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神宿りの木    クロガネ編 7

 



 

深い闇の底から意識が海面の上に浮上し、人間でいた頃より赤黒くなった視界で、まぶたもないのに目を開ける。
それは私を見つめていた。
加工された硝子玉を埋め込んだような純粋な煌めきに、靄で出来た体は戸惑いながらも一瞬で駆け巡る渇望の疼きを示し、私はそれを必死に押さえ込む。体から飛びそうともがく触手を、無いはずの歯を食いしばり押さえ込む。
肺が無いのだが私は呼吸を整えて触手の先まで力を込めて耐える。やがてゆっくりと体は私の意思を聞き入れたようで震えが小さくなる。まだ完全に収まったわけではないが、興味津々といった眼でこちらを見上げてくる人間の様子を観察できるぐらいには意識は落ち着いた。
人間の女だ。まだ若い年頃で、腰まである鴇浅葱色の髪を流し手足は長く陽をまったく浴びていない白さが際立った。
女は表面を波立たせる靄をじっと見上げていた。
このまま喋らず去ろうと後ろに飛んだところで、女が小さな掌を掲げてこちらに向けてきた。
すると、私の体である靄は実態が無いはずなのに動かなくなった。漂うことを禁止され、おぼろで不明瞭なはずの輪郭がひしととどまる。何事かと驚いていると、女が掌を向けながら近づいてきた。

 

「一撃で祓えないなんて、強情な悪鬼ね。ならば術式を変えて―」
『待て!そなた術士だな。私は悪鬼ではない。』
「問答無用。」


女が祝詞を唱え出すと、体の表面がざわついてきた。眠りにつく前、常枝宮で橘家の僧侶に祝詞を向けられた時の事を思い出す。
彼より力は劣るので内にいる化け物が拒絶反応を起こす程ではないが、肌があったら鳥肌が立っていたことだろう。
女がなおも祝詞を唱えるが、どうやら私には効かぬようで、表面がざわつく以外変化は見られなかった。
眉間に皺を寄せて口を動かし続ける女にもそれがわかったのだろう、やがて諦めて掌を下ろした。
まだ体は自由に動けないが、しびれは大分収まった。
女は大きな瞳で瞬きを繰り返しながら、現状が打開してないことに首を傾げた。

「おかしいわね、祝詞でも祓えない。喋ってるし、自我もしっかりしてる・・・。」
『人間を襲うつもりはない。解放してくれ。』
「そんな訳わからない見た目してるモヤモヤを信用出来るわけないじゃない。」

 

もっともな意見であり、その判断は正しいとも言える。

私がどれだけ眠っていたかは不明だが、此処は地下世界のはずだ。
改めて辺りを見てみると、石で囲まれた洞窟内に明かりが灯っている。壁は綺麗に加工された石が使われている。

地下世界は<妖>や闇の生き物が住まう国。なぜ人間がいるのだろうか。
女がまとっている着物もずいぶん丈が足りないし布も少なく感じる。貧困民にしては小綺麗でもある。
再び体の芯がうずき出した。目の前に人間がいると気づいたのか、化け物が反応を示す。あの喜びを伴った疼きを体験したいと、内側がざわめいていた。これは飢えに近い。
人間の命を吸うことで得られる快楽など、もう二度と味わいたくなどなかったが、眠っていたせいなのか、彼女の力量が上回っているせいか、体はまだ動かない。早く離れなければと気持ちばかりが焦る。

 

『頼む。信じられない話かもしれないが、私は元は人間だ。この靄に喰われて一体化していた。こいつは人間を喰らうが、私がそれを許さない。術を解いてくれれば人間がいない場所まで逃げる。』
「そんな話信じるわけ・・・、まさか―――。」

 

ほんの一瞬、女が油断を見せ体の動きを止めていた拘束が解かれた。
隙を見逃さず、私は女へ伸びかけた触手ごと引きずって下へ下へ降りた。
逃げ込んだ地下世界は全てが闇で、生き物の気配が多少ある程度の空洞だったのに、触手や靄の触感で、数多の生き物と何層にも奥深く開拓された世界が広がっているのを感じた。
どれだけの時が流れたのだろうか。
赤黒い視界で無いはずの眼に入る景色は、どれも見たことが無いものだらけだった。
私がいた時代には存在しない不可解な形の建物、薄くなった着物、石とは違う素材で覆われた洞窟内部のような道。何より、溢れるぐらい存在する人間達。
化け物が暴れぬように人の気配が少ない場所を探すも、どこかにはかならず人間達の集まりがあった。まるで蟻の巣だ。

 


「ねえ、もしかして、どこに行けばいいかわからないの?」


体を急停止させ振り向いた。
先ほどの女が、後ろに手を組んでこちらを覗き込んでいた。あの硝子玉みたいな眼で。
かなりの層を通り過ぎながら、高速で移動してきたはずだ。此処がどこだかわからないにしろ、ただの人間の女が後をついてきたにしては早すぎるし、気配は一切感じられなかった。

 


「モヤモヤなのに、困惑してるのがわかるわ。顔も無いのにね。」
『そなた、どうやって後をつけてきた。』
「これは私の<シンジュ>石、転移の力よ。瞬間移動ってやつね。でも、思ったより便利じゃないのよ?目的地が認知出来ていないと駄目だから、一度訪れた場所じゃないと移動出来ないの。あなたが私の家の近くに移動してくれてよかったわ。」
『しんじゅせき?』

 


女から警戒心が無くなっているのに気づいたが、化け物が歓喜の声を上げるのを抑えるのが急務であった。
再び去ろうとする私を女が引き留める。


「待って待って!貴方、さっき自分は人間だったって言ったでしょ?話聞かせてくれないかしら。そう警戒しないでよ。」
『違う、そうではない。私は・・・この化け物は、命を餌としている。久々に目覚めて、目の前にいるそなたに体の芯が疼いている。』
「なら、こうしましょう。」


掌が此方に向けられる。すると、再び体の動きが奪われた。

 


「術は多少効くみたいだし、これで話は出来るでしょ?」


無邪気に笑って見せた女は、たしかに肝が据わっていた。
私の動きを封じたまま、女は色々な話をした。一方的に。
いくつか質問をされたのでぽつぽつと返しているうちに、私の時代から二千年近く経っていると知った。

帝一族は滅び、地下を住処としているはずの生き物達が地上に現れるようになった。地上に溢れるほど居たはずの人間はどんどん数を減らしていった。
そして千年前、ある術士が地下の生物が地上の人間を襲わぬように強力な結界を張ったが、眠っているはずのマガツカミ―今の時代の呼び方でシン―が悪戯をし、ただでさえ少ない人間の半分が地下に閉じ込められたとか。人間は肩を寄せ合い、私の時代では玉賜(ぎょくし)と呼んでいた石の力を屈しして此処、地下世界で逞しく生きているらしい。

「貴方を食べた化け物、何者なのかしら。」
『今となっては、もうどうでもよい。もう人間には戻れぬ。どうやら死ぬことも出来ぬ。なら、人間を喰わせぬよう抑えるだけ。私という意識も、いつ喰われるか分からぬしな。』
「武官だったのよね。昔の人って、予想通り生真面目ね。」
『術を解いてくれ、術士。話を聞かせてくれて感謝するが、どうやら眠って居た方が良いようだ。もっと深い場所でまた眠りにつく。』
「寝てるだけなんて退屈よ。私、話し相手になってあげるよ?」
『不要だ。』

体を拘束していた力が解かれたので、私はそのまま下へ下へ落ちた。
女の話では、最下層付近では鬼妖という生き物が生息しているため人間は足を踏み入れないとか。人の気配がなくなるまで潜り続け、明かりがない真っ暗な空洞見つけ、私は無いはずのまぶたを閉じた。
人間の眼球とは違う部分で見ているのだろうが、体があったころのように目を閉じようとすれば、視界は闇に包まれる。二千年眠っていたおかげで、化け物の体はずいぶん私に馴染んでおり、柔らかい繭に包まれている安心感があった。
思い出はまだ残っていた。体を失った喪失感と後悔、自分だけ取り残された孤独がどこからか湧き上がったが、私はまた眠ることにした。
今度は何千年眠るのだろうか。どれだけ時が経っても、私は消えることもなく居続けるのだろうか。
底知れぬ不安と絶望を繭の底に隠し、意識を手放した。

 

 

「今日はお散歩でもしない?」
『また来たのか撫子・・・。そろそろ飽きてくれぬか。』
「眠ってるだけなんて体に悪いわ!」
『悪くなる体などない。』

 


その実、私は眠ることを許されなかった。
私が根城としたのは四十九層という場所らしいのだが、そんな奥深くまで、術士の女―撫子は私を起こしに来た。
化け物を制御する術も身についたようで、もう撫子を前にしても命を捕食したいという欲求を抑え込めるようになり、彼女の術がなくとも普通に会話出来るようにはなった。
この階層に鬼妖はいなかったが、明かりがない場所で人間の女子は餌でしかない。彼女は確かに術士として優秀だが、敵の巣窟付近に居させるわけにもいかないので、私は仕方なく散歩とやらに付き合いながら、人間がいても安全な上の階層に移動する。
お互い色々な話をする内に、撫子は陰陽師を祖とする術士家系出身で、今は家元を離れたった一人で生きているということを知った。

「両親と仲が悪いとかじゃないの。私は桜栄家の長女としてやるべきことがあったから、家から出て地下に降りたの。」
『元は地上で暮らしていたのか。』
「そう。あなたと同じ・・・ってわけでもないか。私が知ってる太陽と月は偽物だから。」

お役目について、頑なに一人でいる理由については聞いても答えようとはせず、やんわりとはぐらかすので、私も無理に聞き出すことはしなかった。正体もわからぬ化け物を話し相手に求めるぐらいは、孤独であるらしかった。

撫子は私が失った二千年分の歴史を埋めてくれたし、私はただ頷いて話を聞いているだけで、どうやら彼女の孤独を薄めているようであった。ただの化け物に成り下がった身ではあるが、一人逞しく生きている子供の役に立つならばと、誘いは断らないようになった。
 

時間から切り離された私だが、撫子が大人になっていく様を見て時の流れというものを感じられた。
彼女はすっかり大人の女性に変化し、あるとき、撫子が自分の腹を撫でる仕草をし出したことに気づいた。。

 


『久しく顔を見せぬと思っておったが、そなた、子を宿したか。』
「そうなの。花(か)の月か立薬の月には生まれてくるって。」
『相手は、以前言っていた幼なじみの男か?』
「そう。・・・でもね。彼、実行部隊に入って、死んじゃったんだ。十杜の群れに遭遇したんだって。彼の<シンジュ>石、戦闘向きじゃないからやめてって言ったんだけど。術でもなんでも使って、もっと強く止めていればよかったよ。」
『そうか・・・。』
「この子は大事な忘れ形見。」

 

撫子は服の上から愛おしげに腹を撫でた。

「あなたも楽しみにしていてね、明良。」
『赤子を私に近づけるべきではない。何が起きるかわからんのだぞ。』
「大丈夫よ、鷹司明良という記憶を持っているかぎり。」
『もうその名で呼んでくれるな。人間の私は死んだ。守るはずの命を吸い尽くし都を恐怖に陥れた罪人だ。』

脳裏に、怯えた皇子の顔が浮かぶ。
化物になっても尚、思い出が呑まれていないことに安堵しつつ、後悔や罪の意識で痛む胸が残っていることを残念に思う。

 


『体も無くなり、鷹司明良は死んだ。』
「ならどう呼んだらいいのよ。」
『化け物とでも。』
「駄目よ。名を捨てれば思い出も消えてしまう。貴方が自我を保つ大事なものかもしれないじゃない。名前は個人を断定し見分ける大事なもの。この子の名前も決めてあるの。女の子なら蘭、男の子なら若葉よ。生まれた後もよろしくね。」
『やめておけ。大切な忘れ形見なのであろう。』
「あなたも大切よ。大切なお友達じゃない。これからもたまにでいいから、お話してちょうだい。お願いよ。」


伴侶を失ったことで、撫子には今までに無いぐらい強い孤独が降りかかっていたようであった。
一人で居ることには慣れていただろうに、大切な者を失って不安定になったのであろう。
私は可能な限り、と承諾した。

 

 


撫子が訪ねてこない間は、根城でひたすら眠ることに徹しているのだが、撫子の問いかけも無く、自然と目が覚めた。
赤黒い視界に映ってきたのは、赤い立派な鳥居だった。
寝ぼけてまだ夢を見ているのかと思った。

常枝宮にあった神社ではよく帝一族の繁栄と平和を祈願した。是千代様の祈願にも何度も付き合ったことがある。ずいぶん遠くなってしまった記憶を懐かしんで見せた幻の中に足を踏み入れたのだろうと思った。
だが夢では無かった。
岩で囲まれた場所であるので、地下であることは確かだった。洞窟のように円形になっている天井は高く、地上にあった鳥居より一回り小さいが立派なものが沈黙して立ち塞がっている。
いつもの根城ではなく、訪れたことのない場所に飛んでいたようだ。寝ぼけてさまよったか、化け物が勝手に動いたのか。人間の命を奪ってないかをまず心配するも、満足げな脈動は感じられない、代わりに、体にわずかな震えが走っていた。
―化け物が怯えている。
鳥居の向こう側で、両開きの門が岩の間に挟まっていた。屋根はないが、立派な本柱が脇に二本。
木造の扉には彫刻で文様が彫られてはいるが、装飾は一切無く、一見質素にも見える、しかし、崇高な神像を拝んでいる気分させる。
門の隙間からわずかに明かりが漏れている。向こう側はずいぶん明るいようだ。染みこむ明かりは薄水色で、赤黒いはずの視界でもくっきり色を見せた。
色は、目で見ているのではないと理解する。
冷たい朝霧の靄が漏れてくる。そう、前方の門からだ。
堅く閉じられた古めかしい門の奥に、何かがいる。
化け物は、奥にいる何かを拒絶していた。
人間が食事や睡眠を取るように、運動の一環として、澄まし顔で当たり前に命を吸い取っていたくせに、感情に似た揺らぎを見せたのは初めてだった。まるで恐怖だ。化け物が感じる恐怖が、私にまで感染する。指先代わりの靄が震える。
これは、生物としての恐怖だった。絶対的強者と出会ったときの絶望とその時になって初めて感じることができる生命の危機。自分では適わぬと知ってる相手と邂逅してしまったという自棄が胸に広がっていく。

――そうか、此処は地下世界。神々によって落とされたマガツカミが眠っている場所。

恐怖で怯え縮こまっていた靄が、突如激しくうねりだし大きな震えが全身に走った。目には見えない、頭に直接刻まれる痛みに脳が、記憶が、人格が浸食されていく。勝手に動き出す触手があらゆる方向へ伸び、靄の体が暴れながら膨れ上がる。
岩壁や天井を押し返す勢いで膨張する体の奥底には、震え怯える化け物の恐怖があった。
探している。人間を。限界まで触手を伸ばし、命を求めている。
もう制御は効かなかった。私の意識だけが化け物から切り離され、俯瞰して現状を見つめている。
門からは相変わらず冷たいひんやりした風と靄が拭いている。冷たさを感じる器官などないはずなのに。
―化け物が、泣いている気がした。
まるで大きな金切り声を上げて無く幼子のように暴れ回り触手を、ただ伸ばすことしか出来ない化け物の冷たくも激しい感情に押されながら、私は眼前にあった門がわずかに開いたのを見た。
固く閉じられていたはずの扉が内側からゆっくり、ゆっくりと開き、薄水色の明かりが少しずつ洞窟内部に漏れてくる。
明かりとともに、白い朝霧のような靄が漏れ出してきた。煙にも雲にも似た靄はどこか冷たく感じ、化け物の足下に広がっていく。辺りがどんどん水色を含んだ白い光に飲まれ、木造の門が人一人は通れる分だけ開いた。
目には見えていないのに、頭の中にやけに長い腕でこちらへと手招く長い女の幻影を見た。


「まだ行ってはだめ。」

 

化け物と門の間に、撫子が立っていた。
長い髪が門の向こうから吹く風に踊らされ、服の裾を揺らしながら門を睨みつける。
尚も化け物は膨張を続け、醜く肥え太り続ける。

 

「やっと分かった。あなたのそれは化け物ではないのよ。今はまだ、渡してはならない。」

 

撫子が此方を振り向くと、門から吹きすさぶ風が強まった。
彼女の腰より高い位置まで白煙が登り包み込む。鴇浅葱色の髪が激しく踊る。
硝子玉のように美しい目を、今は赤黒くない人間の時と同じ視界で見られたことに胸が一瞬だけ和らいだ。

「ずっと探していたの。これで桜栄家に与えられた宿願という呪いから解放される。私の中に入りなさい、鷹司明良。我が子の体を、貴方に捧げましょう。」

撫子が何を言っているのか、何をしようとしているのか、理解が出来なかった。
化け物は耳元で唸りながら暴れ続け、門の向こうにいる何者かの圧で体も頭も潰されそうになっている。

霞の体がわずかに撫子に引っ張られ出した。私はそこでやっと、彼女の術式の中に捕らえられたことに気づき、彼女の行動を予測出来たが、同時に手遅れであるとも悟った。

 

『何をしようとしているの、わかっているのか。この姿を見よ。化け物だ。そなたも、そなたの子も喰ってしまうに決まっている。』
「これは我が子の宿命であり、我が桜栄家のお役目。」
『っ、やめろ撫子!』

 


私が強く否定しても、彼女は柔らかく微笑むのみだった。
細く白い腕を掲げると、靄の体が彼女の元に吸い込まれていく。
遙か彼方まで伸びていた触手が私のもとまで帰り、膨らんでいた体がしぼんでいく。

「新しい名前、鐵(くろがね)っていうのはどうかしら。人間らしい名前は嫌でしょ?鉄は昔も今もあって、貴方がかつて使っていた誰かを守る為の刀は、貴方の中にまだ有るはずよ。」

撫子の背後にある門が、ゆっくりと閉まっていくのが見えた。
白煙も悔しげに後退していき、ひしと門が合わさる瞬間まで、手の長い女もまた微笑んでいた。

「結局私が巻き込んでしまった・・・。ごめんなさい。でも、あなたに出会えたこと、本当に感謝してるの。どうか、これからは私の子を守って、鐵。そして生きてほしい。」


最後に見たのは、子を思う優しい母の微笑みだった。
次に意識を取り戻したとき、私は人間の子供として生まれていた。
鷹司明良としての記憶そのままに。

 

 

 

 

 

 


「かつて地上にあった宗教の知識から拝借するなら、輪生と呼ぶべきかしら。」

 


ずいぶん低くなった目線で、キセルをくわえる女を見上げる。
くわえているだけで、この体を気遣ってか、雁首に詰められた火薬に火はついていない。

「友人と記録をありたけ調べてみたわ。アンタ、皇子を守った功績が称えられて、当時の御上から永久右近衛大将に任命されたらしいわよ。化物を退けた橘家の術士も、本職の近衛とは別に永久左近衛大将。帝と都を守護する願いを込め内裏には橘と桜の木を植えた。
あ、桜なのは鷹の字をもじった高砂桜が、若桜宮とも繋がれていいだろうって帝が。本来の樹木とは別の左に橘、右に桜って言葉が生まれたのはそれが由来。」
『鷹司という男は大罪人だ。その話はまがい物か、私とは関係が無い逸話だろう。』
「強情ね。」


体の持ち主はまだ言葉が喋れるほど大きくないので、声帯をかえさない声と言葉で投げる。
私の声を聞ける存在は、撫子亡き今、この零鬼だけだ。


『時期、この子の自我を私は喰らってしまう。撫子が命をかけて産んだ子を。一体、なんのために生まれたというのか・・・。罪を犯し化け物に慣れ下がった男に身を捧げるためではなかろうに。』
「桜栄家は陰陽師の家系だそうね。お役目とやらは最期まで私にも教えてくれなかったけど、あの子には見えていたのでしょうね。」
『こんな残酷な未来をか。』
「いいえ、希望よ。」

 


零鬼は厚い唇をつり上げた。


「ようこそ天御影へ。過去からの来訪者さん。」

 


 

 

今となっては、若葉という少年がいたのかすらわからない。
撫子の子に取り付いた罪悪感を誤魔化すために、私が作った疑似人格なのではなかろうか。
少年の教育係のように振る舞うことで、本来自由に生きていくはずだった子供の未来を奪った罪滅ぼしをしていたのではないか。
若葉が大きくなり、かつて鷹司明良であった自分と同じ顔をしていると気づいた時には、もう自分が誰で、何なのかすらわからなくなっていた。


「だからあなたは、自分をクロガネと呼びだしたのね。」

 


水が張った洞窟の奥で、少女が水面の上で浮いている。
人身売買を生業とする輩が起こした襲撃から救った子に未来予知の力があると知り、何かの役に立てばとさらってきた。
少女は己の役割を知っていた。だから人が寄りつかぬ場所を選び、一人ひっそりと夢を見ていた。
空に満天の星空が広がり、水面に反射する。かつて、私が住んでいた土地で見た本物の夜空。若葉が知るはずもない景色。


「あなたの願いはなに?」
「願いなど遠の昔に燃えて消えた。もう何者でもなくなった。生きているのは、この体を生かすため。」


少女が―かつて撫子がつけるはずだった名前の片方を与えた少女が目を開けた。
何も写していなさそうな灰色に濁った瞳が、まっすぐこちらを見据えてくる。長い髪が風もないのにうねる。

 


「あなたはだれ」
「わからない。わからないんだ。」
「わかりたい?」
「出きるなら若葉にこの体を返してやりたい。だが、もう彼はいない。」
「ほんとうに?」
「・・・それも、わからない。」
「名は、輪郭。魂の在り方、そして還る場所。大事な暗号。さあ、あなたはだれ。」


頭上の星が燃えていた、青く、そして赤く。
天の川がゆっくり右に沈んでいき、星がいくつも流れた。

 

「だれであるべきか。」
「俺は―・・・」
「もう起きて。現実が貴方を待ってる。」

目を開けると、鐵が俺の体を抜けて暴れていた。

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