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第二部 南十字は白雨に濡れる 9

 

寝殿の庇に立ち、丸柱に手を添えながら空を見上げていた。
時間は昼間に固定されているが、空模様は現実世界とリンクしているせで、分厚い雲が頭上を支配し、今にも大粒の雨が降り出しそうである。
母屋でもある此処はまだ静かであった。曇天の下を多う虹色の膜が一瞬震えたのを確認した。
屋敷の入り口である南側では、もう侵入者が暴れ出している頃合いだろう。
全て予定通りだ。

 

「昨晩わざと姿を見せたので、あの娘ならやってくると思っておりました。」
「うむ。」

 

畢宿の後ろ、御簾の向こう側で黄王が低く頷いた。
相変わらず光を拒絶しているかのように闇が掬う室内で、いつもの倚子に腰掛け、黄色い衣に包まれながら黒扇子を手悪さしている。

 

「術士協会の長が自らやってくるとは、意外であったな。お前を捕らえにやってきたのかもしれぬな。」
「どうでしょうか。あの男は、私欲より組織のバランスを優先します。」
「これもまた星の導きであろう。頭を潰せば、後はたやすい。術士協会本部が崩れれば、お前が盗んできた情報を活かすお膳立てが揃う。」
「ご指示通り、神戸の六葉神具会、岐阜の古義真言宗御反寺、愛知の尾張聖マリア教会に宿達を配置させております。」


術士協会のデータベースに忍び込んで、協会に属する術士団体所在地や有名術士の個人情報を盗んだのは四日前。
動こうと思えばもっと早く出来たものを、黄王は星詠みにこだわったせいで術士協会の侵入を先に許してしまった。
だが今彼らが本殿内でいくら暴れようと、星団に属する実力者はもう全国に放ってある。
黄王の指示さえ下りれば、邪教達を何人も闇に葬るだろう。

 

「畢。お前は、儂が悪しき誘いに耳を貸しているのではないかと疑っておったな。」

 


畢宿は何も答えず、ただ振り向いた。
肉がほぼついてない首と顔半分をすっぽり隠している立派な立て襟の中で、黄王はただ手元の扇子を見下ろしていた。

 


「初代星団長は七星で唯一星の声を聞いたが、誰も彼の声に耳を傾けなかった。
星の導きを信じ旅を続け、辿り着いた地で開いたのが、ひきつぼし星団の始まりと言われておる。
彼が弟子の為に書物として残した予言書によれば、この後まもなく、この星に根付いた陰気の塊がまた息を吹き返す。七星の開祖マヤでさえ一切を消すこと叶わず、封じるのが精一杯であったものだ。」
「・・・冥王ですか。」
「かもしれぬ。十一年前、七星の地で冥王と呼ばれた最悪の妖怪が、目を覚ましかけたのであろう?
マヤもまた天狼星の宿命を持っていた。同じ宿命を背負った子供に反応したのやもしれん。この一時の目覚めは、予言には記されておらぬ。
畢、お前が本人から聞き出さなければ周知すらされなかった事実だよ。」

 

話疲れたのか、黄王は一度言葉を切って、深く息をついた。
眉根を僅かに寄せながら、乾いた唇を再び動かす。

 

「今思えば合点がいくのだ。ちょうどその辺りから、星の声に混じって低く唸るような雑音が混じりだした。四日前、新宿で早急に天狼星を捕らえろと申したのも、その雑音でな。」
「黄王様は、その声を信じたのですか。」
「これも天命だと思ったのだ。人間の価値観における善し悪しなど星達には関係のないこと。」
「ですが黄王様。団員達は、黄王様と予言書を信じて此処までやって参りました。」
「今更、などと申すな、畢よ。決して予言書を違えたわけではないのだ。これは導きだ。儂を信じよ。」


俯き加減で閉じた扇子を、皺だらけの、ほとんど骸骨のような指で開く黄王。
その横顔に、どこか悲痛な憂いを感じてしまって、畢宿はただ苛立った。
この人も老いた。ただ予言書に従って星団を導いてきた厳格なる指導者から、哀愁などという人間臭さを感じてしまう日が来ようとは。
俗世の倫理観を捨てて星団を導いてきたというのに、今や、全ての行動を納得させるような強制力は無い。
―なんのために、此処まで心を殺してやってきたというのか。
畢宿の苛立ちを感じたかどうかは不明だが、黄王は開いた扇に描かれた星図を指先でなぞった。
顔に落ちる影が濃さを増す。


「よいか、お前は南十字の宿命を背負った運命の子。
儂がお前を見つけ出し、信仰深い母が星団のために、未来のためにと差し出したのだ。わざわざ歳も名も同じ戸籍を買い取ってまで俗世に放った。
外の狂気にまみれた俗世の有様を重々思い知ったであろう。ひきつぼし星団だけが、星の声を聞けるのだ。宇宙の導きに従えるのだ。
育ててやった恩に報いよ。」
「はい、黄王様。」


黄王はゆっくり瞳を閉じた。
寝ているかのようだが、こうやって宇宙と繋がり星の声を聞くのを知っているため、畢宿は踵を返して母屋から去った。
黄王が居る母屋は本殿の中にあって、別の場所に切り離してある。
先ほど侵入した術士達ですら、母屋に入り込むことは不可能であろう。
そう思って黄王自身も最低限の警備だけしか置いていない。身の回りの世話をする女房も最低限。敵を敵と見なしていないからか、静寂を優先したからかは本人のみぞ知る所だが。
母屋の裏手口で靴を履き、砂利の上を渡る。
木造建築である建物群から十分離れたのを確認してから、ズボンのポケットに入れていた煙草を取り出し、火を付けた。
味わうように、紫煙をゆっくり肺に吸い込んだ。

 


「畢宿様。侵入者のうち、北に進んだ二人組が地中深く埋めていた結界石を発見し、一つ破壊されました。」
「須麻は。」
「捕らえられたままです。」


本殿に居る間のみ身の回りの世話をしてくれた、小姓である少年が敵に捕らえられたと分かったのは、昨日夕方。
わざわざ連れ戻す程重要ではないし付き合いも浅いので捨て置いたが、侵入の道具にさせられてしまったようだ。
澄んだ夕方の空気の中へ紫煙を吐きながら、先ほどまで対面していた黄王の憂いた横顔を思い出す。
これも導きというのだろうか。


「結界石はあと七つある。」
「ですが畢宿様。今二十八宿の皆様はほとんど全国へ散っております。このままでは―」
「黄王様の指示に従え。俺は何も言われていないから、今は動くべきではないということ。それだけだ。」


まだ物言いたげな部下を無視して、裏門から外に出た。
本殿の外にも結界は張られており、裏口を出てすぐに崖があるが、その下に広がる裏の森も星団の領域であった。
煙草を指で挟みながら、森の左手へと自然と目線がいってしまう。
その部分だけ、岩が転がっていたりり岩肌がむき出しの崖があったりと木々は無く、横穴の自然洞窟が一つあるのを知っている。
畢宿はその洞窟をよく知っていた。
彼の人生の始まりは、あの洞窟から始まっていた。
生まれた瞬間に二十八宿の畢宿、さらに天狼星の守護と言われる南十字の運命が宿った赤子であった彼は、今の黄王が見つけ出し直接家を訪ねたらしい。
母を無理矢理星団に引き込むため洗脳を繰り返し、星団の子として引き離したと聞く。
その後母がどうなったのか、他に家族はいるのかは聞かされていない。
本名は奪われ、畢宿と呼ばれ育ってきた。あの洞窟で。
朝も晩も修行に明け暮れ、上手くいかなければ食事は与えられなかった。
うだつような夏の日も、凍える冬の日もあの洞窟から出ることは許されなかった。
いつも自分より強いナバリを洞窟に突入させ、戦わされていた。
命を落としそうになったことは数え切れない程あり、精神をおかしくしたせいで前髪の一部が白く染まってしまったらしい。
いい記憶とは言えず、覚えていることは少ない。
十の年にようやく洞窟から出され、あの本殿の中で人らしい生活をさせてもらい、文字や言葉を覚えた。
日室誠司として人間社会を知るため外に出されるまで、いや、術士協会に入るまで彼に自我は無かった。ただ言われたとおり勉強をし、仕事をこなした。
十代の思い出など無いに等しい。


――ただ一つ。


彼の記憶の中で心が穏やかになる瞬間があった。
あの洞窟には、天井に大きな穴が開いている箇所がある。
晴れた日の夜は寝床から出て、その穴から星を見上げるのが好きだった。
洞窟にいる間星座など教わっても居なかったのだが、星と星を繋げて星座を作るという概念は生まれた時から備わっていたようだ。

 


あの星は、兎のよう。
あの星は、手。
あの星は、―――。

 


生まれた瞬間に決められた、人生という監獄の中でただ生きてきた彼の、夜の時間が唯一の自由だった。唯一の楽しみであった。
朝が来なければいいのにと、自ら呪いの言葉を吐きながら幾度も夜を過ごした。

 


短くなった煙草を携帯灰皿に捨て、洞窟から目を反らしその場から離れた。

 

 

 

 

*      *     *

 

 

 


その子供は、齡十一とは思えぬぐらい難しい顔をしていた。
世の中の人間全てを敵と定めたかのように、常に眉間に皺を寄せ、誰にも心を許さなかった。
その反面、妖怪や式神には気を許し、唯一の家族である妹を溺愛していた。
詳しい話は聞いていないが、環境が一人の子供を歪めたのだと察することは出来た。
自分を重ねたわけではない。もちろん同情したわけでもないが、興味を僅かなりとも抱いたのは白状する。
まだ、ひきつぼし星団に七星のことは報告していなかった。
言わずとも、黄王様は星で詠むだろうと、高を括っていたからのだ。

 


「おじさん、暇なの?」
「帰りの新幹線チケットが取れなくて、明日の昼間になっちゃったんだよ。それまで、せっかくだから観光でもしようと思ってね。」
「なら九度山とか高野山とかの方行きなよ。此処、田んぼしかないよ。」
「透夜くんは出掛けたりしないの?」
「・・・しない。」

 


口を尖らせて不機嫌そうに吐き捨てた横顔を見て、やはり外に出ることを禁止されているんだと察した。
大阪奈良天狗事件、七星の術士教会勧誘と立て続けに仕事をし、もう一週間近く和歌山の田舎に滞在していた。
狭い町なので娯楽はなく、背を丸め一人孤独に歩いているランドセルの少年を見つけると、つい声を掛けてしまうのだ。
少年は明らかに不機嫌な様子ではあったが、言葉を交わしてくれた。
妹の話を聞けばある程度テンポよく答えてくれるのだが、その他の事、とくに七星や周りの大人、環境については口を閉ざしがちであった。
また、妹を七星の領域外で見たことがなく、学校に通っている様子も無かったので、兄と違って外に出ることを許されていないのではという推測が出来た。
前当主の子であるのに、何故兄妹で此処まで待遇が違うのかはさっぱりだったが、妹を気遣ってか、周りの大人に言われているのか、この兄はとても不自由そうに見えた。
次期当主と言われているにもかかわらず、捕らえられた囚人のようだ。

 


「お友達と遊びに行ったりしないのかい?」
「必要ない。」
「友達いないんだ。」
「いらないって言ってるんだ。あんな低俗でバカな子供。一緒にいるだけで疲れる。」
「ははぁ。大人だね、透夜くんは。」
「ついてこないでよ。」


と、言いながら彼は、家がある山には帰ろうとはせず、あぜ道を西へ進んでいた。

 

「寄り道なんて珍しいね。」
「今日は・・・、ちょっとやることがあるんだよ。」


秘密のお役目なのだろう。詳しい事は何も教えてくれなかったが、強く追い返すようなこともしなかった。
この片田舎でやることもなかったので、少年が目指す先が気になって、ついていくことにしたのだ。
都会で小学生を追いかけていたら通報されそうであるが、人の目もほとんど無い田舎は、野生の鹿やタヌキぐらいしか出会わない。
田植えの済んだ田んぼが左右に所狭しと何面も広がり、爽やかな夏の風景を描いていた。
だがあいにく今日も曇天で、少年が田んぼの先にある丘を昇り始めた時には、小雨が降り出してきた。
傘を差すほどの雨量ではなかったが、額や髪が湿り、土が緩くなりはじめる。
丘がやがて山の入り口に繋がり、草木が生えた細い獣道に入る。
生え放題で背の高い草木に小雨が絡みつき、掠めるズボンも濡らされた。
少年は黙って緩い坂を上り続けた。
十分ほど黙って登り続けたら、急に視界が開けた。木も生えていない緩いカーブの端にある見晴台
に出た。
といっても柵があったりベンチがある訳では無い。十歩も進めば崖に当たり、高低差がある地面に真っ逆さまだ。
眼下のへこんだ土地に森が、向こう側には別の山の峰が重なっている。


「本当に山が多いね。」


絶景とは言いがたいが、見晴らしの良い場所で深く呼吸をしながら、雨が混じった湿度の高い空気を吸い込む。
視界に光るものが入った気がして、右に首を回す。
――これは驚いた。
崖の縁に、少年より二回りは大きい真っ白な鷲が止まっていた。
いつ降り立ったのか、気配も羽音も無かった。
嘴までも白く、鋭い猛禽類の目を囲む縁だけが黒かった。
白い鷲は首を前に自ら差し出して、少年に頭を撫でられていた。首は少年の腰ぐらい太く、体毛でもっさりした体は逞しい、頭から尾の先端まで二メートルはあるだろうか。
長身である日室よりも全長は長かった。


「本物の鷲、ではないね。」
「こいつは、この土地を古くから守っているんだ。」
「神獣、みたいなものかい?」
「さあね。」


頭を撫でられて満足したのか、鷲が突然羽を開いた。左右合わせて四メートルはあるほどの長さで、羽ばたきは大迫力。一度の羽ばたきでさっと空に舞い上がり、風の渦が出来た事で一瞬目を離した隙に、どこかへ消えてしまった。

 


「やることって、エサでもあげたのかい?」
「感謝を伝えているだけだ。神様も妖怪も、認知されなければ消えてしまうからね。」


独り言のようにボソっとそう呟いた少年は、また踵を返し坂を上り始めた。
白い鷲が飛び立った方向を一瞥してから、後に続いた。
気づいたら小雨は止んでいた。
山を沿うように道は続き、左手側の空では雲が割れ、遠くなっていた青空が顔を見せ始めていた。
気づいたら夕方が近づいてきたようで、覗く空は橙と黄色、それから水色の美しいコントラストに染まっていた。
薄暗い山中も徐々に明るくなっていく。

 

「この土地には、様々なモノがいるんだね。」
「手つかずの山や神域、高野山なんかもあるからね。田舎で、人もいないし。」

 

前を歩く小さな背中。
放課後に遊ぶ友達もおらず、人の目に見えない生き物としか触れ合わない。
なんだか、とてもアンバランスに見えた。
環境や周りの大人の抑制というより、自ら進んでそうしているかのような。
夕日が僅かに差してきた気配を感じて、再び左手の空を見た。

 

「あ!あれ、見てごらんよ、透夜くん。」


目の前の少年が振り向く。
だがちょうど、彼の背丈より高い雑草が群生する箇所に立っていたせいで空が遮断され、首を傾げていた。

 


「ちょうど見えないのか、ほら。」

 


そう言って無遠慮に、ランドセルを背負った少年をひょいと抱き上げた。
突然の事に驚いた少年が腕の中でたじろいだ気配がしたが、それを確認して、暴れるのをやめた。素直に日室の腕に手を添える。
雲が流れた空にあったのは、綺麗な半円の虹、しかも二重に掛かっていた。
ちょうど顔を出した太陽は二人が立つ場所の真後ろにあって、先ほどの雨で濡れた空に夏の強い夕日があったのだろう。
ハッキリと浮かぶ七色の虹の上に、薄く暗い虹がなぞるように走っていた。
上の虹は、七色の並びが反対になっている。
虹の後ろで、霞のような薄暗い雲が踊っている。濡れた空気が山の合間を抜けて通り過ぎていく。
日室も二十数年生きているが、初めての光景に胸が躍った。

 


「綺麗だね。二重の虹なんて、絶対いいことがあるよ。」


腕の中にいる少年に目をやった。
さすがの彼も、この光景には心奪われたようで、空に描かれた虹を凝視していた。
眉間の皺が取れると、随分年相応な顔になる。
大きな瞳を更に大きく見開いて、驚いた表情のまま固まってしまっているかのようだった。
―大丈夫だ。この子にはまだ心がある。

 

「透夜くん、ずっと後ろや周りを気にしてたら、大切なものが見えなくなっちゃうよ。
この虹だって、今みたいに下を見てたら気づかなかっただろ?
たまには足を止めて、色んなことを見て、経験してごらん。それは君の心を軽くしてくれる。
好きも嫌いも、やってみてから決めてごらん。
嫌いなこと、嫌なことはやらなくても生きていけるから。逃げることだって、実は簡単なんだ。」

 

我ながら安っぽくて、随分えらそうな言葉だと思った。
高尚に上から語れるほど、立派な人生を歩んできてはいない。
むしろペラペラの、人に作り上げられた人生だ。
自分で何かを考えたことも、成し遂げたこともない。信念も目標もない。
でも、気づいたらそう声を掛けていた。
透夜少年は虹から目を離して、日室の顔をちょっと上から見つめた。
腕まくりをした太い腕に添えた小さな手が、僅かに震えたのを感じた。
キラキラとした大きな瞳に向かって、偽物の笑顔を向ける。
偽物なのに、心が軽やかだった。
この虹のおかげでテンションが上がってしまったのだろうか。
疑似人格である日室誠司に酔ってしまっているのだろうか。今はそんなことをする必要なんてないのに。
誰も日室に、七星の子を懐柔せよなんて命令を出していない。
声を掛ける必要なんて、全く無かったというのに―。
夕日が傾いた事で虹が消えるまで十分間、透夜は親戚でもなんでもない大人の腕に抱き上げられながら、虹を見続けた。
日室も、何も言わず虹を追い続けた。
空に描かれた自然の絵画が消えて、少年をそっと地面を下ろしてやる。
と、少年の頬に涙が流れているのに気づいた。
本人も泣いたつもりはないのだろう。また雨でも降ってきたかと思ったに違いない。
日室もしゃがんで、頬の涙を武骨な指で拭ってやる。

 

「妹を守りたいから、頑張っているんだよね。でもね、君の心も大事だよ。君の人生を楽しまないと。」
「・・・それ、母さんにも言われた。」


少年から親の話をされたのは初めてだった。
秘書の話から、先代当主である父親が亡くなっているとは聞いていたし、母親も死んでいると推測していた。
少年は体の脇でぎゅっと拳を握って、湧き上がる感情を抑えているようだった。
また眉間に皺が寄る。

 


「幸せって・・・どうしたらなれるの。僕、わからないんだ。妹を守りたいのに、周りの大人は、イジわるばかりするし。」
「幸せは人それぞれだと思うけど、思うに、妹さんと自由になることなんじゃないかな。君の立場じゃ、難しいかもしれないけど。」
「自由・・・。自由になったら、妹は・・・夏海は、イジメられたり除け者にされたりしない?」
「もちろん。一緒に遊びにだって行けるよ。」


そう言うと、胸ポケットに入れていた革の名刺入れを取り出して、一枚を少年に差し出した。


「何かあれば連絡してよ。今すぐ君たちを自由にしたり、助けたりは出来ないかもしれないけど。話は聞くし、力にもなる。話し相手でも、喜んで。」
「何で・・・。」
「これも何かの縁だよ。この世の中に、偶然はない。人の出会いは特に、必然である。僕はそう習ったんだ。」
「必然。」

 


差し出された名刺と日室の顔を交互に見つめた少年は、迷った末、両手で名刺を受け取った。
随分安くて無責任な言葉だと、頭の奥で嘲笑が響く。
不思議なことに、この時に打算や偽善、七星の力を狙った邪念などもなかった。
ただ、純粋な思いだった。
一つ、正直に白状することがあるとすれば、幼い頃過ごした洞窟での生活が頭を過ぎったことは認めよう。
息苦しそうな少年と、自分を重ねてしまった部分は確かにあった。
だからって、無責任に言葉をかけていいわけもない。これは誰にも指示されていないのだから。
今後術士協会もしくはひきつぼし星団の指示があれば、この少年や七星と敵対することだってあるかもしれないというのに。

 

「おじさ・・・。せいじさん、また来る?」
「仕事でこっちの方に来ることがあればね。」
「鳥飛ばしてよ。僕、どこでも気配でわかるから。」
「うん。そうだね。」

それから和歌山を発って、少年からメールが来たのが一週間後。
たわいない世間話のやり取りが繰り返されたが、七星の土地から妹と共に出ようと思うと相談されたのは、あの二重の虹を見た夏から、三年後のことであった。

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