神宿りの木 クロガネ編 6
それは私がまだ、人間の男だった頃の話。
都を東に移し三十年が経つが、常枝宮(ときえだぐう)は安泰であった。
兼ねてから問題であった物資運搬用陸路整備も終わり、都のすぐ近くにある川を利用した港の建設も順調である。
内乱もなく、平安の世が続いているのは実に喜ばしいことである。
今代の帝もよく民の声を聞いて下さる賢王であり、それを支える五摂家の結束も固い。
帝をお支えする近衛である私も、日々の職務は誇らしく、喜びに満ちていた。
*
夜も更けた、子の刻。
松明を片手に、大内裏の門を抜け、北斗七星の冷たい輝きに見下ろされながら自分の持ち場へ向かう。
左手に掲げた松明が照らす範囲の外側は濃い闇が鎮座していたが、真っ直ぐと続く通りの向こうで、同じように松明を持つ人物が見えてきた。
紺の褐衣を纏い、頭には冠、腰に帯刀し、背中に弓矢を携えた武官は、こちらに気づき恭しくお辞儀をした。
「鷹司殿、ご苦労に存じまする。」
まだ若い武官のやや力んだ挨拶に、苦笑しながら空いた手を軽く挙げてやる。
「そうかしこまるな。そなたとは近衛時代よく鍛錬をした仲ではないか。」
「何を仰いますか、今や鷹司殿は右少将であらせられる。帝からの覚えもめでたい御人であり名家のご出身でながら、我々のような平民にも穏やかに接して下さる人格者でいらっしゃる。次期大将は鷹司殿だと皆が噂しておりますぞ。」
「恐れ多いことである。代々大将は雨条家様だ。鷹司家は近年力を付けた、ただの豪族。それに、御上が私の顔と名前を覚えて下さっているのは、皇子のお戯れに何度か気づいただけだ。」
「ずいぶん盛んな皇子と伺いました。最近大人しくなさっているのは、やはり鷹司殿のご助言が大きいとか。」
「お母上の秋子様はあまりお体が強くない。これ以上心労を増やしてはいけませんと伝えただけ。お優しい方なのだ。」
ならば安心ですね、と元同期はふと空を見上げた。
新月のため幾億もの星が松明の明かりに負けず瞬いている。
「今宵は月読様がお隠れになっております。あと一刻もすれば<妖(あやし)>も動き出す時間。お気を付けくださいませ。」
「ああ、そなたも。」
「それでは、右少将殿。」
再び恭しくお辞儀を返してくれる武官に苦笑しながら、通路を歩く。
大内裏の塀を左手に見回りを続ける。近衛兵と違って毎晩の警備の任は出世し小将となった彼には課せられてないのだが、今宵はどうにも胸騒ぎがしたので、刀だけ腰にさげ屋敷から出て来たのだ。
月の無い夜は<妖>の動きが活発だ。
二条大路を曲がり、外京の神社が建つ地区に入る。外界と神域を分けるため鎭守の森が囲っており、内部は一際闇が濃い。
砂利道を横切っていると、草木がこすれる僅かな音が聞こえてきた。刀の鞘に手を掛ける。木々が並ぶ根元には、背の高い雑草が生えている。中央神の領域である神社に<妖>は侵入できない。ならば野党か、獣か。松明を前に差し出して、身を低くしながらじりじりと近づいて警戒する。
ふと、彼は背を正し刀の柄から手を離した。
「出て来てくださいませ、是千代様。」
僅かに揺れている草むらに問いかけると、ガサガサと音がしたのち、角髪姿の幼い男児が申し訳なさそうに顔を覗かせた。
不安そうに此方を伺う幼子に優しく声を掛けると、やっと草むらをかき分け砂利の道に出て来た。小さな靴を揃えてもじもじと立つ幼子に近づき、目線を合わせるため屈んでやる。
「お怪我はございませんか。」
「怒らないで明良(あきら)!」
約束を破ったことに後ろめたさを感じているようで、今にも泣き出しそうな顔をしながら、小さな拳を握って懇願する。
先ほど出会った同僚に話した通り、もう一人で勝手に抜け出さないと言った手前気まずさがあるのだろう。
「この明良、若様が悪戯や私利私欲のみで東宮を抜け出すとは思っておりません。今宵はいかがされましたか。」
「母上様の咳が止まらず、昨日から高熱も出ているとか。照日様にお祈りをしてお母様の熱を下げて頂こうとしたのだが、陰陽寮が私の星並びが悪いので外出はするなと言うのだ。それで・・・。」
「私にお声かけ下されば喜んでお供いたしました。今宵は新月。<妖>にでも出くわしたら大変でございます。さあ、お祈りを済ませて戻りましょう。」
少年は大きな瞳にうっすら涙を浮かべながら、首を左右に激しく振った。
「今宵の目的はそれではない。女房から聞いたのだ。万病に効く薬草が小野山の麓に生息していると聞いた。煎じて飲めば、母上様の咳も治まるかもしれない。薬草は、新月の夜にしか見つけられないのだ。」
この皇子は、もっと小さなころからよく御所を抜け出しては使用人達を困らせていた。
その度御所周辺の警備を担当していた明良が皇子を見つけ出していたので、いつしか東宮傅に任命されたなどと根拠が無い噂がたち、皇子専属の護衛と呼ばれるようになったが、当然そのような任は一介の豪族でしかない武官には任されていない。
ちなみに是千代とは、内裏に出入りを許されていない武官や士官、一般人に聞かれても言いようにと外で使う通称で、御称号は若桜宮(わかさのみや)。
常枝宮の人間は、この皇子が誰よりも優しい皇子だと理解していない。
皇子が御所を抜け出す時は、いつも皇后様か帝のためだ。
あるときは風邪をこじらせた母の健康を祈るために神社へ向かい、星読みの巫女が帝の星が悪いと読めば、帝一族の起源であるご神木の元へ懇願しにいったり、果てには、側付きの女房がいじめられていると知って後宮へ文句を言いに行こうとしてたりもした。
両の拳を握りしめて懇願するような瞳を向けてくる皇子に、明良は優しく微笑んでやった。
「そういう事でしたら。まずは馬屋に寄って私の愛馬を連れてきましょう。薬草を見つけて戻れば、朝食にお茶を添えてもらえるでしょう。」
「明良・・・!」
「それより、是千代様がお声を掛けてくれなかったこと、明良は悲しゅうございます。私はそれほど頼りないでしょうか。」
「そんなわけない!ただ・・・明良にこれ以上迷惑かけたくなくて・・・。」
「迷惑なわけがありましょうか。是千代様のためならば、どこまでもお供いたしますよ。さ、参りましょう。」
幼子一人で夜道を歩くのはどれほど恐ろしいことか。しかも新月の夜に。震える手をそっと握ってやると、皇子は乱暴に袖で涙を拭った。
近衛府にある馬屋は常に番がいるので、少し大回りにはなるが、自分の屋敷に戻り、彼が世話をしている愛馬を連れて誰にも見つからぬように内裏を抜ける。
馬で走ると風が冷たいので、屋敷から自分の衣を持ってきて皇子に着させた。
鞍の前に皇子を座らせて、振り下ろさないようしっかりと抱き留める。屋敷に寄った際、皇子は共にいるから安心するよう東宮に使いは出している。あまり焦らなくとも問題はない。
蹄の音が大路に響かぬよう脇道を選び、最も近い門から常枝宮の外に出た。
「先程、杜守(ともり)様が姿を見せてくださったのだ。きっと願いを神の御許へ運んでくださる。」
「ええ。是千代様が自ら摘んだ薬草で、皇后様の病気もよくなりますよ。」
杜守様とは、帝一族の血族だけに見える神の使いであり、ご神木を守るお役目。
白くぼんやりとした紙人形のような姿で、綿毛のように浮遊していると是千代様が教えてくれたことがある。
いつも姿を見られるわけではなく、姿を拝見できればよい兆しが訪れる証であるとか。
杜守様を見たからか、明良の言葉に勇気づけられたからか、とっくに就寝している時間にもかかわらず、皇子は楽しそうに馬上から流れる景色を眺めていた。
夜更けに人が通らぬような路を選びながら、常枝宮の北東にある小野山に入る。丘と見間違う程低い山で、道も整備されているため馬に乗ったまま入山出来た。目的の薬草が咲いているという場所も、さほど深い場所ではないらしい。
明かりは持たぬよう指示されていたので、暗い山中をキョロキョロと見回した皇子が、あそこ、と指を差した。
衣を脱いだ皇子を鞍から下ろしてやり、馬を待たせ王子が指さした場所に向かった。
乱雑に生えた木々の合間がぽっかりと空いており、雑草に紛れて白い花が群生していた。花弁は平たい円系で五つ、丈は低く、しっかりとした葉がついている。
月明かりもないのに、花は自ら青白く光っていた。可愛らしい花弁が、ぼんやりと滲むような明かりではあるが確かに灯っていた。
勉学を学び博識な明良ではあっても、光る花など聞いたことが無かった。
「新月の夜にだけ咲く白い花。花の下にある葉を採取して煎じればどんな病も治るらしいのだ。」
皇子は小走りに花の元に走り、しゃがみ込んで花の下で揺れる葉をむしりだした。
明良はただ、不思議な光景に面食らっていた。皇子の小さな手が葉をむしる動作で、花粉が舞った。
次々に空に舞い上がる花粉は青白く輝き、まるで蛍のようであった。土の上では花びらが光り、頭上では花粉が輝く。
夢の中に立っているかのような錯覚に襲われる。現実と空想の境界線が交わった気さえする。
一帯を包む幻想的な光景に目が奪われながらも、明良は腰に差した刀を握り、親指でツバを弾き鞘からずらした。
夢中で草を摘んで小袋に入れている皇子を守るように一歩前に出た。視線の先、舞い上がる花粉や白く幻想的に光る花の明かりが届かぬ闇を睨み付ける。
まだ目視は出来ていないが、確かにそこにいる。
だが、敵意も殺意も感じない。無害な<妖>の一種だろうか。こちらに何もしないならば―
そう思って刀を下げかけた明良は、足下の皇子を抱え走った。青白く光る花びらが無残に散らされ乱雑に舞った。
走りながら振り返ると、先ほど皇子が居た場所に蔦のような黒い触手が真っ直ぐと伸びていた。触手が地面を叩いたせいで花が散り、触手から振り落とされた黒い粒子に毒され枯れていく。
目を奪われるほど幻想的で美しかった花たちが、茶色く変色し乾いて皺だらけになりながら、ゆっくりと頭を下げていく。あの粒子を浴びたせいだろう。
人間を襲う<妖>には人間と同じように意思があり、感情のような起伏を感じるのに、攻撃の瞬間まで何も感じられなかった。
枯れた花畑の上に現れたそれは、闇夜を抱いて居るような、真っ黒な靄だった。輪郭は煙のように曖昧で朧だが、闇が粒子となって空気に散っているのが見えた。本体の靄から飛ぶ粒子は、青白い花や雑草を見つけてはまとわりつき、命を吸っていく。
腕の中に抱えた皇子も同じ化物を見て、絶句していた。
先程まで皇子が一生懸命摘んでいた草花は、突如現われた化物によって踏みにじられている。
左腕で皇子を抱え、抜刀した剣を右手で握り対峙する化物に向ける。
<妖>のようで、<妖>ではないであろう化物に目はないのだが、こちらを向いた気配があった。
敵意も攻撃の予備動作も無いが、数々の<妖>と戦い歴戦をくぐり抜けてきた明良は勘のみで伸びて来た触手から逃げ、攻撃の避け様に触手に剣を振り下ろした。
しかし、黒い触手に触れた箇所から先が折れてしまった。
衝撃もなかったので、欠けたというより、その箇所だけ闇の向こう側に喰われて消えてしまったかのようだった。
靄が僅かに膨れたのを視界の端で捕らえ、明良は踵を返し馬のもとまで走る。
動物の本能で化物の気配を察知しているのだろう。落ちつかぬ様子を見せては居るが、主人を待っていてくれた愛馬の背に皇子を乗せる。明良も鞍に足を掛けようとしたところで、軸足の感覚が急に消えた。体重を支えきれず倒れそうになる寸でで、馬の尻を叩き走らせた。皇子が彼の名を叫んだが、行けと馬に命令する。
森の出口を向かう馬と皇子の背を見送ることは出来ず、明良は転がりながら背後からの気配を避けた。
伸ばしてきた触手を引きながら、靄がゆっくりと明良に近寄り、表面は先程より激しくうねって粒子を飛ばしている。腕で素早き起き上がりながら、右足を確認する。
足は確かにあるのだが、黒い闇に呑まれて履いているはずの草鞋や袴の輪郭線が無い。感覚もない。あるのは闇一色。
さすがの明良も我が身に起きた怪現象に戸惑ってしまい、生まれた僅かな隙をついて、粒子が体に付着してくる。
細かな粒子に触れられただけで、体がどんどんと黒く染まっていった。黒い雨に降られ、どんどんと濡れた箇所が広がるように、それはゆっくりと確実に広がっていき侵食してくる。
まだ動く手と残った刃で足を切り落とそうと試みたが、闇に触れた刀はやはり闇に喰われ消失してしまう。
この粒子の正体はわからぬが、完全に飲まれれば死であると悟った明良は懐に手を入れ、一枚の和紙を取りだした。
どうか気づいてくれ。そう願いながら、ぽっかりと空いた空に投げた。
紙とは思えぬ早さで高く早く飛んだそれは金色の粒子を吹き出しながら眩く光って、金の鳥の姿になると、どこかへ飛び去った。
白い花を全て飲み込むだけでは飽き足らず、近くの木々も自身から飛ばした粒子や触手で枯らし命を吸いとり始めた靄の表面は
どんどんと波打って暴れ出す。
こいつは生命ではないのかもしれない。<妖>とは別の、命を吸い取る何か。
体が闇に飲まれていきながらも、こやつを都に行かせるわけにはいかぬと短くなった愛刀を構える。
体の感覚はない。視界の端が暗くなってきたのも、粒子のせいだ。
時期草木のように枯れて朽ちるだろうが、花より体が大きいので、命が完全に吸い取れれるにも時間がかかるはず。
残った時間で何が出来るか、それだけを考える。
足の感覚がないせいでふらつきながら立ち上がる。物心ついたころから自然と出来た仕草が急にぎこちなくなってしまうが、体重を支えることは出来る。試しに左足を横に動かしてみれば、無事動く。十分だ。
息苦しくなってきたのは、内部まで粒子が侵入してきたせいか。荒くなってきた呼吸を整えながら、刀を横向きに構え、強く地面を蹴る。体に重みは無く自分が此処にいるという感覚は失われていたが、長年そうしてきたように走る。
走れる。ならば、まだ戦える。
ずいぶん短くなった刀で斬ることは出来ないので、懐に忍び込んで刺すしか無い。
触手が予備動作なしに、真っ直ぐと明良の眉間を指しにくる。目視よりも、ほとんど勘で攻撃を避けながら化物の懐に忍び込む。
右手の刀で怪物の胴体らしき部分を突き刺した。
刺した、はずだ。感覚は何も無かった。この怪物は靄だ。全てが靄で出来ている。
<妖>にも実体はあり、魂があった。魂があるものは人間が持つ<玉賜(ギョクシ)>の力で倒せるはずなのだ。
だが目の前の靄にはそれがない。
明良の腹に触手が突き刺さる。内側から冷えていくのがわかった。
本当に冷たいわけではないのに、そう感じる。
視界がどんどん暗くなる。呑まれている。もう手足は動かない。
おかしなことに、化物の向こうに見える星空が綺麗だと思った。どんどん失われていく視界で星の瞬きがずいぶん鮮やかに感じた。新月のおかげだろうか。最期に、月明かりも拝みたいところだと、自分の強欲さに笑えてきた。
自嘲気味の笑みを携えたまま、触手が何本も体に絡みつき、やがて闇に呑まれた。
このまま枯れていくのだと覚悟したのに、意識はまだ此処にあった。
自分が鷹司明良であると理解出来る。
まだ出来ることがあるのかと希望を抱いてしまうが、体は完全に失ったようだ。
目を、開いた。
闇をかき分けて、弱い光が戻ってくる。
先程いた、白い花が群生していた場にまだ立っている。
失ったと思っていた色が徐々に戻ってくるが、やや赤みが強い視界に変わりは無く、新月の夜中だというのにずいぶん明るく感じる。
体が動いた。滑るように移動する体に重みはないが、感覚は敏感になり嗅覚とも触覚とも違う敏感になった何かに支配される。
枯れ果てた群生地を抜ける。木々をすり抜ける度、体の横でしなる音がする。頭上から枯れ葉が落ちてひらり舞うのが視界に入る。
枯れた幹が倒れる度、もうないはずの体の、さらに奥から疼くようなかゆみが襲ってくる。
それがとても心地よかった。
私はこれを望んでいた。そんな気さえしてきた。
これこそが、私の仕事。私の役割。
体がうずくたび、喜びが滲んでいく。もしまだ指先があったのなら震えていただろう。
山を抜ける。土の道を辿り、砂利道に入る。此処がどこか知っているような気がするが、思い出せない。ただ、体のうずきを求めて彷徨っていた。
気配が強くなってきた。似たような形の箱が並び、中にある気配を察して触手を伸ばせば簡単に枯れ果て、体に歓喜の疼きが走る。
もっと欲しくなって、触手だけでなく、体を広げて伸ばす。箱の存在がうざったくなって、木で出来たそれも飲み込んでしまう。
体が膨れた。視界が広くなる。
何か一際明るい光がいくつも入ってきた。アレが手にもった棒先を燃やしている。あれはなんだったか。そうだ、火だ。
わらわらとやって来たアレが、ブキを持ってやって来る。
何かを叫んでいるが、ワタシは触手をただ伸ばした。
アレの数だけ体が喜びに震えた。
もっと来い、もっとだと欲深くなる。
目の前に、火の鳥が舞い降りた。
一体のアレが、立ち塞がる。それが唱える声が酷く耳障りで、体の表面が波打った。耳があるかは不明だが。
ワタシは声から逃げたくて空に飛んだ。
一際、おいしそうなニオイがした。
わかる。
ニオイがある場所を触手で探り、そこに降り立った。
砂利が鳴る。アレとはちがう茶色い首の長い生き物から降りた、小さなアレがこちらを見ていた。
ニオイは小さいアレから香ってくる。
アレは、ワタシが探していた――・・・
―――是千代様が、震えた目で私を見つめていた。
従者に抱きつきながら、今まで私に向けたことの無い侮蔑と軽蔑を含ませた目で、気丈にこちらを睨み付けてくる。目に涙を蓄えながら、懐に抱いた袋を奪われまいと抱えている。
母のために。
――本当にお優しいお方だ。
一人の僧が是千代様を守るように立ち塞がり、呪を唱え出す。彼を知っている。橘家の当主だ。
呪を聞いて私の体は震えたが、もう恐ろしくはなかった。
都や城下町の家々に伸ばしていた触手を一気に引き寄せ、どこかへ逃がされる皇子の小さな背中を見送った。護衛達に守られながら、皇子が振り向いて何かを言った。
私はまた空に飛んで、次に急降下をすると、地面のその更に下へ逃げた。
私がもう人間では無くなったのを察した。
靄の化物に飲み込まれたのだ。
人間の一生とは実に儚いものである。
自我を保って尚且つ化物の体を操れるようになったのは、この化物に魂が無いからであろう。
この化物の性質は、吸収らしい。触れる命をただ奪う。
その行為に感情などはなく、ただ合理的に行われる運動や生命活動の延長戦。
これは寄生虫か、細菌の一種なのだろうか。私の体を飲み込んだのも繁殖し、知性を得るためだったかもしれないが、私は化物には完全に呑まれたわけではない。意識が、自我があった。
武官であり民と帝をお守りすると誓った人間が、化け物に飲まれ命を奪ったなどど、仲間達に会わせる顔はないが、もう二度と人間は襲わせない。皇子や都をお守りする。それが近衛たる私のお役目。
地底の奥底で、私は化物を押さえるべく深い眠りについた。
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