第二部 南十字は白雨に濡れる 1
プロローグ
和歌山県内のとある山岳地帯。
真言宗の総本山金剛寺や真田信繁が幽閉された九度山が有名だが、それとはまた違う山の麓を歩いていた。
左右どちらからも山が迫っており、細い川と点々と立つ古い家屋しかない。
都会と違ってアスファルトがない分太陽の照り返しは受けないが、それでも梅雨の明けた七月らしい暑さでシャツはもう湿っていた。
最寄り駅からバスに四十分揺られてもまだ目的地には着かず、徒歩で移動するはめになった。
携帯の地図を頼りに、細い砂利道を辿る。
午後四時。人の気配はなく、額から落ちる汗をハンカチで拭う。
歩き続けると、寄り添うようにそびえていた山が少し離れ、開けた場所に出た。
稲刈りが終わった畑が広がっていたが、随分空が広くなった気がした。
白い雲と青い空のコントラストが僅かにだけ肌に纏わり付く熱気を忘れさせてくれた。
この辺りだ。
携帯画面の地図をにらめっこしながら歩いていたが、ズボンのポケットにしまって砂利の上に鞄を置いた。
煌々と肌を焼いてくる太陽に背を向けて、顔を上げ腕を上げる。
空に灰色の鳥が四羽現れた。
凧を操るように指と腕を軽く振る。二羽飛び立って、二羽はその場で旋回を続ける。
夕刻が近いがまだ鮮やかな青い空を気持ちよさそうに飛んでいる。偽物の翼で。
流れる雲が分厚くなり始め、有り難いことに肌を焼いていた陽光が遮られた。
山の天気は変りやすい。入道雲にまで成長して、夕立に降られなければいいが。
―視線を感じて、目線を地上に戻した。
雲が落とす影の中に、黒いランドセルを背負った男の子が熱心に空を見上げていた。
流れる雲ではなく、空を旋回する灰色の鳥を確かに見ていた。
あの鳥は普通の人間には見えない。
術士相手でも悟られないよう極限まで存在を薄くし、認識させないようにしている。
だから今まで隠密調査や情報収集において役に立ってきた。
あの鳥を認識出来るのは、術士として相当力のある者だけ。
男の子が此方を向いた。
白い肌に、整えられた艶のある黒髪。整った顔立ちをしているのに、大きな瞳は子供らしからぬ鈍い輝きを宿していた。
強い憎しみと、世間全てを疑っているとでも言いたげな目は、油断なくこちらを観察している。いや、警戒しているのだろう。
綺麗な顔をしているのに、年頃の純粋さは持ち合わせていないと自ら告げている。
声を掛けたのは、ほんの興味だった。
「君も、あの鳥が見えるんだね。」
子供は、見知らぬ大人をじっと見つめた後、ランドセルの持ち手を両手で掴みながらあぜ道を辿ってこちらに近づいてきた。
自分の腰ぐらいしかない背丈のため、少年は首を後ろに曲げて見上げてくる。
「あの鳥、おじさんの?」
「僕まだ二十四・・・まあ、おじさんか。うん、そう。僕の使い鳥。」
「此処で何をしてるの。悪いことしようとしてるなら、帰ってもらうけど。」
向けられるのは見知らぬ不審者に対する不信感ではない。
侵入者に対する敵意だ。
この辺りに住んでいる術士一族の子なのかもしれない。
術士達は家や一族というくくりにこだわり、縄張りに侵入されるのを嫌う。
真言宗を始めとする仏教系を始め、術士団体はこの地域に多い。
鳥を目視出来ているのだから、この子供も相当な力を持っているのだろう。
下手に警戒されて大人を呼ばれては面倒なことになる。
上司に言われてこの辺りを調査に来ただけなのに、動きづらくなっては仕事にならない。
素直に訪問理由を告げることにした。
「奈良、大阪で最近悪さをしている天狗が出ると聞いてね。その調査。」
「その天狗、見つけてどうするの。」
「人語が理解できて説得出来るようなら交渉、ダメなら調伏か退治かな。君、天狗は見たことある?」
「あの天狗は、悪いやつじゃないよ。」
「知ってるの?」
「知らない大人には言えない。」
「しっかりしてるねぇ。僕は東京の術士協会から天狗の調査に来ました。名前は――」
灰色の鳥が一羽降りてきたので、右腕を軽く上げて肩に止まらせてやった。
「日室誠司といいます。よろしくね。」
第二部 南十字は白雨に濡れる
七月も中旬になった。
期末テストも無事終わり、あとは夏休みを待つばかりとなった。
気象庁からまだ梅雨明けの宣言がなされていないのに、今日も真夏を思わせる温度と湿度だ。
今年は雨が少なく、晴れた日が多かったためにこれから来る夏本番が恐ろしく感じる。
「夏海は毎日遊びに行く計画立ててますよ。宿題もあれぐらい熱心に計画して終わらせてくれればいいんですが。」
「高校生になって初めての夏休みだもんね。透夜くんは遊びに行かないのかい?」
「暑い夏にわざわざ出掛ける人の気がしれませんよ・・・。それに、人が休みなのをいいことに協会が協力要請バンバン入れて来ました。」
「会長に大学進学しないって話、したんだね。」
「ええ。卒業後も面倒みてやるから仕事しろと言われました。」
口をとがらせる透夜に、隣を歩く誠司は苦笑を漏らすことしか出来なかった。
協会本部でばったり会ってから、夕飯でもどうかと誠司が透夜を街へ連れ出した。
時刻は午後六時前だが、空はまだ水色のまま。地平線に現れ始めたグラデーションは、ビル群のせいで確認出来ない。
太陽の強すぎる日差しが少し柔らかくなったのは有り難いが、まだ肌に纏わり付く熱気は残ったまま。
「海鮮とかどうかな。」
「いいですね。」
「新宿駅の近くに美味しい定食屋さんがあって、そこに―。」
誠司の携帯が鳴る。
ごめんね、と電話に出るため誠司は足を止めた。
透夜も足を止めて、特に興味は無いが流れる人並みを眺めた。
協会本部は都庁の近くにあるので、本日の業務を終えた勤め人が駅の方へ向かっていく。
誰も彼も仕事の疲れと夏の暑さに表情は死んでいた。
それでも家路を急ぐのは、プライベートの時間や家族が待っていると知っているからだろうか。
遊びに行く人もいるだろうし、まだまだ仕事中の人もいるだろう。
此処東京は、見てる分には飽きない。色んな人がいて、色んな人生がこの光景のようにゴミゴミした人生の上を歩いている。
それらを見てると、自分の人生もちっぽけでありふれた一辺だと感じる事が出来る。
こんなに人が溢れて、アスファルトの照り返しで酸素が薄く呼吸がしづらいのに、生きやすいとすら感じてしまう。
電話をしていた声の調子が変った気がして、誠司の方に目線を戻した。
「―ええ、わかりました。」
表情の一切が消えていた。
声は固く、低くなった。
誰と話しているのだろう。温厚で優しい誠司さんが、こんな冷たい顔をする相手。
話が終わったのか、携帯をズボンのポケットにしまう誠司の顔を心配そうに覗き込む。
「誠司さん、大丈夫ですか?何か問題でも―――、」
透夜を守る防壁がオートで発動した。
不意打ちの攻撃に対応出来るように、無意識でも発動するよう術式を仕込んであったものだ。
滅多に発動することはないので、透夜自身も忘れていた。
何故発動したのか、本人に理解が出来なかった。
敵による攻撃なのは明らかなのに、敵の場所がわからない。
目の前で起きた視覚情報を脳が処理出来ず、宙に浮いたまま溶け込めるわけもなく、思考がくるくると回る。
―理解出来るはずがない。誠司さんが、自分を攻撃している光景なんて。
辺りに悲鳴と混乱が湧き起こる。
日室誠司は、周りに大量の目撃者がいるのにも構わず透夜に攻撃を続けていた。
武器ではなく、術による攻撃だった。
手から白い閃光を繰り返し繰り返し放っている。
出力の高い力は位の高い術士と同等のものであった。
日室誠司は非戦闘員として知られ、諜報員として働いていた。位も下から二番目の七位。
彼がこんなに高濃度の攻撃が行える事を誰も知らなかったであろう。
長い付き合いの透夜でさえ。
今透夜を守り日室誠司の猛攻を抑えているのは、七星の防壁と、彼の式神達であった。
普段呼び出さず眠らせている者すら、主の危機を悟って表に出てきていた。
遠くで、一番古い付き合いの式神が何かを叫んでいたが、透夜の耳には届かなかった。
ただ、透明な膜の向こうで攻撃を続ける日室誠司をぼんやり眺める事しか出来なかった。
眉尻を下げた普段の笑みは影も形もなく、感情も無い空っぽな目をしていた。
向けられる敵意は静かなものだ。
憎しみや恨みといった強い感情はなく、ただただ攻撃を繰り返している。
―敵に操られている?
―ナバリが取り付いたのかもしれない。
―そうだ、こないだ出会った術士達の仲間が俺を狙うために誠司さんを使って・・・―
「しっかりしろ透夜!一般人が巻き込まれておる!」
耳元で叫ばれ、ハッとして目線をそちらに向けた。
日室誠司が放つ攻撃は透夜の防壁に弾かれる、または防壁から大きく外れて周りの建物に当たっていた。
被害を受けた近隣の建物の壁が崩れ、ガラスは割れ、逃げ惑う人々の頭上へ降りそそいでいる。
攻撃が当たった地面は割れて亀裂が入る。
突然襲いかかる非常事態に辺りはパニックに包まれ阿鼻叫喚の惨劇が感染していく。
此処に結界術士はいない。普段一般人の目から隠されているはずの"こちら側"がむき出しの状態。
術士達の間で暗黙の了解として守られていた一般人の世界が脅かされている。
「おい、敵はどこだ。」
「目の前におるじゃろう。」
「違う!誠司さんを操ってる奴だ!今すぐ探って―」
「両の目でよく見てみろ。感覚を呼び戻せ。目の前のそいつにナバリの気配もなければ絡まった他者の術式もないであろう。これは、あやつ自身の意思で攻撃している。」
「そんなわけが―。」
透夜の足下に紫の閃光と紫の円陣が現れた。
そこから八輪の花びらのようなものが現れ、朝顔が花を閉じるかのように透夜を囲みこもうと八方から迫る。
勝手に顕現したタケミカヅチが、花びらの形をしてはいるが、固くゴムのようであったそれを細切れにする。
花が落ちると、今度は足下の円陣から檻のような柱が生えた。
花びらのように湾曲しているため合わさったら綺麗な円形の檻になる代物だったのだろう。
紫色の柱はタケミカヅチの刃は弾いたが、透夜が張った防壁に触れると溶けて液体となった。
融解した鉄が透夜の防壁にしつこく張り付いてくる。
紫のドロドロした液体の合間で、日室誠司が透夜の防壁に手を伸ばした。
見えぬ扉をこじ開けるように、指をねじりこませ力業で押し開こうとしてくる。
結界に自分の力を流し込んで無理矢理中和し、亀裂を生んだ。
だがすぐに彼が結界に作った亀裂は修復され、小さな切れ目が広がることはなくなった。
力と力が反発し合うバチバチといった音が透夜の眼前で弾ける。
透夜は防壁を解こうとしたが、式神がそれを許さなかった。
防壁にさらに膜を重ね術式の解除を拒絶する。
「透夜くん、行こう。」
困惑の海から意識を戻す。
目の前に、いつもの日室誠司が戸惑った表情のまま立っていた。
防壁に爪を立てることはやめ、半透明な膜に手を当てて切なげな表情を向けている。
膜はパチパチと音を立て続けている。
それは、敵にしか反応しないはずの力が動いている証であった。
結界も、式神も、目の前の恩人を敵として見ているのだ。
それが透夜には理解出来なくて、震える声でか細く答える。
「どこ、へ・・・?」
「ついてきてくれ。頼む。君が必要なんだ。」
懇願するその表情を見て、ああやはり何か事情があって俺を攻撃したのだと安堵する。
納得したのもつかの間、誠司さんが警察に連絡しようとしていた女性に向かって、後ろ手に白い閃光を放ったのを見てしまった。
攻撃はタケミカヅチが弾いたが、女性の携帯電話は綺麗に割れて地面に落ちた。
―誠司さんが、一般人を攻撃した?そんなはずはない。誠司さんは誰よりも優しくて、俺の―
「早く!時間がないんだ。」
「誠司さん・・・。何が起きて―」
「全部説明する。だから頼む、こっちへ来てくれ。」
防壁の向こうで手を伸ばしてくる。
彼は幼い頃からの知り合いで、大恩人だ。
日室誠司という人がいなかったら、今の自分は存在していないだろうし
夏海と平和な日常を送ることだって―
「夏海は?夏海には何もしないよね?」
今にも泣きそうな震える声でそう訴えると、日室誠司は再び無の表情に代わり、手を下ろした。
「そうか。わかった。」
短くそう吐き捨てると、猛攻撃で崩れた前髪を掻き上げる。
軽く横に流していた前髪がオールバックになると、一房だけ白くなった部分が際立った。
透夜の足下に居続けた紫の円陣が消えたすぐ後、地面が激しく揺れて防壁の中で膝と手をついた。
何か―ガラス玉が割れるような音が聞こえた。
五秒ほど続いた揺れが収まって顔を上げる。
亀裂が入っていただけの地面は粉々に割れ、大きな穴が開いていた。
逃げ遅れた人達が何人も倒れている。
日室誠司の両隣に、紫色の外套に身を包みフードを目深くかぶった人物が二人立っていた。
上質なサテンのように光沢が入った布には、小さく模様が入っている。
体も顔もすっぽり布に包まれていたが、唯一覗く口が開き日室誠司に話しかける。
「核は全て割った。残るは七星の子だけだ。我らも手を貸そう。」
「いや、戻る。」
「黄王様の命に背くことになるぞ。」
「式神達が邪魔をして俺達じゃ歯が立たない。時間の無駄だ。これ以上此処に留まるのは得策ではない。」
その会話を聞きながら、目の前の男が日室誠司なのかすらわからなくなった。
それほど表情、仕草、声。全てが違いすぎた。
僅かも感情が宿っていない。喜びも、怒りもない。
透夜が知る日室誠司より冷たく、何より虚無を宿したような空っぽの瞳が恐ろしかった。
地面にへたれ座り込む透夜を、日室誠司であるはずの男が冷たく見下ろして面倒くさそうに吐き捨てる。
「弱みは掴んである。自分からこちらに出向くよう仕向ける。今は引くぞ。」
そう言うと、踵を返し紫フードの人達を連れ歩き出す。
地面に空いた穴に紫フードの二人が飛び込んで、日室誠司もそれに続こうと縁に足をかけたのを見て、透夜は自分を守っていた防壁を無理矢理解いた。
自分で張ったものとはいえ、七星の古い術式だ。手順を吹っ飛ばして解除した反動でひどいめまいがしたが、構っている場合ではない。
「待って・・・!」
腰を上げ走り出そうと踏み出した一歩を、タケミカヅチに止められた。
体を拘束され、一番古株の式神は足を地面に縛り付けてきた。主は自分だというのに。
「放せお前達!誠司さんがっ!」
慣れ親しんだ背中に向かって必死に手を伸ばす。
今追いつかなければ、二度と会えない予感がしたのだ。
手放してはならないと、本能が嘆いていた。
だが、式神達が許さなかった。
姿を現していない奴らすら、日室誠司を敵と認定して牙を向けている。
「誠司さん!!!」
胸の奥がつかえていたが、声を振り絞ってそう叫んでも、あの広い背中は振り向くことはなく、地面に空いた穴の中に消えていった。