7.すべてはガラス玉の中に閉じ込められた記憶
目を覚ましてまず直面したのは、涙で濡れたことによる不快感だ。
触れずとも肌が濡れていると理解できる人間の感覚は、些か奇妙であり不思議である。
目じりから伝ったであろう水が髪を濡らしているのも分かるし、耳の中まで入ったらしく気持ち悪い。
寝ていただけなのに、随分と凝り固まってしまった筋肉を出来るだけゆっくり起こし、シパジャマの袖で涙を拭った。
歪んでいた視界も、かなりクリアになった。
カーテンを引き忘れた窓の向こうは、地平線に向かって青が薄くなる綺麗なグラデーションに塗られている。
夜明けが迫っている。
新しい1日。これから起ころうと待ち構えている事案を抱えたまっさらな太陽がジリジリと歩み寄ってくるのがよくわかる。
パジャマから着替えて、真人は外に出た。
先月の末、突発的に旅に出た朝のように音を立てず自転車を引っ張りだし、寝静まる住宅街を走る。
新聞配達のバイクとすれ違いながら、住宅街を出て海と隣合った道で風を切る。
朝日がまだ当たらぬ潮風はまだ少しひんやりとして、先ほど涙で濡らしてしまった髪に当たるのを感じた。
目覚めから僅か数分。地平線の色に薄い黄色が混じってきた。
いよいよ太陽が存在感をみせてきたのだ。
空の明け染めによって、街の輪郭線が一際濃くなった。
眠る街を横切っていると、一本道の向こう側、浮き上がる世界の中で、まだ夜の名残をみせる黒が見えた。
黒髪を海風になびかせている少女ー沙希だった。
ペダルを強めに漕いで、彼女の傍でブレーキをかける。
「沙希っ、こんな早くから散歩か?」
「うん。真人が、泣いてる気がしたから。」
「え。」
確信を得た予兆というより、真実を的確に射止めた発言に全身が跳ねた。
世界が明るくなると、海もまたその僅かな明かりまで取り込んで、
沙希の黒い瞳の中が複雑に輝きを産む。
見抜かれてるなんてもんじゃない。繋がっていたのだ。
そんな変な錯覚が、まだ完全に目覚めきっていない真人の意識を掌握してしまう。
自転車を降りた真人は、沙希と並んでゆったりと海沿いの坂道を歩き出す。
「さっき、ついさっきだよ。変な夢見たんだ。父さんの夢。まるで僕の記憶を再生したような夢。」
「夢と現実を区別するのはいつだって心。決めるのは自分自身だって、お父さんは言ってた。」
時間という現実の縛りからも開放されてしまった浮遊感があったが
新聞配達のバイクが急がしそうに通りすぎる音に、落胆する心があることに気付いてしまう。
沙希が纏うワンピースの花柄がはっきり見てとれるぐらいに空の色彩が増えた。
濃い青はどんどん西に追いやられてしまい、悲しそうだ。
「まだ話してない夢の話があるの。この夢を、最近一番よく見る。」
相槌は居れず、顔ごと彼女に向ける。
「薄暗い、地下みたいな世界で、闇を具現化したみたいなおそろしい怪物と戦うの。
怪物は明確な敵意と憎悪を私に容赦なくぶつけてきて、怖くて、逃げたくて。
でも逃げられるわけもないから、ひたすら戦う。
戦いながら私は、いつも胸に一人の面影を思い浮かべてて、その人のために戦ってた。たぶん、真人のことだと思うの。」
「俺?」
彼女越しに見える天と地を分ける朧な一本の線が、その瞬間消えて無くなった。
「私にとって真人は特別。夢でも、ここでも。」
ついに太陽が顔を出してきた。
生まれたてのくせに、目を焼いてしまいそうなほど強く、それでいて儚い白い光が一気に少女の黒い髪や瞳を輝かせた。
夏の始まりに、輝く水面を背景に立つ沙希も美しかったが
生気に満ちた陽光を浴びる彼女もまた、格別に美しい。
そこから生み出される微笑には、昨日まではなかった決意がある気がした。
もう限界とばかりに、真人は顔を逸らし赤い顔をごまかすように話題を変えた。
「次の連休に、兄さんのとこ遊びに行くんだ。沙希も一緒に行かない?人ごみが嫌じゃなければ、だけど。」
「行く。真人は私が守ってあげる。」
「男なのに守られるのはなー。なら、沙希は僕が守るよ。男だし。」
「うれしい。」
自転車を押して、二人はそのまま坂の終着点まで
出来るだけゆっくり歩いて、重要ではない普通の会話をしながら朝の散歩を楽しんだ。
太陽が昇る毎に海は輝き、空は空の色になり、世界は普段の日常へと回りだす。
当たり前の朝。
けれど確実に、初めての今日という日。
何かが始まりそうな予感も、何かを始めようという躍動も無かったが
真人の胸につかえていたありとあらゆるものが、自然とどこかに消えてしまっていた。
きっと、もう大丈夫という、確信も信憑性もない安心感に、泣いてしまいそうになったのは、秘密である
*
*
*
そして“律伎真人”は目を覚ます。
目元が濡れていた。
涙が目じりから伝い髪まで濡れている。
耳の中まで入ったのか、気持ちが悪い。
ゆっくりと、けだるい体を持ち上げた。
外は大分明るいが、目覚ましが鳴るにはまだ少し早い時間らしい。
ベッドの上で、真人は頭を抱えた。
「今、とても大事な夢みていた気がするのに・・・何も思い出せない。」
すごく悲しくて、すごく嬉しくて。
なつかしいような、愛しいような。
感情は覚えているのに、たった今見ていた夢が思い出せない。
一部の光景も、一つの言葉も。
忘れてしまったことへの罪悪感だけが、やたらはっきりしていた。
何故忘れてしまったのかと、心が怒っている気さえするのは、まだまどろみに囚われているせいだろうか。
残像すら浮かんでこない夢の目覚めの後、真人はベッドから起きてカーテンを開けた。
人口太陽が照らす中央区、太陽に合わせ明るくなるドーム天井の空。
運命の日の、朝である。