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神宿りの木    沙希編 4

 

 

肩が揺さぶられた感覚に目を覚ますと、暗がりで瑛人が考仁を揺らしていた。

 


「どうした。」

 


掠れた声で訪ねながら半身を起こす。
時計を確認すると、午後23時近くだった。
此処は瑛人と考仁の寝室だが、隣で沙希が眠っていた。
また勝手に部屋から抜け出してベッドに潜りこんできたのだろう。
丸くなって眠る沙希を起こさぬように、瑛人が小声で話す。

 


「嫌な予感がする・・・。真人のところへ行きたいんだ。考仁、ついてきて。」
「わかった。」

 


ベッドからそっと抜け出して、沙希に毛布を掛け直してやる。
瑛人が素直に兄である自分を起こしてくれたのは嬉しかったが、研究室なら一人でも自由に出入り出来るはずだ。
わざわざ兄を起こしたということは嫌な予感というのが余程のことなのだろう。
瑛人の不安そうな固い横顔を見てそんなことを思った。

弟の手を取って、足音を殺しながら彼らの家を出て、外に出る。
夜に外に出ることはほとんどなかった。彼らは両親の言いつけをしっかり守って夜は素直に眠りについていた。
昼間の明るい集内とは違う、静寂に包まれた見慣れぬ景色に瑛人が考仁の腕に抱きついてきた。
子供にとって夜は怖いものだ。暗がりに何が潜んでいるかわからない。考仁の腕を握る手に力が入っていく。
彼らが住む水面という集は天御影では一番大きく住んでいる人も多いが
他者との交流を極力絶っている子供達はこの集の全貌を知らない。
等間隔で天井に設置されている弱い灯りが完全な闇から守ってくれているようだった。
細いを選びながら裏道集を抜け、関係者しか入れない秘密のトンネルの扉に設置されたパネルに手の平を当てる。
登録された人間じゃないと、この扉は開かない。
無機質な機械音が短く鳴った後、ロックが外れた扉を押してトンネル内に入る。
乾いた足音が二つ、真っ暗なトンネルの中に響く。
考仁は特殊な環境で育ったため、夜目が利く。灯りがなくとも暗い廊下を歩けた。
灯りは全くないのだが、長くないトンネルなので、向こう側にある研究室の灯りが見えている。

 


「どこいくのぉ?」

 


瑛人の体がビクッと大きく跳ねたのが分かった。
振り向くと、目を擦りながら沙希がとぼとぼ歩いてきていた。
胸に手をあててホッとした息を吐く瑛人と違って、幼い沙希も生まれつき夜目が利く。

 


「ついてきたのか。」
「沙希も行く・・・。お家におかあさんもおとうさんもいなかった。」
「そうなのか?バレないように足音消した意味は無かったな。」
「なら研究室だよ。真人に何かあったのかな・・・。」

 


また瑛人が腕にしがみついてきて、反対の手に沙希が手を重ねて来たので考仁は両手が塞がってしまった。どちらの手も温かい。
長男は弟妹を先導するように歩き出した。
トンネルはそう長くないので、すぐ研究室の灯りが見えてきた。
人の声もいくつか聞こえてくる。こんな深夜でも白衣の大人達は働いているのだろうか。
父和輝もいるのだろうか。夜は子供達がいるからあまり家を明けたりはしないのだけれど。
トンネルの出口が近づくにつれ、空気がピリついているのがわかってくる。
いくつかの怒鳴り声とアラーム音が響いている。
考仁の腕を握る瑛人の力がまた強くなる。
考仁も、自然と歩く速度が上がり、沙希はもう完璧に目を覚ましていた。
暗闇の境界を越えて、目に入ってきた光景は、異常であった。
白衣の大人達は必死にアラーム音を奏でる機械とにらめっこをしており、慌ただしく右往左往している。
その中央にある真人の水槽の違和感は、すぐに気づいた。
―――中身が何も入っていなかった。
普段水槽内部に灯っている明かりが消され、水が半分も減っている。
見たこと無い大人達水槽の周りにたかっている。
白衣は着ておらず、全員似たような体型で黒いスーツを着ている。
彼らの真ん中には担架が置かれ、水に濡れた白い布――ワンピースを纏ったずぶ濡れの真人が水槽から出され
今まさに、担架に横たえさせられようとしていた。
信じられない光景に瑛人は呼吸すら忘れ固まった。
生まれた時から、真人は水槽の中にいた。
決して外に出ることはなく、固く閉じた瞳は開かれることはない。
いつも瑛人は水槽の外だった。
だが、もし外に出れることがあったら、その時自分は当然のように隣にいただろうし
家族が囲んで笑い合っている光景が広がるものだと信じていた。
突然突きつけられた現実に反応出来ず、声を上げたのは年少であるはずの沙希であった。

 


「おじいちゃん!真人になにするの!!!」

 


黒づくめの男達から一歩離れ、担架の前にいた杖をついた白髪の男性が振り向いた。
白髪は綺麗になでつけられ、初老でありそうな見た目だがガタイは良く背筋はピンと伸びている。
纏うコートは皺一つなく高価なものであると予想され、首に巻いた白いマフラーも品がよかった。
この地下室に、いや、天御影には似合わない人だと考仁は感じた。
沙希に祖父がいるのは聞いたことがあるが、確か地上にいたはずだ。
母都羽子は元々地上の出身だが、研究のために地下に降りて来たと聞いた。
何故地上の人間が此処にいて、真人を水槽から出したのか考える前に、沙希が走りだしていた。

 

「真人は水槽の中にいないと死んじゃうの!早く戻してよ!」

 


老人の周りにいた黒ずくめの男達が、急に向きを変え、小さな子供を容赦無く取り押さえた。
これはただ事じゃないと考仁も足を踏み出したが、右側にいた瑛人が考仁の腕を抱えたまま固まっていた。
瞬きもせず、水から出た弟をじっと見つめていた。
その表情に刻まれているのは、現実を受け止めきれてない絶望に似た、茫然自失する他ないという様相であった。
二人を置いて、沙希の祖父は静かに言葉を紡いだ。


「安心しなさい。彼は死にはしない。此処は安全ではなくなったから、他に移す。」
「なんで?お母さんが良いって言ったの?それに、おじいちゃん。どうして下に来られたの?」
「彼とはお別れだ。わしが責任持ってお預かりする。」


沙希の質問には一切答えず、一方的に会話を切り上げる乱暴さで視線をそらした祖父は部下に頷いた。
黒づくめの男達は真人を寝かせていた担架を運び出していく。
沙希はまだ7歳だ。にも関わらず、がたいのいい大人達の顔より大きな手をはね除け、拘束から逃れると暴れ出した。
まずい、と考仁が瑛人を剥がしに掛かった時には、沙希は高く飛び上がった。
男達の肩を足場にして地面と水平に飛び、担架を押す大人の首裏を小さな足で蹴った。
威力は弱いが、的確な一撃で大人の膝が折れた。
その隙を見逃さず着地した沙希は、追い打ちとばかりに膝の裏を蹴り飛ばして完全に転ばせる。
別の大人が沙希の首根っこを掴もうと腕を出して来たので、移動してきた考仁が脇に滑り込んで体重移動を利用して背負い投げを決める。
沙希が抵抗するなら、考仁も反抗する。それは当然のことだった。
明確な理由も説明も無く、自分たちの大事な家族を連れていかせるわけにはいかない。
責任者である都羽子さんを連れてくるまで、真人を守らねばならないと思った。
体が勝手に動くのだ。
これは本能だ。
沙希もそうなのであろう。男達の腰より背が低いのに、軽業師のように飛んで跳ねて大人を翻弄していた。
考仁もひょろりとした見た目ながら、急所を確実に攻めていく。
だが、体格差と純粋な力の差はすぐ埋められてしまった。
飛び回る沙希の足首が掴まれ後ろから拘束。考仁も男の一人に首を押さえつけられらまま地面にたたき付けられた。
大人にのし掛かられても、考仁には脱出する方法はいくらでも思いつく。
が、もう人を傷つけてはならないと和輝と約束した。沙希の前で、血を流させるわけにもいかない。
なんとか脱出出来ないかと暴れている視界に、止まったままだった真人の担架にそっと歩み寄る瑛人の姿に目がとまった。
瞳孔が開ききった眼で、水から出た弟を凝視して、震える指先を伸ばす。

 

「真人・・・。」


水も硝子も隔てていない弟に会うのは初めてだった。
触れることすら叶わぬと思っていたのに、今叶おうとしている。
突然目の前に出てきた現実に震えながらも、最愛の弟に触れようと手を伸ばす―
その手は沙希の祖父によって掴まれた。
祖父は部下達に急ぐよう冷たく命じ、自分も歩き出す。

 

「真人を瑛人から奪わないでよ、おじいちゃん!」
「せめてっ、瑛人も連れて行ってくれませんか!」


首をがっちり抱え込まれながら考仁も懇願する。
歩きながら目線だけ此方を振り返った沙希の祖父は、淡々と言った。


「それは出来ない。その子は証がない失敗作だ。沙希、お前達も逃げなさい。この集はもうお終いだ。いずれ此処もバレる。」
「おじいちゃん!!!!」

 

今入ってきたトンネルと反対方向にある非常口から、担架に乗せられた真人と沙希の祖父が消えてから、
黒づくめの男達は子供達を自由にして主人の後を追うように去って行った。
沙希はすぐ祖父を追おうとしたが、考仁がそれを止めた。
どこかから轟音がしたのだ。
近くでは無いが、研究室に届くぐらいには近い。
トンネルの向こう側で人のざわめきも聞こえてくる。
大人が何か喚いている。
今は夜更けで、トンネルの向こうは集だ。騒がしいということは、何かが起きていると子供でも分かる。
沙希の祖父が言っていた言葉も気にかかる。此処を離れなければならない。
非常口を見つめながら震えている瑛人の隣に行く。


「真人・・・真人が・・・」
「落ち着け瑛人。まずは都羽子さんを探そう。きっと理由があるはずだ。すぐ追いつける。俺達も真人のところに連れてってもらえるよう頼もう。」


沙希も辺りの異様な様子に気づいて冷静になったのか、
まだ怒りで暴れたがっている自分の細い腕を抑えながら、瑛人顔を下から覗き込んだ。

 

「行こう、瑛人。おじいちゃんは真人にひどいことはしないよ。顔は怖いけど、優しいんだよ。」

 


妹の必死の訴えが、固まる瑛人の耳に届いたようで、まだ呆然としながらも細かく2度頷いた。
研究室は此処だけではない。都羽子たち研究員が作業する小部屋がいくつもある。
普段出入りすることはないが、都羽子もどこかの部屋にいるだろうと瑛人を励ましたところで、
遠くで警報音が聞こえてきた。
それがどんな合図か知らぬ3人には、気にしている場合では無い。
まず右の部屋に入る。研究員達用の小休憩室だ。コーヒーの残り香はあれど、人影はない。
さらに扉を抜け、廊下に出る。
左に真っ直ぐ伸びる廊下の明かりはついていたが、異様な雰囲気を考仁は感じ取っていた。
懐かしい、だなんて思いたくはないが、馴染みのある匂いが鼻孔に届いてくる。
瑛人の手をぎゅっと握り走り出す。
逞しくも末っ子の沙希も不安な表情一つ出さずついてきた。
廊下の左右に部屋はいくつもあるが、中には誰もおらず、代わりに荒らされた様子があった。
椅子や机、書類が散乱している。相変わらず人影はない。
廊下を右に曲がって、最奥にある両開きの扉を沙希と一緒に押し開けた。
重要な機材や書類が詰まった広い部屋はミーティングとして使っている部屋で、子供達は入るなといわれていた研究所の要である。
そんな大切な場所で、いくつもの大人が転がっていた。
濃厚過ぎてむせ返りそうな血の匂いが体を押しのけてくる。
転がっている大人の中には顔見知りの研究員の姿もあったが、今はまるで物のように転がっている。ピクリとも動かない。
まるで人形のように折り重なる人間の中に、馴染みの姿がある。
瑛人と沙希の目を塞ぐのを一瞬遅れたことを考仁が後悔する前に、沙希が走り出した。


「お母さん!!」


部屋の右奥。倒れた大きな機材の影に、背を預け都羽子が座っていた。まだ息がある。
沙希が駆け寄ったすぐ側にある黒髪は、彼らの父和輝だ。
考仁にはわかった。和輝さんに生気は一切残っていない。もう事切れている。
都羽子の体にすがりつく沙希はわんわんと泣き出して、そんな娘の髪を母は優しく撫でた。
白衣で隠しているが、彼女の腹から血が絶えず流れているのを幼い沙希が気づいたかどうかはわからない。
瑛人も考仁の横をすり抜けて都羽子の足下に膝をついた。考仁も続いた。


「ああ、子供達・・・。ごめんなさい、驚かせたわね。」
「すぐ救急箱を探して来ます。」
「いいのよ、考仁ちゃん。」
「でも―」
「都羽子さん、真人が、沙希のおじいさんに・・・連れて行かちゃって・・・どうしたら。」


瑛人がすがるような目を都羽子に向けた。
救いを欲し、控えめながらも此処で怪我の心配よりも弟の事を話すわがままを突き通していた。
都羽子が機械みたいな不自然さで瑛人に顔を向ける。

 

「私がお父さんを呼んだの。此処はもう安全じゃない。離ればなれにしてごめんなさい。今は、逃げてちょうだい。」
「一体何が――」
「お母さんも一緒だよね!?」

 


母の白衣を握りしめ、涙で顔全部を濡らしながら必死に訴える娘に、都羽子はいつもの同じ笑みを作ってみせた。
まるで、最後の記憶に残すなら綺麗な母でいようと務めているようだった。
考仁にはそう感じた。


「沙希ちゃん、邪魔だなんて言わないで、髪伸ばしてね。ママは沙希ちゃんの髪を結ぶのが大好きなんだから。」
「お母さん・・・!」
「綺麗になるわ。だって私と和ちゃんの娘なんだもの。素敵な大人になってちょうだい。」
「ねえお母さん!!一緒に行くって言ってよ!」

 


横目で、考仁と目が合った。
含む答えを理解して、考仁は沙希の首裏を叩いて気絶させた。
自身の胸の中へと崩れる沙希を大事そうに抱き留めてやると、前髪にキスを落とす。

 


「ごめんね考仁ちゃん・・・。お母さんの最期のわがまま、聞いてくれるかな。」


沙希を掴んでいない方の手を持ち上げる。
力が入らぬながらも一生懸命、といった様子で指先は震えていた。
反対側の手は真っ赤に染まっていた。自分の汚れた手で娘を撫でないようにしていたのだろう。
それを目の高さまで持ってくると、右目を指差した。

 

「こんなこと・・・頼んでごめんね・・・。でも、考仁ちゃんしか、今はいないから・・・。
秘密の情報を、右目の網膜に刻んであります。これをイツキくんに渡してくれないかしら。もう痛覚はないから、大丈夫よ。」


瑛人を見て目を閉じるように言ったが、瑛人は瞬きするのを忘れたまま、激しく首を左右に振った。
迷った末、そのまま考仁は母の右目に指を入れ込む。
育ての母の目をえぐり取るなど、一歩踏み外せば正気では居られなくなりそうな悪行であった。
指に鼓動と生暖かさが伝わり、濃厚な血の匂いに食道が熱くなる。
その匂いを発しているのは、他ならぬ育ての親だ。
幼少期から訓練されていた経験のある考仁でさえ、心を得た今、発狂して叫び出しそうだったが
冷静でいられたのは、瑛人が空き瓶を拾って差し出してくれたからだ。
フタの開いたそれに今取り出したばかりの母の右目を入れ、近くにいた研究員から白衣を拝借してくるんだ。
白衣が更に血で汚れた。
都羽子は終始穏やかな微笑みを携えて、力なく背中の機械に体を預けながら娘に頬ずりをしていた。
再び、怒声のようなざわめきが聞こえだした。
ミーティングルームへの通路が見つかったのだろう。何かが迫っていると考仁は察した。
どうして最奥のこの部屋が一番に襲われたのかはわからない。
都羽子の耳にもそれらは届いたようだった。


「考仁ちゃん、瑛人ちゃん。沙希ちゃんをよろしくね。二人のお兄ちゃんがいてくれるから、
私も和ちゃんも安心だわ。私たちの子になってくれてありがとうね。」
「こっちこそ、ありがとうございました。」
「ぼ、僕を・・・。」


母の目が入った瓶を大事に抱えながら、全身震えているにも関わらず瑛人が声を絞り出す。
そうしなきゃ、今言わねばならぬと瑛人もわかっているのだ。
弟が連れ去られ混乱しているのに。本当は、真人のもとに走りたくて仕方がないだろうに。


「僕を、拾ってくれて、ありがとうございました、お母さん。お父さん。」

 


無い方の目を閉じながら、都羽子は綺麗に微笑んだ。赤い涙が頬を伝う。
片手が塞がっていたので、仕方なく血のついた手で、瑛人と考仁の頬を順番に撫でた。
考仁は血が末妹を汚さぬよう自分の腹部辺りで血を拭ってから、意識がない沙希を背負った。
瑛人を伺うと、瓶を運ぶのは自分の役目であると大きく頷いたので、両親の横を通り過ぎた。
いざと言うときに教えられていた避難用の小さな通路を通って部屋から出て行った。


子供達がいなくなったのを確認してから、都羽子は微笑むのをやめた。
傍らで動かなくなった夫の手に綺麗な方の手を重ねた。


「ごめんね和ちゃん・・・私と結婚したばっかりに、運命に巻き込んだ・・・。」


夫は何も言わない。重ねた手は恐ろしいほどに冷たくなっていた。
死ぬ直前にも涙は流れるのかと頭の片隅で考える自分の研究職な気質に呆れながら、
床を張って少しでも夫に近づこうと身をよじる。
脳裏で、古い友人の言葉が過ぎった。彼女との約束は守れたのだろうか。
自分なりに一生懸命やったはずだ。
もう自分では見られないはずの明るい未来に、死の恐怖が遠ざかる。
大切な一人娘は綺麗に育つのだろう。成長した姿を拝めないのは非常に残念である。
この先は茨の道だが、未来はある。
この先も大丈夫だろうと、そう信じている。

 


「ありがとう、和ちゃん。私、幸せだったわ。」


子供達が去って数分後、いつのまにか施錠された扉を叩く耳障りな音が轟いていたが

中に入ることは叶わず、どこかで燃え始めた火がミーティングルーム全体に広がり、転がっていた死体は全て焼けて消えてしまった。

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