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第二部 南十字は白雨に濡れる 11

 


畢宿は、反り立っている岸壁を登っていた。
指先と靴の先に霊力を込めていたので、クライミングのように足場や手を掛ける場所を探さずとも問題なかった。
右腕を伸ばす度、先ほど斬られた右肩が痛む。傷口は深くないのだが、当てられた相手の霊力が傷口付近で暴れているのだ。自分より強者の霊力程、毒になる。

羽ばたきの音が聞こえる。振り返らず、一気に崖を登り切ることに専念する。
崖上の平坦な道にたどり着いた時、朱雀が焼いたはずの黒鳥が、その背に主を乗せてこちらへ突進してくるのが見えた。
普通一定のダメージを受けた召喚獣などは数時間、もしくは一晩経たないと復活しないのだが、特位の透夜の霊力は無限。何度でも呼び出せる。全く、チート級だ。
透夜が腕を上げる素振りを見せたので、崖の上を走る。
前方に、星団の本殿を取り囲む塀が見えてきた。
塀を辿れば先ほど通った裏門がある。
天狼星が暴れた時用にと、数人宿を残してくれるよう頼むべきであった。実力者はほとんど全国に派遣されてしまっている。
こうなったら母屋まで引き連れて、黄王様に拘束してもらう他ない。
老いたとはいえ、黄王の名を冠するだけの実力は確かにある。全盛期であれば、今の透夜を凌いでいただろう。
顔に纏わり付く霧の細かな粒子と、頭上から降ってくる雨が鬱陶しくなってきた。
三十メートル程走っただけでシャツの上半分が濡れてびしょ濡れだ。目を開けているのも辛くなってきた。
瓦屋根が付いた木造の裏門近くに来て、手で空中に印を切り裏門を強制開門させる。
滑るように門をくぐり、本殿の中に入る。
中は、数十分離れているうちに随分様変わりしていた。
そこかしこで爆発音と破裂音、人ならざる生き物達の咆哮や悲鳴が轟いている。
遠くに人々の怒声が聞こえ、本殿の東側にあった三重塔の屋根が壊され煙が上がっている。
随分派手に暴れているようだ。
背後から放たれた弾丸が耳を掠めた。透夜は黒鳥に乗ったまま、畢宿を追いかけているようだ。
構わず、裏庭を突っ切り母屋を目指す。
アーチ状の渡殿を真横にくぐり抜け、庇の下を走る。
そこで、母屋に掛けてある結界が解けているのに気づいた。許可のないものは入れない空間が、今は解放されている。
靴を履いたまま板間に上がり、庇を左に曲がって母屋に入る。
自分からしたたり落ちる水が畳を汚すのも気にせず、御簾の下から室内を覗くが、黒い倚子が置かれているだけで、黄王の姿はなかった。
逃げたのか、はたまた敵に―?いやそれはありえない。黄王は自分よりずっと強い。本郷会長相手でさえ、苦戦はしないはずだ。
ひきつぼし星団が本拠地をほぼ空に出来たのも、絶対的強者である黄王本人がいたからだ。
肩で息をしたまま部屋を見渡したが、建物の間を縫って鳥が追ってくる気配を察して、母屋に背を向けて庭に出た。
再び雨を脳天から浴び視界に白い線が何本も走る。
小さな池と橋、花菖蒲が咲き乱れるどこか寂しい母屋の前庭を背にして、振り向いた。
母屋の向かい、今畢宿が背を向けているのは背の高い塀であるが、左右には渡殿が伸び、横長の広い空間が出来上がっている。
砂利は敷き詰められておらず、黄色い土のまま。今は降り出した雨でだいぶ緩くなってしまっていた。畢宿の革靴が半分緩んだ土に埋まる。
黒鳥から飛び降りた透夜が降りてきた。


「これもお前達の作戦か。」

 


向かい合う青年に、雨に濡れた様子はない。
片や畢宿は、シャツを濡らし、強くなった雨脚で固めたはずの前髪が崩れ、おでこにくっついてしまっている。
相も変わらず涼しげな、でも敵意だけはしっかり向けた双眸で畢星を捉えたまま離さない。
霧は本殿の中にも入り込んできていた。随分と濃くなった白いそれが建物を覆い、渡殿の向こう側が曖昧にぼやけ、現実味を薄く仕上げていく。
二人はしばし黙ったまま睨み合う。
容赦の無い雨音だけが二人の間で鳴り続けている。


―そういうことか。


昔、まだ幼かった日に、黄王から直接予言書を見せてもらったことがある。
お前は特別だから、と。
信者や星団員、他の宿達には内緒だと言われ、その後も公表されず隠された記述がある。
もちろん複数存在する写し書にもその一文は削除されている。
"お前は南十字の宿命を追った特別な子。必ず、天狼星を守るのだよ。"
あの時の、普段見せない黄王の柔らかな顔が、脳裏を過ぎる。
本郷会長がわざわざ現場にやって来た理由が、理解できた。

 

「わかった。俺も本気を出そう。お前を殺してしまって星の未来が変わろうが、もうどうでもいい。」

 

前髪をかき上げて、薄く笑った。
再び、同時に二人は動いた。
畢宿の頭上に光りの散弾が降り注いだが、彼は地面を強く蹴って身を低くしたまま前へ跳んだ。
透夜が初めて、表情を崩した。
気づいた時には、拳を構えた敵がすぐ目の前に立っていたからだ。
瞬きの間より早く、透夜すら対応出来ない早さに驚いて体が一瞬硬直してしまった。
攻撃が鼻先に迫る。
が、見えない壁に拳が当たった。空気が流れる爆音と殺された威力が耳の横を通り過ぎる。
その見えぬ壁は、新宿で発動した透夜のオート防壁であった。
どうやら本人が反応できてない危機に対して、無意識下で発動するようだ。
前回は壊すことが叶わなかったそれを、畢宿は白いオーラをまとった拳で叩きつけていく。
見えない壁が震え、ヒビが走り、透夜が反撃を繰り出す前に、粉々に砕けて消えた。
拳に弾かれた大きめな破片が、透夜の頬に赤い線が出来た。
―これだけ攻撃してやっと小さな傷が一つか。
今度は勝手に式神が出てこななかった。
間髪を容れず、拳に気を取られている透夜の左足を右足で払い、右肩を押しながらぬかるんだ地面に押し倒した。
左手で首を押さえながら右の拳を叩き込む。
雨にかき消されてしまったが、小さく舌打ちをする。
再び見えぬ防壁が拳を阻んだ。透夜は首を押さえる畢宿の腕に指弾を叩き込み無理矢理引き剥がすと、地面を転がって腕から逃れた。
ぬかるんだ土が、青年の服と髪を汚すことは無かった。原理は分からない。今は興味も無い。
二人の距離はまだ離れておらず、透夜が手の平から畢宿のこめかみに青白い光線を発射した。
まだ起き上がっている途中だった大男は、一歩ぐっと透夜に寄って、その細い腕を直接弾くことで軌道をずらした。
一撃は庭の東西を横切っていた塀に当たり、壁に大きな穴を開けた。
ずいぶんと見晴らしがよくなってしまったようで、南にある前庭まで貫通させてしまった。
此処にはない、前庭にある松の木が見える。
今の一撃があのままこめかみに当たっていたら、畢宿の頭は粉々に吹き飛んでいただろう。
遠慮がないと本当に恐ろしい――

 


「―っ!?」

 


突然、畢宿の襟首が掴まれ体が後ろに倒れた。
驚いたのは、体のバランスを突然崩されたことではなく、背中に感じる異様なプレッシャーにだった。
ぬめりとした生き物が直接肌の上を這ったかのようの気持ち悪さと、冷たく体の奥まで覗いてくるような気味悪さ。
透夜の体に、半透明な黒色の縄が絡まっているのが見えた。
今、透夜が空けた穴の向こうから、光の渦が迫ってきた。真白の光に、黒い線が絡まっている。蛇のようだと、頭の中の冷静な部分が呟いた。
畢宿の攻撃でも、当然透夜が放つ光線でもない。

(この気配を知っている。たしか、横浜で―・・・)

回避が間に合わないことを悟る透夜は、迫るそれをただ睨んでいた。

体の自由が奪われ、霊力も込められない。

どうにもならなかった。

防壁は今し方壊されてしまったし、式神達はまた勝手に出てこないよう対策済だ。

師匠が亡くなってから、自分より強い術者と対峙することが減ったため、案外あっさり敗北を認めている自分に驚いていた。

目映い閃光が眼前まで迫り、視界が全体が白く染まる中、思うのは最愛の妹と、視界の端から消えていくあの人が、この攻撃に巻き込まれなくてよかったという安堵感。
―突然、鼻先に迫っていたはずの目映い光線が遮断され暗転した。

全身温もりに包まれ、頬に濡れた布が触れる不快な感触がくっつく。
術による拘束が解け、代わりに物理的な力で上半身が押さえつけられる。
雨の匂いが、近くなった。
低く短い唸り声がおでこの辺りから聞こえてきた。何が起きたか理解する前に、全身を包んでいた温もりが離れた。
透夜の頭上に雨が纏わり付いてきた。
雨粒が体に当たる感触、服があっという間に濡らされ、顔中に水が垂れる。
戦闘の邪魔になるからと、雨を弾くようにしていたハズの術式が解かれている。
息がかかる程の至近距離で、その男は透夜をただ見下ろしていた。
口から鮮血を垂らし、胸から腹部にかけて着ているシャツが真っ赤に染まっている。
たった今まで命の取り合いをしていた相手が、重傷を負って立っている。
細めた目で透夜を数秒見下ろした後、大木みたいな体がふらっと左に倒れた。
ぬかるんだ土の上に出来た水たまりが派手な音を立てたと思えば、大男は倒れて動かなくなった。

 

「透夜!無事か!?」


右手側にある渡殿の上に、本郷会長が姿を見せた。
その隣には、何重にも重ねた黄色い重たそうな布を纏う、痩せ細った老人がいた。
服を着ているというより、着せられているというほどアンバランスだった。
老人の上半身は容赦なく縄で拘束され、札が貼られていた。霊力を封じる札である。
そちらを一瞥した透夜は、仰向けに倒れた男に向き直る。
理解が、出来なかった。
急に思考という能力が奪われ頭が空っぽの馬鹿になってしまったかのようだった。
油の差していないネジが、回らないどころか、止まっているような。
全身から力が一気に抜け、緩んだ土に膝をつく。羽織っている黒い着物の裾が水の上に浮かぶ。

体が支えきれなくなって、倒れた男の顔の横に手を付いた。


「なん、で・・・。」


仰向けに倒れている男の顔には、大きな雨粒が降り続け皮膚を容赦なく叩きつける。
口を小さく開け、細く息を吐く音が透夜の耳にもかすかに届く。
雨粒で上手く開かない目を細く開け、光が消えかけている目を透夜に向けた。


「さあな。俺にもわからん。」

 


ずぶ濡れになった透夜の髪から雫が絶え間なく、男の頬に落ち続ける。
開祖のものであるはずの羽織も、すっかり泥で汚れてしまっていた。
川のようになっている水が、男の体から流れる血を容赦なく運んでいってしまう。
手をついた透夜の指先にも、赤い川が掠めていく。

雨音がうるさい。服を重くし髪を撫でる雨粒がうざったかった。
雨粒を真正面に受けているせいで目を開けるのも辛いだろうに、男はそれでも透夜を見上げしっかりと焦点を合わせ、口を開いた。


「お前はもう、幸せを知っている。なら、大丈夫だな。」


掠れた声でそう告げて、そのまま、動かなくなった。

 


「・・・せ、せいじ、さん・・・?」


この土地に来て、決して言葉を交わそうとしなかった透夜の口から、その名が漏れる。
雨音に消え入りそうな声が届くように、背を曲げて顔を近づけた。


「せいじさん。ねぇ、せいじさん・・・せいじさん!」

 

雨音以外、静寂であった。
いや、雨音が何もかも飲み込んで支配しているようだった。
濃くなってきた霧が、遂に庭の花菖蒲まで飲み込んでしまった。
古代結界の中にあるこの空間そのものが、現実なのかすら曖昧になる。
雨が降りしきる中、透夜の右脇に、白い光がぼんやり浮かんだ。
それは徐々に形を成し、白い小型の獅子のような生き物に成った。
ふさふさとした体毛に、毛量の多い丸く長い尻尾。
頭には牛のような立派な角が二本生えており、山羊のような髭、顔の前面についている双眸は思慮深さを兼ね備えた、どこか幻想的な緑色で、額にも同じような目が付いていた。
三つ目の獅子の体の輪郭は薄く水色に光っており、現実とは別の場所に存在しているとでも主張しているように、雨に濡れることはなかった。
白獅子の登場に気づいているのかどうか、透夜が震える右手をのろのろと持ち上げて、服が裂け皮膚が爛れた男の腹部に右手を添えた。
途端、白獅子が纏う水色の光が、透夜の右手にも宿った。
渡殿にいる本郷は、透夜の口元が動き続けているのに気づいた。何か呪文を唱えているようだった。


「白澤(はくたく)だ!おお・・・!伝説の神獣をこの目で拝める日が来ようとは・・・!」


突然、本郷の隣にいる老人―ひきつぼし星団代表・黄王が興奮しきって甲高くなった声を上げた。
その姿をよく見ようと拘束されたまま廊下の柵まで駆け寄ったが、長い裾に足を取られ転んでしまった。老人とは思えぬ俊敏性で半身を起こし、膝で進み柵に胸を預け前のめりになる。

 


「古代中国において、真の王の前にしか、決して姿を現さなかったという聖なる獣、白澤!
万物の知識持ち、あらゆる時代の王や指導者に知恵を与えたと言われている神獣が、天狼星の傍らに付き従っておる!!」


興奮した黄王は、雨で鼻が濡れるのも気にせず、首を伸ばし続けていた。
先ほどまで死にそうな老人であったのに、水を得た魚のように興奮し皺に埋もれた目を見開き、奇跡ともいえる場面を見つめていた。
神獣の傍らには、彼が育てた弟子が死んでしまったというのに。

 


「予言の通りだ!初代様は何も間違っていなかったのだ!
あの子は闇を払う運命の子!闇と戦い、宇宙を導くことを決められた天狼星である!素晴らしい、これは―!」
「もう黙れ。」

 


電池が切れたように、老人は意識を失い板の上に倒れ、そのまま気絶してしまった。
本郷は軽々と柵を跳び越え、ぬかるんだ地面の上に降りる。
あっという間に髪も服も濡れてしまう程強い雨に打たれながら、透夜の傍らに立った。
霧が立ちこめる中、白い獅子は本郷には見向きもせず、透夜に寄り添い続け、
透夜は呪いのように呪文を唱え続けていた。
半開きになったままの、かつて友だと信じた男の目に、もう魂は宿ってはいなかった。


「その神獣がいくら治癒が得意でも、死んだ人間は帰ってこれないんだぞ、透夜。」


強くも弱くも無い言葉が耳に届いていないのか、透夜の口から吐き出されるか細い声が途切れることは無かった。
雨で男の血は心臓が止まった後も流れ続け、透夜の膝にも本郷の靴にも届いていた。
死んでもなお、守ろうとでもしているかのような―。
花菖蒲は強い雨に花弁を揺らし、庭の池はもう霧に紛れて見えなくなった。
遠くで聞こえていた怒声や騒音は、世界が切り離されてしまったかのように聞こえなくなり、静かであった。
存在するのは強い雨が地面を叩く音と、濡れた服が体にまとわりつく不快感と、空しさ。
雨は降り続けている。
囁くような透夜の声だけは、雨音の中に混じるのを拒むかのように響き続けていた。

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