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第二部 南十字は白雨に濡れる 8

 

重々しい曇天の空が、今にも泣き出しそうに見えたのは、東に見える山並みの頭上が暗くなっていたからだ。
日中の暑さで発達した雲がいずれこちら側にやってくるのは安易に予想出来た。
午後5時。
曇天の下にあっても、日が長いおかげでそれほど薄暗さは感じず、乱雑に生えた木々の下にあっても集まった術士達の顔は確認出来た。
高度がある山の中でも肌に纏わり付く湿気が不快である。張り詰めた緊張感の最前線に身を置いても、服が肌に張り付く違和感と、背中に流れる汗に苛立ちが募るばかりだった。
夏海は虚空に向かって腕を伸ばす。指先から冷えた空気に触れたかと思えば、視界から肘から先が消えた。

 


「本郷さん、この後は?」
「そのまま少し待て。これからお前の体を介して結界に穴を開ける算段になっている。」
「面白いから写真撮っておこうかしら。薬師寺さん辺りに見せたら悲鳴上げてくれそうよ。」
「やめて比紗奈ちゃん・・・!」
「待たせたのぉ。」

 


森の中にいきなり現れたのは、ゴスロリ衣装に身を包んだ少女であった。
昨日埼玉の氷川神社で出会った時と同じ格好で同じ傘を持っている。ゴスロリ少女の半歩後ろに、袴姿の長身美女が共だっていた。


「噂をすれば薬師寺さんじゃありませんの。・・・あら?その男は昨日の。」


薬師寺が小脇に抱えているのは、彼女より背の低い若い男だった。
胸丈の紫外套を纏っているが、フードは外れ背中に落ちている。
陽を全く浴びてこなかったのかと疑いたくなるほど白い肌、短めの髪で広いおでこがむき出しだ。
瞳は大きく、唇は薄く小さい。思っていたより年が下なのか、童顔なのかは不明だ。
あれは、昨日同じ場所で不法侵入を見られてしまい、追いかけて夏海が殺しかけたひきつぼし星団の男だった。
薬師寺の腕から逃れようと必死に暴れていたようだが、夏海の姿を見ると掠れた悲鳴を上げてバタバタしていた手足を硬直させ、大きな瞳が潤んでしまった。自分を殺しかけた相手に恐怖が滲んでいる。

 

「伽羅ちゃん、こんなとこで何してるの?また女の子に化けて~。」
「なんじゃ、良いではないか。気に入っておるのだ。」
「此処で何してるの?」
「本郷に頼まれて、わざわざ来てやったのだ。のぉ、本郷。」

 


誰?と首を傾げる比紗奈に、兄が契約している化け猫の古代妖怪だと紹介した。
普段は真ん丸のオス三毛猫だが、気まぐれに人間に化けて遊びにいくクセがある。最近は原宿辺りがお気に入り。ということは今は黙っておいた。
兄の式神は基本的に主の言うことを聞いて普段は大人しくしているが、何故かこの三毛猫はふらふらと外を遊び歩く。気まぐれなのも猫らしい。
何故術士協会二位の薬師寺を連れ立って歩いているのか聞く前に、本郷が腕組みを解いた。

 

「その男をどうするつもりだ。」
「こやつ、聞けば二十八宿の小姓をしておるそうだ。当然、結界を越える資格を持っている。
夏海は結界に耐性があるだけで、媒体には弱いと思うてな。
本郷や術士達を送るなら、結界の口をしっかり開けさせねばなるまい。
して、麓で待機している奴らを送ればよいのか?」
「頼む。」
「もっと大勢連れてくるかと思えば、たった七人とは。まあよい。」

 

夏海の腕を飲み込んでいる空気が震え、波立ち出した。
触れている結界に、伽羅の力が干渉しているのだと、なんとなくわかった。
この結界は七星の山を囲っていたものと似ている。ほぼ同じと言ってもいい。
難しい理屈や仕組みは夏海にはよくわからなかったが、並の術士では探知も出来ないし、中の人間も簡単に解くことはできない古代術式だと兄から聞いたことがある。
現代の術士が始めから組み直そうとしても同じものを作ることはほぼ不可能と兄が断言するほど、とても難しく絶対的防御を誇る結界術であるらしい。
今更ながら、その術式に穴を開け、尚且つ術士を何人も中に投げ入れることがたかが妖怪に可能なのだろうかと疑問が湧いてきた。
伽羅は確かに結界術が得意な化け猫だ。場を支配出来る能力が高い。
江戸時代には存在したナバリであるが、果たしてそんな大それた技が使えるのだろうか。
まあ、人間の結界術士達よりは腕が立つと判断して本郷が声を掛けたのかもしれない。
本来なら兄に頼んでいた所、兄自身は心神喪失状態だから―・・・。
結界の表面が目に見えて震え、水面に輪が出来るように波立ち出した。
小さな傘を差したままの伽羅が、薬師寺の名を呼んだ。
まだ一言も喋っていない長身美女が、頷いてみせたかと思えば
小脇に抱えて怯えまくっている男を雑に投げ飛ばした。
夏海の脇を通り抜け、男の体と悲鳴は透明な結界の中に消えた。綺麗な投擲に言葉も出なかった。
後に続けと叫ばれ、慌てて透明な海に一歩踏み出し、体全てを結界内部に滑り込ませる。
ひんやりとした空気が全身に触れた。目は開けたままだったが、視界の中が僅かに白ずんだ。
明度が僅かに落ちたが、先ほどよりは明るく感じる。
まとわりついていた湿気が綺麗に吹き飛んだ。
ひんやりした空気が肌に触れたのを感じたと思った次の瞬間には、全く別の景色が眼前に広がっていた。
先ほどまで立っていた山の中では無い。
後ろから本郷と比紗奈、それから伽羅と薬師寺も後に続いて結界を超えてきたが、驚いて誰も声を発せられなかった。
目の前に広がるのは、まるで平安時代にタイムスリップしたかのような寝殿造の建築物だった。
周りを低い壁に囲まれ、大小様々な建物を廊下が繋いで複雑に伸びている。
右手奥には三重塔がそびえ立ち、足元には細かな砂利が敷き詰められていた。
空気も違った。湿気が一切無く寒いぐらいだ。
頭上を支配する分厚い曇天は変わらなかったが、雨の匂いが僅かに混じっている。此処も時期に雨が降ると感じさせた。

 


「古い術式だったので人間の体が耐えられるかわからんかったが、無事通過出来たようじゃな。」
「伽羅ちゃん、越えてから怖いこと言わないでよ・・・。」
「本郷。報酬は弾めよ?」


不機嫌そうに低い声を漏らした本郷は、腰に手を当てて辺りを見渡した。


「残りの術士は。」
「指示通りの場所に届けたぞ。」
「よし。俺達は黄王を抑える。」
「場所わかりますの?」
「寝殿だろう。平安京をモデルにしてるなら、大内裏の紫宸殿か清涼殿辺りかもな。」
「適当ですね・・・。」
「そこ、どこ?」
「社会を勉強なさい!」
「もう期末終わったばっかなのにやめてよ!」
「ほれ、あまり騒ぐでない。結界を無理矢理開空けたのだ。今頃敵に侵入はバレておる。行くぞい、薬師寺。」

 

砂利の上でうつ伏せになって気絶している男を、薬師寺は再び脇に抱えた。
小柄といっても成人男性を、片手で軽々と抱えている様は中々圧巻であった。
術か何かを使ってはいるのだろうか。
フリルで縁取られた小さな傘をクルクル回しながら、伽羅はつま先を右に回して歩き出した。


「伽羅ちゃんはどこに行くの?」
「別の仕事だ。気張れよ、夏海。」

 


それだけ言い残し、薬師寺を連れ立って右手の方へと歩き去ってしまった。
本郷が行くぞ、と声を出して走り出したので、比紗奈と夏海も慌てて走り出す。
複雑に伸びる廊下のせいでどこを目指せばいいのかわからないが、本郷は迷い無く建物の左を回りる。
丸柱は茶色い木で、部屋と部屋は御簾が仕切り、奥の間には畳が敷かれている。置かれた小道具に至るまで、教科書に出てくるような平安絵巻が再現されている。
ここは巨大なオブジェなのだろう。人が住んでいる気配を感じない。
走りながら、夏海は空に目線を飛ばした。
曇天の内側で、虹色に反射する光を見た。薄い膜が空を覆っている。
この一帯と先ほどまで居た山を繋ぐ結界が目視で確認出来るのだろう。ほぼ透明だけれど。
・・・―何故だろう。違和感がある。
薄い膜の内側に、さらに膜が張ってないだろうか。
半歩前を走る比紗奈の背中に声を掛けようとしたところで、前方の本郷が足に急ブレーキを掛けたので後ろの二人も慌てて止まる、
前方、砂利が終わり土と芝生に切り替わった辺りに紫色の外套を纏った人物が立っていた。
屋敷の片隅に作られた前庭には大さなひょうたんみたいな池と、池を渡す橋。松が数本と、もう七月の下旬だというのに白い花菖蒲が凜々しく咲いていた。
ただ、手入れはされてないようで雑草が目立ち、橋は廃れ今にも落ちそうだ。
人に見放された寂しさが漂っている。
紫外套の人物は目深くフードをかぶっており、丈は足首を隠すほど長い。
更衣の推測によれば、床まで届く長い外套を纏った星団員はそれなりの実力を持った術士ということだ。
視界の端で、比紗奈が刀の柄に手を添えるのを見た。

 


「畢宿様の言うとおり、考えも無しに自ら罠にハマりにくるとは。愚かな。」

 

口元しか見えていないため表情などはわからなかったが、太い声から中年男性と思われる。
放った声はどこか嬉しそうで、こちらを見下しているのがよくわかった。
身を低くして踏み込むタイミングを見計らっている比紗奈を、本郷が手で制した。


「夏海が結界に耐性があるのを知った上で、あいつはわざと姿を見せたのだろう。内部侵入の可能性を示唆すれば、味方を引き連れ罠に掛かる、と。」
「術士協会の会長までやってくるとは、黄王様もお喜びになる。
まもなく予言の時を迎える。悪しき宗派は一蹴され黄王様がこの世界を導く指導者となられるのだ。
術士協会、邪道たちをまとめ我が物顔で世界のバランスを崩してきた悪行、今こそ裁かれる時だ。」

 

胸の高さまで上げた左手に紫色の水晶を持っており、水晶は内側から発光し、内側に閉じ込めた雲か靄がゆっくり自転していた。
―――誰かに肩を押され砂利に体を押しつけられた。
いや、違う。後ろに誰もいない。もの凄い力で体全体を押しつけられ、何かにのし掛かられているような圧迫感と重みが筋肉や骨をギリギリと言わせている。
歯を食いしばりながら、跡が出来る程押しつけられている砂利から頬を剥がし、首を上げた。
それだけの行為で全身から汗が噴き出し力んだ体が震え出す。

 


「領域に侵入した不届き者は、結界に拒まれるのだよ。こちらの策を逆手に取ろうとしたようだが、此処ではどんなに実力を持とうが、無力だ。」

 


紫水晶を持っている人物の声が頭上から降ってくるが、男の顔を見上げられるほど首が持ち上がらず、なんとか手元が掠れた視線の端で捉えられる程度だった。
靄のようなものが渦巻いていた紫水晶が、目映く光を放っていた。
アレが原因だとわかったが、体がどうにも動かない。
重力操作のアイテムなのか、敵と認識した相手に対して様々な効果を発動出来るかは謎だが、
今は指一本動かすにも長距離を全力ダッシュしたのと同じぐらいの筋力とスタミナが消費される。

 


「他の術士は殺すとして、会長は異端者達への見せしめに貼り付けにでもするか。
小娘。お前は天狼星様をお呼びするエサになってもらうぞ。」

 


―クソッ!
悪態を口から出すことが出来なかった。飲み込めない唾が口の端から砂利の上にだらしなく落ちる。
脳裏で、日室誠司の顔が掠めた。
食卓を一緒に囲んで、楽しげに話す姿。
初めて生まれ故郷から都会に出て、人混みに怯えていたアタシを安心させた、あの笑顔。
大人含めて周りは敵だらけの中、兄に人らしい笑顔を作ってくれた恩人。
いつも守ってくれる兄に対して何も出来ないアタシと違って、頼られ信頼されていたハズの人。

 

―あのね、夏海、本当はね―・・・・・・。
―大丈夫だよ、夏海ちゃん。透夜君は、夏海ちゃんのこと大好きで、とっても大切にしているよ。
―本当?お兄ちゃんは、ずっとお兄ちゃんでいてくれる?
―もちろんさ。
―誠司さんも、一緒?夏海、誠司さんがいるときのお兄ちゃんも大好きなの。
―うん、君たちが許してくれるなら、一緒にいさせて欲しいな。さあ、ご飯でも食べにいこう。何が良い?
―ハンバーグ!

 


アタシだって、家族だと思っていたのに―・・・。
生理現象として落ちたのか、悲しくて溢れたのかわからぬ涙が砂利にポタリと落ちる。
遠くでガラスが割れる音がしたかと思えば、体にのし掛かる重力が、ふっと消えた。
細く短くしか出来なかった呼吸が自由に出来ると分かって、肺が酸素を求めて大きく息を吸い込んだ。
脱力した体にすぐ力が入らず、首だけ上げると、紫水晶の破片が地面に落ち、それを持っていた男が芝の上に倒れるところだった。
立っていたのは、本郷だった。

 


「立てるか、お前達。」
「本郷さん・・・。どうやって。」
「これでも協会を束ねる長だ。これしきの術式で拘束されるわけにはいかん。」


震える腕で肢体を持ち上げる。
比紗奈は刀を杖代わりに立ち上がったが、彼女も十分辛そうであった。
本郷の助けを借りて夏海が立ち上がったのと同じくして、屋敷の奥から大量の星団員がわらわらと現れた。
さらに、彼らの目の前が歪み、砂利道に巨大な蛇が落ちてきた。
派手なピンク色の体は蛍光色で半透明。薄暗い世界で光って見える。
蛇というには太く大きすぎる体で、首の周りに獅子舞のようなたてがみが生えている。
首を持ち上げれば本郷を遙かに超える背丈になった。
見下ろしている顔に双眸は無く、大きく左右に避けた口には鋭利で細かい牙が無数に生えていた。

 


「突破するぞ。」
「「了解。」」

 

まだ震える足を叱りつけるように足を砂利の上に踏み込んで、夏海と比紗奈はほぼ同時に地面を蹴った。
夏海は手足に青い光を纏いながら体術で、比紗奈は刀で群がってくる紫外套の星団員を倒していく。
視界の端で、ピンク色の巨大蛇が内側からはじけ飛ぶのが見えた。
こんなところで捕まるわけにはいかない。
兄が送った腕時計を付け続けた理由を聞くまでは、倒れるわけにはいかない。

 


空は今にも泣きそうだった
 

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