❀ 4-6
「レオン、何をしてるのですか?」
それは、ルフェがまだクロノス学園に来て間もない頃。
リヒトに教えてもらい、もはや皆のたまり場となった林の奥にある、池の畔。
ひっそりと設置された木製の椅子に座って、大男が背を丸めて何やら作業をしていた。
覗き込めば、手には木の枝とそれをけずるカッター。
「えんぴつは手作り派ですか。」
「ちげぇよ。こないだ杖を折っちまってよ。作り直してんの。」
「杖?」
魔法使いは杖を使ってマナを操る。
家庭でマナを使うなど、初心者向けの魔法ならともかく
複雑な魔法を使う場合、杖を使った方が方向を定めたやすぐ暴走し辛い。
上級者になればなるほど不要となる道具だが、学生の身分では必需品だ。
「レオンは本物を使うのですね。大半の人がマナで作った創造物なのに。」
「普段は滅多に使わねぇけど、我が家の習慣でな。
古の魔法使いは皆自分の手で手作りして持ち歩いてたんだと。
で、これはエニシダの枝。昔は木の枝や掃除で使う箒で空飛んでたらしいんだよ。」
「アセットの起源ですよね、たしか。」
大男の無骨な指で器用に枝の樹皮が削られ、中の固い部分が顔を出してくる。
貴族の出身と聞いていたが、カッターの扱いも手慣れたものだった。
ルフェは、レオンの隣に座ってしばらくエニシダの枝が形を変えていくのを眺めていた。
「どうよ、クロノスは慣れたかい?」
枝を削り、作業工程を首を捻って確かめながら、片手間にレオンが聞いてくる。
木漏れ日の中にあって、その声はとても穏やかで柔らかかった。
「男ばっかのむさ苦しいとこだろ?騒がしいし、無秩序で、おまけにくさい。」
「比べる対象がアテナしかありませんが、此処は自由でいい所だと思います。皆、のびのび生活してるのがよくわかります。」
「お前も今自由だろ?」
「そう、ですね。将来は確定してますが、ずいぶん息がしやすいです。」
「そりゃ良かった。」
握りやすく、手に馴染むように唸りながら形を整えいく。
弱い風で髪が持ち上がるのを感じながら、木々の葉が揺れるのを眺め、午後の柔らかな陽に抱かれた青空を見上げる。
思えば、こんな穏やかな気持ちで空を見上げたのはいつぶりだろうか。
アテナ女学院では、いつも人の目を気にして下を向いて過ごしていた。
ルームメイトのアンナと話しているときだけが、リラックス出来ていた。
言われるがまま、指示させるがまま生きていた自分が、今こんな穏やかな世界でのびのび過ごせていることに
驚きと、感動を覚える。まるで自分のことではなく、第三者目線のような感覚だった。
「アンナの左手、後遺症が残るそうです。日常生活は問題ないらしいのですが、指先の感覚はないので操作系の魔法は難しいとか。」
「私のせいだ、なんて考えるなよ?ルフェはアンナちゃんを助けたんだからよ。大体、感電させたのはウィオプスだ。」
「アンナは、服飾の企業に就職するのが夢だったんです。夢は諦めなくちゃならないかもと、手紙にはありました。」
「マナが使えずとも物は作れる、ほら、見てみろ。」
レオンの手の中には、素材のクセをそのまま活用した、直線ではない杖があった。
わずかに曲がったりしているが、味があって素敵だと素直に感想を述べる。
「ノアの人たちはマナなんか使わずとも何でも作っちまうし、アンナちゃんの手だって、リハビリで治るかもしれないんだろ?
諦めるには、早すぎる。何事も、がむしゃらにやってみるもんだ。」
「レオンはがむしゃらって感じはしませんが。」
「これでも苦労してるんだぞー?」
完成した杖を満足そうに眺めたレオンは、それを懐にしまって、カッターや木のくずを片付け始めた。
「ルフェ。」
「はい?」
「過去とか、足かせとか、まあ煩わしいもんがあるだろうけどよ。誰しもが幸せになるために生まれてきたんだ。
これから忙しいぞー?きっと、楽しいことだらけでスケジュール埋まる。」
「レオンも、楽しいですか?」
「ああ、もちろん。」
木の匂いがする大きな手が、ルフェの繊細な黒髪をかき混ぜた。
「何かあったらすぐ俺に相談しろ。俺が必ず守ってやるから。」
「はい、ありがとうございます。レオン。」
「ところで、なんで俺には敬語なの?」
「なんとなくです。」
遠くで予鈴が鳴る。
午後の授業が始まる時間だ。
立ち上がったレオンと並んで、校舎に戻った。
*
なぜ今になって、クロノスでの一コマを思い出したのだろうか。
走馬灯を見るには早すぎる。
一人、また一人と魔法使いが倒れていく。
血の臭いが強くなっても、手を止めてはならない。今が好機。皆それだけを胸に奮いあがる。
魔法院元老議員である長老達も姿を見せた。
全員で複雑な術式を唱え、何重にも重ね、紬ぎ、そして放つ。
だが、魔法使いや魔女に囲まれても、ロードは立ち続けた。
弱まるどころか、攻撃の威力は上がり歴戦の魔法使い達を次々倒していく。
魔女が4人も集まっているのに、ロードの体を乗っ取った宇宙意思は怯みもしない。
大陸の半分を滅ぼしてしまう程魔女とぶつかり合っただけのことはある。
しかも、あの時は宇宙意思を倒せず次元の狭間に閉じ込めるのがやっとだと言っていた。
魔女が9人揃っていた時の話だ。
ロードを守るように、ネアは体の具現化を解き回復に全力を注いでいた。
よって、いくら魔法使いが致命傷を与えても肉体を瞬時に回復してしまう。
「こちらが消費するばかりですね。」
「一瞬で全滅させられてないだけ、奮闘している方です。」
大薙刀を地面に立て、中心部から外れた所で戦場を見守るレオンが呟くと、肩のローブを抑えたメデッサが答える。
魔法の閃光で、辺り一帯は色とりどりの明かりに照らされ、人々の苦悩の表情がよく見えてしまう。
「メデッサ先生。私が行きます。私のマナなら、」
「それが宇宙意思の狙いです。ルフェのマナを吸い尽くして大地をなぎ払うでしょう。
今はまだ、地上に降りてすぐなので順応が追いついていない状態なのです。」
「ルフェのマナは栄養になっちまうってことですか。」
「コルネリウスさん。」
「レオンとお呼び下さい。メデッサ魔導師。」
「ではレオンさん。手をお貸し下さい。」
「こうですか?」
皺があるもすらりとした小さな手が差し出されて、失礼がないようにそっと重ねると
レオンの手の甲に模様が刻まれた。
「お守りです。ルフェをよろしくお願いします。」
「メデッサ先生・・・。」
「安心なさい。貴方と話しもしないうちに、やられたりしませんよ。」
目尻の皺を深くして微笑みながら、ローブをはためかせ宙に浮かび上がった。
頭上高くまで登った彼女は、2mはあるであろう光の矢を作り、それをロードがいる地面へ投げた。
だが、ロードから狙いは大きくはずれて右後ろの地面に刺さった。
続いて、2本3本と矢を作っては投げ、計4本の矢がロードの四方囲むように刺さっていた。
手をポンと叩くと、矢同士が共鳴し、雷のような電流が走る。
静電気が空気中に帯電しパチパチと音を立てる。
さらにもう一度手を叩くと、矢の周りに何重もの小さな魔法陣が展開し、何重にも複雑に重なった結界でロードを捕らえた。
すぐ横にいたネアは強制退場させられ姿を消す。これで、ロードの常時回復機能は無くなった。
空気がどんどん乾いていく。
こんなマナ、感じたことがなかった。
離れた場所にいるルフェとレオンですら、攻撃的なマナに喉が痛くなった。
ルフェは頭上を仰ぐ。幼少期からアテナ女学院に入学するまで、メデッサ先生とは一緒に過ごした。
常に穏やかで優しい彼女が、こんな魔法を使う事が驚きだった。
今の先生は、魔導師としての本当の姿なのだろうか。だとしたら、なぜずっと友に居てくれたのか―。
腕に纏っていたマナで暴れ回っていたロードが、ピタリと動きを止める。
拘束を解こうと力を込めているのが震える拳が見て取れたが、足は蝋で固められたみたいに動かない。
苛立ちをマナの放出で表し抗うものの、彼を囲む魔法陣は展開し続け、見たこともない複雑な絡まり方をしていた。
どんな教科書にも載っていないし、今まで戦場で見てきた魔法使いですら、ここまで入り組んだ術を使っていなかった。
ルフェの頭では、どういう術かも理解すら出来ず、目からの情報も読み取れない。
ロードの足下に四角い陣が現われ、下から鎖が飛び出て手足と首を拘束した。
鎖というよりも、マナで織り込んだ縄なのかもしれない。
メデッサの隣に、モロノエが移動してきた。
「「手伝いますよ、メデッサ。」
「次元の口に返せますか?」
「不可能です。あれはもう自立してしまいました。再び融合させるより、
ロードの体を原子状態にまで戻して、宇宙意思だけを絡め取りましょう。
また次元を作り出す時間も力も足りません。まずはゾエに拘束を強化させます。」
三女ゾエは遠い場所で宙にあぐらをかいていたが、テレパシーで指示を受けたのか頷いて手を前に出した。
ロードを拘束していた縄に、可視化出来るほど強力な電流が走った。
結界の中で、ロードがうめき声をあげるが、もだえる自由も与えられず、相変わらず体は固まったままだ。
彼の体が黄色く光り出した。
ルフェは、胸の前で握り合わせた手を引き寄せた。
衝動を抑えるように、強く握りしめる。
上でメデッサとモロノエの会話は聞こえていた。
あれはもうロードさんじゃない。宇宙意思が宿っている以上、
物質部分を取り除いてマナに近いものにせねばならないというのは理解出来る。
宇宙意思は、物質と融合―人間に体を使わないと動けないのだと大人達の会話で理解した。
ならば、今宿主の中にあるうちに対処しなければ。
わかっている。理解もしているのに、心が追いつかない。
自分に向けられた、あの悲しげな瞳が忘れられない。
本当に、初めから、宇宙意思と予言によって悪者を演じていただけだとしたら、彼は―――ー。
古代文字が記された巨大な魔法陣が空に出現した。
陣の中に、また陣が重なっている。
四方に散った魔女が作り出した陣は、とても綺麗で芸術的だった。
第1の巫女は、メデッサよりも遙か上空に浮かんでおり、戦いが始まっても動く事は無かった。
彼女は彼女で、別のことに意識を集中しているのかもしれない。
モルガンが今どんな表情をしているのか、気になった。
上空で光る陣は紫色に落ち着き、ゆっくりとロードに降りかかり拘束用術式と融合する。
融合する一瞬、目が痛くなるような閃光が大地を照らしたので、ルフェも眩しさを避ける為に腕で目を覆った。
閃光が収まった時、その場にいた全員が空を凝視したまま動きを止めた。
分厚い雲と地上の間には、大量のウィオプスが出現していたのだ。
数を数えるのも億劫になるぐらい、空を埋め尽くす半透明の球体達。
その体の奥で、黒い渦がゆっくり自転している。深淵を体現したような黒味が、
集まった人間達を吟味するように渦巻き、感じたことのない圧が降りかかる。
「なん、で・・・?」
今まで出会ってきたウィオプスには、個体差があった。
雨を降らせるもの、雷を落とすもの、吹雪を降らせるもの。
人間界の四大物質に強く影響を受けるらしく、現象は様々で、内部の色合いや自転速度も個体ごとで違う。
だが、今空を覆い尽くすウィオプス達は、一様にして漆黒のモヤを抱え、時折黄色い光が点滅する。
異様な光景だった。何故、今――。
頭上で、メデッサ先生が何かを叫んだ。
言葉を聞き取る前に、ロードに絡まっていた縄がふわりと空中に浮かぶのが見えた。
切れた部分がスローモーションに動いて、水中で踊る魚のようだった。
ありとあらゆる魔法陣が粉々になり、粒子が地上の星として舞った。
ありとあらゆるものが、ゆっくり流れていく。
ウィオプスの内部で稲妻を見えたのも、空中で尽力を注いでいた元老院達が倒れるのも、
こちらに手を伸ばしながら向かってくるモルガンのドレスのはためきも、全て。
舞い踊る縄を付けたまま、目の前にロードが立っていた。
その目は、赤く残忍に燃えている。
私の知っている色ではない―。
自分の意思とは全く違うところで防衛本能が勝手に仕事をして、ルフェのマナが体外に溢れ出した。
爆発するマナはウィオプスにまで届くだろう。
世界が真っ白に染まる直前、ロードが右腕を突き出してきた。
動く事が出来ず、心臓を貫かれるのを覚悟をしたが、痛みが来る前に影が差した。
飛び出して来たレオンが間に入って、彼の胸ロードの右腕が貫通したのを理解したところで、金色の光が粒子となって弾け飛ぶ。
自分の体も、レオンの体も端から粒子になって粉々になっていくのが分かった。
動く事は出来ず、もうどうにもならなかった。
砕けていくルフェの体ごと、真っ白なオーラに包まれた。
*
産み落とされた瞬間を、今も覚えている。
この目で一番始めに映したものが、この世で一番美しいという贅沢を味わえたのは、恐らく私だけであろう。
私を見て満足そうに細められた瞳は優しく、慈愛に満ち満ちた綺麗な微笑みはどんな芸術品よりも勝る。
私は大地の母たる女神の、体の一部を使って産み出された娘。
正真正銘、私は母が産んだ唯一の子である。
空が黄色と桃色を得た頃だった。
土と岩で陸を作る大仕事を終えた母が帰ってきた。
私と母が住むこの場所より広く、大きい場所であるらしい。少し興味が湧いたが、まだお前この土地を出るなと止められてしまった。
一息つく間もなく、母は5体の人間を創ると、先程作ったばかりの陸へ流した。
次に大気に漂っていた霧を掴むと、8体の守り女を作った。
この時初めて、私は宇宙の意思について、これからについて母から聞いたのだ。
この世界、この宇宙、この次元。
全ては破壊と再生という理に絡め取られている。
創ったばかりのこの世界や私の命さえ、破壊がやってくる。それが宇宙の意思なのだから、と。
いつか訪れる破壊のその時まで、守り女と共にこの土地を守りなさい。
この土地がありさえすれば、いずれ――――ー。
そう言い残し、母はあっさりとどこかの次元へ旅立ってしまった。
別れというものを知らなかった幼い私は、いつかお戻りなるだろうと軽く考えていたのだ。
二度と相まみえる事は今の今まで適っていない。
残された8体の守り女を、私と同じ母から生まれた姉妹だということにした。
自我が生まれ個性が育つまで、私は賢明に姉妹達の世話をした。
母がしてくれたように愛情を注ぎ、大気に漂う霧の使い方を教え、名も与えた。
ある日のことである。
一番最後に作られた8体目、ティティスが母の声を聞いたと言ってきた。
「お母様が仰るには、宇宙意思は3度、この世界に訪れるそうです。
1度目、女神が創った大地をさらっていくでしょう。
2度目、女神が産んだ子を連れていくでしょう。
3度目、女神を取り込んで、理と宇宙を眠らせるでしょう。
自らの存在証明である理すら、今度は飲み込み無になろうとしている。
お母様すら、消えてしまうのです。」
それは、どこか遠くにいる母からの応援要請であり、最大限の忠告であると察した私は
ティティスに今の話は2人だけの秘密にするよう強く命じた。
そうした方がいいと、内なる声が囁いたからだ。
この日からティティスは目を閉じて生活するようになった。
目を開けていると、どこからか、母の声とは違うおかしな声が聞こえてくるというのだ。
ティティスは声を時折受信しながら、世界の形を理解し、自分たちは母から生まれた訳ではないと知った。
私がついた嘘を知っても、ティティスは私を恨んだりはしなかった。心根がとても優しい子なのだ。
私はじっくり時間をかけて、ティティスだけが聞こえる声について研究をした。
それはどうやら、未来から囁く声だという事が分かった。
確定していない未来が囁く予言。
「お姉様。予言が本当であれば、2度目の来訪でお姉様が連れて行かれてしまいます。お隠れになった方がよろしいかと。」
「そうはなりません。私はお母様より、この土地を守るよう言いつかっています。
今度の破壊は、どうやら母にも阻止出来ず、助けられるのも私達だけのようです。
実の子である私がやらなければ。
さあ、準備を整えましょう。宇宙の意思が何を考えてるかはわかりませんが、
母が持つ再生と理がなければ、輪廻の輪すら途絶えてしまいます。」
私は大気に漂っている霧をもっと上手く使う方法はないかと試行錯誤をし、
母の名にちなんでマナと名付けた霧で宇宙意思に対抗する術を増やした。
やがて霧が晴れ、マナが体内で循環するよう変化し始めた頃だった。
私達の土地に、人間がやってきた。
*
波の音がする。
引いては寄せる、波打ち際の静かな反復作用。
ライム島で聞いたことがあったので、ルフェでも知っている環境音だった。
心地よい音が耳に届き、、体は暖かくも寒くもない、ちょうどいい気候に包まれている。
このまま眠っていたくなるような安心感だった。
ルフェは最後に見た光景を思い出して、ハッと目を開けて体を起こした。
見知らぬ砂浜で、うつ伏せに倒れていたらしい。頬ついた砂粒がパラパラと落ちる。
今自分は、確かに目を開けたと思ったのだが、まだ夢の中なのかもしれない。
そこは、見知らぬ海岸だった。
黄昏時か、夜明けはわからないが、空がオレンジとピンクと黄色を複雑に混ぜた色合いをしている。不思議な色だ。
雲は無いのに太陽の姿は隠され、それでも十分明るかった。
横たわっていた砂浜の砂は灰色が混ざった黄土色。サラサラ、と言い難いのは粒が大きめだからだろうか。
立ち上がると、体感したことのない、居心地が悪い感覚に襲われた。
ダルいような、軽いような。それでいて息がしやすいような、重力が辛いような。
足がふらついて力の入れ方がわからなくなったが、2本の足が無事なのは確認した。
浜辺は左右へどこまども広がってるようだったが、遠くの風景が霞んで把握は出来ない。
自分より遠い景色は薄い膜に包まれて、ひどくおぼろ気で曖昧だった。
ただ、辛うじて背後にある林と緑の陸地は確認出来た。遠そうではあるが。
世界中を仕事で飛んだことあるルフェだが、見たことがない場所だった。
いったいどこに転移させられたのだろうか。
それに、今は真冬のはず。魔族襲撃によるマナの乱れで気候は一気に冷えて世界どこにいっても寒いのに、此処は全然寒くない。
というか、寒いという感覚が思い出せない。
粒が大きい分、体重で足が不自然に沈む砂浜を歩き出すと、すぐに波打ち際に落ちた大きな塊を発見した。
ルフェはまだふらつく足で賢明に走って砂の上に膝をついた。
「レオン!」
レオンはうつ伏せのまま、砂に頬をつけて倒れていた。
波打ち際のギリギリに倒れているのに、体は濡れていない。外傷も無さそうだ。
此処へ来る直前の記憶では、ロードによって心臓を貫かれた見えたのだが、幻覚だったのだろうか。
怪我はしてなさそうなので、背中を揺すって声を掛ける。
「レオン、起きて。ねえ、お願い。レオン。」
「・・・ん・・・。」
小さくうめき声か返ってきて、安堵の息を溢すと、目を開けようともがくレオンの顔を覗き込む。
「ル、フェ・・・・。」
「大丈夫?」
彼が最後に見た光景もルフェと同じものだったようで、いきなり飛び起きると、自分の胸や腹辺りをペタペタと探り出す。
「あ、あれ?確かにあの時・・・俺、攻撃喰らった、よな?」
「うん・・・。私も見た。っていうか、私をかばったでしょ。死んじゃうところだったじゃない。」
「当たり前だろ。間に合ってよかったぜ。ああそうか、これのおかげか。」
自分の手の甲を撫でたレオンが、少し焼けた跡がある甲をルフェに見せてきた。
「メデッサ魔導師が寄越してくれたお守りとやらが発動したんだ。攻撃を回避したんだか、超回復かわからないが、助かった。」
レオンが頬の砂を払ってから立ち上がるのを待って、ルフェも立つ。
「なんだ此処。感覚がおかしいな。力が入らない。」
「生まれたての子鹿みたいよ、レオン。」
「違いない。」
二人して辺りを見渡す。
レオンも知らない場所らしい。
肩にかけていたローブはどこかに落としたらしく、ジャケットを脱いで乱暴に肩にかけた。
シャツ1枚のラフな格好で、貴族らしさはなくなった。
ルフェも暑いという感覚はないのだが、なんとなくうざったく感じて上着を脱いだ。
「マナが濃いのか?重みを感じる。誰がここに飛ばしたんだろうな。」
「巫女の誰かかもしれない。あちらは無事かしら。」
「ウィオプスの出現、か。第3の予言が実現したのかと焦ったぜ。」
「ウィオプスはちゃんと消したと思うんだけど・・・。確信はないわ。」
とにかく此処がどこなのか検討をつけてから誰かと合流しようと、並んで歩き出す。
砂浜はどこまでも続いていた。歩いても歩いても、道に辿り着かないし何も見当たらない。
海を右にしたとき、左に林と土の大地があるのでそちらを目指してみたが、
波打ち際と変わらない距離を保って存在しており、どんなに歩いても近づくことはなく一定の距離を保たれている。
レオンは靴も脱ぎ捨てて裸足になると、今度は海を目指したが、その足は水に浸かることはなかった。
「無限回廊ってやつか。ずいぶん限定的な景色だなー。いい加減見飽きたぞ。」
「ねえレオン。マナが溜められないの。
以前、無限回廊に閉じ込められたとき、マナを放って破ったことがあるから、同じようにやってみようとしたのに、出来ない。」
「・・・・ホントだ、俺も無理みたいだ。背中に力が入らない。アセットも、出せないな。」
ルフェも、首にかかったネックレスに力を込めるも、武器にはならなかった。
「困ったな・・・。マナが使えない上に閉じ込められたぞ。」
体にのしかかる言い表し難いだるさにはいまだ順応出来ず、時間の概念がわからなくなった。
1つ言えるのは、1人じゃなくてよかったということ。
もしたった1人で此処に閉じ込められたら、変わらない景色とマナ使用不可という現実に、不安と焦りで狂ってしまったかもしれない。
「幻覚内部に閉じ込められたって線が濃厚かもな。歩いても何もないし、倦怠感が取れない。
せめて俺達を此処に追いやった誰かさんは顔を出してくれないかねー。そろそろ喉も渇いてきた。」
『そうか。人間は水を飲まないと死んじゃうのか。』
「そうだよ。それに食料と睡眠と―」
2人は顔を見合わせた。
今のは、どちらの声でもない。
同時に後ろを振り向いた。
そこに、綺麗な顔立ちをした若い男性が立っていた。
ファーで縁取られた長いローブを着て、白に近い銀髪の髪をしている。
ふさふさのまつげも銀色で、色が白く小柄だ。
彼も幻覚の一部かと思ってしまうぐらい美しく、儚げであった。
背はルフェより少し大きいだけだが、レオンと同じぐらい丈がありそうな長杖を持っていた。
無限回廊の中に突然現われた男性を、ルフェは見たことがあったし、
その声にはイルの大地に掛かったトラップに引っかかった際助けてもらった。
『君達の体が馴染むまでもう少しかかるから、移動は出来ないんだ。もうちょっと我慢して此処にいてね。』
頭に声は直接響くのに、微笑む男性の口は動いていなかった。
「あの・・・、喋れないのですか?」
「おっと!人と話すのは久々過ぎて忘れてた。話すときは口を動かすのだったね。」
ルフェが指摘した途端男性は口を動かし喉で声を出した。
見た目より、仕草もしゃべり方も子供っぽい人だった。
男性は恥ずかしそうに頭を掻いた後、ローブの裾が砂の上を這うのも気にせず歩み寄り、警戒しているレオンの前に立った。
そして、にっこりと綺麗に笑って言った。
「やあ、初めましてだね、僕の子孫。」
「は・・・?」
「コルネリウスの長男、レオンだろ?僕はコルネリウスの始祖、プロトだよ。」
どのくらい無言の時が流れたのだろう。
レオンは口を半開きにしたまま固まって動かなくなってしまった。時間停止の魔法でもくらったのかと疑うほど。
対面する男性は構わずに、ニコニコと嬉しそうな笑みを向けてさらに半歩間を詰める。
「いやー嬉しいなぁ。僕の血がちゃんと受け継がれてまだ存在してるなんてさ。姓も、契約もしっかり残ってるみたいだし。
ラストが守ってくれたおかげだよねー。」
「あ、あの。話が見えません・・・。
それに貴方は、ロードさんと一緒にいた人ですよね。ハインツさんが因果律で次元の狭間と接触したとき・・・・。」
忘れもしない、過去から舞い戻った偉大な魔術師が殺されたあの瞬間を。
あの時のロードさんも宇宙意思に乗っ取られたせいで残忍な行動をとっていたと信じたい。
そして、別次元に閉じ込められていたロードさんが、ハインツさんが完成させた術でこちら側に帰還した時
この白い美しい人は傍らに立って、まるで彼に仕えるように、守るように魔法で彼を離脱させていた。
モロノエさんたち魔女とも面識があった気がするし、
ハインツさんが狭間の世界で出会った白い人間というのも、この人の事なのだろう。
ルフェが問うと、くるりと首を回し、今度は大人びた、どこか妖艶な笑みを向けてきた。
長い銀色のまつげの下にある青い瞳は色がやや薄く、空を閉じ込めた宝石のようだった。
「そう警戒しないでいいよ。言っただろう。次会うときは、僕を助けてもらうって。」
「貴方は?」
「僕はプロト。女神が作り出した原始の人間5体のうち、最初の個体。だからプロト。
そして此処こそ、女神が降り立った最初の土地。始まりの土地だ。」
*
始まりの土地とは、その名の通り、女神が初めに舞い降りた場所。
人間も、人間が住む土地も女神が作ったが
始まりの土地は、神聖な降臨の跡地なのだ。
そして、マナと呼ばれる力が生まれた場所、生命の源。
始まりの土地さえ存在すれば、全てもう一度生まれる事が出来ると母が言い残した場所。
資格無き者は、足を踏み入れることすら適わない。
なぜなら、私でも母でもなく、この土地自身が見定めるからだ。
足を踏み入れた者を無限の幻術で閉じ込め、審査をする。
相応しくないと判断されれば、永遠に続く浜辺の幻覚を見続ける羽目になる。
だが、女神の声に導かれてここまでやって来たと告げた人間達は無事幻覚を解かれ、
本物の浜辺に降り立ち、私にマナについて教えてくれと言ってきた。
人間にも多少のマナを入れて母が創っていたので、マナの存在は知っていたらしい。
母が創ったものは兄弟。土地の幻覚を抜けてきた存在なら土地に入る権利を得ているということ。
私は快く2人を招き、マナを教えることになった。
この頃には自我も個性にも目覚めていた他の姉妹達も一緒になって、マナを高めあい次々新しい可能性を引き出していった。
1番目に生まれた人間プロトは好奇心旺盛でわかりやすく派手なマナを好んだ。
5番目に生まれた人間ラストは、物静かな性格で、緻密な術を好んでは、よく紙に書き溜めていた。
2人はわかりやすく正反対だが、仲の良い兄弟のようであった。
同じ時に生まれたために、強い絆があるのだろう。
私たち姉妹より体内のマナは少なかったが、2人はよき生徒であった。
人間の世界には来るという夜が訪れないこの土地で、オレンジと黄色が混ざったような空と暖かな海を眺めながら
5番目の人間ラストが告げた。
「俺にも女神の声が聞こえたのです。一度だけ。だから此処を知ることが出来ました。」
「母は、なんと?」
「娘を助けて欲しいと。」
――私の一部を分けた、最初で最後の娘。
幾たび次元や世界を創ろうとも、私の血肉を分けたのはお前だけ―。
母はそう言ってよく髪を撫でてくれたのを思い出す。
「俺にも手伝わせてください。俺にも、守りたいものがあります。」
「長い、長い戦いです。時間概念を知ってしまった人間には、辛いだけです。」
「幸いにして、俺は時間の呪いから外れました。女神の声を聞いた時、決めたのです。最後まで抗うと。」
力強い金色の瞳は、地平線で輝く光源と同じ色味を持っていた。
私は、ティティスと共に彼を破滅の阻止に巻き込むことにした。
緻密な作戦を練り上げ、十分な対策を講じると、その時が来るまで穏やかに暮らしたいという願いを聞き入れ
ラストはプロトを連れ、人間が住む大陸へ帰って行った。
大陸に戻った2人は、マナを使う術の数々を纏めて魔法と呼び、その使い方を同胞に教えていった。
プロトは優しく穏やかな性格から人間達の間で師と仰がれ、国という塊の長にまでなったと聞く。
他の原始の人間と違い時間概念に捕らわれず、美しいまま生きていた彼だったが
1人の人間と出会ってからは、人として生きる事を選び、妻や子供に囲まれ老いを体験したという。
彼は、家族とともに死ぬ未来を選んだのだ。人間としてはあるべき姿になった。
ただ、ラストだけは若いまま、遠い場所でプロトを見守っていた。
決して人間の輪には入らず、孤独に、静かに生きていた。
彼と仲良くしていたネアやティティンは私の目を盗んでは大陸に行き、彼と交流していた。
もちろん気づいていたが、黙っていた。
ネアが抱いた想いにも。
人間世界でいう30年の時が流れた時であった。
プロトの一族が、他の一族に襲撃されているとネアから報告が入った。
手助けするべきだとネアは言ったが、人間の世界に干渉することを許さなかった。
私達が出て行けば、事は簡単に済んでしまう。それは不平等で均衡を乱す行為。
それに私達の事を知った人間が、始まりの土地を欲しても困る。
ふて腐れるネアをなだめていた私は、宇宙意思の1度目の来訪が起きるのを感じた。
本来の作戦では、宇宙意思が本来持っている破壊の側面を抑えるべく、無と同義にまで近づけた媒体を作りだし
それに宇宙意思を宿し、破壊という概念を発生させないようにする。
すぐ発動出来るようトラップは至るところに仕掛け、大陸も結界で覆っていた。
だが、人間は争うことも憎み奪うことも平気で行う種族になってしまった。
人間同士の争いにより破壊、消滅が至るところで起こったせいで、バランスが崩れた。
タイミングも最悪であった。
プロトの一族とプロトのマナを狙う敵る勢力から攻撃に遭い、プロト自身が深い傷を負った。
不死性を失いただの老人となったプロトは、緩やかに消滅という死に向かっていく。
親友であるラストは、彼が事切れる前に現われ、友であり兄弟であるプロトの最期を看取るハメになる。
その時、宇宙意思は用意した媒体には宿らず、ラストを選んだ。
プロトを失う悲しみでラストは理性を失い、大陸を次々滅ぼしていった。
怒りに飲まれるまま暴れる彼にもう言葉は届かず、私は作戦を変えた。
これは、ラスト自身が考えた策であった。
万が一宇宙意思の破壊が起った際は、姉妹全員で次元と次元の狭間に空間を作り、そこに宇宙意思を絡め取らせ封印する。
その後交わらないように切り離し、次元の向こう側に閉じ込めるのだ。
ラストを慕っていたネアは泣きながら抗議したが、彼にこれ以上同胞殺しの罪を重ねさせてはならないと説得した。
ネアは泣きながら協力してくれた。
次元の狭間の口が開いた時、最後の最後で、ラストは理性を取り戻した。
「俺の弱さがこの事態を引き起こしました。全てを俺のせいにして下さい。どうか世界を、人類をお願いします。
俺が宇宙意思を止めてみせます。」
そう笑って、彼は次元の狭間で眠りについた。
しかし、悪いことは続くものだ。
人間達は、大陸を滅ぼしたのは我々姉妹のせいだと勘違いをし、魔女と蔑称して忌み嫌いだした。
それはいい。元々別の場所で生まれたのだ。問題はない。
ただ、因果律というものが生まれてしまい、死んだ人間の魂が、時折次元の狭間に落ちることがあった。
輪廻の輪から外れた魂は新たに生まれることも出来ず、次元の狭間で彷徨い、
元の場所に帰りたいと願ううちに、姿形を変えて、こちら側に戻ってくるようになった。
人間の魔法では退けられないそれを、彼らはウィオプスと呼び、恐れるようになる。
切り離した次元とウィオプスが繋がってしまい、どうする事も出来ずに居た。
一度目の来訪時に亡くなったプロトが、ラストのために次元の狭間へ行った事も、このときの私は知るよしもなかった。
1度目の来訪は、自我を取り戻したラストのおかげで
大陸中心部だけの犠牲で過ぎ去った。
そして。
2度目の来訪で、女神の娘である私は死ぬこととなった。
*
「君たちがロードと呼んでいる彼の真名はラスト。
最後に生まれた原始の人間だから、ラスト。僕の友達であり、家族だった。」
プロトは、生まれた時の事や始まりの土地で学んだことを懐かしむように話し、、
友が我が身を犠牲にして第一の来訪を退けた経緯を教えてくれた。
急に、体にのし掛かっていた重みや倦怠感がすっと消えて行くのが分かった。
肩が軽くなり、マナの感覚が戻る。
ぼんやりした砂浜の光景しか広がっていなかったのに、モヤが晴れこの島の全貌が見えるようになった。
砂浜は確かに続いて居たが、林の向こうに、小屋が見えた。
内陸は山になっているのか、山肌に神殿のような石造りの建物があるのがわかった。
明度も落ち着いて、夕暮れの一歩手前のような、朝焼けの直前のような、ぼんやりとした明かるさに包まれる。
空がオレンジと黄色を混ぜた色合いなのは変わらなかった。
これが本当の、始まりの土地の姿らしい。
「1度目の来訪で、女神が創った大地をさらっていく。
2度目の来訪で、女神が産んだ子を連れていく。
3度目の来訪で、女神を取り込んで、理と宇宙を眠らせる。
これが本当の予言だよ。予言について調べてたんでしょ?」
ずいぶんとあっさりしている本物とやらを聞いた2人は、それぞれ頭を捻った。
「見事にルフェもウィオプスも登場しない。」
「どうして人間には偽りの予言が伝わっているのでしょう・・・。」
「本当の予言を隠すため。隠しながら、人間に最大限の警戒を抱かせるため。
まずはモルガンとラストが考え、その意思を9番目の巫女であるティティスとメデッサ魔導師が継いだ。」
「なぜ隠したのですか?」
「二番目の予言のせいさ。女神が産んだ子とは、第1の巫女モルガンのこと。
他の姉妹は、女神が作ったただの人形さ。僕も後から知ったんだけどね。
モルガンは姉妹として彼女達を育て、女神の子であると嘘をついて守りの一部とした。
全ては女神が創ったものを守るため。また、予言を知った他の姉妹が暴れ出したりしないようにするため。
宇宙意思に体を乗っ取られる危険性もあったからね。」
ルフェの頭の中には、巫女達姉妹の顔が順番に浮かんていた。
彼女達は気高く美しく、巫女であることに誇りを持っていた。
見た目も性格も個性的で、人形だと言われても受け入れられない程彼女達とは親しくなったと自負している。
砂の上で杖をついた銀髪の青年は、黄昏の明かりを受けて髪を更に輝かせた。
凜々しく立つその姿は、神聖であり神の像のようであった。
「順番に説明しよう。二度目の接触が起こる直前、
モルガンは世界を守る結界を張るためイルの大地にこもると言い残し、姿を消した。
その日のうちに、彼女は狭間の世界にいるはずの宇宙意思の来訪を受けた。
ラストが極限まで宇宙意思を抑えたおかげで命は助かったが、巫女の力を全て失い、ただの人間になってしまったんだ。」
*
初めて抱く危うさと、心許ない作法に夫が笑いながらアドバイスをくれた。
「反対の手はお尻に当てて安定させるんだ。」
「に、人間の子は、こんなに小さくて不完全なのですね。プニプニですよ。」
「どんな生き物だって、生まれた時は小さいよ。」
生まれたばかりの子は大地を揺らそうとしているかの如く大声を上げて私を困らせた。
腹が減っているというので乳を作り、夫にバトンタッチをして柔らかい飲み口がついた瓶で飲ませてやる。
すると満足したのか、あっさり眠りについた。
「なぜ背中を叩いたのですか?」
「赤ちゃんは空気も一緒に飲んじゃうから、吐き戻ししちゃうんだよ。それの防止。
飲ませたら、軽く背中を叩いてゲップをしたのを確認してね。」
「手間がかかるのですね。」
「生まれたばかりの子は自分では何も出来ないんだ。親である僕達がしっかり見ていてあげないと。」
そっと子供を私に差し出すので、起こさぬように細心の注意をはらいながら
壊れ物を扱うような慎重さで、先程受けたアドバイス通り抱き寄せる。
今度は泣かれることもなく、腕の中ですやすやと眠る命がたまらなく愛おしくなった。
これが母性というものなのだろうか。
「私は、生まれた時にはもうこの形でした。小さな人間には、驚かされます。」
「これから驚きの毎日だよ、モルガン。」
「そうだ、アレン。この子の名前は決めましたか?固有名詞は大事です。」
「ルフェというのはどうだろう。妖精って意味だよ。」
「魔女と忌み嫌われてる私の娘が、妖精?」
「君はもう人間になったんじゃないか。美しい僕の女王様と、可愛い僕の妖精さん。」
夫アレンは私の腰を抱いて、優しく微笑んだ。
アレンは不思議な人間だった。
弱りきってマナも使えぬようになった私を連れ帰り、世話をしてくれた。
正直に私が魔女であると告げても、疑いもせず素直に頷いただけだった。
人間世界について何も知らず、無知故に問題ばかり起こしていた私に呆れることなく、側にいてくれた。
正直、アレンがいなかったら宇宙意思とは関係ないところで死んでただろう。
優しく穏やかな彼だったからこそ、ただの女となる覚悟を決められたのだと思う。
姉妹達は、私がいまだイルの大地で祈っていると信じているのだろう。
ティティスには1人で苦労をかけてしまうが、今の私には何も出来ない。
申し訳なさを感じながらも、私は腕の中の子の穏やかな寝顔から目が離せなかった。
親子3人の穏やかな時間はあっという間に過ぎていく。
ルフェは不慣れな親の元でもしっかりと育ち、夫に似ておっとりした子になった。
5歳にもなると良く喋り、よく動き、よく怪我もした。
母になった私は、毎日不安ともどかしさに悩まされながら、それでも我が子の成長に喜びを感じていた。
その日はルフェと共に近くの森に木の実を積みに行っていた。
帰り道で、馴染みの少年とすれ違った。
グランという名の、隣町に住む彼はシャフレットへよく買い物に訪れているので私達夫婦とも顔なじみ。
ルフェは兄のようによく懐いていたので、帰ろうと催促しても離れてはくれなかった。
グランに少しだけ遊び相手をしてもらってから、家に帰る。
「お帰り。遅かったね。」
「帰る途中でグランと会いました。」
「ハハ、なるほど。木イチゴが沢山とれたね。タルトでも作ろうか。」
「手伝います。」
腕まくりをしたところで、アレンが窓の外を指差した。
木製窓枠の間から、分厚い雲を見た。
先程まであんなに晴れていたというのに、灰色の雲はシャフレットに影を落とし今にも嵐が訪れそうである。
そして、雲の間から落ちてきた人間を見た。
私はアレンにルフェを託すと小屋を飛び出して、シャフレットの外れに落ちた人間の元まで走った。
巫女としての力は失っていても、人間よりはマナが使えたので、気配はすぐ読めた。
草原に着地したラストは、私の姿を見ると疲れ切った笑みを向けてきた。
「モルガン。お元気そうで安心しました。」
「どうやって・・・・貴方は、宇宙意思と融合して次元の狭間で眠っているはず・・・。」
原始の人間であるラストは、宇宙意思の来訪による大陸全滅を回避するため
宇宙意思に体を乗っ取られながらも、次元の狭間へ宇宙意思を引きづり込んでくれた。
長い時間が苦痛にならないよう、眠るように封印したはずだ。
顔に生気が感じられないラストは、焦りの色を瞳に宿した。
「約束を破りました、すみません。
急を要したのです。どうかよく聞いて下さい。
因果律がまた1つ変わり、三度目の来訪についての予言が変わりました。
今度はティティスでも聞き取れ無いでしょう。俺では宇宙意思を抑えきれなくなってきています。
そもそも、あれは女神と対を成す破壊の象徴ではなくなってきています。」
「どういうことですか?」
「ウィオプスです。ウィオプスが次元の狭間に迷い込むようになったせいで
死者の声に影響され、ただ破滅を望むだけの野蛮な存在に変わりました。
人間の暴力的な感情に引っ張られ過ぎたのです。
時期に俺の体、意識全てを乗っ取って動き出すでしょう。
奴の目的は世界の滅亡。生命全てを根絶やしにしてから、理ごと宇宙を壊す気でいます。
眠りについた女神すら引きずりこんで、無に帰するつもりです。輪廻の輪も消えるでしょう。
俺の最後の力を使って、貴方を巫女に戻します。」
「不可能です。私は生きてるのでさえ奇跡なのです。本来なら、二度目の来訪時に消えていた存在。」
「時間がありません。女神から生まれた貴方以外に、止められる者はいません。受け取って下さい。」
私は、戸惑った。
始まりがあれば終わりが来る。それは当然の理。
けれど、宇宙意思の破壊は必然性を無視し強制的に全てを終わらせていまう、言わば迷惑な嵐だ。
母の願いは世界を守る事。
そのために我が身を投げ出して宇宙意思の来訪を妨げ、母の子としての資格も失った。
再び力を取り戻し世界を守れるなら本望だというのに、ただの人間でいられなくなる恐怖がチラついてしまう。
巫女に戻れば、今の幸せを手放さなくてはならなくなる。
そんな自分勝手な欲望があることにも、驚いていた。
「ママー!」
「ルフェ!?」
我が子がこちらに走り寄ってきた。後から夫が付いてくる。
スカートに張り付いた娘を抱き上げて、体力に自信がないと兼ねてからぼやいていた夫がやっと追いつく。
「ママのとこに行くと聞かなくてね。知り合いかい?ウチでお茶でも飲んでもらったらどうだろう。」
「アレン、ルフェを連れてすぐ家に戻って。家の中ならまじないが効いてるから安全―」
「モルガン!」
ラストの叫びと、全身が粟立つのは同時だった。
顔を上げれば、頭上を覆い尽くすウィオプスの集団がいた。
あれは、女神が作っていない生物。生物かどうかもわからない。
巫女である私達姉妹でさえ御すことが出来ぬ厄介者。
それが、一度に集まることなどなかった。現われて2体。だが今、20以上そこにいる。
半透明の球体内部に渦巻く黒いモヤが蠢いたのを確認して、ぎゅっと娘を抱き寄せる。
美しいと評判だったシャフレットの地に、ウィオプスが放つ雷がいくつも落ちてきた。
風が強く吹き荒れ、空気がピリ付いて髪がうねるのを感じる。
ハッとして、夫を振り返る。アレンは地面にうつ伏せに倒れて、動かなくなっていた。
マナの強い私は、反射的に攻撃を防いだみたいだが、夫のアレンはほとんどマナを持っていない。
「アレン!ああ、そんな・・・!」
「モルガン、すみません。」
夫の元へ駆け寄ろうとした私の腕を強く掴んで、ラストが腹部に腕を突き刺した。
腕は腹部を貫通した感触がして、濃い血の臭いが立ちこめる。
ルフェの頭を胸に強く押しつけて、顔を上げて現状を見させないようにするのが一生懸命で、拒絶は出来なかった。
「人間の貴女を殺し、女神の娘である貴女に戻します。」
「やめて、ラスト・・・。」
「ごめんなさい。俺がもっとしっかり抑えていれば―。本当に、ごめんなさい。」
ラストの腕が体から抜かれた時、ルフェが泣きだした。
不安と何が起っているのかわからないことに限界が来たのであろう。
腹部の傷は塞がっているので、顔を上げさせる。
「まずい!ダメだ!」
ラストの叫びが届いた時には遅かった。
彼の体にいた宇宙意思が、確かにルフェを見ていたのがわかった。
空に浮かぶウィオプスは歓喜の声を上げたかのように体の渦を発光させる。
力が蘇ってきた私の体が、因果が絡まったのを理解した。
ウィオプスは関係のなかった次元の狭間に絡まって、宇宙意思の配下に成り下がった。
そして、ルフェを見つけた。
女神の娘が、人間となって産んだ貴重な存在を。
―自分たちを輪廻の輪に戻せる唯一の存在であると、彼らは気づいてしまった。
ロードの体を完全に乗っ取った宇宙意思は、置き土産とばかりにシャフレットを滅ぼしていってしまった。
ウィオプスを全て引き寄せて、次元の狭間へ帰って行く。
滞在していた分厚い雲は一瞬でかき消え、美しい青空が戻る。
しかし、そこに何も残ってはいなかった。シャフレットの山も、湖も、人々が住んでいた小屋も、夫の体も。
どれぐらいその場で呆けていたのだろうか。
騒ぎに気づいたメデッサかこちらに近づいてきた。
「モルガン、何があったのですか。」
「・・・メデッサ。お願いがあります。ルフェを、ルフェを頼みます。私は・・・世界を、女神の土地を、守らなければ。」
気絶してぐったりとしているルフェをメデッサに押しつけて、私はその場から逃げた。
後のことは、全部メデッサが上手くやってくれたが最愛の娘ルフェの人生は奪われてしまった。
私があの時、アレンを失ったショックで平常心を失ってさえいなければもっとマシな毎日を与えてあげられたのかもしれない。
けれど、メデッサのおかげでルフェは生きている。
あの子は、生まれながらにして特別だった。
なにせ、女神が産んだ私の子なのだ。
いくら人間に墜ちたとはいえ、マナの塊。むしろ、私が人間でいるせいで、私のマナが余分に流れてしまっている。
その特別さに理由をつけて、生かしてくれている。
ティティスも勘付いてくれたはずだ。あらかじめ決めた作戦通りなら、姉妹達も、いざとなればルフェを守るだろう。
私は、自分でついた嘘を事実にするべく動いた。
イルの大地で世界全体を結界で覆うことにしたのだ。ラストを閉じ込めた次元がこちらに触れないように。
最後の来訪がやってくる。今度はルフェも絡め取られたはずだ。
世界を守ることがあの子を守ることにも繋がるなら、最後の瞬間まで守り切ろう。
哀れで愚かな私は、もう二度と母として名乗れない。