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​4.赤と夜と青-2

凄く久しぶりに吸い込む外の空気はとても清々しかった。
旅立ちにはもってこいだろう。
自転車を音を立てずに引っ張り出しまだ跨らず、家を大分過ぎたあたりでこぎ出した。
住宅街はどの家も寝静まっていた。街灯はまだ点灯しているが、先ほど確認した部屋の時計は4時少し過ぎ。
東の空はそろそろ濃い夜の帳を外し始め淡く白み始めている。
真人はペダルを漕ぐ足に力を入れた。
30分後、彼が辿りついたのは駅だった。
街の北西の外れ、地図上ではほんのちょっとだけ街にかかるだけの唯一の駅。
海風がここまでやってくるのか、骨組みはさびて如何にも田舎のローカル駅といった風貌だ。待合室以外何もないが、始発が4時53分なのは今の真人にはありがたかった。
いつ兄が探しにくるかわからないからだ。
放置されたものと一緒に自転車を置いて、蛍光灯の黄色い明かりに吸い込まれる羽虫の如く駅の正面に向かう。
横に長い駅の左側に乗車券売り場はあり、その前に女性が一人で立っていた。
誰かと待ち合わせだろうか。夜明け前とはいえまだ夜の時間帯。
女性一人でいるなんて物騒な。そう思っていたが、近づくにつれ、その女性が雨条沙希だということに気付いた。
慌てて駆け寄って声を掛ける。


「沙希!?」


彼女は驚くわけでもなく、ゆっくり近づいてくる真人を見つめていた。
今朝はワンピース姿ではなく、七分丈ジーンズに、麻のアンサンブル。上の半袖は少しだけ透けている素材で、白いショルダーバックを下げていた。


「一人でこんなとこ立ってたら危ないじゃないか。」
「真人、どこ行くの?」


普段より膨れた鞄を一瞥され、真人の方が言葉に詰まってしまった。
保護者の許可もない外出なので、家出同然なことをしている身、沙希を責められないことに気付く。


「えっと…。さ、沙希こそ一人でどうしたの。女の子がこんな早くに。」
「真人が来ると思ったから。」
「え…?」
「私もついていく。」


彼女にもらった水羊羹ですっきりしたはずの頭が、彼女の言葉でまた少しこんがらがる。
彼女には、自分がこれからどこへ向かおうかバレているのだろうか。
ということは、兄にもバレたのか。いやそれはない。ではなぜ、此処が?
女性の超直観なんだろうか。
なんにせよ、家出に付き合わせるわけにはいかない。


「一人で行きたいんだ。放っておいてくれ。」
「やだ。」


この上なくきっぱりいい気切られ、気合負けしそうになる。


「家族には話したの?」
「こっそり出てきた。」
「ご家族が心配するよ。今日は帰りなって。」
「真人も許可取ってない。」
「だからなんでわかるの。」

「勘。」


やはり勘か。


「僕は男だからなんとでもなる。ちゃんと書置きしてきたし。でも君は一人娘だし一般家庭の僕とは違うでしょ、立場とか、色々…」
「真人が自暴自棄にならないよう見張る。」
「ならないよ、そんな…。」


そういった言葉は弱弱しかった。
彼女も両親の話は知っているらしい。当然か、クラスメイトには連絡網とか回る。


「とにかく、沙希は戻って。」
「やだ。」


そんなやり取りを延々続けていたら、ホームから電車が到着するというアナウンスが響き始めた。
慌てて時計を確認すると、始発が出発する時間まであと3分しかなかった。


「やばっ!まだ切符も買ってない。」
「急ごう。」
「…後で死ぬほど怒られても知らないからな。」
「うん。」


真人は慌てて券売機で二人分の切符を買い、無人改札を通って、反対側のホームに走った。
すでに滑り込んできた電車に、ぎりぎりで乗車出来た。
中には数人のサラリーマンが乗っているだけで、かなり空いていた。
お盆の始発だからだろうか。
人のいない車両を選び、適当に腰を下ろす。沙希も隣に落ち着く。
電車は軽い振動の後ゆっくりと動き始め、家出少年を乗せて走り出した。
住み慣れた街をあっという間に抜け、隣町に入る。
沙希と押し問答してる間に、空は随分明るくなってきた。
水色の南天に、地平線は緑、黄色、オレンジとグラデーションを彩っていた。
普段は寝ていて見れない、夜明け前の空はとても美しかった。
景色が流れる窓の向こうの空を食い入るように眺めていたので、しばし二人とも会話を交わさなかった。
太陽が地平線からちょっとだけ顔を出した時には、街を3つも超えていた。
朝陽が容赦なく肌を焼き始めたので、ロールカーテンを下ろし、やっと真人は沙希に顔を向けた。


「後悔してない?」
「全然。」
「男と朝方外出とは、名門の御嬢さんも不良の仲間入りだな。」
「真人もね。そうだ、切符代返す。目的地わからなかったから、買うの任せちゃった。」
「いいよ。ついてきてくれたお礼。」


真人は荷物置きに肘を乗せて、窓枠に頭を預けた。


「一人だったら、本当に自暴自棄になって何するかわからないとこだった。詭弁上帰れって言ったけど、あそこに立っていてくれて本当に良かった。」
「真人…。」
「そうだ。また変わった夢みた?」


明良かな話題変えだったが、沙希は流れに乗ってくれた。


「昨日-正確には一昨日―見たのは、魚の夢。子供の頃も何度か見たことあるの。記憶というより、私の中では1番夢らしい夢なの。」
「へぇ~。聞かせて。」
「頭の上を巨大な魚が気持ちよさそうに漂ってるの。体は深い青緑なんだけど、うろこは虹色。
私は魚の向こうにある洞窟を通って、どこかに行きたいんだけど、魚は許してくれずに、帰りなさい、帰りなさいって泣くの。
押し問答の末、ならあなたの背に乗って空を飛ぼうって私が言ったの。
そしたら魚は大笑いして、何かひどいことを言われた気がしたんだけど、そこで目が覚めたから覚えてない。」
「メルヘンなんだか奇妙なんだか、わからないね」
「共通してるのは、私の好きなようにはさせてくれないってこと。」
「前に言ってた起きなさいって、あれ?」
「そう。だから私、時折どれが現実でどこが夢だかわららなくなるの。
暑い日は昼は特に。前に、一緒にラムネを飲んだ日があるでしょ?あの時も、本屋から出てきた真人が本物なのか、そういう夢をみてるのかわからなくなるの。目に見えるものが全て蜃気楼かのように、意識が曖昧になるの。」
「なんかそれ、わかる気がするな。」


つい1時間ほど前まで、自分も同じような状態だった。
曖昧というより、思考放棄だったが。
電車が大きく左にカーブしたので、直射日光から逃れた。
カーテンを上まで上げると、景色は1面海だった。
生まれたての黄色い朝日に水面がキラキラと歌っている。
海は見慣れているはずなのに、住み慣れた故郷とは違う水たまりに感じる。
あの街は海抜から高い位置にあったからだろうか。
電車はやがて、目的の駅に着いた。
両親が来たという、××市の温泉街だ。

 

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