5.旅路の果てに
二人は電車を降りると、まずバスに乗って大半の人が目指す中心部ではなく。外れにある地域を目指さなければならなかった。
今朝がた思いつきで出発しただけなので下調べは何もしていない。行き当たりばったりの旅。
だから沙希を連れてくるのを迷った、というのもある。
だが幸い、真人は兄と警察のやり取りを最初の1日だけ同席していた。
街の名前、温泉街の場所。宿泊した旅館の名前。これらは一応頭に入っていた。
始発で1時間半ほど掛かって、現在6時半。
お盆も夏休みも関係ない人や旅行客が結構あふれており、バスの姿も見るのだが、
目的のバスの始発は7時12分。
二人は駅の中にあるカフェで朝食を済ませる時間が出来た。
母親が好きそうなパンの数々をお腹に詰め込み、余裕を持ってバスに乗り込んだ。
バスはどんどん市内から遠ざかり、30分程揺られてようやく下車出来た。
中心部の賑わいほどではないが、それなりに繁盛している温泉街だった。
隠れスポットとでもいうのだろうか。
名物の緩い坂に沿って続く長い横幅の広い石畳を挟んで昔懐かしい店が並び、客は若者よりは年配者が多い。
活気はないが、温かみはある。
真人はこの町にきたら、まず見たいものがあった。
石畳の一本道に背を向けると、沙希を連れて賑わいから遠ざかる。
道がわからないのでほとんど勘で歩いてみたら、あっさりと目的地についた。
両親が飛び降りた、崖だ。
場所は知らないが、写真を警察に見せてもらったので光景は覚えていた。
規制線も鎖もなく、背の高い雑草に半分以上埋もれた看板が立ち入りを禁じているだけの崖。
沙希に此処で待つように告げ、真人は看板を無視した。
そこには当然両親の靴は無いが、小さな花束が添えられていた。
花の名前などわからない。でも、母さんの好きな花だった。
母の知り合いが備えてくれたのだろうか。
現実が、じわじわ襲いかかってきた。
真綿で首を絞めるように、肩まで浸かった水槽に水を貯めていくように。
急に足が重くなってきた。
履きなれはずのスニーカーの底に重りでもくっついたのだろうか。
ゆっくり、まずは花束目指し歩いていく。
崖の向こうから足元の水面が見え始めると、体の奥から震えだした。寒さや怖さとは違う、気持ちの悪い震え。
逃げ出したくなり、泣けと言われたらすぐに泣いてしまいそうになる。
けれど真人は足を止めなかった。
ついに花束の隣についた。あと3歩進めば、崖下が覗ける。
そこで、嫌なビジョンが頭を横切る、
もしあの崖下に、父のオレンジっぽい髪が見えたらどうしよう。
警察がきっと真面目に探してくれたのだから、そこにいるはずなとはわかっているが、海の潮は常に変わる。漂流物も海岸にたどり着くと聞くし。
嗚呼、もし。
もし、母のお気に入りのチェック柄のワンピースが目に入ったら…。
そう、母は、あのワンピースを当日着ていたらしいのだ。警察が旅館の人に聞いてわかっていたことだ。
足が震えだしたが、自分まで間違って落ちてしまわないようにしっかりと踏ん張り、1歩、2歩と踏み出した。
あと一歩で下が覗けるといったところで、誰かに腕を掴まれた。
目に見えてわかるぐらいビクリと肩を震わせ慌てて振り向く。
真人を止めたのは、沙希だった。
父親そっくりの、黒い神秘的な瞳をまっすぐ向けてくる。
「ダメ。」
「…。」
「覗いちゃ、ダメ。行こう。」
返事する余裕もない彼を無理やり崖から引き離し、沙希は真人の手を引いたまま先ほどの通りへと戻っていった。
*
大通りから一本外れてもきれいな石畳の道で、沙希が買ってくれた飲み物を飲み干した。
Sサイズというのもあって、一瞬で喉を流れていった。
「ありがとう。落ち着いた。」
「よかった。」
真人はまだうつむいたまま、空になったプラスチックのコップを見下ろした。
震えは収まったが、まだ胸の奥らへんがくすぶっていた。
「止めてくれて助かった。」
「飛び降りちゃうのかと思った。」
「違う。下を確認したかったんだ。両親が飛び降りた海を。」
「目的は果たせた?」
「まだ。少し、聞きまわってみたいんだ。」
「じゃあ行こう。」
もたげた首を回し、少女を向く。
「沙希は、付き合わなくてもいい。こんな死霊を辿るような気味悪いこと。」
「一緒にいるって決めた。」
「危ないことはしないよ。」
「それでも。」
手の中のカップを握り潰し、商店街の人が用意したであろう観光客用ゴミ箱にそれを捨てた。
まずは、両親が宿泊していた温泉宿を探すことにした。
名前は覚えているのだが、場所はわからない。
石畳の通り、正式名称桜石通りに戻ると店の前に出ていた中年男性に聞き込みを開始した。
旅館はこの辺りじゃ一級宿だったようで場所はかなりあっさりと判明した。
この先の十字路を右に行けばすぐわかる、と教えられ礼を言って通りを上っていく。
1段1段が広く低い、階段と言っていいのか迷う石の通りはお盆の入りとあって賑わっていた。客層の年齢は高いので、落ち着いた賑わい方だが。
突然、あらま!という短い悲鳴が二人を呼び止めた。
和雑貨のお店にいた60代半ばの女性が口元に両手を当て、真人を見てひどく驚いた顔をしている。
お店に合わせ、襟が和柄の黒作務衣を着て、かんざしを挿したお洒落な女性だった。
店から出て真人の横についたその人は、無遠慮に上から下まで真人を嘗め回すように何度も凝視する。
「あっひゃー。驚いたわぁー。生霊かと思ったんよ。」
「あ、あの…。」
この土地特有の訛りが強いおばさんに真人はたじろぐ。
彼女は周りに聞こえぬよう、真人の顔におしろいが若干濃い自分の顔をぐっと近づけてきた。
「お兄ちゃん、もしかして、こないだ自殺した夫婦の息子さんかいね?」
「っ!!?」
心臓が確実にジャンプした。それぐらいの衝撃だった。
息が詰まってしまった口を無理やり動かして、真人はやっとのことで頷きを返す。
「そ、そうです。次男、です。」
「やっぱりやー!そっくりやねぇ、お母さんと。」
「両親を知ってるんですか?」
「事件の前に、この家寄ってもらって。兄ちゃんのお母はん、明るくて美人で話やすかったやろー。少し話こんじゃってなぁ。」
両親が此処に来た時はまだお盆前で、天気も悪い午前だったので人が少なかったとか。
だから和雑貨を営む彼女はお喋りな性格のためついついお客さんと話し込んでしまうことがあるとか。
観光客と話をするのが楽しみで、人の顔を覚えるのが得意だった上にすぐ近くで悲惨な事件が起きたので記憶に焼き付いていた、と店をほっぽり出して長々真人に教えてくれた。
「あんな若くて綺麗なんに、大学生と高校生になる息子がいる言うて、そりゃあもう驚いたもんよ。まさかあの翌日にあんなことするなんて…。気ぃ落としてへん?」
「あの…その時母に変わった様子は?」
「まったく!これから死のうっていう風には見えんかったよぉ?」
両親を亡くしたばかりの息子に対してそこそこ無遠慮で失礼な物言いだったが、今の真人にはその方が有難かった。
腫物を触るみたいに扱われても困るし、消える直前の両親の情報は何より有難かった。
「父は、その場にいました?」
「おったおった。会話には全く参加せんで、少し後ろ立って奥さん眺めとったわ。ちょっと微笑んどって、モデルさんみたいやったね。お父はんはきっと人と接するの得意でわないんだわねぇ。」
鋭い。
全くもってその通りだった。愛想がいいのは笑っている顔だけで、他人に対して気を使うとかそんな素振りは絶対見せない。
「他に気になることとかは?」
「えーと…。これと言って…。ああ、古い友人にお土産買おうかってお母はん言っとったんやけど、お父はんがそれ止めとったな。」
「友人?」
「手鏡見てたから、たぶん女の友達やと思うよ。ウチの商品気にいらんか言うたら、しばらく会えないんで別に機会にしますって、それで二人手ぇ繋いで帰っていってしもうた。」
母は友人は多い方ではない、と思う。
真人は母が友人と出かける、なんてこと聞いたためしがないし、デパートに出かけてバッタリなんて体験もない。
ただ人当りがいいので顔見知りはたくさんいた。
わざわざお土産を買って行こうとする友人がいたということになる。
さらに、父はしばらく会えない、つまりこれから死ぬことを決めていたのだろうか。
それ以上お喋りな店員から情報は得られなかったので、手厚く礼を述べて温泉宿に向かうことにした。
通りを右に曲がっても広い階段が続き、両親が最後に宿泊していた宿は聞いた通りすぐ見つかった。
右に曲がった先に、その宿しかなかったからだ。
黄土色に塗られた四角い建物は4階建てだが、外観だけでも旅館の広さはよくわかった。
中心街から外れているから、となめていたが、立派で豪華な宿だ。
真人は早速ロビーで支配人を呼んでもらい、話を聞くことにした。
40代ぐらいのまだ若い支配人は、此処の宿泊していた客が自殺したことに不快感を隠そうともしなかったが、追い払うことはせず、ロビーの端にある待合室のようなソファーに二人を案内してくれた。
「変わったことはございませんでした。担当した者の話では仲睦まじい若夫婦だった、と。」
内装も豪華で、ロビーだけでも都内の一流ホテル並みの広さとサービスを兼ね備えた旅館なので、いちいち客のことなど覚えてないらしかったが、警察の事情聴取で何度か話した事はさすがに覚えていてくれた。
和雑貨の店員と違って、めぼしい情報は得られなかった。
本当は両親が泊まった部屋が空いてたら見せてもらいたかったのだが、お盆で忙しそうなので止めてそろそろ帰ろうとしていたとき、急に支配人が腕を組み顎に手を当て目線を明後日の方向に投げ出した。
「そういえば…あれは…」
「どうかしました?」
「一つ、思い出しました。チェックアウトされる前の晩、夜遅くにお父様をお見かけしました。」
「夜遅く?」
「そこの、公衆電話あるでしょ?あれは宿泊されるお客様は無料でかけられるんです。夜、12時過ぎ、ホテル内を見回っていたら、若い男性が電話していて。傍を通りかかったので、会話がなんとなく耳に入ったんですよね。
詳しくは思い出せないのですが…、随分固い口調で、仕事先で何かトラブルがあって先方に交渉でもしてるのかなって、思ったんです。」
宿泊客の相手で忙しいはずの支配人に、相手をしてくれたことに感謝して、二人は宿を出た。
最後に大人になったら是非泊まりに来いと勧められたので、いつか泊まりに来ねばならないだろう。両親の不備も含め。
大通りには戻らず、二人は小道を選び、のろのろ歩く真人に沙希も合わせた。
小道といえどお土産店や飲食店は多い。
沙希がついつい心惹かれてしまうようなガラスショップに見向きもせず、真人は石畳を見下ろしていた。すれ違う人は器用に避けながら。
「真人、どうしたの?」
「ん?あ、ああ…。僕、父さんが仕事はおろか誰かと電話してる姿なんて見たことないなって。」
「そうなの?」
「うん。」
真人は簡単に、自分と父の関係を説明した。
仲良くはないこと、何の仕事をしているか知らないこと。
「やっぱり、何か仕事してたのかな。当然か…。でも、想像できないんだよ。深夜にわざわざロビーから電話するなんて。支配人さんの言うとおり仕事と先に謝罪かなんかで電話してたとして、僕が知ってる父さんなら翌朝に回すか、最悪放り投げる。」
真人が感じていた父の印象は面倒くさがり。
年に1回程しか会わない息子が、父のすべてを知っているわけではないが、一応血はつながっているのだから、体を形成し続ける真人の遺伝子が訴えかけるところの勘だった。
理由なんてないが、そう思うのだ。
父はちゃんとした会社になんて務めてない。務められる人物ではない。
深夜に仕事関係でわざわざ電話する人間でもない。
「じゃあ、誰と何の電話してたんだろ…。自殺騒ぎと関係あるのかな…。」
ずっと独り言のように考えや推論を呟いていた真人は気づかなかったが、傍にいた沙希は目撃していた。
小道の通りに出て客引きしていた何人かの店員が、真人の顔を見ては小さく悲鳴を上げたり小声で何かを呟いていることに。
大通りであった店員のように、母親の面影を彼に見てしまったのだろう。
直接話しかけてくる勇者はもういなかった。
「ねえ真人。」
「なに。」
「真人のお母さんって、一目を引くタイプの人?」
顔をやっと上げた彼は、首をかしげる。
「どうかなー。美人な方ではあるけど、一目につくってタイプじゃないけどな。沙希のお母さんの方が目立ちそうだよ。雰囲気が柔らかくて、引き寄せられる。
その点、ウチの母さんは気が強い頑固な気配が漂ってたかもね。目力あったし。」
「なら、見た目じゃなくて、存在自体が人目に残るひとだったのかもしれないね。」
「存在?」
「たまにいるでしょ?これと言って特徴があるわけでもないのに、目で追わずにはいられない人。何をするでも、されたわけでもないのに、記憶に焼き付く風景みたいな人。」
「…そう、だね。母さんは自信と気品が自然に身についてた人だったから。」
二人はあっという間に小道も抜けてしまい、右手には桜石通りの入り口が見える。
真人の用事は、わずか数時間で終わってしまった。
本当は2,3日滞在して両親の痕跡を探す予定だったが、案外というか、やっぱりというか、もうどうでもよくなってきていた。
「真人、すっきりした顔してる。」
「そう?」
「探し物、みつかったみたいだね。」
「うん。…せっかくだし、少し観光していこうか?寄りたいお店とかあった?」
「実はさっき、話聞かせてくれた和雑貨屋さん、気になってた…。」
「アハハ。言ってくれればよかったのに。もう1度行ってみよう。今度はちゃんとお客として。」
和雑貨屋のおばさんは快くお客の二人の相手をしてくれて、真人は今日の礼にと沙希に手鏡を贈った。
母が、友人に送ろうとしていたものを。
それからお洒落な和風カフェでパスタを食べて。通りをぶらぶらしながら足湯を堪能したり。すっかり観光気分を満喫した。
辺りは夕方。オレンジに染まっていた。
宿がある客は部屋を取った旅館に消え、日帰りの客はとっくに帰ってしまっていた。
真人と沙希は、人がいない海辺にやってきていた。
桜通りを過ぎ、朝見た崖も通り過ぎたら、海に出れる小道を見つけて寄ってみることにしたのだ。
地平線に沈みたくないとあがいて燃え上がるオレンジの太陽が水面も、砂も、二人の影すら夕暮れの景色に染め上げていた。
黙って、ただ並んで沈む夕日を眺めていたら、太陽は空と海の境界線に吸い込まれてしまい、星がちらほら姿を現しだした。
「付きあわせて、ごめんね。」
「私が好きでついてきた。」
「ご両親今頃心配してるよね。」
「朝電車の中からメールしといたから、大丈夫。」
「いつのまに。でもメールだけじゃ逆に心配させたんじゃない?」
「私の両親は、大丈夫なの。心配もしてない。真人も一緒だって言ってある。」
「え…。年頃の娘が男と一緒って、余計まずくないかな?」
「まずくない、真人だもの。」
その言葉の意味を決めかねて言葉を詰まらせていると、遠くから名を呼ばれた気がした。
周りに人はいない。
体ごと振り返ると、海岸沿いの道から長身の男性がこちらに駆けてくる。
「げっ!孝仁!」
「誰?」
「はとこの兄ちゃん…。」
その場で動かずにいると、砂場に足を取られることもなく、実にスムーズにはとこは真人の元へやってきた。
そして開口一番、寝静まる海に響かせる勢いで怒鳴られた。
「この馬鹿者が!!」
「う…。」
「未成年が誰の断りもなしに夜に外出するんじゃない!」
「書置き残しておいたのに…」
「あんなもので安心するか!」
凄い形相で起こっていたはずなのに、いきなり真人を抱きしめた。
「心配させるんじゃない・・・。」
がらりと雰囲気が切り替わり、その声に覇気はなかった。
孝仁は、結婚するまで亡くなった両親が残したあの家で、一人で住んでいた。
真人はしょっちゅう彼の家にお邪魔してたし、彼も櫛菜の誘いで一緒に夕飯を食べていた。
朝と夜、ちゃんと自分の家に帰る以外はほとんで一緒にいて、勉強も兄弟は孝仁に大分教わった。
もうはとこではなく、本当の兄弟のように思っている。
一瞬、沙希がいることも忘れ泣いてしまいそうになった。
「ごめんなさい、孝仁…。」
孝仁の肩口越しに、もう一人人影が近づいてきた。
「あき兄…。」
孝仁が末っ子を離し、瑛人は微笑みを携えながらゆっくり近づいてきて言った。
「さあ、帰ろうか。」