神宿りの木 真人編 1
プロローグ
隣に兄さんが座っていたので、これは夢だとすぐに分かった。
心地よい電車の揺れに、ぶら下がっているつり革が左右に踊っている
いつも乗っている電車と違って、対面式の旧タイプ。緑色のシートは色あせて潰れ気味だ。
大きな窓の向こうには今日も蒼穹の空が広がり、立ち並ぶビルが反射光でキラキラ光っては通り過ぎていく。
車内は静かだった。
聞こえるのはモノレールが走る機械音だけ。
自分と隣に座る兄さん以外の乗客がいない。
いや、もう一人遠くで座っている。よく見ようとした視界の中に、影が入った。
目の前に、少女が一人立っていた。
双眸が、こちらを見下ろしている。
少女の手には刀が握られていた。刃は細くやや湾曲している。
切っ先にこべりつく錆びれた汚れは、赤。
鮮やかとは程遠い、仄暗く濁った色。
少女が口を開いて何かを言った。
けれど、何も聞こえない。
耳に入るのはモノレールの音だけ。
もう一度と言いかけたところで、目が覚めた。
神宿りの木
「神隠し事件?また誰かいなくなったのか?」
授業は今日もいつも通りに終わり、高校を出て家への帰路を辿っていると、友人の吉田がおかしな事を言い出した。
彼らの住処であるドーム内の天井が、夕焼け色に切り替わった。
日之郷(たちのごう)の行事で最も重要である祝賀祭を明日に控え、浮かれ気味な街を抜ける。
「そうじゃなくて、今ネットでトレンドに入ってる動画あるじゃん。」
「僕は有線じゃないとネットにアクセス出来ないんだよ。」
「おっと!そうだった。」
「なんで忘れるんだよ・・・。小学生からの付き合いだよね?」
「そう怒るなって真人ちゃん。可愛い顔が台無しだぜー?」
真人の肩に腕を回してきてガハハと笑う吉田に、悪びれた様子は微塵も無かった。
日之郷に張り巡らされたシステムへのアクセスキーを、大半の企業が静脈認証をベースにして作っている。
指紋認証より、ほぼ偽造不可能と言われている静脈認証を使うのが安全であると立証されたのだ。
主に個人番号提示、銀行へのアクセスなど本人を確認する手段として使われている。
しかし、1万人に1人の確率で静脈が読み取れずシステムが利用出来ない人間がいる。
真人がその1人だった。
指先1つで小型端末を起動しネットにもアクセスでき、駅の改札も手の平をかざせば通せる時代に
旧式の携帯端末を持ち歩き、家の玄関を開けるにも合金で出来た鍵を持ち歩かねばならない。
パソコンでネットにアクセスは出来るが、ロックを永久にクリア出来ないので得られる情報は限られていた。
日常の不便さに嫌でも悩まされている真人がふて腐れた顔をすると、吉田は教えてやる、と上から言ってきた。
神隠しと呼ばれる区民の行方不明事件が実際に存在する。
2人が産まれる前から頻繁に起きており、有名な未解決事件であるというのは真人でも知っていた。
誰一人として見つかっていないことも。
老若男女問わず、ある日突然人がいなくなるというのだ。
決して広くない日之郷で、監視システムなどをフル活用しても途中で道が途絶え、手がかりも痕跡も掴めないという。
本人達に自殺願望があるわけではなく、動機もなければ事件性も極めて低いと警察は主張を続けている。
「有名なオカルトマニアの動画配信主がいるんだけど、三区の工場地帯に、変なマンホール見つけたんだと。
マンホールなのにやけにでかくて、整備とか排気が目的なのにカギが掛かっている。
てか、そもそも工業のど真ん中にあったんだよ。おかしくね?
音響とか反響?とかでその辺り調べてみたら、分厚いコンクリートの下に不自然な空洞があるらしいんだわ。」
「日之郷の下に?」
「そう。」
吉田もサブカルとかが好きな性分なので、興奮してきたのか肩に指が食い込んで少し痛かった。
「配信主が言うには、大陸にまだ酸素が残ってた時代に栄えていた幻の帝国の生き残りが戦火を逃れるために
地下に安住の地を見つけて移り住んだって説を紹介してた。文献とか資料とか引用してホントそれっぽいんだわ。
その帝国には熱心な信仰があったらしく、生け贄を捧げて神様と通信してたんだと。
奴らはマンホールを使って生け贄として捧げる人間を地上でさらってきてるんじゃないかっていうんだよ。」
「その動画が話題になったから、過去の神隠し事件が騒がれてるの?」
「そう。」
「都市伝説に無理矢理こじつけた感が嘘くさい。」
息が掛かるほど近くなった吉田の顔を押しのけた。
「なんだよー。つれないじゃんか。」
「度重なる大気汚染でオゾン層まで傷つけた人間は、このドームの中でしか生きられない。
太陽は偽物だけど、ドームが作る酸素が地下まで届くとは思えない。」
「俺が何でこの話したと思ってるのさー。お前の兄さんも神隠しにあったのかもよ?」
「僕の兄さんは交通事故で亡くなったんだ。」
「だったら、あの写真立てに写真入れるだろ。
何もないってことは、お袋さん、死んだって決めつけたくないんじゃないか?
俺、ずっとおかしいと思ってたんだよ。」
子供の頃から付き合いがある吉田だからこそ、こんな無遠慮で無神経な事が言える。
死んだ家族に対して、行方不明だなんて無責任なことを。
「明日祝宴祭の後,三区行ってみれば?祭りでどこもかしこも休業。警備も中央区に集められて手薄だ。」
「止めてくれよ。僕は―」
「本気で言ってる。」
珍しく神妙な顔をした吉田の瞳に、夕焼け色が重なった、
ドームの天井にある反射光が夕日を跳ね返したせいで不自然な影が落ちた。
と思ったら、吉田はいつもの屈託の無い―悪く言えば馬鹿そうな笑みを浮かべてまた真人の肩に絡みついてきた。
「悪かったよー真人ちゃん。明日は祭り一緒に回ろうな。ルリルリのスペシャルライブが中央区で開催だ!」
「お前がルリちゃんに会いたいだけだろうが。」
何故か真人は、安堵の息をひっそりと漏らしていた。
思ったより緊張していた。なぜだろうか。一瞬、吉田がまったく知らない顔を見せたのが、怖くてたまらなかった。
祭り当日の朝。
この日は学校も休みになるので、私服のまま玄関で靴ひもを結んでいた。
真人の家の玄関には、日替わりで季節の花が飾られ、傍らには写真がはまっていない木製のフォトフレームが置かれていた。
中身のない遺影であった。
彼が7歳の時、4つ年上の兄と遊んでいたところ2人揃って事故に遭った。
真人は助かったが頭を強く打ったらしく7歳以前の記憶を全て無くし、兄は記憶どころか帰らぬ人となった。
その日から母は異常なぐらい心配性になった。17歳になった今でも心配性は悪化し続け過保護のままである。
母は兄が亡くなった後、兄の写真を全て捨ててしまった。
真人は記憶を失ったせいで、顔すら覚えていない。
ただ、優しく語りかけてくれていた事はあった気がする。
顔は覚えていないのに、楽しそうに話す声の響きは空っぽの記憶の中で僅かに残っている。
それだけが兄との繋がりだった。僕は、可愛がってもらっていたに違いない―。
などと考えていると、後ろからパタパタとスリッパの音が近づいてきた。
止まっていた手を再び動かしスニーカーのひもを引っ張る。
「真人、携帯と身分証明書持った?」
「持ったよ、母さん。」
「あまり人が多いところへ行っちゃダメよ?祭りで浮かれる人も多いから。必ず吉田くんと一緒にいて頂戴。それからー」
「母さん、真人はもう高校生なんだ。少しは遊ばせてやりなさい。」
久しぶりの休みで遅起きだった父が、パジャマ姿のまま助け船を出してくれた。
「何を呑気なことを言ってるんですか!真人が喧嘩にでも巻き込まれたらどうするんです!?」
「御司守(みつかさもり)が見張ってるんだ。何があってもすぐに助けてくれる。
祭りぐらい楽しませてやりなさい。ただでさえ、日常生活で不便な思いをしてるんだ。」
そうですけど、とまだ不満そうな母の声をこれ以上聞きたくなくて、
さっと立ち上がって何も入っていない写真立てに挨拶をする。
「じゃ、行ってきます。」
「遅くなるときは連絡するのよ?」
「はーい。」
玄関の扉を開けると吉田が待っていてくれた。
その時には母の事など忘れて、吉田と共に祭りに向かった。
祝賀祭は中央区・枢日暮(くるひぐらし)全体で行われる。
議会や役場など行政の施設が集まっている地区なので普段足を踏み入れることは無いが、念に1度のこの日だけは
花や飾りで色とりどりに染められる。今も空から降る投影紙吹雪が舞っていた。
駅を出ると、表通りは歩行者天国になっており人で溢れかえっていた。
会社も学校も、重要施設以外は休みになるのだが、日之郷にこんなに人が住んでいるんだなと実感する。
御司守が今日も黒装束で身を固め、怪しい奴や危険な行為をしてる人はいないかと目を光らせていた。
まずは閉会式後行われるオープニングパーティーで、吉田が推しているアイドルのステージを見るため移動する。
ビルの上階に設置されたモニターに、島田議長の顔が映った。
もう始まっていた演説は、歴史の語らいに移っていた頃合いだった。
人間同士の長い争いのせいで大気汚染が進み、生みだした兵器のせいで土地が荒れ、人工はかつての4分の1になった。
歴史も栄華も全て失ったと気づいた時には、全てが遅かったのだ。土地は枯れ食料はどんどんなくなり、空気は汚れた。
争ってる場合じゃないとやっと思い直した人間は、慌てて持ってる技術をフル活用して生きていける場所を作った。
それがこのドーム型施設・日之郷。
空には偽物の映像が流れ、綺麗な雨が降り、空調システムで今日も呼吸が出来る。
『君たちの横にいる名も知れぬ他人は君の敵ではない。
言葉を交わし、手と手を取り、一緒に歩むことが出来る可能性を秘めた隣人だ。
欲も怒りも憎しみも、矢のようなものだ。確実にその身に返ってくる。
忘れるな、人間が素晴らしいのは絶望しても立ち上がれる点だ。
壁にぶちあたろうと、一人では開けられぬ扉が現れようとも、人類は必ず乗り越えられる生き物だ。
愛する事を忘れず、守ることを優先し、立ち向かう勇気だけを武器にすれば、どんな困難だろうと乗り越えられる。
今度は平和のために戦おう。誰も傷つけない戦いはまだ続いているのだ。
君達一人一人の力が必要なのだ。どうかその力を貸してほしい。
この世界のために、などとは言わない。
明日、いとしい誰かと笑いあうために、戦い続けよう。』
枢日暮中が震え、歓声がビルの窓を揺らした。歓喜、狂乱、拍手、雄叫び。それらが飛び交い渦巻いた。
真人は感化されることもなく、先程買ったジュースを飲みながら、モニターの中に映る島田会長の顔を見上げていた。
議長は70歳近い高齢で、決して愛想がいいと言い難く、厳格で妥協を許さぬ姿勢は強硬派と言われたりもしている。
だが今年で任期33年目だったか。今日の平和はあの人が作っているといっても過言では無い。
日之郷は急速に発展し、盤石の安定を手に入れた。支持率も常に高く、区民に信頼されている。
周りに感化されまくって騒いでいた吉田も満足したのか、
議長の演説でさらに熱が上がった群衆の中でもみくちゃにされながら、無事メインステージに辿り着いた。
アイドルのステージを観覧した後は、露天を回り企業が出すブースを見て遊ぶ。途中、幼なじみの奈義と祐介を見つけて4人で回る。
馬鹿騒ぎして、何でも無いことで大笑いして、気を遣わない友人達との時間はあっという間に過ぎる。
空がオレンジ色に切り替わった。
視界の端で、白い鳥が4羽飛び立つのが見えた。どこかの企業が広告用に放った機械鳥だろう。
鳥とは別に、黒い影も見えた気がしたのだが、そこには何もいなかった。
「真人?どうした。」
「ううん。何でも無い。」
ポケットから携帯を取り出すと、母さんからのメールが3件入っていた。
門限までにはまだまだあるというのに。
しばらくディスプレイを眺めた後、メールを開くことなくポケットにしまった。
「悪い、母さんが心労で暴れ出しそうだから、帰るね。」
「早っ!」
「祭りだから少しぐらい遅くなっても問題ないだろ?」
「祭りだからさ。母さんの心配が倍増してる。」
「真人も大変だねー。」
「じゃ、また明日な。」
吉田の顔はあえて見ないようにして、背を向けて駅に向かう。
まだ駅へ向かう人はほとんどいなかった。祭りはこれからが本番だからだ。
夜はメインステージで演奏やパフォーマンスが目白押し、企業による技術合戦も白熱する時間帯だし、
他にもプロジェクションマッピングを使った演出があちらこちらで見られる。
高校に上がって、去年初めて見られたけど、今年は無理そうだった。
駅に着くと、家がある二区への右回りモノレールではなく、左回りモノレールに乗った。
降りたのは、三区・伊理沢(いりさわ)。
三区は工場や中小企業が並び、住んでいるのは工場勤務の社員ぐらい。
吉田が言うとおり人は居なかった。祭りに行ってるか、普段社宅住まいで帰れない労働者は家に帰ったのだろう。
真人のような学生は、社会科見学ぐらいでしか訪問することはなく、中央区同様縁遠い地区だった。
祭りの日に若者が一人こんな場所にいれば不審に思われるだろう。
ショルダーバッグのベルトを握りながら、うるさくなってきた心臓を黙らせるため歩き出した。
(三区の中津工業の第二工場内広場だよ。一際目立つ黒いマンホールがあってさ、)
アクセスキーがなくて、実際のオカルトマニアの配信は見られなかったが、吉田がペラペラと話してくれた情報を思い出す。
関係者以外立ち入り禁止の看板を無視しして、門を登って中に侵入する。
本来なら警備システムが働いているのだろうが、体温センサーも静脈を読み取るシステムが使われている。
真人はシステムの不適合者だ。足が領域内に入っても、警報が鳴ることはなかく透明人間になる。
初めて、自分の体質に感謝する。
中津工業のような中小企業では監視カメラはコストが高く使用していないというのも吉田が言っていた。
誰もいないとは思いつつ、早足で工場内を探る。
ネットで拾ったマップで工場内の配置は覚えた。物陰を選びながら身をかがめて移動する、
問題のマンホールはすぐに見つかった。コンクリートで埋め固められた広場に、黒い染みのようにぽつんと静かに置かれている。
周りに気配がないか、二階部分の窓に人影がないかよく確認してから、マンホールの前に立った。
道路にあるマンホールより一回り大きく、表には“天御影行”と書いてあった。
普通のマンホールは開けるとき工具が必要なのだが、表面にコ型の取っ手が付いていた。
持ち上げて見ると、驚くべきことに、あっさりとマンホールの口が開いた。
鍵が掛かっているという話ではなかったのか。
蓋を開けずらしてみると、足掛け金具が下へ下へと続き、奥には口を開けこちらを睨む漆黒の闇がある。
どこまで深いのか、検討もつかない。
お前を飲み込むぞと脅されてるような闇を見て、真人の心は揺らいだ。
カギが掛かっていると思って、マンホールを調べたらすぐに帰るつもりだった。
けれど、もしもの事を考えてバックの中に装備は整えてある。
もしもの時が、今目の前にあるのだ。
神隠しにあった人は誰1人戻ってきてはいない。
此処がただのマンホールだったとしても、祭りが終われば人も戻ってきて、不法侵入を侵して捕まる可能性がある。
今すぐこのマンホールを閉じてモノレールに乗れば、何事もなく家に帰れる。
それでも頭を過ぎるのは、何も入っていない写真立て。
――兄さんの遺骨も墓もない。ずっとおかしいと思っていた。
母がおかしくなって、存在を感じられないぐらい、兄の話は禁句になってしまった。
口うるさい母の束縛が嫌になる時もあるが、母さんのことも嫌いなわけじゃないんだ。
優しい穏やかな人で居続けて欲しいだけ。
吉田が語った都市伝説なんか縋るなんて、僕もどうかしてるんだと思うけれど、もし―・・・。
もし兄さんが神隠しにあって、この下で生きてるとしたら?
家に連れていけたら、家族は元に戻るんじゃないだろうか。
狂った歯車があるなら、直せるはずだ。今はどんな藁であろうと縋りたい気分なのだ。
意を決して金具に足を掛けた。
体を全部穴の中に隠してから、腕の力のみで重いマンホールの蓋を閉める。
完璧な闇に体全てが包まれ、気持ち悪い抱擁を受けた気分になった。
バックから手探りで懐中電灯を取りだして、辺りを照らす。
中に入っても地面はやはり見えない。腰のベルトに懐中電灯のヒモを結んで、下り始める。
足を掛けて手で棒を掴むという単調な作業を繰り返していくうちに、焦りで内臓が引き上がっていくのがわかった。
いくら降りても、ゴールが見えない。暗闇と、誰かに見つかるんじゃないかという恐怖があるだけ。
もし足を踏み間違えたり、握力が尽きたとき、どこへ落ちるのだろうが。
降りるという単調な作業がわからなくなりそうだった。
携帯を取りだして時間を確認しようとか悩んだ時、ついに終着点が見えた。
久々に足の裏に重力を感じて心から安堵する。
筋肉が休息できる喜びと、緊張で強ばっていたせいか一気に疲労感が襲ってきて、しばらく膝に手を当てて呼吸を繰り返す。
腰にひっかけた懐中電灯を解いて手に持ち直してから、辺りを照らす。
オカルトマニアの話では、此処には人を生け贄に捧げるような信仰を持つ一族が住んでいるらしい。
本当に居たとして、見つかったら捕まりるのだろうか。そもそも言語や常識が通じるのか?
コンクリートの四角い道が続くだけだが、本当に変わり者の人間が住んでいてもおかしくは無い雰囲気があった。
長い歴史で、迫害された民族は星の数ほどあるし、人類全てがドーム型居住に賛成したわけではないと習った。
日之郷による支配を嫌がって外に出た人間もいたならば、地下に住処を求めた可能性はゼロじゃない。
ただ、日之郷の支配者達が長年気づかないわけがなさそうだが。
息を整え、左右に伸びる道をとりあえず左に進んだ。
昔使っていた下水道跡かと思ったのだが、壁に水痕がなかった。
代わりに、カビとは違う黒い染みのようなものが所々飛び散っている。絵の具を飛び散らしたみたいだ。
状態は悪くなく、コンクリート造りということは、使用していたということだが、ネットで調べた限りそんな情報はなかった。
一体どういう目的で使われていたのだろうか。
路は真っ直ぐに、濃い闇がどこまでも続いている。
時折、道が分岐することがあったが、迷子にならないように真っ直ぐの道だけを選んで進む。
直線の先で、四角い部屋に入った。
人の気配はないが、長机にパイプ椅子、扉が半開きになった棚がある。
仮に水道職員が使っていた休憩所だとしても、扉もないし、通路の真ん前に設置されているというのもおかしい気がする。
懐中電灯を辺りを調べたが特にめぼしい物は無く、代わりに床に取っ手のような突起物を見つけた。デジャブだ。
机をどかし引いてみると、マンホールの時のようにあっさり口を開いた。
また金具のの階段が下へと続いていたが、今度は懐中電灯でも床が見えた。深くは無いようだ。
次に舞い降りた通路も同じような作りで、気まぐれに分岐点があるのも同じ。
変な音が聞こえて、慌てて辺りを照らすが何も無い。
ネズミという動物がこういった陰湿な場所では根城としていたと教科書にあったし、ゲームやアニメなんかでも登場する。
実物は見たこと無いが、本当にいるのかもしれない。
襲ってこないといいなと考えつつ、足を進める。
カリッ。
また聞こえてきた。床を何かがこするような音だ。足音でも、当然動物の声でもない。
急に気配を感じて後ろを照らした。
懐中電灯が闇から照らし出すそこには、黒い塊があった。
脳内に図鑑で見たコウモリが浮かんだが、コウモリは鳥より小さいサイズだったはず。
四つん這いになった人間のような大きさではない。
それには手足があって、頭があって、目と口があった。
皮膚は干しブドウのように乾いて皺だらけだが光を受けてテカテカと光っている。
口は大きく割け、目は赤く、鈍く光っている。図鑑で見たことない生物だった。
突然、目の前の生き物が口を開けて雄叫びを上げた。
耳障りな野太い声はコンクリート中に反響することで何倍にもおぞましい物に変化し、
不協和音と轟音で鼓膜が震え、反射的に耳を塞ぐ。音が体にまで影響し、頭が揺れ懐中電灯を落としてしまった。
床に転がる明かりが、開けた口から覗く鋭利な牙を照らし、赤い瞳がぬらりと光る。
前足らしき部分で懐中電灯が壊された。
2度目の雄叫びで、反射的に踵を返して走る。本能が、走れと言っていた。
ドーム内で飼育されているのは鳥と犬猫、それから爬虫類ぐらいだ。
人類が歴史を失って、動物を含めた生物の多くが図鑑内の存在となったが、あんな生き物見たことがない。
新種か、人類が発見してない変異体か。
などと混乱した頭でも冷静に分析していると、背後から耳障りな声が聞こえる。鳴き声だろうか。
こちらに近づいてくる気配とコンクリートを鋭利なもので擦るような音がする。
きっとあのクモのように曲がった手足の先に鋭い爪を持っているのだ。走る度爪がこすれてコンクリートに音を立てるのだろう。
真人は必死に走るが、懐中電灯を失い闇の中を走る度壁にぶつかり体や頭を何度もぶつけた。
何度も近づかれては離れる気配に恐怖を煽ら足がもつれそうになる。
人間を追うと言う事は、此処は彼らの縄張りで、自分は敵。動物の中には人間を喰らう種もあると聞いた。
なんらかの形で地下で生き残り繁殖したのかもしれない。
ぶつかる度に壁を触って方向を確かめながら、この階層に降りた時に使った足場に辿り着かないかと淡い期待を抱く。
しかし、真っ直ぐ走っていたつもりが方向が狂ったのか、障害物は無かったのに、
壁では無く柱のようなものにぶつかったり、足下に転がった何かに躓くようになった。
ふくらはぎの中程ぐらい高さのある、少し弾力がある障害物が一体何なのか。懐中電灯を落としたのが一番の過ちだ。
真後ろまで迫っていたはずの気配と音が聞こえなくなった。
うまく巻けたのか、諦めてくれたのか定かではないが、手探りで壁を探して息を整える。
ズボンに入れていた携帯も途中で落としたらしく、光源は何も持っていない。
もう此処がどこかがさっぱりわからない、もともと知らぬ土地なのだ。
明かりも無く迷い込んでしまえば迷宮に入ったも同然。
両手で壁を探りながら、手探りで運良く電気のスイッチでも当たらないかと期待するも、そもそも電力があるのか疑問である。
遠くであの雄叫びが聞こえた。しかも一匹ではなさそうな声の重なり。
つま先に何か当たって転びかける。しゃがみ手を伸ばして触ってみると、固い筒のようなもので、取っ手だと気づいた。
試しに引いてみると、暗くて何もわからないが、上へ動く感触。きっとまた下へ降りる通路だ。
また下へ降りることが出来るのかもしれない。
手探りで足場を探り当て、足をかけ降りて扉を閉めた。
自分の手すら見えない場所で、細い足場に命を預けるという行為は恐ろしいが、名も知らぬ生き物に追われるよりかなりマシだ。
何度か足を踏み外してヒヤッとしたが、下へ下へ降りる足掛はやはり長くどこまでも続いて居た。
途中息を整えるために一旦足を止め下を覗く。すると、ぼんやりと明るくなっているのに気づいた。
見間違いではない。明かりだ。必死に手足を動かして明かりに向かう。
降り立った通路の先で、壁に光源が埋まっている細長い部屋があった。
部屋というより、小ホールだった。横幅もあり、天井も高いそこは学校の体育館の半分ぐらいの大きさだった。
囲まれた壁は黒ずみやコケのようなものがこびりついている。コンクリートではなく、石を積み上げたようだ。
喉が鳴るような音がして振り返ると、あのコウモリみたいな生き物が3体、後ろにいた。
後ろ向きに距離を取ろうと下がるも、あちらもゆっくり近づいてくる。
「どいてろ、一般人。」
声がした。人間の声だと気づいた時には、赤い雷のような線が真上から降って、線に当たった名も知らぬ生き物が震えながら倒れた。
横に降り立ったのは、真人より背の低い少年だった。もっさりした黒髪、切れ長の瞳は僅かに赤い。
少年は真人を見ると大きめの瞳を細めた。
「こんなところで何をしている。どこの集だ。」
「シュウ?」
「お前・・・、まさか地上人か。」
地上人という言い方からして、日之郷の人間ではない。吉田が話してくれたオカルトマニアの言葉が浮かぶ。
鋭い声と敵意がたっぷりこもった瞳になんて返したらいいか迷っっていると、
暗がりからまたあの生き物が現われた。今度は7体もいる。
少年が真人から目を離し、手の平に力を込め、先程の赤い雷のようなものを出して見せた。
特殊映像かと疑ったとき、後ろの出入り口から複数人の人間が走ってやってきた。
黒ずくめの大人達の後ろから、桃色の髪をした少女がこちらに掛けてきた。
「早いよヤマトくん・・・、どなた?」
「地上人だぞ、コイツ。」
「えええ!?」
「とりあえず狩る。コイツが引き寄せたみたいで、集まってきた。」
広い空間に、人間を囲む黒い生き物が溢れてきた。数はもう数えられない。
少年が赤い雷を放ちながら黒い生き物たちに向かって突進していった。
他の黒ずくめの人たちも各々の武器や謎の光を採りだして戦い出す。
目の前で繰り広げられる非日常的な光景に唖然と立ち尽くすしか無かった真人の周りに、半透明で半円の膜が覆った。
「な、なにこれ・・・。」
「お、大人しくしてて下さいね。この中にいれば、安心ですので。」
真人と同じ年のくらいで、桃色の髪をした女の子が膜の中でおどおどしながら小声で言った。
どういう事かと問おうとしたとき、大きな口を開けてあの生物が飛びかかってきたが、
半円の膜に当たると、体が砕けて粉々になって地面に落ちた。
膜の内側にいた少女は八の字になった眉をして、外側の生物より真人が怖いのか、おどおどしながら話し出した。
「え、えっと・・・、私達は、水縹第一配下綴守の、実行部隊第八班。貴方を、保護します。」
「な、なに…?」
「簡単にいうとですね、十杜(ともり)と戦うことが専門の、<シンジュ>持ちが集まった役職で―」
「さっきから何のことだかわからない・・・。ともり?」
「あの生き物の名です。私達が敵じゃないことだけわかってくれれば、だいじょうぶです、から。」
悲鳴がして顔を向けると、黒づくめの男性が1人、十杜という名の生物に飛びかかられ、生きたまま腹を食い千切られていた。
狂乱した叫びが響く間にも、腹の肉は食われ、遠く離れた場所からも内蔵の赤が窺えた。
人の内側を見る機会などない。まして、臓物がはみ出して地面に落ちるペチャリという冷たい音を聞くことになろうとは。
別の個体が喉元に噛みつき、悲鳴が止んだ。
次々と集まる十杜に体中を貪り食われたが、黒い影が重なり合って真人からは見えなくなった。
全身から血の気が引いていき、指先が冷たくなる。慌てて口元を覆って悲鳴が漏れるのを防ぐ。
動物が狩りをする映像を見た時とは訳が違う。
人が、生きたまま喰われた。目の前で。
その衝撃は形容しがたく、恐怖はとっくに限界を超えている。
現実を処理しきれない頭は、かき混ぜられてパニックを起こしていいのか絶叫で誤魔化せばいいのかわからなくなっている。
「目を伏せていて下さい。刺激が強いと思います。」
彼女が冷静な声が耳に入ってきた。
バケモノに人間が喰われたというのに、少女は慣れてるとでもいった口調で慌てた様子は微塵もない。
吐き気が食道をせり上がり、昼間祭りで食べたものを吐き出したくなってきたが、必死に耐えた。
固まったまま目が離せない真人の目を、少女が小さな手で覆ってくれた。
「どうか落ち着いて下さい。すぐ終わります。」
少女が言った通り、悲鳴と十杜のうなり声が止んだ。
手が引いて覆っていた膜が消えると、立っていたのは黒髪の少年とわずか2人の男性だけだった。
もっと人はいたはずだが、皆床に倒れて動かなくなっていた。
現実離れした光景と、むせ返る程のさびた臭いが充満している。
「ヤマトくん、一ノ瀬さんが地上人さん保護して連れてきてくれって。」
「話が早いな。いつ情報行ったんだよ。」
「保護?此処って、なに?あのバケモノは・・・?人が、」
「それも含めて、私達の家でご説明します。一緒に来てもらえますか。」
「ま、待って、下さい。僕のこと地上人とか言ってました、よね?
もしかして、他にも上から来た人いますか?兄さんを探しに来たんです。先に探させて下さい。
あんなバケモノがいるなら、なおさらすぐ見つけ出して連れ帰らないと。」
「それは―、」
言葉の途中で、少女が耳元を押さえて誰かと話しだした。
耳にインカムでも差していたのだろう。
真人に対して敵対心のようなものを向けていた少年が、今度はニヤニヤと笑いながら近づいてきた。
「このまま連れて行かれたら、お前は捕まって自由に動けなくなるぞ。」
「え?」
「天御影への不法侵入は重罪だ。家族捜しに来たって言ってたろ?探すどころじゃなく強制労働か、もっと悪けりゃ投獄だ。
一度戻れ。道教えてやるよ。あの道を真っ直ぐ行って二つ目の分岐を右、次は左に行くと一番上の階層まで上がれる縦穴がある。
それを登った先の通路を進め。地上に出る階段があるからよ。」
持ってけ、と少年が腰に差していた電気ランタンを差し出された。
少年とランタンを見比べ、誰かと通信して視線を外している少女を伺う。二人の様子や保護という言葉をさっと並べる。
礼を言ってからランタンを受け取って、来た道を目指して走った。
後ろで少女の声が響いたが、聞かないことにした。
戻ろう。人間を食べる生き物がいるなんて聞いてない。
兄さんを探す前に、行政に連絡してあの生き物を駆除してもらった方がいい。
地下に住む、言葉が通じる人たちはオカルトマニアが言っていた民族なのかもしれないが、今は考えるのをよそう。
ランタンがあるおかげで暗闇を闇雲に走らなくて済んだため、
教えてもらった道をすんなり進み、壁に埋め込まれた足掛け金具を見つけた。
まだ体は震えており、手の握力が限界に近づいていたが、気力で登り続ける。
頂点の蓋を押すと、ランタンがなくても光があった。
そこは天井が3,4m上にある円形の通路だった。
天井には用水路でよく見る格子型の蓋が埋まっており、外の街灯の光が差していた。格子の向こうにある空はもう夜になっている。
日之郷の綺麗な空気を感じて深呼吸する。先程見た景色を必死に頭の外に追いやる。今は帰ることが先決だ。
ランタンを手にしながら少年が言っていた階段を探していると、横を黒い塊が通り過ぎていった。
十杜と呼ばれたバケモノだった。
一瞬体が強ばって震えたが、真人には見向きもせず、重力を無視して壁をつたい、天井の格子を目指して高く飛んだ。
十杜の前足が格子に触れたように見えたその瞬間、天井に青白い光が走った。
眩い明かりで瞬間的に通路内が白ばみ、バチバチという派手な音を奏でた後、十杜の体は黒い消し炭となって床に音も無く落ちた。
更にもう一体、通路の向こうに見えたが、同じように天井に登っては青白い雷に感電したかのように砕けて消える。
唖然とその光景を見つめることしか出来なかった。
「十杜は上に行きたがってるの。」
背後に立っていたのは、全身黒ずくめの女の子だった。
黒い髪に黒い服、瞳も真っ黒だが、首に巻いたマフラーだけは白かった。
繊維のように細くしなやかな長い髪を揺らし真人に近づいてきた。
弱い明かりだけでも、透き通る肌に凜とした美しさを持っているのがよく分かった。
その少女も真人と年頃は同じぐらいだろうが、立ち姿や表情がやけに大人びている。
じっとこちらを見つめてくる黒い瞳は、複雑な輝きを持った宝石のようで吸い込まれそうでもある。
近くに立たれるまで気づかなかったが、彼女の手には、ゲームや漫画などで見る湾曲した剣が握られていた。
武器に驚いたせいか、少女の瞳があまりに美しいためか、声も出せず見つめ合うしか出来なかった。
「地上と地下の間には、結界が張っている。生物は上から下へ降りる事は出来ても、下から上へ通れない。」
「なら、どうしてあの生き物は上を目指すの?」
「本能よ。」
それはどういうことかと聞く前に、雄叫びの後黒い影が視界に入ってきた。
反応出来た時にはもう真横に迫っていたので、真人は腕で頭を守ることしか出来なかった。
脳裏に腹を食われていた人の光景が浮かぶも、衝撃や痛みは襲ってこなかった。
顔を上げると、細かい砂が目の前で落ちていくところだった。
通路の奥から先程会った黒髪の少年と桃色髪の少女が走ってきて、真人と向き合う黒髪の少女の後ろで足を止めた。
「やはり。あなた、十杜を灰に出来るのね。」
「え?」
「他の通路でも十杜の灰を見つけた。石の力がなければ、今頃貴方も食われてた。」
「待ってくれよ総隊長、地上人に<シンジュ>石は無いだろ?」
「いえ。知らないだけ。」
さらにもう一つ、人影が現われた
かなり長身で体格のいい、グレーのコートを着た男性だった。
髪は暗い藍色で、分厚いサングラスのようなものをしていて目元は窺えない。
ちらりと真人を見た男性は、すぐ黒髪の少女に顔を戻した。
「血の匂いで群が近づいている。」
「連れていきましょう。」
「待って!1つ聞いていい?さっき、下から上へ通れないって言ってたよね。僕も?」
「ええ。生物は全て、天井に触れた途端、死ぬわ。」
少女の手に握られていた剣―いやあれは刀か―が、形を崩し手から消えた。
代わりに細かい青い粒子が散って、やがて消えた。