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神宿りの木   クロガネ編4

 


水路を見下ろす道の縁に腰掛けて足をぶらぶらさせる。
待ち人は今日も来ない。


『いつまで時間を潰すつもりだ。約束をしてあるわけではなかろう。』
「いつもだったら、此処にいれば瑛人は来てくれるんだけどなー・・・。」
『帝一族の血を引く者だ。そう易々と外には出られまいよ。』

 

最近出来た友人には、不思議な察知能力があるようで、約束などせずとも二人がいつも待ち合わせ場所にしているこの水路で待っていれば、よく顔を出してくれた。
だが、ここ数週間彼は現われてない。
そういえば、足裏の下で流れる水の量が減った気がする。

 

『無駄に時間を浪費しても意味はなかろう。拠点に戻って仕事でもしたらどうだ。そろそろ生活費も無くなる頃だろう。』
「くろがねはいいよね、ご飯食べなくてもいいんだから。僕の体が朽ちたらくろがねも困るもんね。」
『お前のことを思っていっている。友人が構ってくれないからと、私に当たるではない。』

 

このまま此処にいてもくろがねの小言が降ってくるだけなので、諦めて立ち上がった。
口を尖らせながら、せめてもの反抗に自分の足で歩く。くろがねの力を使えばすぐ家に帰れるが、腹の虫が少し暴れていたのだ。
幸い、彼は幼いながら体力はあるし道無き道も進める。時間は掛かったが、家がある無色の拠点に辿り着いた。
素直に家に戻ろうとしたが、確かに家に食材はない。くろがねの言うとおりに動くのは腹の虫が暴れてる彼には酌だったが、長い時間歩いてお腹が減っていた。
拠点の右側にある道を進み、通りの奥にあるシャッターが降りた窓の前に立つ。窓には幅が狭い木製のカウンターがついている。
背の小さな少年には背伸びをしないとカウンターの向こうが覗けない高さで、かかとを浮かせながらシャッターを三回叩く。
すると乱暴にシャッターが下から上に開けられ、中から煙草をくわえたスキンヘッドの男が顔を見せた。
タンクトップから覗く筋肉隆々の腕には入れ墨が彫られ、人相は良いとは決して言えない。
肉に埋もれた一重の目で、汚物でも見るかのように少年を睨み付けた。

 

「エキの駆除依頼ならくれてやる。」
「それでいい、です。」
「場所は此処。依頼主から印をもらった紙切れもってこい。金はそん時だ。」

 

煙草をくわえたまま話した後、カウンターに紙を二枚叩きつけて、男は乱暴にシャッターを下ろした。
必死に手を伸ばして、カウンターの上に置かれた紙を握って駆け足でその場から離れる。
無色の領域を出た先の光源がある道で、紙に目を通す。
一枚は地図、一枚は依頼書で、下の方に印鑑を押すマークがある。

 

『また安い仕事だな。』
「子供の僕に大きな依頼はくれないよ。あの人苦手だし。」
『レイコに頼めばよかろう。』
「今まで十分助けてもらったんだもの、一人で頑張らないと。」
『殊勝な心がけだが、一週間分にもならないであろう。』
「いい。行こう。」
『先に食事をとらぬのか?』
「もう冷蔵庫に何もないよ。仕事を終わらせて、すぐお金もらわなきゃ。」
『腹が減ってるなら、素直に私の力を使え。』

 


仕事は簡単だった。
蜴<エキ>が作った巣を解体して、一匹残らず駆除するだけ。
十杜より動きが鈍いので、表面がいくら硬かろうがくろがねの力の前では無意味だ。
一般人にとって蜴<エキ>は十杜と同じく厄介な存在であるのには変わらず、近くにある集の依頼主にはとても感謝された。
依頼書にサインをもらって名も知らぬ集を出た先の道で、見知った顔が二つ、こちらにやってきた。

「おや、モヤの坊やじゃないか。」

左下がりのぱっつん前髪にアシンメトリーの髪型、派手な紫のパンツを履いた細身の女性が両手を広げる。
そのニヤついた笑みに胸がざわざわして、彼は無意識に一歩後ろに下がった。
もう一人の男性は彼女の相棒で、スーツを着ていても太い首や二の腕が伺え、収まっている筋肉は窮屈そうだ。
角張った顔にはいくつも傷があり、歴戦をくぐり抜けてきた功績は彼も効いたことがある。男も無色所属なのだが、ただの人間だ。

「こんなとこまでお使いかい?」
「い、無花果から仕事、もらえたので・・・。僕、戻らなきゃ。」
「つれないじゃないか。フフフ、その怯えた顔あたし大好き。可愛いねぇ。」

 

笑うと下がる目尻と、細まった眼光の奥にあるねっとりした色味に無意識に外套を握りしめる。
この女性の被虐性は無色でも有名で、彼もよく知っている。
今すぐ全身モヤ化して逃亡したいが、そんなことして機嫌を損ねれば、母が残した家に帰れなくなってしまう。彼女は無色でも有名な能力者であり、横の繋がりも太い。
女性が腰に手を当てながら屈んで、ぐいっと彼に顔を近づけてきた。

 

「坊や、あまり大きな仕事をもらえないんだろ?でもあんたの力が一流なのは誰しも知ってる。
無花果の旦那は妬いてるだけさ。そこで、今あたしが追ってる案件譲ってやるよ。」
「え・・・、あの・・・。」
「報酬は全部アゲル。」
「いや、あの、・・・見返りは。」
「いらないわ。坊やにはもうちょっと大きくなって欲しいだけ。二階堂、前金と書類あげて。じゃ、またね坊や。」

 

女性はあっさり彼から離れ歩いて去ってしまい、横に居た男性がポケットから出した書類を渡してきた。

「これから俺達は無色に戻る。あいつが仕事を譲ったと言えば無花果の店主も納得するだろう。」
「あ、はい・・・。あの・・・アゼミさん、今日、様子が・・・。」
「あいつも感傷に浸ることぐらいある。今日は丁度―。いや、なんでもない。前金で飯でも食ってからいけ。」

二階堂という名前の男性は軽く手を上げて去って行った。
仕事の内容を見て、くらがねが渋い声を出した。

『体良く面倒ごとを押しつけられたようだな。前金で釣るあたり、一筋縄ではいくまい。その人見知りもいい加減直したらどうだ。時には強気に出て断らねば。』
「無理だよ・・・。アゼミさん相手じゃ特に。もう受けちゃったし、お金ももらえたからご飯食べに行こう。」

 


面倒云々より、今は腹の虫を黙らせる方が先決だった。
人が集まる場所を嫌う彼だが、唯一出かけられる場所が近くにある。
人間の一族にも属さず、零鬼も混血も関係なく利用できる店がたくさんあり、非合法の品や輸入品が行き交う闇市場。
そこではどんな生き物も平等で、彼のような人と違う力を持った子供も白い目で見られることもなく歓迎してくれる。
メインストリートが二つ交わっていることから、四つ角と呼ばれている。
天井に張った細い配管からぶら下がった裸電球が賑やかな通りを行き交う人たちを照らしている。
何の動物かわからぬ肉が入った巨大な鍋を振るう汗だくの店主に、ギョロ目がちな客引きのかすれた声。
きつい香水が入った色とりどりのガラス瓶に女性たちが群がり、その女性を狙う鼻の下を伸ばした男たち。
様々な匂いと商品、思惑と金が行き交う通りをなるべく早足で通り過ぎ、四つ角の西へ続く道を駆ける。
煙が吹き出す扉が固く閉ざされた建物を通り過ぎれば、人気がぐっと減る。
ここから先はあまり露天はないが、細い水路の脇にのれんがついた木造の屋台があった。
暖かいオレンジの明かりが彼を優しく歓迎し、食欲がそそる匂いに木製の長椅子に腰掛けた。
客の気配を察して、新聞を読んでいた店主が顔を上げた。五十過ぎぐらいのくたびれた店主は、無精ひげが不揃いに生えており、眉間やおでこに皺が入っている。小さな客人に、新聞を閉じて台に置いた。

 

「よぉ、桜。久しぶりじゃねぇか。今日は何にする。」
「炒飯と醤油そば。」

 

あいよ、と返事をすると大鍋に沸いたお湯に麵を入れながら、具材を刻み炊いてあった米と炒める。
慣れた手つきで作られた料理は、あっという間にわくわくとした面持ちで料理を待ってる少年の前に並んだ。
箸立てに詰め込まれた割り箸をとって、さっそく少年が食べ始めると、店主は片付けもそこそこにまた新聞を広げた。
長いこと食事をとってなかったので、ガツガツと味付けされたご飯を頬張る。家ではできない本格的な料理に夢中になっていたので、隣に新たな客が座ったのに気づかなかった。
店主も反応が遅れ、はじめに謝ってから注文を聞いて、包丁を動かした。口いっぱいにご飯を頬張った彼は、もぐもぐしながら横目で客を眺めた。若い男で、燃えるようなもっさりした赤髪をしていて、左側に座っている彼からは客人の左目が見えなかった。
男性は左目に黒い眼帯をしていたのだ。
唐突に、男性がこちらを向いた。
慌てて目線を料理に戻して、箸を動かし麺をすするのに忙しいふりをする。男性が注文した料理が出されると、彼も割り箸をとって口に運ぶ。


「うまっ!おじさん、なんでこんな小道で商売してんのー?大通りでもやってける味だよ、コレ。」
「忙しいのは嫌いなんだよ。」
「玄人達人の類いは人里を離れたがるってのはホントのようだ。こんなガキンチョまで夢中にさせて。」

 

急に話を振られた気もするが、彼は他者と関わるのが苦手で人見知りなので、気づいてない振りをしながら炒飯をかき込む。

 


「で、ガキンチョ。おまえが飼ってるソレ、なに?」


顔を左に向けると、箸を握ったまま男性がこちらを向いて笑っていた。
眼帯をしていない右目は抜け目ない笑みを宿しており、わずかに赤味がかっている。胸の内側にいるくろがねがざわついた感じがしたが、思ったより警戒をしていない。それは、この人が人間じゃないからだろうか。
彼はすぐ目をそらし、何も言わず残りの炒飯を口に入れ、そばの汁も飲み干した。台にお代を置いて、立ち上がる。


「ごちそうさま。」
「おう、また来いよー。」


くろがねの存在を感知できる者は多少いる。人間でも強い力があれば分かるらしい。
皆、くろがねに害はないと皆理解すると離れてくれるし、混血や零鬼は面倒ごとを嫌うので踏み込んでくる者はいない。とくに愛想もない貧弱な子は。
屋台から小走りで離れる。せっかく四つ角に来たのだから、アゼミに押しつけられた仕事をする前に食材の買い出しをするのもいいかもしれない。ここは無色より安価でたくさんの食材が売っている。金さえ出せば子供でも――


「無視はよくないぜ、ガキンチョ。」

 


ハッとして勢いよく振り返る。
真後ろに、先ほどの赤髪男性が楊枝を加えながら立っていた。
気配はなかった。くろがねのおかげで他者の気配や呼吸はだいぶ敏感なのに、だ。
男性が、ぐいっと顔を近づけてきたので反射的に一歩下がる。皮膚や筋肉の内側までのぞき込まれている気がして居心地が悪くなる。男性の瞳孔が動物のように細まったのを間近で見た。

 

「零鬼でもなければ、オレの同族ってわけでもねぇな。ニオイもない。何モンだ?」

 

お前こそ何者だ、とくろがねが問うも、彼の声は赤髪男性には届かないようだ。
声が聞こえる人物の方が少ないので当然なのだが、自らを竜と名乗る人物なら聞こえるのではないかと一抹の期待を抱いてしまった自分に苛立つ。彼は口を一文字に閉じたまま、外套を翻し小道を歩き出した。

「待て待て待て!このオレ様を無視していこうなんて、生意気なガキンチョだな!」

突然、足の裏が地面から離れて、宙に浮く。
首根っこを掴まれ持ち上げられる。赤髪男性は細身細腕なのに、子供一人持ち上げてみせた腕力に驚いた。


「は、離して・・・!」
「教えろって。お前が飼ってるその生き物なに?」
「くろがねはペットじゃない!」

 

バタバタ暴れて見ても手を離してはくれず、仕方なく外套をモヤ化させ手からするりと逃げ出すと小走りにその場を去る。
が、当然のように男もついてきた。


「なにその能力ー!ますます気になるジャン!中にいる奴の名前くろがねって言うの?種族は?」
「つ、ついて来ないで・・・!」

「いいじゃん、教えてよ~。」
『こやつから敵意は感じない。別にわたしのことを話しても構わんだろう。』
「ダメに決まってるでしょ。」
「?何がダメなんだ。」

 


くろがねの声が他人には聞こえないのを忘れてつい声に出して話してしまった。
本音を言えば、関わりたくなかった。他人といるのは苦痛だった。しかもこの大人はなぜか興味津々、好奇心の目で彼を見ている。
こんな反応初めてだった。両手を広げて歓迎されたことなどないし、接し方もわからない。
と、彼が突然足を止めた。
後ろをついてきていた男も足を止め、後ろからのぞき込む。
四つ角の外れ、道の真ん中で人間の男が、四つん這いになって頭をもたげていた。食いしばった歯の間から苦しそうな唸り声を漏らしながら、震えている。脂汗が鼻先を伝って地面に落ちる。
男は少年の隣に立って、横顔を盗み見る。
少年に表情らしいものはなく、冷ややかという程侮蔑は見られないが、色の違う大きな瞳でしっかりと目の前の現実を受け止めている。まるでこれから起きることを見届けることが義務であるとでも言いたげに。
横を通り過ぎてしまえば済む話であるのに、しっかりと両の目で刮目している。
四つん這い男の肌が、人間ではありえない黒さに濁っていく。地下世界に掬う闇を吸って染みこんでいるかのように毒々しく、そして皮膚は干からびていく。唸り声が掠れ、人間の声帯では出せない音を出す。
苦しさから身悶えはじめ、転がりながら自分の喉を爪で引っ掻きだし、全身を駆け巡る苦痛に血管が浮かび上がり、激しい苦痛に眼球がむき出しになる。着ていた服が破け、全身真っ黒に焼けた炭のように変化する。
再び腹ばいになって顔を上げたとき、そこに居たのは一体の十杜だった。
もう苦しくなくなったのか、しばしぼんやりしていたようだが、目の前に半分だけ人間の子供を見つけ、折れ曲がった後ろ足で地面を蹴って飛びかかる。
彼がモヤを飛ばすより早く、十杜は橙に近い炎に全身焼かれ、絶叫を上げながら絶命した。
消し炭にされたせいで遺体すら残っていなかった。
右手の拳に烈火の炎をまとませた男を、少年が見上げた。
たった今、変化した人間を焼いた後とは思えぬ爽やかな笑みに、この人も心が外側にあるんだと彼は思った。

 


「混血でも<シンジュ>石を持ってるやつがいるらしいが、坊主の力もそれとは違うようだ。」
「はい、僕は石がないので、外れて十杜になることはありません。」


少年の雰囲気が変わったことに男は気づいていた。
先ほどまであんなにオドオドしてたのに、もう普通に会話をしている。
どこか大人びた話し方と堂々として静穏な声。

 


「お前、名前は?」
「初対面の人に名乗りたくはないです。」

 


少年の体の輪郭がぼやけだした。
おぼろげに揺らぎだして、モヤになってその場からいなくなった。
最後に色の違う眼の残光が鋭く男を睨みつけていたように思う。

 

 

 

「人間の紫黒一族、戸ヶ鎚(とがつち)で封印していた悪鬼が逃亡。極力捕獲、最悪退治も許可、だって。昔地上で大暴れして術士に封印されてたみたい。」

 


アゼミから引き受けた依頼書を歩きながら確認する。くろがねにもわかるようにわざと声に出す。


「依頼主は極力捕獲を希望している。・・・悪鬼を捕まえてどうしたいんだろ?」
『元は零鬼だ。人間にとって実態を持たぬ力ある存在に神秘性を見いだし、崇める奴もいると聞く。長いこと封印した姿を身近に置いていたなら、いつしか悪鬼をご神体だと勘違いしたのであろう。』

 


ふーん、とよくわかってないと生返事を漏らした彼は紙をズボンのポケットにしまう。

 


『して、どこに向かっている。』
「探してるんだ。大昔の話なら、あの人なら知ってるだろうと思って。あ、見えてきたよ。やっぱりこの時期はここにいると思った。」

 

此処は地下二十四階層の西側。人間の住処だと梔子が近くにあるコンクリートで固められた場所。
やや低めに作られた楕円の天井に柔らかなオレンジの明かりが映って、まるで大きな建物の中にいるように感じる。
そこには、老若男女様々な人がいて、薄汚れたテントも同じだけ建っている。遊び回る子供、たき火を囲み料理をする女性たち、地面に基盤を描いて勝負する老人達。
決まった家を持たず地下世界を移動して暮らす民族、六本鳶松の現在の拠点である。
人見知りの彼だが、慣れた様子で怯えることなく人間の間を通って、一番奥のテントを目指した。あの人は必ず、一番奥に根城を作る。明かりの届かぬ闇から敵が襲ってくるのを防ぐために。

 

「こんにちは、久我さん。」
「また背が伸びたな、若葉。」


気配で来訪には気づいていたのだろう。手にしていたナイフで木材を削っていた大男が顔を上げた。
松葉色の外套を羽織り、黒いハーフ丈ブーツ。気難しそうな顔をしているが、少年を見る双眸は思慮深く、優しげである。額から右目にかけて走る傷は、最近できたものではないと分かる。布を張っただけのパイプ椅子を差し出してもらい、そこに腰掛ける。
彼は、昔地下世界で迷子になった際、この大男―六本鳶松の族長久我に助けてもらったことがある。
家の方向が分からなくなり、無色の拠点に戻るまで世話をしてもらいながら、いろいろなことを教わった。
体術、技術、精神的な在り方まで。きっと彼の中にいる同居人が普通でないと気づいていたからだろう。

普通ではない少年が強く生きていける術を説いた。彼にとって、六本鳶松は第二の家であり、久我は師ともいえる。
六本鳶松に移らなかったのは、母が残してくれた家があったからだ。
少しだけ近況報告と雑談を交わしてから、ポケットにしまった依頼書を差し出した。

「久我さんなら何か知ってると思ってきました。」
「若葉には荷が重い相手だと思うが。」
『私もそう思う。』

 


久我に声は届かないと知っていながら、まるで深く頷いてみせたように呟く友の声は無視をする。
六本鳶松の実態は水縹のレイコ女史でも掴みきれないと言うぐらい、歴史が古く、地上の話も神話や逸話の類いや深梛の子供たちは習わないであろう歴史や伝承も数え切れないほど所有している。
数多の歴史学者たちが六本鳶松から情報を得ようと群がったが、その度煙のように姿を消してしまうらしい。

「陰歴八百年を過ぎた頃だったか。当時の王が住んでいた都にその悪鬼は現れた。
まず城下町―一般人が住む場所のことだ―を襲い、人々の命を吸い取った。命どころか、その悪鬼が通った場所には死骸も残らず、草の上を這えば草が枯れ、触れた建物は食われたみたいに無くなっていたとある。
悪鬼はまっすぐ大路を進み、帝の住処である大内裏まで侵入した。護衛達では当然歯が立たなかったのだ。
刀も<シンジュ>石も効かず、悪鬼が伸ばす触手に捕まれば同じように命が吸われる。だが、王家に仕えていた僧侶が退けたと聞く。
何年か前に会わせたことがあっただろう、橘家。」

 


ああ、あの訛りが強い祖父と孫か。と思い出すも、他人に興味のない若葉は顔すら忘れてしまっていた。
神に仕えることで<シンジュ>石とは違う力を屈指していた僧侶という人たちは昔は地上にたくさんいたらしいが、今地下世界に残っているのはわずかで、橘家も一度会ったあの孫しか残ってないと聞いた。


「俺が知る記述では橘家の僧侶が退けただけで、封じたなんて話は知らないな。なぜ紫黒の戸ヶ鎚が所有し管理していたかも不明だな。」
「零鬼って封印可能なのですか?実体化できる個体は居ますが、実際は魂だけの存在ですよ。」
「術士の強さによるだろうが可能だ。悪さをして石に封じられた狐型の零鬼もいた。戸ヶ鎚に言って話を聞いた方が早いと思うが。」
「紫黒は部外者に厳しいと聞いてます。しかも僕みたいな混血の子供に話をしてくれるとは・・・。」
「なら橘家を訪ねてみろ。レイコなら引き合わせが・・・いや無理か。今は夜宵(やよい)の月だ。彼岸会で勤めの真っ最中だろう。」
「ひがん?」
「川の向こう側という例えらしいが、彼岸の数日だけ、死んだ者が行くという常世の扉が開くとか。習俗と交わって先祖を供養する行事になった。古い一族では僧侶を呼んで祝詞をもらう。」


変なの、と少年は久我が削って立たせた木材の人形を見た。
子供達が遊ぶための偶像は、笑っている。


「死んだ人に祈っても何にもならないのに。」
「そうだな。その通りだ。だが、大切な存在を、生きてる限り忘れることが出来ないのも事実。」


大切な存在と聞いて写真立てに入った母の写真を思い出した。けど、すぐに瑛人の顔が思い浮かんだ。
物心ついてから彼が関係を持っている存在など、くろがねと瑛人を含め数人だけだ。彼らとの別れは、まだ経験したことがないのでやはりよくわからない。
次の人形を作り始めていた久我が顔を上げた。


「お前の知り合いか?」


え、と声を漏らし振り向くより早く、両の肩に大人の手が乗った。

 


「そうです~。ガキンチョの知り合い。だからその強い警戒解いてくれませんかねー。」

 


彼の近くに顔を寄せてニコニコと貼り付けたような笑みを浮かべている赤髪眼帯男が、うっすら目を開いた。
間近で見る瞳孔は猫のように細く、蛇のように鋭い。


「すまんな。此処は俺が管理している野営地だ。余所者は歓迎してはいない。」
「侵入に気づいていながらも、アンタは攻撃をしかけて来なかったじゃないか。」
「若葉のにおいが若干ついていたからな。」
「なるほど。見たところ普通の人間なのに、猛獣みたいだ。」
「・・・っ離してよ!」

 


他者に触れられている現状が耐えきれなくなって、肩口のみモヤ化して男から逃げた彼は立ち上がって構える。
ここまで追ってきたことに素直に驚きながら、敵意をむき出しにして睨みつける。
男は先ほどより自然な、にやついた笑みを作って腰に手を当てた。

 


「その逃げ出した零鬼って奴、知ってるぜ~。でかい黒猫だ。いや、あれは黒豹か。」
「ずいぶん耳がいいんだな。」
「まあね。」


ナイフを再び動かしだした久我に、若葉は驚いた。
明らかな不審者がやってきたというのに、警戒心が一際強いはずの六本鳶松族長が反応していない。


『わたしの存在に興味を持って追ってきただけであろう。久我が受け入れたなら敵ではないということだ。諦めて話を聞いてみろ。』
「嫌だよ。」
『その人見知りを直すいい機会ではないか。』
「直す必要なんてない!」
「ハッハ。また一人で話し出したー。おもしろ~。」

 


人見知りの彼に変わって手を動かしながら久我がまず座って自己紹介するよう進める。

 

「オレは原始存在と呼ばれる神が作った生物。かつて人間はオレを竜と呼んだ。いろいろあって人間の姿に化けられるようになって地上に居たんだが、生き辛くなったんで少し前に地下に逃げてきた。名前はユタカ。よろしくな。」
「この子を追ってきた理由は?」
「ガキンチョの中にいるやつが気になっただけだ。」
「突き詰めてどうする。」
「どうもしない。知りたいだけだ。俺が知らないものがまだこの地下にはあるということを感じていたい。そのニオイは初めて感じた。ガキンチョの魂は凪いでいても、中身はチリチリする。」
「己の好奇心で動いてるだけのようだ。安心して、まずは座ってお前も名乗れ。」
「なぜですか・・・!」

 


無言で目線を向けられ、口を尖らせる。
不審者に追われて逃げてきて、なぜ自分が責められねばならぬのか。くろがねも久我さんも、なぜこの明らかな不審者を受け入れているのか。本の中にしか存在しない竜だと名乗るいかにも怪しい男を、野営地に招いてる時点でおかしいと思うのは自分だけか。


「・・・・・・名前は、若葉。僕の中にはくろがねって名前のモヤが住んでるけど、僕にも彼が何者かはわからない。」
「知らないのに体貸してるの?なんで?」
「生まれる前、お母さんが胎児の僕にくろがねを住まわせたんだ。そのときくろがねはとっても弱っていて、実態ある者を宿り木にしないと消えそうになってた。人間も零鬼と契約して実体化したりするでしょ?」

久我さんが隣にいてくれるおかげと、周りの対応に苛ついていたので、言葉は案外すらすら出てきた。ユタカと名乗る自称竜の男は、足の上に足を乗せ、頬杖をついて彼を見つめてくる。まるで、皮膚の奥にある脈や骨まで見通そうとでもしてるかのようで、久我の後ろに隠れたくなった。もう小さな子供ではないので我慢するが。

 


「別に、オレはお前のお友達を倒そうとか食らおうとか思っちゃないよ。黒豹を見かけたのは本当だ。あいつが石の像に閉じ込められてたのに逃げたのも、暇でぶらぶらしてたときにたまたま見掛けた。探してるんだろ?一緒に探してやるよ。」
「何で・・・。」
「本当に興味本位だ。オレは毎日退屈だったんで、お前を見たとき、いい退屈しのぎに出会えたと思ったんだよね。これも縁だ。そうだろ?」


チラリと久我を見るも、無骨な手で器用に動物型の人形作りに集中している。
ポケットの中に入った依頼書と、アゼミさんの顔が浮かぶ。あまり長引かせていい案件ではない。押しつけられたとはいえ、報酬はほしい。

 


「よろしく、お願いします・・・。」
「おう、任せろ。敬語はいらないからなー。」

 


頬杖をつきながら、ニカッと笑ってみせた男に、彼はどう返していいかさっぱりわからなかった。
久我に礼を言って、重い足取りで六本鳶松の野営地を出る。
ユタカという男性曰く、数ヶ月前に暇つぶしにふらっと散歩していたところ、人間が偶像に入った零鬼を崇めて祈っている場に出くわした。地下世界の構造を男性は理解してなかったが、特徴を聞いたところ紫黒の戸ヶ鎚で間違いないだろう。なぜ紫黒内部をふらふら散歩出来たのかは、この際聞かないでおいた。偶像内に居た零鬼と同じ気配を持つ黒豹を見たのは、昨日の夜。場所は十七階層。早速彼の転移術で男性ごと移動する。


「移動もできんのー?すごいなお前。」
「・・・黒豹見たの、どのあたり?」
「この近くにボロい集あるだろ。あの辺。」
「ボロい・・・?この辺りだと、梔子の石蕗かな。」
「もしオレが会った黒豹が悪鬼に墜ちたなら、人間の魂喰いに行くかもな。長いこと封印されて腹ペコだろう。」


それはまずい、と慌てて石蕗という集に向かう。
ボロい、とユタカは形容したが、ボロいのは木造家屋ぐらいで腐敗臭はなく、清潔感があり、人々は皆穏やかな顔をしていた。
走り回る子供達も、部外者がやってきたというのに警戒心がなく、赤髪男性が珍しいのか寄ってきた子供達に炎を作ってみせてやると、キャッキャと楽しげな声を出して盛り上がった。年が近い子供が特に苦手な彼は、いつも背中に落としているフードを目深くかぶって小さな声で友に問う。

「くろがね、変な気配ある?」
『零鬼に似たものはなにも。』
「もうどこかにいっちゃったのかな。」

ユタカに視線を戻すと、数が増えた子供達に手を引かれながら、童歌を歌いゴム飛びをしている集団の方へ連れて行かれていた。
子供達は自分たちが一番熱中している遊びに巻き込みたいようだが、背の高い豊かにはゴムは低く飛び辛いようだ。

その間も童話は紡がれ続けていた。人間の集にはありがちな、ご当地の童歌というやつだろう。


「鳥が鳴くって、三回も出てくるなんて変な歌。松って木の名前だっけ?地上の単語が入ってるのも珍しい。」
『羨ましいなら混ざってくればよかろう。』
「ちっとも羨ましくないよ・・・。」

手がかりが無いならさっさとこの場から離れたいのに、なぜか無邪気に見ず知らずの子供とハシャいでるユタカ。
子供と遊んでやっているというより、彼も一緒に、心から楽しんで遊んでいる。

「竜って話、本当かな。」
『神代の時代はまだ不透明な事も多い。人間やお前が知らぬこともあるだろう。現にわたしは人間でも零鬼でもない存在ではないか。』
「そうだけど・・・。」

 


彼はふと、彼らが遊んでいる横にある墓地が気になって歩み寄ってみた。
手彫りだろうか、歪な石に刻まれてるのは、四つ上下に並んだ円。
石蕗の家紋だろうか。家紋を持っているということは、以外と歴史が古い集なのかもしれない。

 


「おい若葉!出た、黒豹だ!」

ハッと墓石から目を離しユタカが指さした方を仰ぐと、黒い塊が天井付近を飛び去るところだった。
人間の遙かにしのぐ同体視力を持ってる彼でも残像しか捉えられないスピードだ。
地面を思いっきり蹴り飛びながら体の輪郭を曖昧にして空気抵抗を減らす。
このまま全身モヤ化して残像を追おうとしたところ、急に腹部をガッと捕まれた。ユタカが空中で彼をキャッチして、不適に笑ったかと思えば、足の裏に炎をまとい、空中を蹴った。一蹴りでとんでもない加速をし黒豹の影に迫っていく。
感じたことのない空気の流れが、むき出しの頬や額を容赦なく攻撃してくる。空気は轟音で耳の横を通り過ぎ、呼吸ができないほどの圧に外套で口元で覆った。足下から燃え上がる炎が顔の近くでチラチラするが、彼の炎は熱くなかった。まるで自分が風になった気分だった。地上と違って、地下でこんなに早い風は流れないけれど。

加速を続けるユタカは、あっという間に黒豹に近づき、手を伸ばせば届く距離まで迫る。
抱えられたまま、彼がモヤを飛ばして捕まえようと手を出したと同時、急に黒豹が空中でくるりと向きを変えて二人を迎え撃つかのように身構えた。
急ブレーキは間に合わず、黒豹とぶつかる、その直前。
金色の双眸が発光し、目映い明かりに包まれ、気づいた時には別の場所に立っていた。
体を抱えていたユタカはおらず、自分の足で立っている。
薄暗い場所だったが、完全な闇ではない。頭上には針で刺したような小さな黄色い明かりが沢山灯っていて、どれも強い明かりでは無く、わずかに明暗を繰り返している。
ああ、これが星空か。自分の目で見るのは初めてだというのに、彼はそれを知っていたた。懐かしさと長い間感じることができなかった外の空気にため息が出る。
足下には水が一面張っており、頭上の明かりを反射してまるで鏡だった。
此処は幻術の中だと気づいた時、自分の内側にとんでもない違和感を感じた。
くろがねがいないのだ。
生まれてからずっとそこにあった感覚が、ごっそり削り取られ、空っぽの穴だけがくっきり残っている。
心どころか、体の一部が欠けたような虚無感に今度は息苦しさを感じて呼吸が乱れた。不安が足下から脳天を駆け巡る。
僕は――


「悪鬼を見つけよと申しつけたはずですが、おかしいですね。」

 


足下の水面に波紋が走り、投影していた星空が揺らぐ。
彼の前に立っていたのは、赤い袴と白装束を着た老婆だった。
とても小柄で、長い白髪を背中に流し、両目を閉じたまま背中の後ろで手を組んでいる。

 


「アゼミの気まぐれも困ったものです。こんな童に押しつけるとは。」

知らない人間と対面してしまった恐怖とわずかな混乱を感じながら、この人が悪鬼探しの依頼人なのだろうかと推測する。
無花果を仲介した依頼書であったが、アゼミさんとも知り合いで、彼女を指名したということか。紫黒の人なのだろうか。
しばし老婆と見つめ合う。
といっても彼女は目を開かない。
頭上で瞬く星々が動いた。位置を変え、輝きや色も変わる。


「おもしろい星の位置をしていますね、あなた。」
「あの・・・。」
「これはあなたの星並び。これから辿る道と、辿ってきた巡り合わせ。なるほど・・・。」


一人納得した老婆が、そこでゆっくりと両目を開いた。
目尻に皺を携えた眼は白く濁っていた。視力は伴っていないのであろう。彼を見ているようで、見ていないような。

だが目が離せなくなってしまった。不思議な煌めきが濁った双眸の奥に感じる。


「あなたの星はもうじき消える。闇がすべて飲み込むでしょう。
お気をつけなさい。あなたが守るものは、―――」

 


轟音が遠くで響き、足裏の水面が細かく揺らぐ。
地面を叩かれたというより、星が張り付いた頭上の空を叩かれたという感覚があった。
老婆は再びまぶたを閉じ、わずかに首を振った。


「野蛮な方ですね。結界内を直接叩くなど。」

 


呆れたように呟く老婆の声の遠くで、何かが反響している。
それもまた声だ。
振動は続き、星が次々消えていく。
反響する声が輪郭を帯び、自分を呼ぶ誰かの声だと察する。
くろがねかと思ったが、空に走った橙色の線から、炎が漏れた。

 


「どうやら、悪鬼などいなかったようです。依頼は取り下げます。あとは頼みましたよ。」

 


空の破片が降って水面に落ち、水がはねる。
崩壊する世界で老婆の姿が遠くなり、耳元で声がはじけた。


「起きろ若葉!」


ハッと目を開けた時、息が掛かりそうなほどの距離で眼帯をした赤髪の男が、切迫した表情で彼を覗き込んでいた。
小さな彼はユタカに抱えられたまま横たわっており、彼が目を開けたことで安堵の息を漏らし微笑んだ。
わずかに顔をずらすと、黒豹が大人しくお座りをして尻尾を揺らしていた。

 


「君が見せたの?さっきの幻術。」
「わしは橋渡しをしただけだ。」

 


まるで老人のようなしゃべり方をする黒豹だった。声も低く、野太くて厳格すら感じる響きを持っていた。
ユタカの腕の中から起き上がり、ゆっくりと立ち上がると、すっぽり空いた穴の中に、ちゃんとくろがねがいた。
幻術にとらわれた間完全に引き離されたのだろう。初めてのことにくろがねも動揺しているようだった。


「勝手に事を頼んでおいて後は頼むと去って行くとは、勝手な巫女よ。」
「君は悪鬼じゃないね。」
「墜ちた零鬼なんぞと一緒にするでない。失敬だぞ。わしはそこの古竜と同じ始まりの種。
神が世を去り退屈になったので、石に変化して長い眠りについていたところ、どこぞでわしを見つけた人間が勝手に拝んで奉っていただけ。
わしの宿り木として適切な魂の波動を感じたので目覚めてみれば、人間の巫女がわしに使いを頼みよった。横暴な奴よ。力は本物のようだがな。もう要件は住んだようだ。わしは魂を探す。」

 


腰を上げた黒豹が四本の足で器用に向きを変えたので、慌てて背中に問いかける。

 


「待って!じゃあ、大昔地上で暴れた悪鬼はいないってこと?あのおばあさん、その悪鬼を探してたんでしょ?」
「巫女が切り上げたということは、別の未来でも見たのだろう。災難だったと忘れることだ。」

 


黒豹は軽やかに欠けだし明かりもない闇の中に溶けていき、気配すら綺麗に無くなった。

辻褄が合わなすぎて思考が追いつかない。
アゼミさんになんて説明しようかとポケットにしまった依頼書を広げてみると、サインのところに完了印が押されていた。
星紋と呼ばれる家紋であった。


彼は自宅のベッドで目を覚ました。
いつものように起き上がって、寝過ぎだと小言を振らせてくるくろがねの声を聞き、隣のリビングに入る。
リビングでお湯を沸かす男は、鼻歌を歌いながらトースターでパンを焼いている。


「おっはー、若葉、お前もパン食う?上に卵乗せて焼くと美味いって最近発明したんだ。」
「僕はパンだけでいいや。ねえお兄ちゃん。」
「ん?」
「僕の目、何色?」

ユタカがお湯が沸いたと知らせてくる電気ケトルを握りながら、首を傾げた。

「まだ寝ぼけてんのか?右が赤で、左が緑。今日も可愛いオッドアイだよ。顔洗ってこい。」
「うん。」


そうか、よかったと洗面所に行って鏡をのぞき込む。
そこにいるのは紛れもない、寝癖がついた頼りない自分なのだが、色がついてなかった。
目を開けた時から、全部モノクロになっていた。
本当に寝ぼけているのかと冷たい水で何度も顔を洗ったが、鏡に映った自分は白と黒でしかない。

洗面台も、持っているタオルも、二つならんだ歯ブラシも、白と黒だけで描写され、明暗とコントラストで彩られた灰色世界。
鏡を見てぼんやり呆けてる彼にくろがねはまたぶつぶつと小言をたれるが、くろがねの世界はいつもと同じらしい。
そもそも、くろがねは視力や彼の目を通して世界を見ていないのを忘れていた。
正直言うと、安堵していた。
彼はそこですべてを察した。先日幻術世界であった老婆の姿が頭をよぎる。

本当は初めから知っていた。知っていて、気づかぬ振りをしていた。

時が来たというだけのこと。

次によぎったのは友の顔。一緒に話したあの水路も、思い出の色も灰色に侵食されていく。
リビングに戻り着席すると、皿に乗ったパンを出され、お茶とジャムも並べられる。
ユタカはもう料理を覚えたようで、自分のパンには卵を乗せていた。人間ではないが、食事は取る上にグルメだった。

いただきますと言ってから、パンを口に含む。

歯と口内に触る感触はあれど、味は一切しなかった。
味を感じないものを口に含むと、こんなに不快なものらしい。

感触だけが際立って、異物を食べているような気分だ。

それでも飲み込まなければいけない。この体は半分人間なのだ。栄養は必要。


「ユタカお兄ちゃん。」
「なんだ。」
「くろがねをよろしくね。」
「まだ寝ぼけてんの?変な夢でもみたろ。」
「夢・・・。そうだね、これは夢だったんだ。」


そう言ったきりパンを一生懸命頬張る彼に首をかしげて、ユタカはカップで入れたお茶をすすった。

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