてから、
親指を軽く噛み、血が滲んだ指を和紙に押し当てた。
「いいのか?お前にはまだ、家族も大事な奴も生きているのだろう。」
「これがわいのお役目やさかい。」
昔はなぁ、と片足に重心を置きながら気怠げな姿勢になる。
鬼妖達のうめき声が轟き、いよいよ近くなった火で焼ける臭いが漂ってきたが
それすらずいぶん遠くで起こっているようなありがたい錯覚が緊張感を和らげてくれている。
「お役目なんて背負いたくなかったんや。周りの子らみたいに、好きに遊んで暮らしたかった。
これが大事な家族を守れる力だと気づいてからは、ちゃんと修行したんよ。
ま、じぃさまに言わせたら、今のわいもまだまだやって叱りはるやろが。」
軽やかに笑う左京の目元は、ずいぶんと優しげだった。
家族を想い、懐かしんでいる者の目だ。
守るものがあると心は強くなる。今ではそれがよくわかる。
左京は大事な者を守るために契約を交わした。
だが、自分はどうだ。
この紙に血判を押せば、一番守りたいものを葬ることになる。
「・・・ここで怖じ気づいたら、俺も叱られるだろうな。」
人見知りで弱気な子供だったが、どこまでも優しい芯が通った強い子だった。
天秤に掛けていることすら、指を差して怒るだろう。
なにをやってるの、と。
クロガネも気づいたら口元に笑みを携えていた。
自分が微笑んでいるなどと気づかぬまま、左京のように指先を噛んで血が滲んだ指紋を紙に押し当てる。
小狐は紙をくわえたまま深くお辞儀をして、そのままどこかへ飛び去った。
途端、二人の体が金色に染まり、輪郭がおぼろに歪み出す。
モヤの壁を叩き続けている鬼妖が一際野太い声を漏らした。
焦っているのだろう。
二人並んで、その声を聞き続けた。
彼らを形づくり、そこにいるのだと主張していた体の輪郭が光の粒となり崩れていく。
少しずつ、少しずつ。
けれど、砂の城を崩すように確実に。
左京が張った陣が一気に拡大し広がると、クロガネのモヤは払われ、その向こうにいた鬼妖は灰となって粉々
に砕けて消えた。
膨張し続ける金色の光は11階層だけではなく、上へ上へ高速で上り続ける。
どんどんと上る光は、避難していた民の間をすり抜け、第1階層の頭上に鎮座する結界へとついに手を伸ばした。
クロガネは、体から感覚と温もりがなくなるのを感じながら、顔を上に向けた。
「すまない、若葉。無事に体を返してやれそうにない。」
やはり自分は鷹司明良であった鐵だったのだろうか。
長い長い時を渡り、今という時代に立っている。
振り返る暇などなかったが、なんとも不思議な感覚だ。
自分が生まれ育った時代はとうに消え、思い出はもう霞のように曖昧だ。
左京が言っていた役目とやらは、あの化け物を運ぶこと。
そのために払った代償は大きすぎた。
(ありがとう、明良―――)
ハッと息を呑む。
最後の最期で、その言葉を思い出せた。
そうだ。化け物になった後でも、あの方は自分をちゃんと分かってくれていた。
本当に優しいお方だった。宝物だった。
ああ。
お側でお守り出来ず申し訳ありませんでした、是千代様。
しかし、貴方の血筋を守りましょう。
貴方にどこか似た、面影があるあの子らを。
1000年以上、地上と地下を隔てていた結界。
触れるもの全てに牙をむいてきたそれに、金色の粒子が纏わり付く異様な様を
第1層に避難していた民は目撃していた。
呼吸するように何度も脈動を繰り返し、一層目映く発光し、息を引き取るように静かに砕けて消える様を。
「よくやったわ、二人とも。」
天御影のどこか、奥深くにある一室で、彼女は目を開け、震える唇でなんとか笑みを作った。
彼女がいつも纏っていた露出が多いドレスの裾は破けボロボロになり
むき出しの白い肌には生傷がいくつも刻まれている。
足下には複雑な術式が何重にも重なり、部屋の壁や天井にも描かれ、そして自転していた。
地下と地上を隔てる結界を守っていた防衛システムは無事消えた。
後は結界そのものの効力を無効化するだけ。
展開させていた術式を発動しようと口を開きかけたのと同時。
誰も入ることが許されていないはずの室内に、黒い霧が吹き出した。
部屋の隅から噴出した天井付近を覆いだし、こちらが対処する前に部屋全体を真っ黒に染め上げた。
彼女にとって、シンの襲撃も想定内だったので、部屋の内側に防壁をかけておいた。
簡単に破られるはずのない防壁を霧が叩くだけで、拮抗する力によって爆風が吹き流れる。
髪やドレスが後ろになびき、2本足で立っている体がそっくりそのまま掬われそうになる。
しっかりと踏ん張っているだけでは足らず、もう一枚体の前に術式を展開させ、壁を叩く猛烈な力を避ける。
両手を挙げ、敵を警戒しながら、食いしばった歯の隙間から血が滴る。
真っ暗は部屋ではレイコが作った術式か橙や白、黄色に光っているため
黒い霧がぐるぐると回転し職種のような細長い姿に変形したのが視認出来た。
うねる計4本の触手が、見えない壁を叩く。
その度レイコは低いうめき声を漏らし、足や腕に新たな傷が生まれ赤い血が垂れる。
そうだった。アタシの血は赤いのだった―。
人間の姿に化けていたせいで、本当の自分が何であるか、とうの昔に忘れていた。
触手の1本が、見えない壁に穴を開け侵入し、レイコの左腕を二の腕からもぎ落とす。
大量の鮮血が吹き出すも、止血することなく彼女は残った右手を目の前に突き出し続けた。
侵入した触手をお返しとばかりにひねってちぎり、別の防壁を体のすぐ前に作る。
あと少し、あと少しだけ保てばいい。
口からも大量の鮮血を垂らしながら、レイコはニヤリと笑った。
茶色だった瞳孔が縦に細く伸び、奥から黄色の虹彩が現れる。
「ごめんなさいね、アスハ。貴方が命をかけて作った結界、取り除かせてもらうわ。」
掲げ続けていた右手を、握る。
そんな簡単な動作で、結界は崩壊した。
目で確認してないが、通信を繋いだままでいた瑛人から成功したとの報告が入る。
上げ続けた右腕を下げ、血が流れ続けている左肩を引き寄せた。
目の前で苛立たしげにうねりだした触手に、ざまーみろと吐き捨てる。
この世界を、シンの好きなようにさせてやるもんか。
「あとは任せたわよ、私の大事な子供達。」
怒り狂う触手が集まり、1本の太い槍のようなものに姿を変え、真っ直ぐと見えない防壁
そしてレイコの腹部を貫いた。
まとめていた髪が背中に落ちる。足下で自転していた術式の陣が粉々に割れ、
真っ黒に染められた部屋が徐々に元の姿に戻っていく。
後ろに倒れながら、天井にあしらったステンドグラスの柔らかい陽光を眺めた。
ずいぶんと長い旅であった。1000年以上、恩人の子らを支えながら人間と混じって生きてきた。
彼と出会った時、まだ子供だった自分が、まさかこんな長い旅をするとは思わなかった。
出来れば、最後まで見守りたかった。
―だがこれが私の役目というやつだったのだろう。
もう自分がいなくても、人の子達は大丈夫。
そう目を閉じると、安心した笑みを浮かべたまま彼女―人間と寄り添い導いてきた狐の零鬼は
静かに具現化を解いて粒子となり空気に消えた。