2.魚の夢を見た
「結局ヤマト来なかったな。」
「暑そうな外の日差し見て嫌になったんだよ。初日から三日坊主。」
「夏休み初日にやる気だしてる僕らも相当なもんだけど。」
「ハハハ。学生の鏡でしょ。」
図書館で勉強をしていた二人だが、お昼を回るとお腹が空いてきたので一旦図書館を出て近くのカフェに来ていた。
思ったより図書館の冷房が効きすぎていたので、解凍の意味も込めオープンテラス席で並んでアイスティーを飲んでいた。
一緒に注文してあったサンドイッチセットはもう胃袋に収納済みだ。
夏休み初日とあって、観光客で通りは繁盛している。
通り過ぎる人波をなんとなく観察しながら、ストローを齧る。
同じようにダレていた緑延が、人波を見ながら言う。
「話すの遅れちゃったんだけどさ、」
「うん?」
「ウチ、来週からお爺ちゃんの公演手伝うことになっちゃって。」
「マジ!?歌舞伎の?」
緑延の家系は歌舞伎の一門だ。
だが緑延の母が一般人と駆け落ち同然で家を出たため、彼と彼の父は梨園の人間ではない。
親子仲は一時期氷点下まで落ち込んだらしいが、初孫である緑延が生まれたことで今は元通り。
彼の変わった名前は、祖父が彼に継がせようとした家名であるらしい。
一家は梨園とは離れた身だが、弟子が少ない一門なので公演等で忙しくなると裏方の仕事を手伝いに行く。
チケットの売り子とか、売店の棚だしとか。
「ごめんね、夏休みは遊びまくろうって言ったのに。」
「気にすんなよ!貴重な体験じゃんか。それに来週までは暇だろ?」
「うーん、どうかな。前乗りして打ち合わせとかするかも。」
「あ、そっかー。」
「ごめん。」
「だから謝るなって!実はさ、俺も兄さんが明日帰ってくるらしいんだよ。」
「瑛人さんが?よかったじゃない。」
「来年か、今年の末からは就職活動始めなきゃだろうし、今のうち遊んでもらうよ。」
「そうしなよ。」
緑延はまじましと雑踏と化してきた通りを見つめた。
カフェのストライプ屋根が濃い影を作ってるだけなのに、此処と通りの向こうは別世界のようにも見える。
前にもこんなことなかっただろうか。
目の前の境界線1本で、二分化された世界。
「来年の今頃、僕たちも受験かー。」
「そうだな。実感ないや。」
「同じく。」
「真人は進学?」
「N大。」
「近所だね。」
N大はこの街にある唯一の大学。
真人の"中の上”辺りの成績でも余裕で入れる学校だ。
「あの広い家で母さんを一人に出来ないし。」
「瑛人さん卒業したら帰ってこないんだ?」
「わかんない。でも兄さんには家のことは気にせず好きに生きてほしいんだよ。昔は相当気を使わせてたし。」
「本当仲いいよね。兄弟羨ましー。」
「小梅ちゃんがいるじゃんか。」
「妹だし、まだ5歳だからなー。」
「一緒にままごとはできるよ。」
「ハハハハ。」
未来なんて、そこに到達すれば当たり前に準備されているものだと思っていた。
大人になれば当たり前に仕事をして、当たり前に結婚できる。
―世の中、自分でどうにか動かないと何も手に入れられないと気づいたのは、割と最近だ。
しばらくカフェのお洒落日よけの下でだれていた二人だが、重い腰をあげ図書館に戻った。
当初の予定通り、1日でレポート各種と問題集の半分を仕上げ、残りも数日中に終わらせる手筈を確認し、
午後3時、解散することになった。
結局、友人の1人は最後まで部屋から出てこなかった。
緑延と別れ、長いこと熱い外に放置していた自転車に跨がる。
日はまだ高い。このまま帰るのは忍びないし、父がいる家にはまだ帰りたくない。帰省した以上数日はいるのだろう。
本屋か映画館、という選択肢を考えてみるが、この時間どこも人のピークだろう。
自転車のハンドルを切り、朝来た通り過ぎた商店街エリアではなく、図書館の先にある灯台へと続く道路沿いを走ることにした。
当てもなくサイクリングだ。
左手に並ぶ店々を過ぎ、林に囲まれた緩い坂道を上がっていく。
大通りから外れてしまえば、神社や静寂を好む美術館の類が点々と建っているだけで、
彼がよく知っている静かで侘しい海沿いの街に顔を変える。
この通りを進めばやがて灯台につくが、そこも物好きな観光客で繁盛してそうなので、分岐を左に曲がる。
この先は別荘が多い森林地帯。
道も細くなり、防風林目的の竹林が右手に広がりだす。車も人も減ってきて、落ち着いた午後を満喫するにはぴったりの地域。
竹林の中ほどで、真人は自転車のスピードをかなり緩めた。
道の先で、白いワンピースの女性が竹林の方を見て立っていた。
雨条沙希だ。