神宿りの木 沙希編 3
パタパタパタ。
この足音は、沙希が駆けてくる音だ。
瑛人は口角を上げて振り向いた。
可愛らしい足音がどんどん近づいてきて、潰れた半円のトンネルの奥から、白い服を着た女の子が走って登場する。
顔には満面の笑みを貼り付けて、嬉しくてたまらないと体全てで表現している。
つられて瑛人も楽しくなり、また転んで鼻をすりむいてしまわないように、短い階段を降りて出迎える。
「瑛人ーー!ただいまぁ!」
「お帰り、沙希。」
走ったまま突進してきた小さな体を抱き留める。
研究室内に、少女の軽快な声が響いたが、白衣を着た大人達は特に気にすることもなく、
手にしている書類やモニターとにらめっこをしている。
少女の手に、白い紙が握られていた。
「あのねっ、今日ね、おとーさ・・・じゃなかった、せんせーに花丸もらったの!」
「すごいじゃないか。字も綺麗だね。」
「えへへ。」
照れたように笑って僅かに頬を赤くした笑顔は愛らしく、本当に花が咲いたようだった。
肩をすぼめて照れくさそうな仕草をした後、瑛人の脇をすり抜け、彼の背後にあった数段だけの階段を登り
そこに設置された円形の水槽に小さな小さな手を添えた。
「真人も、ただいま!」
水槽の中には、沙希と同じような背丈の子供が入っていた。
固く目を閉じて、プカプカと漂っている。
白いスカートのような服を着せられ茶色い髪も腰まで伸びているが、体のつくりは男の子だった。
空気が溶け込んだ水槽の中が、瑛人の弟、真人が生きていける世界全部だった。
瑛人の実弟真人は、生まれた瞬間からずっとこの水槽で眠っている。
仕組みはまだ幼いの瑛人には理解出来なかったが、酸素と栄養が自然と摂取出来るようになっているので
マスクをせずとも水中で生きていける。
弟はとても厄介な"病気"なんだと説明されていた。
本で読んだことがある。
地上の人間はかつて水槽の中に魚という生物を飼って観賞用に育てていたという。
真人は眠り姫でもあり、水の中でしか生きていけない魚なのだ。
ここに居る大人達が24時間見守っていなければ生きていけない体らしい。
此処の責任者である沙希の母がいうには、目が覚めたら水槽から出ることもあるだろうと言っていたが
真人が目を開くところも、指先を動かす様もみたことがない。
それでも瑛人は、もしかしたら弟が目を覚ましてくれるかもしれないと、時間がある時はずっと水槽の前にへばりついていた。
研究員達も初めは迷惑そうな目線を向けてきていたが、
今はもう気にしなくなったのか、風景の一部として扱ってくれるようになった。
水槽暮らしをしていても順調に伸びてゆく長い前髪の下にある目は、今日も固く閉じられている。
まるで、たった一つこの世にある秘密の錠前でなければ開かない扉のように。
瑛人にとって、血の繋がったという意味で、たった一人の肉親とは
今日も冷たい透明な境界線に分断され触れ合う事さえ許されずに終わりそうだ。
「お帰り、沙希ちゃん。」
「あ、お母さん!!」
階段の下で沙希の母親が微笑んでいた。
沙希と違って明るい栗色の髪を肩で切り揃え、毛先が緩くカーブさせている。
娘とは違う華やかさを持っており、彼女もまた白衣姿であった。
駆け寄ってきた娘の黒髪を優しく撫でながら、花丸のついた紙を見せびらかされ、すごいねと褒めてやる。
穏やかで、話し方も物腰もとても柔らかい人だが、この研究室の責任者だ。
トンネルから、青いシルエットが見えて瑛人はそちらに歩み寄った。
瑠璃より明るい青髪に、紺色のシンプル過ぎる上下の服を纏った長身のひょろっとした少年がむすっとした顔でやってきた。
これは機嫌が悪いのでは無く、彼の元々の表情であった。
「考仁もお帰り。」
「ただいま。真人の様子は?」
変わりが無いのは目に見えているのに、考仁は必ずそう聞いてくれる。
お前の弟を忘れてなんかないぞ、と毎日確認してくれてるようで、瑛人は心が軽くなるのだ。
考仁も瑛人と同じで、身寄りがないところを縁があって沙希の両親が引き取ってくれることになった。
血は繋がってないが、あの日から考仁は瑛人と沙希にとって一番上のお兄ちゃんになった。
「いつも通りだよ。沙希は上機嫌だね。」
「一目散に部屋から飛び出していった。」
その様子を想像して、瑛人はクスリと笑った。
二人は沙希の父親がボランティアで開いている塾に通って、文字の読み書きや簡単な計算を教えてもらっている。
他にも身寄りの無い子供や、集に住む子供も集まって、一緒に習っている。
瑛人も本来なら塾に通っている年齢なのだが、事情があってこの研究所と自宅の外に出られないのだ。
ただ、沙希の父親から文字の読み書きは個人指導を受けているので、一通りの読み書きは出来るし
読書は好きだったので、3人の中で一番頭が良かった。
本来なら此処にいるはずがなかった命を、沙希の両親が拾って育ててくれたのだ。
塾に行けずとも、瑛人は幸せだった。
あとは、真人が起きてさえくれれば―。
腰に抱きつく沙希と話していた母親―都羽子が、頭を上げて瑛人を見た。
「そうだわ、瑛人ちゃん。」
「?はい。」
「今晩の夕飯リクエストあるかしら。」
「いえ、特には。」
「今日は瑛人ちゃんが主役なんだから、遠慮しちゃダメよ~?」
瑛人当人が首をかしげていると、沙希の方が答えを探し出したようで
花丸プリントを差し出してきたより目を輝かせて言った。
「わかった!今日は瑛人のお誕生日だ!」
「今日・・・。」
「今日は月読で尾の下月竜の日。9月16日だ。」
横で孝仁に教えられ、やっと当事者もああ、と納得する。
塾に行ってない瑛人にとって、今日の日付など関係ないし、確認する機会もない。
「都羽子さん。今日も、普通でいいです。」
「えー!だめー!瑛人のお誕生日なんだから、ごちそういっぱい用意して、ケーキ食べきゃ!」
「そうよね!といっても、孝仁ちゃんにお願いしなきゃいけないけど。」
都羽子が苦笑する。
母親ながら彼女は昔から料理が苦手で、子供たちの料理はずっと父親の和輝が担当していた。
孝仁が来てからは、器用で物覚えがいいため和輝を手伝うようになり、今では料理どころかデザート担当にもなっている。
養子の身である瑛人は、普段お世話になっている上に輪をかけて豪勢に祝ってもらうのは申し訳なくて、
記憶があるもっとも古い3歳の誕生日の自分も、表面上は喜んでみせながらも、内心はビクビクしていた。
彼にとっては、普通でいいのだ。
いつも通りの、いつもの家族の囲いが、彼にとっては幸せなのだ。
瑛人の耳を隠すぐらいもっさりとした茶色い髪に、重みが乗った。
「ダメだぞー。お前は遠慮して言葉を飲みすぎる。」
「和輝さん。お帰りなさい。」
彼らの父、一之瀬和輝が瑛人の髪を撫でた。
黒い宝石みたいに奥深い輝きをもった瞳は娘の沙希とうり二つだが、
和輝のそれには思慮深さと不敵さが同居してるような、ミステリアスな雰囲気があった。
優しくて頭が良い、大好きな彼らの父親。
ちなみに父親の名字が違うのは、天御影では夫婦の姓は自由だからだ。
あえて夫の名字にする人も多いが、雨条夫妻は統一はしてない。
本来であれば地上でも有名な貴族で有る雨条家に婿に入らねばならない身分差らしいのだが
和輝さんの両親が有名な歴史研究家で考古学者のため、家の名前を消したくなかったというのもあるらしい。
「たまには我儘言って父さんを困らせてくれ、瑛人。」
「和輝さん…。」
「そろそろ父さんと呼びなさい。パパでもいいぞ。な、沙希。」
「沙希もう子供じゃないもん!おとーさん、だよ!」
「それはそれでさみしーなぁ。」
穏やかに、緩やかに時間が過ぎる。
血の繋がらない家族の団らんの只中にいながら、我儘で父親を困らせるなんて
彼には天地をひっくり返すような偉業。もはや珍事だ。
なにより。
食べることも笑うこともできない弟を置いて、楽しんだり喜んだりするのがつらいのだ。
できれば、一緒に楽しめたらいいのにと、叶いそうもない願いばかり浮かぶ。
その夜。
我らがお姫様である沙希から
主役はどっかでブラついててー、と部屋を追い出された。
ブラつく、なんて言葉どこで覚えてきたのやら。
彼らが住む水面という集の最深部に家を追い出されては、瑛人にとって行ける場所など1箇所しかない。
人目につかぬよう裏道を通ってトンネルを抜けてから、再び弟の前に戻ってきた。
ホールにいる白衣の人達の数が少ない。もう定時が過ぎて、当番の人だけが残ったのだろう。
いつもみたいに、瑛人の存在など気にせず背を向けているので、彼も遠慮せずに弟に喋りかけることが出来た。
「今日は、兄さんの誕生日なんだって。都羽子さんに言われるまで忘れてたよ。」
声に冗談の色を乗せてみるが、当然水中の弟に反応はない。
自然と気分が落ちてきてしまう。
「結局我儘なんだろうな。」
弟と最も近い距離は、触れるガラスの冷たさだなんて。
分厚い透明な境界線が、絶対的な距離を示してるようで苛立たしくもある。
「皆が毎年祝ってくれるのに、沢山おめでとうをくれるのに―・・・」
少しでも近づけるように水槽に貼り付けていた両手じゃ足りなくなって、額をガラスにくっつけた。
忌々しいとすら思ったガラスの水槽。
同時に、弟を守ってくれている力強い存在でもある。
「本当は、お前にお祝いしてほしいな、真人・・・。一緒に、ケーキ食べたりしたい。」
いけない、つい弱音を吐いてしまった。
本当は一番自由になりたいと思っているであろう弟に、自分勝手な我儘を聞かせてしまったのだろうと、慌てて取り繕う。
「兄ちゃんがこんなんじゃダメだよな!うん。・・・うん。」
水槽の中でプカプカと漂う真人の目は、やはり開かない。
指先どころか、筋肉一筋すら反応してくれない。
たった一人の肉親は、この世でもっとも遠い存在であると痛感する瞬間だ。
胸がいっぱいになって、鼻の奥がツンとしてしまう。
背中を向けているとはいえ、大人たちに泣いてる姿を見られ、最悪両親に告げ口されては大変だ。
目元を袖口で乱暴にぬぐうと、眠る弟に言う。
「僕の誕生日はどうでもいいけど、真人の誕生日はたくさんお祝いしてやるからな。
孝仁みたいに上手にできないかもだけど、ケーキ焼くよ。飾り付けもするし、プレゼントだって用意する。
だから早く起きて、真人。早くー」
「瑛人。」
声変わり前の独特な声が彼の名を呼んで、慌てて振り返る。
わりと近くに、孝仁が立っていた。
いつものことながら、気配も足音もまったくなかった。
煙みたいに現れる義兄の忍び足はちょっと問題だ。
今の一方的な語らいを聞かれてしまっただろうか。
瑛人の顔が一気に熱くなり、羞恥心が足元から吹き上げてきた。
「た、孝仁!今のは、真人に―!」
「真人も、瑛人の誕生日を祝いたいと言ってる。」
「え?」
「此処にいろ。」
いきなり現れた兄は、いきなり踵を返して、駆け足でホールを出て行った。
唖然としながら背中を見送った。
数分後。
黄緑色の棒―よく見ると、くるくる巻かれたシートを肩に担いだ父親がやってきた。
水槽前の細い階段を上がると、それを水槽前に敷き始める。
ビニールシートとはちがって厚みがあってしっかりした円形の絨毯だった。
続いて、沙希が両手いっぱいに折り紙で作った輪っか飾りを抱いてやってきて、水槽前にある手すりに巻きつけ始めた。
いきなり目の前で始まった作業に瑛人が混乱していると、孝仁が大きな籠バックを両手に持って帰ってきた。
父親が敷いた簡易絨毯の上に籠バックを置いて、蓋を開く。
香ばしいにおいが瑛人の鼻先に届いた。
中には美味しそうな料理の数々がつまっていた。作り立てのようで、鶏肉のお皿からは湯気が立っている。
「孝仁、何してるの。」
「此処で誕生会をやる。」
「ええっ!!?」
瑛人ら3人がよく遊び場にしているとはいえ、此処はれっきとした研究施設だ。
おままごとならともかく、本格的な食事会を開けば仏頂面の研究員達が―ー
「あれ、いない!?」
「我儘言って帰ってもらったんだ。」
紙コップと紙皿を並べながら父が言う。
「総責任者がいるから、システムは安心してくれ。」
「あの、でも、」
「孝仁のとっておきの名案だ。」
料理の皿を並べセッティングをしている長男の髪をガシガシと撫でてやると、当人は手を動かしながら俯いてしまう。
考仁の耳が僅かに赤らんだのがわかった。
「真人も兄さんの誕生日を祝えるし、瑛人も真人に祝ってもらえるって、孝仁が総移動を提案してきたわけ。な?」
「・・・真人は物を食べられないし喋らない。けど、近くにいたほうがいい。」
「さすが俺達の孝仁!気が利くなぁ。」
「別に・・・。」
横を向いた考仁の頬が赤く染まっていた。表情を滅多に変えない考仁の照れた姿は非常にレアだった。
瑛人は兄と父の顔を両方見比べて、現状を飲み込む。
おそらく、自宅で誕生日会の準備をしていてくれたにも関わらず、孝仁の提案でこちらに丸々移ってきたというのか。
自分と、そして真人のために――?
「真人ぉ。今日は瑛人のお誕生日なんだよー。真人も一緒で、うれしい?」
飾り付けが終わったらしい沙希が、水槽を覗き込んでそう言った。
さっきはなんとか抑えられた涙が、急に溢れてきて、今度は止めることができなかった。
胸もドキドキうるさくなって、片手で胸元のシャツを強く握りしめながら、
空いた片手の袖口で乱暴に涙をぬぐった。
拭いても拭いても涙が止まらなくて、母親が合流したのも、髪を優しく撫でてもらうまで気付かなかった。
「瑛人ちゃんは、真人ちゃんが一緒がいいのよね。」
「いえ、僕・・・嬉しくて、あの・・・。」
「これからは真人ちゃんも入れて、皆で色んな楽しいことをしましょう。家族なんだもの。」
都羽子はしゃがんでいた背を戻し、片手で水槽に触れる。
「今まで一人にさせてごめんなさいね、真人ちゃん。ご飯はまだ食べられないけど、一緒に楽ししみましょう。」
「ほら、こっちに座れ瑛人。」
父に手招きされ、主役席に案内される。主役席といっても、赤い座布団が敷いてあるだけ。
瑛人が赤い目のまま腰掛けると、沙希が彼の首に折り紙の首飾りをかけて、
台紙に金色折り紙を張り付けた派手なとんがり帽子をかぶせてくれた。
孝仁が箱から特大のケーキを出して、父がろうそくに火を点けていく。
孝仁の手作りなんだろう。飾り気がなく、イチゴが等間隔でのっただけのチョコケーキに
ホワイトチョコの板が乗っている。
板に描いてある文字は沙希が描いたのであろう。チョコペンで“おたんじょうびおめでとう”の文字があった。
チョコペンだから歪んでいる平仮名を見て、また目頭が熱くなりそうだった。
慎重に顔の高さまで運ばれてくるケーキ。
またこみ上げてくる涙を押し殺して、瑛人は息を吸い込んでから、一気にろうそくの火を消した。
「おめでとう、瑛人!」
4人分のおめでとうと、4人分の拍手を受け、どこか恥ずかしい気持ちもありながら
瑛人の胸はいっぱいだった。
顔を上げれば、真人もいる。
真人も、祝ってくれている。
ああそうか。
今まで足りなかったのは、やはり弟だったのかと納得しつつ
素直に受けきれなかった家族達の想いに謝罪した。
その日から
年末年始のお祝いも、ひな祭りも、端午の節句も。
お祝いというお祝いは、真人の水槽前で行われるのが決まりになった。
あの黄緑色の円形絨毯をひいて、真人といっしょに過ごした。
父母と兄弟に囲まれ、本当に幸せな時間だった。
ずっとこんな時間が続くんだと、誰もが疑わなかった。