神宿りの木 吉良編 5
もう時間はない。
サカキの奪取に失敗した事を頭の中の連中が知って大騒ぎしている。自我が残っているうちに全て終わらせなければならない。
ポケットに入れていた携帯を取り出した。
「葛ノ葉。」
『吉良様!ご無事ですか?』
「一族全てを赤畿の里に集めろ。集会所にいるやつらもだ。門を閉じ、境界を死守しろ。誰も外に出すな。俺も戻る。」
『はい。』
頭の中がうるさかった。
俺は―僕は今全てを無視して動こうとしている。
操り人形であることをやめようと思っている。
腹に出来た傷を一切気にする事無く人間が作った道を最短で駆け抜け、赤畿の里付近にある自宅にたどり着いた。
自室のドアを乱暴に開けると、尊と美季がソファに座って談笑していた。
主が半身血まみれであることに驚いて手当を申し出た美季を押しのけ、血で汚れてない手で尊の細い手首を握ると、彼を連れ部屋を出た。
美季は主の突然の行動にも、異議や疑問を投げかけることはしなかった。
里には向かわず、尊の腕を引きながら反対方向をひたすら歩く。
尊は、何も言わずについてきた。抵抗もせず、傷の心配をする言葉もかけず。
塗装されていない土を掘り出しただけの、不格好な洞窟に入る。
光源は設置されていないのに、中は人間の目でも明るく感じるだろう。此処はそういう場所だ。
細い通路はすぐ終わり、入り口とは反対側の壁に木造の両開き扉が現れた。背丈3mは超える重厚な扉だ。
木の模様がそのまま生かされ、飾りも彫刻もないただの扉。
扉の前には3段だけの横に広い階段が付けられており、扉のすぐ前まで来ると、
後ろにいた尊の手を引き寄せ扉に背を向けるように立たせると、胸に手を当てる。
「そうか、此処なんだね、神門。」
吉良は尊と目を合わせようとはせず、下を向いたまま、尊の胸を押した。
すると、木造の扉が波打ち、固いはずの面がぐにゃりと歪み少年の体を吸い込んでいく。
扉が波打つ度に扉に金色の光が宿り、扉全体が枠も含め光り出す。
洞窟内が目映い金色のオーラに包まれ細かな粒子が幻想的な空間に作り替えているが、顔を上げぬ吉良は足下に漏れる明かりしか見ていなかった。
黙って、少年の体を埋めていく。
その吉良の手に、少年が両手を添えた。
小さな手の温もりに、吉良の肩が僅かに跳ねた。
怯えた様子も無く、しっかりと意思を重なった温もりから感じ取る。
尊の体はもう半分以上扉に埋まっている。
「最後に、人間として過ごせて、楽しかったです。」
吉良がゆっくりと顔を上げると、少年の目は金色に光っていた。
いつもの無表情のまま、大きな瞳を向けてくる。
泣いていたのは、吉良の方であった。
扉から噴き出す金色の光とともに、微風が吹き出し吉良の髪を揺らしたが、涙で濡れた頬に毛先が張り付いてみすぼらしい。
いつも飄々としている男の、子供のような姿。
吉良の手を掴む手に力を入れながら、少年は僅かに微笑んだ。
嗚咽を漏らさぬように、口をぎゅっと結んでいたのだが、唇を震わせながら僅かに口を開いた。
「謝らないよ。」
「はい。これがお役目ですから。連れてきてくれて、名前をくれて、ありがとうございました。後は任せてよ、斗紀弥さん。」
まるで吉良をあやすかのように、笑みを濃くした尊の体は全て扉の向こうに埋まった。
最後に残った顔も扉が生み出す水面に飲まれ、扉が本来の木造に戻っていく。
ゆっくりと扉から手を離し、固まってしまった腕を震わせながら下ろす。
尊のお役目を最後まで見守ることなく、吉良は踵を返して扉に背を向け、逃げるかのように早足で洞窟から離れた。
数十分後
赤畿の里に入った吉良は、混乱する民の声を全て無視しながら、里の端にある焼却炉の縁に立つ。
柵を外させ、際から燃えさかる炎を見下ろす。
巨大な円形の鍋の縁に立っている気分だ。一歩踏み出せば、炎の海にダイブ出来る。
本日も炎はよく燃えていた。憎たらしい程に、その身をくねらせ餌を待っている。
葛ノ葉が彼に気づいて近づいてきた。
「お借りした権利で鬼妖を暴れさせましたが、綴守にあまり深い傷は与えられませんでした。全て私の力不足。申し訳ございません。」
「謝ることはないよ。君はよくやった。狂うこともなく人の形を保っているのも素晴らしい。実に惜しいね。」
「吉良様?」
感情が全くない吉良の声に違和感を感じ、葛ノ葉が不安で胸の前で手を握った。
顔を覗き込もうかと一歩踏み出したところで、吉良は腰の刀を抜いた。
何をするのかと不思議がっていたところ、突然吉良が焼却炉の中に飛び込んだ。
思い切った行動に驚いて葛ノ葉が叫び声を上げて縁から覗き込む。
焼却炉内部には内部を沿うようにらせん階段が取り付けてある。
炎が常に存在しているため、手すりはほとんど溶けてしまっている。
階段の踊り場に立っている吉良は、壁を刀で斬りつけていた。
ある程度コンクリートに傷がつくと、次は突き立てて崩していく。
人間では不可能な怪力で大きめな欠片が次々落ち、耐久力が下がった階段を巻き込み壊していく。
その行為を4カ所繰り返していくと、火がどんどん小さくなっていった。
この焼却炉は底から漏れるガスが噴き出しているため、24時間炎が燃え続けるのだが
瓦礫が底まで落ち積み重なったことで、ガスの噴出口が塞がれたのかもしれない。
最後に吉良は手すり横にある扉を蹴り開けた。酸素が吹き込み弱くなった炎がそちらに流れていく。
しばらくその扉の先を見ていた吉良だが、壁を蹴って上に戻ってきた。
いくら赤畿の民でも、肉を焼かれれば損傷するし、酸素がない場所では呼吸が難しくなる。
異常はないかと主の様子をうかがったが、不思議な事に、服も髪も全く燃えていなかった。
だが、何故か主人の半身が血で塗れているのに気づいた。たった今怪我をした血の広がり方ではないし、端の方は乾いている。
頭の良い葛ノ葉は、その汚れが今できた物では無いと理解した。
いつも着ている白いシャツが赤くなっているのに、炎の影のせいで全く気づけなかった。
そんなことがあるだろうか。こんなに、血で汚れているのに。目に入っていたはずだ。
混乱より先に、主の体を心配する。
「吉良様!お怪我を!?」
「傷はとっくに塞がってるよ。葛ノ葉、下にあったあの扉は鍵が掛かってなかった。どこへ繋がっているか知ってるかい?」
「いえ、私は何も・・・。」
「そうか。」
吉良は顔を背けたまま、突然彼女に刀を振った。
袈裟斬りにされ、葛ノ葉の体から血が噴き出した。
「お前は細いし力もないから、最期は人型のまま死なせる。すまないね。」
「吉良、様・・・?」
葛ノ葉は、床に後ろ向きで倒れながら、鬼妖の雄叫びが無数上がる声と
チリチリと火が燃える音が聞こえてきたが、意識はそこで途切れた。
赤畿の民は知性が低い。
焼却炉が最後のあがきと噴き出した時に飛び散った燃えカスが、近くにあった民家の屋根に飛んだようで。
屋根に燃え移った火を消す事が出来ず、飲み水が減るからという身勝手な判断が優先して消火活動が行えない。
どんどんと建物が火に包まれ、次々に火が民家に移る。
さらに吉良は頭の中で赤畿の民全てに、鬼妖に変化するよう命令を下す。
次々人型の民が身丈倍の赤肌の化け物になる。あちらこちらで雄叫びが響く。
鬼妖になれない者は逃げ惑うが、あらかじめ葛ノ葉に外周の柵を這わせておいた。
これは登るのが不可能の柵であり、鉄なので壊す事も出来ない。これを解除できる脳を、民はもっていないため
炎から逃げた彼らが鉄を叩く音がバラバラに響く。
雄叫び、狂乱、悲鳴の三重奏が高まるのを聞きながら、倒れた葛ノ葉の死体に一瞥をくれてから、横を通り過ぎた。
長である吉良に助けを求めすがりついてくる民を切りつけ、腹や胸を刺す。
逃げ惑う女子供に刃を立て、蹴って骨を折る。
暴れる個体は燃える炎の中に放り込み、時に鬼妖に襲わせ体を引きちぎらせる。
血の匂いが炎の焼けた匂いに勝ってくる。
民の死体が道の中に重なっていく。
刀が血で染まって汚れていくが、気にせず歩き続けると、立ち塞がる人物がいた。
白く長いひげを生やした着物姿の老人が、鬼妖すら射殺す程の眼孔で睨みつけている。
吉良は老人の前で足を止めた。
「全て受け継いだのでは無かったのか、斗紀弥。」
「ええ、狙い通りに。」
「ならばなぜこのような愚かな真似をしておるのだ。シン様を目覚めさせ、我ら赤畿はその配下として
働く予定であったではないか。お前は最後のお役目が与えられたはずだ。」
「そう。神使を鬼妖にして作り直したシンが、自ら開けられぬ扉を開かせるコマを作ったがいいが、それを理解する脳みそまでは作れなかった。
だから何度も何度も遺伝子を継ぎ全て理解出来、なおかつ3つのアイテムが揃えられる脳が育つのを待った。
何故父じゃダメだったのか今なら分かる。あれには感情が理解出来なかった。感じることは出来ていたみたいだけどね。」
「そこまで理解してなぜ支配から抗える。我ら赤畿は、シン様を目覚めさせるために生まれたのだぞ?
貴様、しかと神門を開けたのだろうな。」
「鍵は入れてきたけどね。鍵を開けるかさらに閉じるかは、彼次第かな。」
「何!?」
「最後に教えておくと、僕らを作ったのは人間を愛した神だ。シンはいいとこ取りをしただけで、僕たちが作られた本当の目的は、
眠っている本物のマガツカミを助けること。」
「戯れ言にしては面白くないぞ!!四鬼の倅が!!!」
先代長は懐から刀を出した。脇差なので刃長は無いが、彼の素早さと刀裁きをよく知っているので、刀を構える。
さすが長であっただけあり、鬼妖化への命令は影響せずこの混乱の中でも自我を保っていられる。
老人とは思えぬ圧倒的なスピードで目の前に現れ刀を突き刺してきたが
吉良も一歩踏み出しながら刀を振り上げた。
意外なことに、勝負は一瞬だった。
腹を切られ先代長は膝から落ちた。
「あなたにはお世話になりました。嫌いでは無かったですよ。」
「歴代長の呪いを・・・どうやって退けたのだ・・・。」
「人間がいうところのあの世で会えましたら、お教えしますよ。」
背中に気配を感じて振り返ると、美季が手を広げて立っており、1テンポ遅れて口から鮮血を吐いた。
こちらに倒れてくる美季を抱きとめると、背中に先代長の脇差が刺さっているのに気づいた。
当の本人は、手を広げたまま事切れていた。
最後の最期で気配も殺気も殺して降り投げてきたのであろう。
美季が間に入ってくれてなければ、一撃食らっていただろう。
「美季。」
「斗紀弥様、尊様は。」
「無事送り届けたよ。」
「ようございました。尊様と一緒に過ごすようになり、斗紀弥様の楽しそうなお顔を見るのが、美季の幸せでございました。」
「そう見えてたのかい?」
「ええ。人型になれず、出来底ないの私を拾って下さったこと、感謝しております。お役に立てたでしょうか。」
「ああ。ゆっくり休んでくれ。僕もすぐ行くよ。」
「はい、斗紀弥様。尊様も、一緒に、お菓子を・・・。」
微笑みのまま、美季は事切れ、目尻から涙が流れた。
背中の刀を抜いて、地面に寝かせてやった。
炎が迫っていた。美季の体もいずれ焼いてくれるだろう。
吉良は自分の目に指を入れ、コンタクトを取った。
その奥にあった瞳は血のように赤く光り、白みが強い金色の髪は、この騒動の間に全て黒に染まっていた。
赤い目に黒髪は赤畿の証であった。生まれてくる子供は全部同じ髪色と目をしている。
それが嫌で髪を染めカラーコンタクトを入れたが、もう不要であろう。
――世界が縦に震えた。
地震だ。
下から突き上げるような衝動で吉良も地面に手をついて耐える。
バキバキと建物が崩れる轟音とまだ生き残っている民の悲鳴が遠くに聞こえるが、地震が織りなす轟音に飲まれていく。
頭を揺さぶられながら、地震が原因ではに頭痛を感じた。
―アクセスされている。
脳みその中を覗かれている。
『足掻いたところで、柵に縛られるだけだ。』
清野という人間の集の長の言葉が急に遮った。
地震がゆっくりと収まって、やっと視界がまともになる。
大半が燃えて耐久力が落ちていたせいで、耐えていた木片はことごとく倒れ墜ちている。
民の気配がほとんどなくなったのを感じる。今の地震で崩壊に巻き込まれたのであろう。
かなり大きな揺れだった。
火だけは勢いが止まらず、まだ燃やしたりぬと木片や死体に触手を伸ばし飲み込んでいる。
―そうか、目覚めたか。
誰にいうでもなく、心の中で納得をした吉良は力なく、けれど義務的に立ち上がる。
マガツカミの本当の狙いは、シンにバレぬようシンを再び封じること。
だが奴も神の端くれであったということか。
結局シンが得意とする柵とやらがまた絡まった。
もしくは、渇求しているヒモロギの気配を身近に感じて目が覚めたのかもしれない。
足掻きは無駄では無かったと、マガツカミが優しく声を掛けてきてそっとどこかへ消えた。
手首が熱い。
先ほど触れられた箇所に残った温もりが、残像を残している。
最後に見た微笑みが、唯一の救いだった。
自分は何を成して、何を成したかったのか。
たどり着いた此処という今は、果たして求めていたものだったのか。
思考しても行動を振り返っても、答えが分からない。
―これが後悔と未練というやつだろうか。まるで人間みたいで嫌になる。
あちらこちらから上がっていた悲鳴が無くなり、静かになる。
聞こえてくるのは崩れる建物の乾いた音と、鬼妖の口から漏れるうめき声。
民が全て死んだことを確認してから、鬼妖にも炎に飛び込むよう指示を出す。
分厚い皮膚が燃えるには時間が掛かるが、炎の渦に立ち続ければやがて灰になるだろう。
肺が酸素を欲しがってきたところで、天井を仰いだ。
頭の中で響いていた声がシンであろうがマガツカミだろうが、自由でなかったことに変わりは無い。
自我を持っていながら、自由にならなかった生に、なんの意味があったのだろうか。
自由でありたいと願う本能すら、人間の欲を真似ただけの模造品であった証なのだろうか。
なんのため生まれたのかと、その無意味さと空虚を無常だと感じる心すら――。
「壊れてしまえばいいんだ、こんな世界。」
刀を持っている手から力が抜け、むなしく音を立てて落ちる。
やがて炎が迫ってくる。もう動いて生きている命は彼のみになった。
上を仰ぎながら、目から落ちた水が炎に負けず下へ垂れる。
頭がクラクラしてきて立っていられず、地面に膝をつく。
その彼を、後ろから誰かが抱きしめた。
茶色の落ち着いた髪、桑染色の外套を肩から提げている女性だった。
「遅くなってごめんなさい、斗鬼。お父さんが、あなたから私の記憶を持って行っちゃったの。気づかないように。」
「宝鬼・・・、僕、頑張ったよ・・・。宝鬼がいなくても、ちゃんと出来たよ。」
「ええ。頑張ったわね。」
「僕たちは・・・何のために生まれたんだよ・・・。一族全滅すら・・・仕組まれてるなんて・・・。」
「私たちはシンに囚われたマガツカミ様を助けるために神に作られ地上へ降りてきたけれど、シンに作り替えられてしまった。
運命も全て、シンに握られていた。
けど、あなたはちゃんとマガツカミ様の声を聞いたわ。支配から一族を助けただけじゃなく、神の声が届くように橋をかけた。
絶対無駄にはならない。斗紀弥が頑張ったから、運命がまた一つ動いたのよ。」
「けど、僕らは・・・僕たちは幸せになれない個体なんだね。感情や思考なんて、いらなかった・・・。」
「そうね・・・。でもただの木偶人形に、感情や想いがわからぬ化け物に、運命は見向きもしなかったでしょう。」
首に優しく回された腕に少しだけ力が入った。
吉良の目から流れる涙が彼女の腕に落ちる。
もっと早く気づいたら、焼却炉にあったあの扉に気づいたら、変わっていたものがあるのだろうか。
もう確かめる手段はない。
「助けて、お姉ちゃん。胸が痛いんだ。もっと生きて、やりたい事が沢山あったのに・・・。」
「ええ、斗鬼。これからはお姉ちゃんがずっと一緒にいるわ。大丈夫。大丈夫よ。」
ついに炎が吉良の膝を撫でた。
獲物を見つけた炎が嬉しそうに燃え上がり、
あっという間に二人を包みこんだ。
燃え先を踊らせながら、優しく抱きしめ二度と離れぬようにと囲い込んだ。
*
宝鬼の母が作ってくれた竹とんぼを手に持って、細い足で掛けていく
隣には最愛の姉がいる。
もう走っても胸は苦しくなかった。
彼を縛っていた鎖は消えて、体はとても軽かった。
無邪気な笑い声が二つ、どこまでも響いていく。
―ねえお姉ちゃん!僕もう、頭痛くないよ!
―そう、よかった。じゃあもっと遊ぼうか。
―うん!
* * *
外の明かりで格子の影が畳に落ちる。
庭のししおどしが甲高い音を立て、水音が部屋まで届く。
静寂がまとわりつき、冷えた空気が頭上から降ってくる。
畳の上で胡座をかき、瞑想していた男は、気配を感じて手にしていた錫杖を立てた。
遊環が不浄を払わんと清らかな音を奏でる。
「兄さん、神門が閉じた。」
「わかった。ご苦労さん、水土里。」
部屋には彼しかおらず、問いかけてきた幼い少女の声がそっと身を引いていく。
すれ違いに、庭の明かりが届かぬ暗がりから、人影が現れた。
靴のまま畳を踏む女人は、胸元が大きくはだけた衣をまとって、火を点した煙管を持ちながら
家主の前までくると、分厚い唇でニヤリと微笑んだ。
子供の頃から知っているが、身勝手さは嫌というほど知っている。
口では決して適わぬことも。
「畳に燃えカス落とさんでくださいよ。この地下で畳屋探すんも簡単じゃあらしまへん。」
「煙草くさくなるのはいいのかしら。」
「諦めました。」
「フフフ。狗呂沢(くろさわ)の葬儀は行うことにしたわ。彼が綴守侵入の手引きをしたことは伏せてね。」
「娘さんを人質に取られたとは言え、元老院に使える一族の裏切りは一大事ですよ。ただでさえ狗呂沢家は、地上にいた時代から天主に仕えた忠臣。」
「代わりに、赤外線システムを構築した猪之下を処罰することにした。賄賂を貰ってセンサーが反応しないようにしてたのを認めたわ。」
「同族の命を差し出してまで、何を得ようとしたのやら。世も末、とは、今使うと冗談でも比喩にもなりませんな。」
「赤畿の長は、狙い通り鍵を閉じるために御子を使ったわね。」
「報告では、御子は吉良斗紀弥に懐いていたとか。本当のお役目は伝えていたんとちがうでっしゃろか。」
「かもしれないわね。話の分かるいい子だっただけに、残念ね。」
笑みを引っ込めた女史は、唇に煙管の吸い口を押しつけ、深く煙を吸ってから、やがて吐き出した。
煙管の煙は本物なので、ふすまが黄色くなる前に立ち上がり障子を開けた。
天井のライトが庭の水面に反射して揺らめきの影が周りの岩の上で踊る。
此処はいつも静かだが、鼻をかすめる紫煙の匂いが現実がすぐ底にあることを思い起こさせる。
「承諾の元とはいえ、よかったのでっしゃろか。赤畿に全てを罪をかぶせてもうた。
神門の鍵を隠し続け、お役目から目を背けつづけた辰巳にも天罰を与える役目まで引き受けてくれた。さすがに殺すのはやりすぎどしたけどな。」
「息子夫婦と一緒に御子に虐待まがいのことをしてたんだもの。相応の天罰よ。
監視の報告じゃ、御子はずいぶん赤畿の坊やに懐いてたらしいわ。顔色もよくて、最後は笑顔でお役目にあたったとか。感謝しないと。」
「どすけど、やっぱし悪さはするもんじゃなおすなぁ。しっぺ返しは大きすぎました。」
室内に顔を戻すと、玲子は痛みをじっと耐えるような鈍い顔で視線を横に流した。
天地平定の時より、人間に寄り添い裏で人間を支え続けてきた偉大な零鬼も
この未来は読めなかったのであろう。
策をつくし守り続けていたものが、運命の悪戯によってひっくり返された。
「ヒモロギが結界を超えて、シンが目覚めたようね。
運命を変えようとした千木良が、尾身の育ての親を人質にとり、それ相応の対価を要求してきたそうよ。
あの尾身が泣きながら謝ってきたぐらいだから、与えた情報は大きかった。あちらは、情報の価値をよく知っているのだもの。
半分だけとはいえ、シンの血が入ってた時点で警戒すべきだった。もしくは、初めから全部話しておけばよかった。私のせいよ・・・。」
「そう自分を責めな。いくらあんさんでも、全てを見通すことは出来ん。相手はまがりなりにも神になった存在や。
それに、吉良は姫さんに、地上が壊れるから歓迎したと言ったんやろ?これは必然やった。」
「まあ・・・たしかにそうね。ヒモロギが下に降りてから地震が絶えないと聞いた。
ドームの外の天候も気圧も乱れまくってるらしいわ。ヒモロギを失った地上は、もうすぐ壊れてしまう。
本当は、もうとっくに壊れていたかもしれなかった。まだマガツカミの懐である天御影の方が安全、かしら。」
「シンがヒモロギを手招いた事案だとしても、結果的にはよかったのかもしれしまへんで。
特に、三神の御子達には。瑛人くん、一緒に住むことにしたんやって?よかったやないどすか。
それが例え一時の安息だとしても、長い時間孤独を耐え抜いて戦ってくれたんや。」
袖を合わせ、錫杖ごと腕を組む。
女史の顔は晴れず、開けた障子の間に向かって紫煙を吐いた。
距離があるので、大半の煙は室内に滞留してしまうのだろうが。
「犠牲はつきもの、とは言わしまへんが。目標を定めたからには、よそ見は出来まへんよ、我らのクイーン。」
「そうね・・・。命をかけて、シンに抗ってくれたんだもの。次はアタシ達の出番。主役のあの子達は、あがくでしょうね。」
「そりゃもう、目一杯。」
暗がりの部屋で、声をくっくと上げ笑い合う。
「絶望を前にしても、立ち上がれる強さを人間は持っている。信じましょう、未来を。」
例え壊れることが分かっている世界でも、崩壊のその直前まで、無様に足掻く様を見せなければならない。
信じたところで、続く未来がないことを知っていたとしても。