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第三部 夜永月の妖星闊歩1

 

プロローグ

 

ああ、おなかがすいた。

最後にご飯を食べたのはいつだったろう。
何を食べたんだっけ。ああ、そうだ。お母さんがくれた魚肉ソーセージ。
お母さんにお腹が空いたと訴えれば、怒られるし殴られるから言わない。
お腹が空きすぎて、もう腹の虫もヘソを曲げて黙ってしまった。
頭がかゆくて、伸ばしたい放題のもっさりした髪を掻く。
何日もお風呂も入っていないせいで、肌が痒くなってきた。
アパートの階段の裏で、段ボールの影に隠れて小さくなった。
今は、お母さんの彼氏が来ているので部屋から追い出された。
いつもそうだ。あの男が顔を出すようになってから、邪魔者扱い。
部屋に戻ることは許されず、そのまま忘れ去られて朝まで外にいることも少なくはない。
腹立たしさより、悲しさの方が強くて、鼻をすすりながら乱暴に目元を拭う。
男の腕に絡まって身を寄せる母の甘ったるい声ととろける瞳が嫌いだった。
自分を一切気にしない態度も嫌い。
でも、お母さんは好きだった。あの男は嫌い。
一度、腕に煙草を押しつけられ、泣いて畳の上を転がっていたら背中を思いっきり蹴られたことがあった。
あの時はやけどの痛みが消えてしまうぐらい、背中が痛くて呼吸が出来なくなって大変だった。
あれから、あの男の近くに寄らないように注意を払った。
痛いのは嫌い。
お母さんに怒鳴られるのも嫌。
だから素直に部屋を出る。
アパートの外に出ないのは、外の世界を知らないから。
アパートに住んでいる人以外の人間を知らなかった。
違誰かに見られたら困るから隠れてろとお母さんが言っていた。
私が怒られるんだから!とヒステリックな金切り声を出された事があったので、大人しく階段の下に隠れている。
此処は影になっていて、音さえ立てなければ誰にも見つからない。
お母さんがもういいよ、って迎えに来てくれるまで、もしくはあの男がこの階段を降りて出て行くまで眠っていようと目を閉じた。
頬に生暖かい感覚と息が掛かる。
ハッとして目を開けると、柴犬が真ん丸の瞳を輝かせ、舌を出しながら座っていた。
この犬は、アパートの裏に住む大家さん家の犬。
とても頭がいいとかで、リードはされておらず、自分家の敷地内をいつも自由に散歩をしている。

 


「こんにちは、まろん。」

 


毛の短い背中を撫でてやると、嬉しそうに耳を倒して身を寄せてくれる。
自分を見つけてくれるのは、この柴犬だけ。
肩を抱くように柴犬を抱き寄せ頭を預ける。
暖かい。
そういえば、最近寒くなった。薄汚れた半袖シャツの季節はもう終わってしまったのだろう。
長袖の服、捨てられてないといいけど。
太陽が沈んで、階段裏の影がどんどん闇に飲まれた頃、飼い犬を呼ぶ大家さんの声にまろんはあっさり自分を見捨てて階段裏から飛び出していってしまった。
ご飯の時間なんだ。
まろんはいいなぁ、呼んでくれる家族がいて。与えられるご飯があって。
大家さんと大家さんの旦那さんはとても優しくて、一人で外にいるとおやつをくれる。
ご飯を食べるかと誘ってくれたこともあったけど、お母さんに見つかって腕を引かれて部屋に帰された。
当然その後も殴られた。
どうやら大家さんに見つかってはいけないらしい。
あれから、大家さんに姿が見られないよう注意をしている。
お母さんを怒らせちゃだめ。悲しませちゃだめ。
わたしは良い子にしてないと、ひとりぼっちになってしまう。
一人は嫌。
誰にも愛されないのは、もっと嫌。
お母さん、早く迎えに来て。
そんなことを願いながら、静かに眠りについた。

 

 

 

 

*      *      *

 

ベッドの上で座りながら、しばしぼんやり俯いていた。
何か夢を見ていた気がするけど、思い出せない。
夢から覚めたのに、まだ夢の中にいるむず痒い感覚がする。
ベッドの端の一点を見るでもなく見つめ続ける。
此処は、まだ夢の中なのかと疑い始めたところで、携帯が目覚ましアラームを爆音で鳴らす。
ベッドサイドの携帯を操作して、顔に掛かった髪を払って時計を確認する。
八時ちょうど。
物音がした。扉が閉まって、廊下を歩く音、そのまま階段を降りている。
急に現実に帰還した意識と一緒にベッドから飛び出して、後を追いかけるように階段を降りた。
案の定、兄が玄関で靴を履いているところだった。

 


「お兄ちゃん、もう出掛けるの?」


寝起きで掠れた声で問いかけると、兄は立ち上がって振り向いた。
ちょっと困ったような顔。


「おはよう。髪凄いことになってるぞ。」
「今起きたぁ。」
「本部で報告書書いてくる。」
「ふぅん。」


夏休みの始め。
長野で起きたひきつぼし星団という宗教団体の捜索、そして日室誠司の裏切り。
あれから兄は仕事ばかりで、二学期が始まっても、放課後は仕事。
土日は泊まりでどこかに出掛けているようで、家にいないことが多い。
日室誠司の事を忘れたいのだろうと何も言わないことにして、夏海は杏子と夏を満喫した。
そういえば、お盆に兄は七星の地に里帰りして両親に会ってきたが、夏海は相変わらず山に入ることを許されなかった。
元々七星の大人に嫌われていたのに三年前七星を飛び出して神奈川に越してきたら、一方的に縁を切られ二度と戻ってくるなと怒られた。
両親には申し訳ないが、帰りたくもないから願ったり叶ったりだ。

 


「アタシも杏子と出掛けてくるからね。」
「ああ、気をつけて行ってこい。何かあったら連絡しろよ。」
「あい。いってらっしゃーい。」


軽く手を振って、パタンと閉まる玄関を見送る。
いつも通りの、脳天気な妹で居られただろうか。
最近、ちゃんと笑えてるか不安になる時がある。
兄にとって、アタシは頼りない存在なんだろうと思う。
辛いときこそ頼ってほしいのに、アタシは知能も霊力もない。全部兄に劣っている。
玄関を階段の中程で見つめ続けていると、リビングの扉が開いて、洗濯カゴを抱えた犬神まろんが顔を出した。
今朝も緑色の着物を着て、フリル付きのエプロンを身につけている。

 


「あら、夏海様。おはようございます。今日はお出かけでしたね。朝ご飯のご用意出来ていますよ。」
「うん。顔洗ってくるー。」

 


階段を降りきって洗面所に向かう。
鏡に映るのは、ぼさぼさ髪でノーメイクの疲れて、どこか冷めた自分の顔。
そういえば、式神にまろんって名前をつけたのは幼い自分だと聞いた。
小さい時の出来事なので何も覚えてない。
顔を洗って歯を磨き、髪はそのままにしてリビングのテーブルに座る。
ピンクのランチョンマットにトーストとサラダ、コーンスープとオレンジジュースが並べられている。
今日もご飯が食べられるのは、とても幸せだ。
両手を合わせる。

 


「いただきます。」

 

 

 

 

 

 

東京都文京区にある中華店。
土曜ということもあり常連客と観光客が入り乱れる狭い店内は満席で賑わっている。
油の匂いと汚れが壁や床に張り付いおり、どことなく古くさい内装や使い古されたテーブルと机。
カウンターの丸椅子は足が壊れているものもある。
しかし、地元では有名な美味しい本格中華が食べられる店として親しまれている。
新宿にある術士協会本部で無事報告書を書き終え、会長との話し合いも済ませたところ、大学生コンビ―伊埜尾嵐と宇佐美頼安に呼び止められ昼食に誘われ此処に来た。
嵐さんはこじんまりとした小さな名店を見つけるプロであるため信用しているので、店内を訝しんで観察するような真似はせず、透夜は手の中に一冊の本を呼び出して読み始める。

 


「ずいぶん古い本だねー。」


無愛想な店員が運んできた水を配りながら頼安が言う。
若草色の表紙こそついているが、紐でしばってまとめてあるだけの紙束。
紙は色褪せ、表紙も汚れくたびれている。

 


「先月実家に帰ったとき、師匠から受け継いだ秘伝書なんかを整理してたら出て来たんです。」
「秘伝書?え、もしや七星の極意がそこに!?ボクも見たい!」
「これ、ただの日記帳ですよ。」
「誰の?」
「七星開祖、摩夜です。」


本から目を離さずしれっと告げる透夜に、隣に座る嵐も動きを止めて彼の手元を見た。

 

「・・・・・・それ、とても貴重な物なんじゃ。」
「そうですね、欲しい人は数十億は値段乗せてくるでしょうね。」
「国宝級のものをこんな油くさいとこで広げないでよ!!!タレ跳んだらどうするの!?」

 


店員が運んできた餃子の皿をかっさらって透夜から遠ざける。
嵐も無意識にラー油を落とした小皿を机の端に移動させた。

 


「汚れないように術でコーティングしてあるから大丈夫ですよ。俺以外触れないようにしてありますし。」

 


なら安心か、と餃子を戻して二人は割り箸を割るが、透夜はまだ本から目を離さなかった。
そういえば透夜は猫舌だった。出来たての料理はまだ食べられない。

 


「何が書いてあるんだ。」


熱々の餃子を頬張りながら、嵐が聞く。
皮に閉じ込められた肉汁がとても美味しい。さすが看板メニュー。

 


「たわいのない日常が綴られてるだけなんですよ。弟子がした面白い話とか、貰った饅頭が美味かったとか。」
「厳しい修行のこととか、七星創立の話とかは?」
「今のところ、平和な日々が続いてますね。ただ一つ気になる箇所があって、摩夜の友人として保那って人物が結構登場するんですよね。摩夜が日本を彷徨いながら旅してる頃からの付き合いで、摩夜と相当親しかったらしいんですが、正規の七星歴史書や教材にその名前は無いんですよね。一応、歴代の功労者とかは一覧になってるんですけど。」
「幼名か、途中で死んだのでは?」
「その可能性もあります。」


透夜が注文した酢豚定食と頼安のラーメン定食が運ばれて来たので、文字通り本を手の中から消した。
忙しそうに去って行く店員には、本の存在すら見えていなかったのだろう。
椅子に座り直して、透夜も割り箸を取る。

 

「摩夜の恋人だったんじゃない?保那って、女の名前でしょ?」
「俺は摩夜が女だと思ってた。」
「摩夜の性別ははっきりしないんですよね。女と記した書物も、男と記したものも出て来てるので。」
「そんなことある?」
「摩夜はとにかく自分の事を残すのを嫌ったそうで、弟子が摩夜について絶賛した書物とかこっそり燃やしてたそうです。とても綺麗な人であったというのだけ語り継がれています。」
「七星も謎が多い組織だよねー。」
「酢豚うまっ。」
「餃子も冷めたぞ。」

 


透夜の為にとっておいた餃子皿を彼の前に移動してやる。
透夜はあまり感情が前に出るタイプではないが、酢豚と大盛りのご飯がみるみるうちに減っているので、かなり気に入ったようだ。
紹介した嵐も満足そうに炒飯を頬張る。


「今度まろんを連れてきて食べさせたいな。で、再現してもらおう。」
「いいねー料理上手な式神がいて。」
「頼安さんも契約すればいいじゃないですか。陰陽師なんですから。」
「透夜くん家の犬神は大和撫子だからいいけどさ、大体の犬神は見た目も逸話も怖いジャン。
あの犬神に家政婦させてる君は、中々だよ。」
「俺じゃないですよ。師匠の家で家政婦していて、そのまま俺と夏海を世話を焼いてくれることになったんです。契約もあっちからの申し出で。」

 

羨ましいだのなんだのと喚く頼安を無視して、酢豚定食を完食する。
たしかに、まろんは変わった犬神だ。
犬神の逸話や作り方こそ残酷で人の業が生み出したナバリとも言える。
人に取り付いた犬神付きなんかも話題になった。
人間に味方し一緒に暮らし、あまつさえ家事までこなしている犬神なんて、世界中探してもまろんだけであろう。
師匠と契約した経緯やそれ以前の暮らしなど、聞く機会がないままここまで来てしまった。
本人も楽しそうなので、別に今のままで構わないと思っているが。
まろんという呼び名は夏海がつけたが、その前はなんと呼ばれていたのだろうか。
汗をかいたコップの水を飲み干しながら、遠い日の思い出を探る。
先月、久々に実家には帰ったが、師匠の家には寄らなかった。
秘書や吏九上に使えている式神、星宮の巫女が掃除をして残してくれてはいるらしいが、誰も済まなくなった廃墟は、さぞ寂しくなっているのだろう。
両親亡き後、夏海と共に世話になったあの家―。

 


「透夜、どうした?」
「いえ。」
「美味しかったー!ねぇ、食後の運動に上野公園行かないッスか?」
「ああ、いいぞ。上野公園の近くにある喫茶店のプリンが美味い。」
「嵐サン、ホントに食べ物に本気ッスね・・・。透夜クンも行くよー。」
「うっす。」


レジでもらった薄荷アメを口で転がしながら、油くさいが賑わった店内を出た。
外に出ると晴天が広がり秋らしい羊雲が走っていた。
秋分の日も過ぎ、九月もそろそろ終わりに差し掛かっている。日中はまだまだ残暑は残り続けているものの、朝晩はかなり涼しくなってきた。
うだるような暑さから解放された安堵感が心を軽くする。
標高の高い山奥で育ったせいか、都会の夏は苦手なのだ。
新品の秋用ジャケットがニンニクくさくなったと嘆く頼安に続いて、穏やかな土曜の空気に包まれながら歩き出した。

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