1.夏の朝-2
外の空気は夏とはいえまだ朝なので、気温はまだ低く清々しく澄んでいた。
肌寒いまではいかずともひんやりと心地よい。
玄関の横に立てかけてある自転車を引っ張り出し、カゴに鞄を入れ門を出て跨った。
太陽はすでに顔を出しているが、うだるような暑さは感じない。
ここが海沿いのおかげで、湿度も低く街のうだった空気を常に風が運び去ってくれるのだ。
海抜より高台に建てられた小さな街は、開発はそれほど進んでないが必要最低限の店や施設はそろっていて、中々住みやすい街だ。
自転車で住宅路を突っ切っていると、白壁に青い屋根の家の庭で、水まきをしている男性が目に入った。
青緑の芝生が美しいその家の前で、自転車を止める。
「おはよう、孝仁。」
「ああ、早いな。」
「にーちゃ!」
「しーちゃんもおはよう。」
水鉄砲片手にはしゃぐ、3歳の雫ちゃんが寄ってきたが、柵があって触れ合えないのでその場でピョンピョンと飛び跳ねる。
黄色に水玉のノースリーブワンピが涼しそうだ。
ホースで水まきしていた青色髪の長身で筋肉質の男性は真人のはとこの考仁。
今は妻と子供とこの家に住んでいるが、真人が生まれた時る前から一緒にいるので、家族みたいなものだった。
「これから図書館。」
「夏休み初日は寝坊しなかったようだな。」
「宿題さっさと終わらせて遊ぶって約束したからね。あ、風子さん、おはようございます。」
白いアンティークデザインの扉から、小さな子供を抱えた女性が出てきた。
肩より少しだけ短い髪が歩くたび跳ね、全体的に柔らかい心象を持った孝仁の妻・風子。
腕に抱いているのは生後7か月の長男だ。
「おはよう真人くん。早いわねー。おでかけ?」
「図書館で勉強です。」
「学生さんは夏休みも宿題だらけで大変ね。」
「三日坊主にならないといいな。」
「リョクエンが毎朝起こしてくれるから大丈夫だよ。そうだ、明日兄さん帰って来るって。」
「そうか。顔見せるよう言っておけ。」
「なんなら明日の晩、みんなでご飯食べに行きましょうよ。最近行ってないでしょ?食事会。櫛菜さんに電話しておくわ。どこがいいか考えておいて。」
「はい!じゃ、またな孝仁。」
「おお。」
「ばーばい!」
今だに跳ね続ける雫ちゃんに手を振って、ペダルを漕ぐ。
大小様々な家が並ぶ住宅街を抜けると、街の一番外れに出来た崖を沿うように走る道に合流し大きく左に曲がる。
道はだんだんと傾斜がきつくなり、ペダルを漕がずとも自転車のスピードが自然と上がる。
右手の視界は一気に開き、海が一面に広がっていた。
腰より高い柵つきガードレールの先に1段海に下りるようの通路があるだけで、もうそこは海だ。
この道を通るのは真人のお気に入りだった。
真人だけじゃない。この街はこの絶景ポイントが1番の売りのはずだ。
天へ向かい登り続ける太陽の光が水面に反射し、波の複雑な動きの上で漂いながら輝いている。
太陽とコンクリートの熱でいくら汗だくになろうと、この光景を見ただけで体感温度は3℃下がる気がするのだ。
直線だった道は永遠つ続くわけもなく、崖に沿うように緩く左にカーブしていく。
右手の海と別れ、商店街などが立つエリアに突入する。
道路も四車線に変わり、人も車通りも多くなる。街のメインストリートだ。
港町を意識しているのか、ストリートの地面は灰色のお洒落な石畳になっており、青い色の石でラインがずっと引かれている。
ガードレールは綺麗な白で、等間隔に並ぶ街灯は北欧風の黒いポールだ。
商店街エリアの外れに経つ、真人御用達の本屋を通り過ぎ、薬局の横も過ぎる。
建物に挟まれ海風が途絶えたが、自転車で風を切っているので気分も高らかである。
観光客向けの店はもう開店しており、外国人の姿もチラホラ見え始める。
交差点を右に折れ、もう1度海の方へ走る。前方に林が見え始めれば、図書館はすぐそこだ。
海風を防ぐ防風林の隣にたつ一斤食パンみたいな屋根をした図書館は街の規模には釣り合わないぐらい大きく、貯蔵量も豊富。
市立図書館ではあるが、老資産家が趣味で開いているような施設なのだ。
図書館右手の自転車置き場にスムーズに入り、地面に足をつける。
ふと、煌めくものが視界の端に映り顔を右に回した。
図書館は街の最北端に立っているので、道路を挟んだ向こうにしか建物がないため駐輪場からも海が見えた。
柵つきガードレールの前に、白いワンピース姿の女性が立っていた。
ポニーテールにした長い髪が海風に揺らぎ、清楚なワンピースの裾も踊るようになびいていた。
真人の目は釘ずけになった。
海の煌めきを見つめているのか、女性の後ろ姿しか見えないが、絵画みたいな光景だった。
逆光になっているシルエットと水面の眩しさの落差が空の明るさを際立たせ、輝く海と風が絵に最大限の装飾を施している。
真人はその女性を知っていた。
クラスメイトの雨条沙希だ。
同じ17歳なのだから女性というには早いかもしれないが、今の彼女はとても大人びて見える。
雨条沙希は同世代の女の子に比べれば可愛いというより美しい顔立ちで、知的で運動神経もかなりいい。
ただ無表情で無口、近寄りがたいというマイナスポイントがあり生徒は中々近づかない。
男女ともに友人が多い真人と違い、彼女は常に一人で行動し、クラスメイトとお喋りしている姿はあまり見たことがない。
決して嫌われているわけではない。
高嶺の花、もしくはこの年代の若者が易々と話しかけてはいけないような雰囲気を醸し出しているのだ。
とはいえ、真人と沙希は友人という程親しくはないが、挨拶ぐらいは交わす仲だ。
それだけでも学校内では1番仲がいいと言われるだろう。
なびく髪を手で押さえつけていた沙希だが、もう満足したのか、真人がやってきた方へと歩き去ってしまった。
彼女がいない絵画は穴がすっぽり開いてしまったみたいに見えた。
呪縛から解かれたように、自転車にロックをかけ鞄を肩に担ぐ。
図書館の入り口は階段が数段重なった上にあり、1段目のところで腰掛けている見慣れた顔を見つけ駆け足で近づく。
親友の一人、緑延だ。
「お待たせ。」
「さすが真人。5分前行動。」
「ヤマトは?」
「メールしたけど反応なし。」
「寝てるな、アイツ。」
「予想通りだよ。二人だけでレポート終わらせちゃおうよ。」
「はは、いいね。」
自転車を下りれば太陽の存在感が嫌でも増してきていたので、汗が噴き出してきた体を癒やすべく
冷房の効いた図書館に駆け足で逃げ込んだ。