❀ 4-5
滑り込むように逃げた先は、白い煙が充満した場所ーいや、雲の中だった。
空気が冷え切っており、細かい氷になりかけの粒が頬を叩き目が開いていられず腕で顔をかばう。
リヒトやサジの気配が読めなくなり、此処はマナで出来た結界の中だと気づいた時には、嵐に突っ込んでいた。
体を包むようにマナで包むが、箒の先端が風で煽られ左右に振れてしまい、重心が定まらない。
上に飛んで嵐を避けるか、地面を目指すか。
――いや、正面だ。
声がしたわけではないのに、そう誰かが告げた気がして、飛ぶスピードを上げ風の抵抗を減らすため身を低くする。
全面に展開していた防壁を体の前だけに集結させると、風圧と寒さで指先が痛んだが、気にしてる場合ではない。
風の吹き抜ける轟音で耳が割れてしまいそうだった。
痛みの中にあっても、ジノの怪我が心配だった。マリーも起きただろうか。
突然、嵐から抜けた。
風はピタリと止み、音もない、振り向けば、渦巻く積乱雲がゆっくり遠ざかっていく。
あの雲はマナで出来ていた。幻術の一種がかけられていたのだろう。正しい道以外を選べば永久に迷っていたに違いない。
凍えて固まった体をゆっくり起しながら、辺りを見渡す。
頭上には憂鬱そうな分厚い雲と、足下には茶色しかない地面が広がっているだけ。
建物どころか木も岩もない。
仲間達の姿もなかった。
まだ雲の中に捕らえられているのだろうか、箒の向きを変えようとしたとき、視界の端で黒い影が見えた。
ジノかサジだろうか。とりあえずそちらへ飛ぼうとする。
―それはトラップ。追ってはいけないよ。
再び声ではないお告げが頭に入り込んできた。これは直接意思を流しているんだ。
そう気づいた時、鼻先に白い何かが現われた。サジの折り紙だった。
「サジ先輩!」
『やっと繋がった。無事かい?』
「はい。先輩とマリーは?」
『マリーちゃんはオレがしっかり守ってる。』
「雲の中は抜けられました?」
『ああ。嵐の次は無限の青空だ。』
「こっちは曇り空ですよ。」
折り紙の鶴が羽を動かしてひらひら飛びながら、ルフェの顔の横についた。
『どうやら別々の無限回廊に閉じ込められたね。』
「魔女ですか?」
『かもしれない。リヒト達が捕まらないんだ。きっと無事だろうけど。合流出来るように通信は繋いでおこう。』
「はい。」
『懐かしいね。初めて会った時も、こうして君をサポートしたよね。』
あの時から、1年も経っていない。
思えば、サジにサポートされながらくぐり抜けたブロール宣言でクロノス学園を知り、溶け込めた気がする。
平和で楽しかった学園生活を思い出して、少しだけ心がざわついてしまった。
いけない。心を緩めれば敵につけ込まれてしまう。
「先輩、私どうしたらいいですか?」
『そっちからもア・・・チでき・・・に、探・・・。』
「先輩?」
声が途絶えだし、現われたばかりの折り鶴が粉々に破けて消えてしまった。
通信も切れたようだ。
以前雪吹雪の中に閉じ込められたものと此処が同じ無限回廊なら、マナを放出すれば破けるだろうか。
しかし、違和感を感じた。
サジとは別々の幻覚世界へ飛ばされた。なのにどうやって通信出来たのだろうか。
本当に此処は、無限回廊の中なのだろうか。
何か、違う気がする。この違和感は何なのだろうか。
考えろ。今は自分の代わりに考えてくれる人はいない。
いや、彼らを早く助けなければならない。
焦れば焦るほど、頭にもやがかかって案が浮かばない。
こういう時、いつもタテワキ先生かジノが妙案を考えてくれていた。
自分は実行していただけ。
いくら莫大なマナを持っていても、何も出来ない無力である。
自分は・・・。
―ダメだよ。心は強くもちなさい。
サジの意識が励ましてくれた。
本当にサジか?そういえば、口調がいつもより固かったような・・・。
『あれ?完璧だと思ったけど、親しいと違和感に気づきやすいのかな。』
今度ははっきりと、空気を振わせる音がした。
声は知らない男性の声だった。
高めで、どちらかといえば少年の声に近い。
「さっきから、心を読むのをやめていただけますか。」
『プライバシーの侵害?フフ。女の子にたいしてマナー違反だったかな。』
曇天の雲が高速で流れ、青空が現われた。
足下の地面に代わりはないが、世界はかなり明るくなった。
姿を現さないが、声はハッキリと聞こえてきて、存在も近くに感じる。
「どちら様ですか?」
『ラストの友達さ。』
「ラスト?」
『イルの大地行くんでしょ?君は今イルの手前にある、よそ者を入れないようにするトラップの中。
一級の魔術が複雑に絡んでるから、君たちじゃ抜け出せないと思うんだ。』
リヒトの転移魔法は正確だったが、正確すぎてトラップの上にそのまま飛んだのか。
声の主が上にいるのか後ろにいるのかはわからないが、背を正して正面を向く。
『彼女がきっと待っている。案内しよう。』
「彼女?どうして助けてくれるの?」
『これは貸しだよ。次に会うときは、僕を助けてもらうからね。』
景色が歪みだし、手にしていたアセットが強制解除され体が地面に落ちていく。
重力と引力の手招きを受けながら、上を見上げた。
そこに、いるような気がしたのだ。
――またね。
体に重みが帰って来て、ルフェは地面の上に立っていた。
名を叫ばれ右を向くと、横たわるジノの手当をするリヒトがいた。
ジノよりリヒトの方が顔色は極めて悪く、表情は焦り、泣き出しそうだ。
慌てて駆け寄って、治療を手伝う。
「トラップを避けるのに手一杯で治療が遅れた。体温が落ちてきてる。」
「額の傷は大したことない。けど・・・マナが吸われてる?」
「トラップ事態がマナの吸収剤みたいなものだったんだよ。」
マリーを抱えたサジが空から降りてきた。
腕の中のマリーもぐったりしている。意識がない人間は余計にマナを消費させられたようだ。
「私のマナを少しずつ流すから、リヒトが調和して。」
「待って。ルフェちゃんのマナじゃ強すぎる。オレがやろう。」
マリーを受け取って、サジはジノの額に手の平を当て自身のマナを流し込む。
ルフェとジノのマナの差は大きい上に、他人のマナが体に入ると拒絶反応が起こる場合がある。
それを利用して攻撃する魔法もあるが、もちろん治療に使うこともある。
だが医者と違って学校を卒業したばかりの素人だ。
実力者のサジでさえ、細心の注意を払いかなり集中しているうちに額に汗がたまっていく。
腕の中で、マリーが僅かに身動きを取った。
顔を覗き込むと、小さく唸りながら目を開け、寒さに体をブルッと震わせた。
「此処は・・・。」
「マリー、大丈夫?」
「私、一体・・・」
マリーが体を起こした。
そこで、横たわるジノを見つけて立とうとするが、よろめいてルフェが支えてやる。
「説明すると長くなるんだけど、とりあえずジノは大丈夫よ。命に別状はない。」
「私・・・グラン先輩と戦って、それで・・・。大変ですわルフェ!!」
急に大声を上げてルフェの上着を掴んだマリーに驚いて、僅かに背を反らしてしまう。
こちらを見つめてくる大きな瞳が、紫色を含みだしていた。
「イルの大地に行ってはなりません!これはグラン先輩の罠です!」
「え、だって、此処はもう―。」
再び、地震に襲われた。
地響きと空気中に満ちた高濃度マナが圧力となって体に降りかかる。
倍以上に大きくなった重力に押しつぶされるかのように体が地面に落ちていき、
サジは治療の手を止めざる終えなくなり、ジノをかばうようにリヒトが覆い被さった。
凄まじいプレッシャーだった。この中で一番マナの量が多いルフェでさえ、
立つ事も出来ず額が地面に着かないように踏ん張り、完全に横たわりそうな体を両腕で支えるのが精一杯だった。
地面は揺れ続け、気を抜けば意識を手放してしまいそうだ。
体にのしかかる重力で骨が悲鳴を上げだし、嫌でもうめき声が漏れてしまう。
上下左右に揺さぶられる視界の端に、赤い色が現われたのが見えた。
歯を食いしばりながら顔を横に向けると、乾いた浅黒い土の上に、鮮明に燃える炎がある。
違う。あれは燃えさかる赤い髪だ。
まずい、逃げなければ。
そう頭の中で警鐘を慣らすも、赤い炎の化身はルフェ達の前に移動してきた。
体にマナを込めながら、必死に重力にあらがって上体を上げると、7番目の魔女がこちらを見下ろしていた。
ライム島で見た赤髪の魔女は、今日も赤いドレスを纏い憂いの瞳を向けてくる。
揺れる視界の中でも、憂鬱そうなその瞳に怒りが滲んでいるのに嫌でも気づく。
地響きが少しずつ落ち着いていき、揺れが収まった。
体に掛かる圧から解放されたことにより、体に血が巡り浮遊感に包まれる。
まだ体が揺れている錯覚が治まらない。
サジとリヒトの荒い呼吸を聞きながら、ルフェは魔女と睨み合う。
「嗚呼、実に惜しい。お前を目の前にして、殺せないとはな。あの方が殺すなと仰った。だが、他の雑草は指示されていない。」
立ち上がりたいが、動けば殺される。
それほどのプレッシャーを一身に受ける。
「なぜお前なのだ。なぜ・・・なぜ。なぜ、なぜ・・・!」
吐き出された言葉は後半になるほど強くなり、滲んだ怒りは魔女を醜く見せた。
醜態を隠そうとはせず、魔女はルフェの髪を掴み無理矢理立たせると、顔を睨み付けた。
「私はずっとあの方を見ていた。ずっと、お側に居た。
なのにどうして、あの方の心の中にはお前しかいないのだ!お前が生まれたせいだ!」
マナのプレッシャーから解放され疲労感が一気に体をめぐり、
更に頭を激しく振られたせいで意識が朦朧としてきた中で
憤怒に染まる両目の中に広がる宇宙を見た。獸のようにむき出しになった歯は牙こそ生えてないが、今にも喉を噛みついてきそうだ。
掴まれた腕を振り払おうともがく手に、もう力は入らない。
「お前は罪が生み出したただの人間だ!姉さんの恩恵を受けただけに過ぎない。何も知らぬ小娘が調子に乗るんじゃないよ!」
ルフェの髪を乱暴に降って、無理矢理リヒト達の方を向かせる。
「選ばせてやる!どの雑草から殺す!」
「や、やめ・・・。」
「どれがいいかと聞いてるんだ!さっさと答えろ!」
魔女が放つマナで再び空気が震え、圧に押されたサジが地面に鮮血を吐いた。
口元を血で汚しながら、ゆっくり顔を上げてルフェに力なく微笑む。
その目は、オレを選べと言っている。ルフェはすぐ気づいたが、目に涙を溜めながら首を横に振る。
仲間を選ぶなど、出来るはずがない。
だが、魔女の殺意は本物だった。その苛立ちも。
「何だ。選ばないのか。なら、私が―・・・小娘はどこへ行った?」
意識を失って倒れていたマリーの姿がなかった。
サジの横にいたはずなのに。
「ここだよ、赤い魔女。」
髪への痛みが消え、拘束が解かれたことで体が地面に落ちる。
顔を上げた時、そこにいたのは血が垂れる腕をかばいながら、驚いたような、呆けた顔をしている魔女と
アセットを握ったまま中腰になって構えているマリー、いや、ヴァイオレットだった。
「妹の大事な仲間を傷つけさせやしないよ。」
「人間の分際で、よくも私に傷を・・・。お前から殺してやる!」
魔女が怪我をしていない手の平を上げてマナを放つ。
砲台の弾丸のような一撃がヴァイオレットに遅いかかるが、彼女は身を低くしただけで避けることはせず
攻撃の下を潜って恐れず魔女に突進していく。
走りながら、アセットが変形する。
先端が鋭利な刃となり、美しい造形の槍型のアセットの柄を握りしめ魔女の脇腹へ差し込んだ。
攻撃の途中で懐に入り込まれれば、大抵の敵はひるむが、魔女は半透明な魔法の鞭で先端を弾くと続けて鞭を鋭利な刃物に変化させ
ヴァイオレットの肩を狙う。
彼女は左に大きく一歩飛んで攻撃を避け、ひるむ事無く槍を差していく。
攻撃は最大の防御という言葉を体現したように魔女に引けをとらず攻撃を繰り返していく。
だんだんとスピードは上がっていき、視力では攻防をとらえられなくなってきた。
ヴァイオレットに、こんなに高度な技術があったとは。
隙をついて、ルフェはサジの元にいく。
傷の具合を探ると、内部を傷つけられていて、ルフェが知っている治癒魔法では直せそうになかった。
「サジ先輩。マナを貸しますから、転移魔法で飛んでください。」
「だ、だめだよ。置いていかない。」
「ジノが重症かもしれないんです。お願いです。今転移を使えそうなのはサジ先輩だけなんです。」
ジノに覆い被さるリヒトが、必死に彼の名を叫んでいる。
珍しくうろたえ、震えている。
怪我をしてる上に、マナの圧で体内で悪い影響が出たのかもしれない。
サジは合理的な思考を持ち、冷静な判断が出来る。出来るからこそ、奥歯をきつく噛みしめ拳を握りながら転移魔法の陣を展開させた。
「ジノをよろしく頼みます。」
「応援を呼んで、すぐ迎えにくるから。」
ジノと共にサジが転移する直前に、魔女がヴァイオレットの攻撃をかいくぐってマナを放ってきた。
サジはまだ転移しきれていない。このまま攻撃されては飛ぶ事が出来ない。
防壁展開しようとしたルフェの前に、先んじて何重にも展開された防壁が魔女の一撃を弾き、サジとジノは無事転移した。
「リヒト、どうして飛ばなかったの。あなたもマナの消費が激しいのに。」
「俺を役立たず扱いするな。外傷はない。マナを貸せ、俺がやる。」
脇腹を押さえながら肩で大きく息をしているリヒトの綺麗な顔は、怒りが歪んでいた。
ジノを守るのにマナを使い果たしたのだろう、いつ倒れていてもおかしくない。
リヒトの肩に手を当て自分のマナを注入する。
すぐさに地面に魔法陣を展開させ、リヒトの背面からマナの弾丸が拘束で飛ぶ。
ヴァイオレットに当たらぬように、自在に弾丸を操って魔女に当てていく。
横目で魔女が殺意を向けるも、ヴァイオレットが立ちはだかる。
ルフェもハルバードを構えながら、体中にマナを溜めた。
先程のダメージと、リヒトとサジにマナを分けてはいるが、まだマナは切れていない。
底知れない自分のマナ量に感謝する。
リヒトが足の裏にマナを仕込んで加速しながら魔女に突進。杖は作らず、体の周りに黄色く光るマナの球体を宿し発射。
リヒトの攻撃に気づいたヴァイオレットは、避けはせず魔女を逃がさぬようにさらに攻撃の手を強める。
ルフェは高く上に飛んで、上空からハルバードを突き刺すように魔女を狙う。
打ち合わせ無しの3人同時攻撃は綺麗に決まった。
2人がハルバードで直接体を叩き、リヒトの圧縮されたマナ弾を打ち込む。
しかし、3人の体が同時に吹っ飛ばされた。
地面に転がりながら、防御を取ることは忘れず、顔を上げる。
魔女の体は赤く光り、鮮やかな髪は空を目指して舞い上がり、爪の先まで満ちたマナは空気中にバチバチと音を立てる。
この窮地に身を置いても、美しいと思ってしまった。
殺意とは別のオーラを放ち輪郭が歪むほど光り輝く魔女は、天から降りてきた天使の絵画のようだった。
それが一線を越え、殺意さえも超えてしまった境地だと気づいた時、魔女は姿を消した。
目にもとまらぬ早さで動いた魔女の気配を察してヴァイオレットが体の前にアセットを構えたのだが、
真っ二つに折られ、腹部に魔女の腕が刺さった。
突き抜けた腕が赤く染まり、長い爪が怪しく光る。
「ヴァイオレット!!!」
ルフェの悲痛な叫びが木霊したと同時に、、リヒトの体が上に跳ね、浮いた彼の後頭部叩き、体が地面に埋まり、動かなくなった。
魔女がこちらを向いた。
時が止まった気がした。
魔女の双眸に感情はなかった。怒りも、悲しみも。
何も無い美しい女性は、神聖な存在にも思えた。
あれが人が及ばざる存在ならば、神の裁判を受けたようなものだと誰もが勘違いするだろう。
これは厄災。
嵐に巻き込まれたようなもの。
無の瞬間にハマってしまったルフェだが、体が拒絶反応を起こしマナを爆発させる。
ルフェを起点にマナは広がり魔女を飲み込む。
世界がホワイトアウトして、徐々にルフェの怒りが高まっていく。
放ったマナが消え元の暗さに戻ったとき、ルフェは立ち上がっており、彼女の周りには、何十もの白い蝶が飛び回っていた。
蝶はヴァイオレットやリヒトの体に止まっては、羽を動かしている。
「また、生き返らせたのか。末恐ろしいな。お姉様ですら、死んだ命を元には戻せない。」
魔女の言葉には言い返さず、口からヒューヒューとかすれた息を吐きながら、ルフェが左腕を上げる。
パチン、という音がしたと魔女が気づいた時には、魔女の左腕が地面に落ちた。
自分の身に何が起きたかわかっていない魔女は、
しばらく地面に落ちた白くて美しい腕を眺めていたが、地面を震わせるほどの絶叫を上げる。
美しいと自慢の体が傷つけられた。
あの小娘、やはり殺そうと逆上した時には、体だがくらりとゆれてひっくり返ってしまい体が地面に倒れた。
寝たままの視界の中、変な向きで落ちている自身の左足と対面する。
腕に続いて足ももがれ、バランスがとれず倒れたのだ。頭の片隅だけやけに冷静で、煮えくりかえりそうな怒りの奥から
底知れぬ恐怖が体の内側を通り、喉をかすめて乙女のようなか弱い声を漏らす。
「や・・・やめて。殺さないで・・・。」
こんなに情けない台詞をいうつもりじゃないのに、言いたくなくても声が出てしまう。
今や怒りより恐怖が体を支配していた。
原始の存在として頂点に君臨していた魔女に見せつけられた、死という概念。
大きな怪我もしたことはなかった。なぜなら自分たちより強い存在がいなかったからだ。
人間の土地に大穴を開けた時だって、姉妹全員が揃って助け合って戦ったおかげで、死など感じなかった。
ああ、これが、死。終わり。
怖い、怖い。
消えたくない。
ここにいたい。
あの人に捨てられたくない。
姉妹たちに、何も言えぬまま消えたくなどーーーーー
「しっかりしてください、ネアさん。」
若い男の声がして、首の裏にチクりという痛みが走った。
ネアは立っていた。
自分の両足で、しっかりと地面を踏みしめている。
震えながら手を持ち上げてまじまじと観察すると、左腕はしっかりと肩にくっついているし、足もある。
痛みは金髪の娘につけられた切り傷ぐらい。
震える息を、ふっくり吐いて、恐る恐る吸う。
首を右に回すと、灰色の外套を纏った人間の男がいた。
ロノエ姉さんが手なずけた人間のガキだ。
「幻覚のようなものです。ルフェのプレッシャーで脳が防衛本能を働かせたのでしょう。」
「・・・は?私が?・・・死の予感を感じて、気絶しないように、妄想を・・・?」
「落ち着いて下さい。」
ネアがゆっくりと首を前に戻して、ルフェを見た。
白い蝶は相変わらず漂っている。
どこから現実だったのか、もうわからない。
人間の子供二人とも倒れたままだが、傷はもう塞がっている。生きている気配がある。
混乱すら、気持ち悪かった。
ゼイゼイと肩で息を繰り返しながら、指の先まで力が入り、肩がせり上がる。
負けたというのか。あの小娘に。
ただの人間の娘。
いや、元はと言えばあいつは盗人だ。
姉さんの大事なものを盗んだ―――ー。
許しを懇願し情けなく泣く自分を認めなく無かった。
死を覚悟した最後の祈りを、肯定などしたくなかった。
あれはもう捨てたもの。
あの方について行くと決めたときに。
ネアは両の手首に古の魔法陣をブレスレットのように纏う。
「ルフェを痛めつけてはなりません。ロード様は時間までこの地に足止めをせよと仰いました。」
「うるさい!私に指図するな!」
「僕がわざわざヒントを残して、古い友人まで使って此処に誘い込んだのですよ。徒労を無下にしないで頂きたい。」
「お前も見ただろう。あの娘、再生を使いこなした。このままでは予言が実現する。殺してやりたいとこだが・・・拘束する。」
「それでしたら、喜んで。」
グランが木の長杖を構え、足下の魔法陣からマナで編み上げた鎖を出現させ、ルフェに向かって放つ。
ルフェは動かなかったが、辺りに飛んでいた蝶が集まって鎖を防ぐ。
マナとマナが拮抗し、風が起こる。
追い打ちを掛けるようにネアが瞬間移動でルフェの前まで迫り、鋭利な爪を振りかぶった。
――夜が突然降ってきた。
分厚い雲が一瞬で晴れ、その奥から満点の星空がベールを脱いで姿を現した。
遅れて闇が空からゆっくりと舞い降りて、ルフェの前に着地する。
地面に届きそうなほど長い黒髪と、黒いドレスを纏った女性が、ルフェを守るように片腕を上げる。
攻撃を中断させ着地した赤髪の魔女は、爪を突き出した格好のまま目を見開いて固まっていたが、やがて震える唇を開いた。
「姉さん・・・!ああ、モルガン姉さん!やはり、ご無事でしたか!」
手を引っ込めると、口元を手で覆い、今にも泣き出しそうに眉を八の字に歪めた。
まるで神聖なものに邂逅出来たように感激で腕を振るわせ、勝手に落ちた涙を拭うこともしない。
「彼の地で祈りを捧げておいでだと聞いてはおりましたが、直接お姿を拝見出来るのは、いつ以来でしょう。」
ルフェを守るように飛んでいた蝶が消え、舞い降りた夜の化身が顔だけ振り向く。
瞳の中にある宇宙が、星空より輝いている。
クロノス学園の学園祭で、星飾りの展示室で会った女の人だった。
名を聞いたことがある。
第1の巫女、モルガン。
姉妹達の長女にして、始まりの土地の主。
第1の巫女は顔をネアに戻した。
「もうおやめなさい、ネア。」
「いいえお姉様。あの人を助けるため、姉さんから自由を奪った宇宙意思を退けるためでもあります。」
「人の子を消し過ぎました。土地も汚れ、古の生き物が帰る場所がないと嘆いています。辞めるように言いなさい。」
「人間など一掃してしまえばよろしいではないですか。奴らこそ、女神の大地を汚し過ぎました。
来る3度目の襲撃までには、邪魔者は排除します。どうか、あの方と共に―」
まだルフェを守るように立つ姉の姿に、ネアの髪が僅かに浮かんだ。
「その小娘は、姉さんの魔力を盗んだのですよ!?殺してしまえばいいではないですか!そうすれば姉様もこの地を離れられる!」
「いいえ、違うのですよ。ネア。」
「お姉様も、このネアの言葉を聞かずその小娘の側につくのですか。私は一度、姉さんの言う事を守りあの方を封じました。
ネアは、ずっと後悔しておりました・・・。ネアは、あの方をお慕いしていたのに・・・。」
「私はいつもあなたの味方です。」
「嘘!全部嘘よ!添い遂げたいと願った時だって、お姉様は反対なさった!あのまま、私も次元の狭間に消えるべきだったの!」
ネアの燃える赤毛が空へと伸び、輪郭が赤く光る。
マナが急激に高まって、人間であるグランとルフェは膝をついてプレッシャーに呻く。
第1の巫女が指を鳴らすと、地面に倒れたままだったリヒト、ヴァイオレットに加えグランも彼女の後ろに移動させられる。
彼女の背に守られていると、マナの圧が和らいだ。
「この人だ・・・僕はこの人をシャフレットで見た。確かに、ロード様に貫かれていたんだ!」
「グラン?」
「大人が僕の記憶を消したんだ。何か凄く怖いことがあったという体験だけが残ってて、ずっともどかしかった。
今思い出した。全部・・・そうだ、君は―――」
グランがルフェを振り返ったと同時に、鼓膜が破けてしまいそうな音が響いて、慌てて手で耳を覆う。
何かが破けるような音と不快な高周波。さらに地鳴りが下から襲う。
「ネア、」
「うるさいうるさいうるさい!!!!!止めたければ私を殺せばいい!」
「それは叶わぬと、知っているでしょう。私達は姉妹なのです。」
「第1の巫女が聞いて呆れる!あんたはどうせ虚像。次元が混ざらぬように結界を張ることに集中してるせいで
他のことが出来ないみのむし以下の存在。滑稽だわ!私を力で御したあの威力がないなら、大人しく見ているがいい。
私が、私が変えてあげる!世界を!予言を!」
高らかに笑い出したネアの体が浮いていき、両手を広げ笑い声を上げたままマナを放出する。
先程の戦闘は、まったく本気を出してなかったのかと疑うほど、それこそ世界を壊してしまいそうなマナだった。
第1の巫女が守ってくれていなかったら、体はとっくに刻まれてるか砕けてしまっていた。
リミッターが外れたように、ネアはマナを放ち続け、やがて空にヒビが入った。
崩れだした空から星空の破片がガラスのように落ちてきて、漆黒の、虚無に近い黒が顔を覗かせる。
それは、次元の狭間そのものだった。
空に割れ目を作って現われる次元の口とは規模が違う。
別次元と隔てていた膜がどんどんと崩れていく。相反した2つの世界が、今混ざり合おうとしている。
第1の巫女が全身全霊を掛けて守っていた唯一の防壁が今、無くなった。
ルフェ達の前に、人影が現われた。
最初はおぼろげな輪郭線を持った、黒い人形だった。
赤い輪郭線は蜃気楼のように揺らいでいるだけだったが、やがて赤く燃えさかり、火は髪になり服になり、ロードになった。
重い足取りで彼はこちらに歩いてきた。
ルフェに切なる目を向けてきたロードは、そこにはいなかった。
瞳は赤く煌々と燃え、憎しみと怒りが体の周りを可視化して飛んでいる。
やがて輪郭を作っていた炎は治まったが、右手にだけ炎のようなマナを宿したまま。
この世の憎しみを全て吸い込んだような双眸は、じっと第1の巫女を睨みつけていた。
目をそらさぬように。決して、逃がさぬようにと言っているようだ。
「もう完全に、宇宙意思に体を乗っ取られています。」
「え・・・?」
「貴方の知る彼でも、私が知る彼でもないでしょう。動いてはなりませんよ、人の子らよ。」
第1の巫女も、凜々しい姿勢のままロードに歩み寄る。
声が届く距離まで近づいたところで、ロードは足を止めた。右手の炎はそのままに。
「久しいな。女神の落とし子。」
「ええ、そうですね。この時が来なければよいと、そう思いながらずっと祈っておりました。」
「さすが巫女が自ら産み落としただけはある。なかなか近づけなかったが、時間のようだ。私が降りた。それが答えだ。」
「貴方が幾億の破壊をもたらしたとしても、この世界は壊させません。女神が最後に作った忘れ形見です。」
「私もいづれ眠りにつこう。女神が創った全てを滅ぼしてからな。」
「ああ、それと。その依り代も返して頂かなければなりませんね。」
第1の巫女が指を鳴らすと、漆黒の空に再び星空が広がった。
空と地面の間に鈍い光が4つ現われ、そこからモロノエ、ゾエ、グリテンとグルトンが降りてきた。
「姉さん、ご無沙汰しております。」
「今までご苦労でした、モロノエ。」
「会いたかったぜモルガン姉さん!あいつをぶっ飛ばせばいいんだな。」
「ゾエは相変わらずモルガン姉さんが大好きですね。」
「私はグリテン姉さんが一番よ。」
宙に浮いてあぐらをかいているゾエが手に雷を宿し、グリテンとグルトンは武器を構えた。
モロノエがルフェを見てにっこり微笑んだ。
すると、時間が巻き戻っているかのように雲が流れだし、だんだんと空が明るくなり昼になった。
空には曇天が戻ってきたが、夜は終わった。
先程よりずいぶん見やすくなった枯れた土地に、次々魔法陣が出現し、魔法使いが転移してきた。
中には、サジやココロの姿もあった。
「悪い、遅れちまった。」
ルフェのすぐ隣に現われたのは、レオンだった。
貴族のローブを肩に掛けているが、手には見慣れた大薙刀。
人を安心させるあの柔らかな笑みを向けられ、緊張の糸が切れて目に涙が溜まる。
泣くにはまだ早い。
袖で乱暴に涙を拭って、立ち上がる。
近づいてきたサジとココロにまず言い放つ。
「リヒトとマリーの治療を。傷は塞いだはずですが、完全ではありません。」
「任せて。」
「グランも、行こうよ。」
ココロが、地面に膝をついたまま涙で顔を濡らしたグランに声をかけた。
こちらを向いたグランの顔は、憑きものがとれたみたいにスッキリしていた。
「ロノエは捕らえてあります。洗脳が解けたのでしょう。」
ルフェ達の背後に、1人の魔法使いが舞い降りた。
紫のパンツスーツを纏い、魔法院のものとは違う短いローブを肩に掛けた壮年の女性は、振り返ったルフェににっこりと微笑んだ。
「大きく、そして強くなりましたね。ルフェ。」
「メデッサ先生・・・。」
「あなたに話さなければならないことが山のようにあります。謝罪もです。ですが、今はあれを捕らえましょう。
抑えることが出来たなら、世界はまだ生きていられる。」
ココロがグランを無理矢理立たせ、サジと共に離脱するのを見送って、ルフェもレオンの隣でハルバードを手に持った。
「魔女・・・、いや、巫女も人間も総出で宇宙意思を止める。此処が山場だ。俺が抑えてやる。好きに爆発しろ。」
懐かしい台詞に、心が震えた。
思い返せば、それが始まりだった。
レオンに包まれながら、マナを放出し自ら封印を解いた。
あの時から、生きるだけの自分を捨て、外の世界に飛び立てた。今の自分に成れたのだ。
道のりは険しくも、得るものだらけの時間をくれた。
背の高いレオンの顔を見上げるように首を回して、珍しく素直に笑った。
「来てくれてありがとう、レオン。」
「言ったろ?俺が必ず守ってやるって。」
巫女が一同に介している。
歴戦の魔法使い達も。
そして、全ての元凶である宇宙意思。
これが最後の戦いだと誰しもが思った。
決戦の地に、イルの大地は相応しかったようだ。
この戦いに負ければ、全てが消えて無くなってしまう。
足掻くのは、今しかないのだ。