第一部 青星と夏日星 9
「お兄ちゃんだけずるい!夏海も連れてってよ!」
翌朝。
玄関で地団駄を踏みそうな勢いで頬を膨らましている妹を、靴を履いた兄は振り返った。
「遊びに行くんじゃないんだ。石について調べてくる。」
「ならアタシも行くよー。」
「この家にいるのが一番安全だ。渋谷駅の時みたいに結界に捕らわれたらどうする。お前一人じゃ出られないだろ。」
「むぅ・・・。」
「いいか。絶対家から出るなよ。白虎、分かってるな。絶対結界外に出すな。」
「しかと、心得ておる。」
大人しくしてろと念を押して、透夜は家を出た。
最寄り駅まで徒歩で移動し、電車でまずは術士協会本部がある新宿に向かう。
土曜の朝とは言え相変わらず人の往来は押し寄せる波のようである。
波に逆らうことなく駅の出口から外に出る。
まだ午前も半ばだというのに太陽の刺さるような日差しが容赦なく降りかかり肌を焼く。
じんわり額に汗が滲み始める。本格的な夏はまだだというのに、今日も暑くなりそうだ。
改札を出て街に入った辺りで、スーツ姿で深緋色の髪を持つ若い男が透夜の隣にぴったりくっついて歩いていたのに気づく。
この気温でも、ジャケットを羽織りネクタイをしっかりしめている。
「わざわざ呼び出して悪かったな、鬼灯。」
「お呼びとあれば、どこへなりとも。」
切れ長の瞳で透夜に目線を落とす。
アシンメトリーの髪型で、右のサイドがやや長い。
すらりとした体型で仕立てたスーツは皺一つなく気品があり、キャリアの高い仕事についていそうな風貌である。
土曜でもちらほら見掛けるサラリーマン達と違うのは、黒い皮手袋をしているという点。
透夜は隣の人物には目もくれず、前を見て歩き続けた。
「何かわかったか。」
「昨晩、渋谷駅で夏海様と交戦した術士ですが、透夜様から聞いた術式の特徴から、生田目家の人間ではないかと推測しております。」
「飛鳥時代だか平安初期だかに裏でナバリを封印しまくってた一族、だったか。」
「はい。陰陽師が活躍を始め天皇や貴族の恩恵を受けなくなってからは衰退。江戸時代初期に家は途絶えたようですが、今大急ぎで血族達の所在を調べています。」
「深夜家に侵入しようとしていた少年の方はどうだ。」
「こちらに着いてすぐ蛍火と捜索いたしましたが、透夜様が侵入者に付けて下さった印が途中でデコイに切り替わっていたのに気づかず、撒かれてしまいました。二人揃って情けない限りです。」
「謝罪はいい。お前達を撒ける相手だということが重要だ。」
話ながら角を曲がり小道に入る。人が大分減りビルの日陰で太陽光が途絶えると、やっと一息つけた気分になる。
「蛍火にも引き続き情報収集頼むと伝えておいてくれ。本家から出てきたばかりだというのに、こき使って悪いな。」
「俺たちは宗家嫡男である透夜様の影。お気遣いは無用です。」
真っ直ぐ前を向いていた透夜が、僅かに目を伏せた。
周りを警戒し威嚇するように力を入れていた肩から力を抜く。
「母さんは。」
口から出た声は、幾分か細く頼りない印象を受ける。
「相変わらずお眠りになっておられます。結界も異変ございません。」
「そうか・・・。父さんにも、こちらも変わりないと伝えておいてくれ。夏休みには一度戻るから、と。」
「御意に。」
隣で歩いていたはずの男性は透夜の隣から突然いなくなり、透夜は一人で歩き続ける。
外気は変わっていないのに、体温が下がった気がする。
ふと気配がして俯いていた頭を上げた。
ビルの隙間から覗く青い空に、灰色の鳥が数羽飛び回っていた。
透夜は僅かに目を開いて、式神・黒鳥を呼び出してその背に乗った。
ほぼ垂直に飛び上がり、ビルの屋上より高い位置に行くと、とあるビルの屋上で灰色鳥を操り見守るスーツ姿の男性が目に入る。
足下に鞄と、丁寧に畳まれたジャケットが置かれている。
黒鳥に命じて、男性のすぐ側に降ろしてもらい具現化を解いた。
空から突然現れ舞い降りた若者に驚いた顔をした男性だが、すぐ目元を柔らかくして微笑みを向けてくれや。
「やあ、透夜くん。」
「お疲れ様です。情報収集中でしたか。」
日室誠司の隣に立って、同じように灰色鳥達を見上げる。
カラスと同じサイズのあの鳥は、誠司の使い鳥達。
術士として決して実力が高いとは言えない彼だが、使いや術による索敵や情報収集の腕は一流。
今も各地に使い鳥を派遣したり、術士達から情報を得たりしていたのだろう。
「顔色悪いよ、透夜くん。大丈夫かい?」
「ええ、平気です。」
「昨晩は驚いたね。まさか敵が直接襲ってくるなんて。問題なかったかい?」
「逃げられた事以外は特に。おかしな侵入者でしたが、俺が知らない世界がまだまだあるのだと実感出来ましたよ。」
無理して大人ぶった発言をする透夜の横顔を、心配そうに見つめていたが、また顔を上に向け使い鳥達を操っていく。
「昨晩の侵入者についても警察に動いてもらってる。主に監視カメラの確認だけどね。」
「本家から蛍火と鬼灯を呼んで後を追わせましたが、途中で撒かれたそうです。カメラの映像も期待出来ないでしょう。」
「さすが、もう手を打ってたか。連続術士殺人事件に関しては、監視カメラのおかげで進捗したよ。殺害された人物達に接触したり監視したりしてた不審な人物達がいたことが判明したんだ。近隣の監視カメラに何度も姿が映っていた。
彼らはミチシルベというカルト集団に所属して、被害者達の家や職場の周りをかぎ回っていた。今密偵を送り込んで実態調査してるけど、期待は出来そうにないかな。」
「どう見たって、黒幕を隠すための生け贄ですね、そいつら。」
「会長も同じ事言っていたよ。一応警察が任意で事情聴取してるらしいけど、狂ったフリばかりで何も聞き出せないらしい。」
「安い時間稼ぎですね。カルト集団の奴なんかが協会の術士や俺の目を欺けるわけないんです。昨晩俺を襲ってきた術士は相当な手練れでした。俺が七星出身であることも知ってましたし、犯人は実力者ばかりでしょう。」
灰色鳥の一羽が羽を広げながら降下して、ひょいと上げた誠司の腕に止まる。
くちばしを上下に揺らして主に何かを伝えると、空気に溶けて消えていく。
「界隈がざわついているようだ。これは始まり、悪い知らせだと言ってる術士もいるらしい。」
「ただの日常ですよ。いつの日も、悪い奴が暗躍したり、ナバリが暴れたり。何も変わらない。」
透夜の頭に何かが触れた。
いつの間にか下がっていた顔を上げると、誠司が頭を撫でてくれていた。
「少しは寝たのかい?」
「横にはなりました。」
「徹夜したのか。」
「夏海が巻き込まれた以上、さっさと片付けたいんです。」
「じっとしていられないのは分かるけど、無理はしちゃいけないよ。焦っても良いことはない。まずは自分を大事にしないと。」
「ありがとうございます、誠司さん。」
力を抜いたものの、引きつった不格好の笑顔になってしまった。
本心などわかりきっているだろうに、誠司は満面の笑みで答えてくれる。
子供の頃から、頼りにしている大人。透夜が唯一心を開く他人。
頭から手が離れて、誠司は足下のジャケットと鞄を拾う。
「僕はこれから警察に行って資料を貰ってくるよ。」
「俺も本部に顔を出したら、色々調べてみます。」
「手伝えることがあったら連絡してね。すぐ駆けつけるから。」
またね、と誠司はビルの出入り口から屋上を降りていった。
透夜は一人残って、散り散りに飛び立っていく灰色鳥を見送りながら、ズボンのポケットに手を入れた。
そう、これはいつもと変わらない日常の延長線。
妹を守る。ただそれだけだ。
心のどこかが今も冷えているのは、脳裏に浮かんできた初夏の現在とは真逆の氷の光景が、嫌でも体温を下げている。
青い美しい空に煌々と灯る太陽がこれでもかと存在感を押しつけてくるのが鬱陶しくなって、透夜は出入り口ではなく、そのままビルの淵から飛び降り協会本部の側まで転移した。
*
手の中にある二枚のトランプを穴が開くほど睨んでいたが、持って行かれたのはジョーカーではなく、ダイヤの七だった。
「上がりです♪」
「また負けたあぁぁ!」
捨て札の山にジョーカーを投げ捨ててて、夏海は背中からカーペットに倒れた。
「お前、ババ抜き下手過ぎるぞ。」
「二人でババ抜きがそもそも間違いなんだよっ!まろんも手加減してくれてもいいのに~。」
「透夜様より、甘やかすなと承っております。夏海様は全て顔に出るから可愛らしいですわ~。」
「裏切り者・・・!」
兄がゲーセンで取ってくれたペンギンのビーズクッションを抱き寄せて横向きになる。
「せっかくのお休みなのに、式神達とババ抜きしかすることないなんて・・・。」
「勉強でもしたらよかろう。もうすぐテストだと主も言っておったではないか。」
「・・・それはイヤ。勉強は平日やってるから土日は遊ぶの!」
「お前はまだまだ子供よなぁ・・・。」
「白虎、人型になってよー。ゲームしよ。」
「無理を言うな。わしは虎だ。」
子供みたいに頬を膨らませ口をとがらせながら、ごろんと寝返りを打つ。
夏海が、あ、と声を漏らす。
ペンギンを抱きしめていた手を開くと、そこにあったのは灰色まじりの白い小石があった。
リビングのテーブルに乗せていたが、寝返った事で距離が離れたのであろう。急に手の中に忍び込まれる気味悪さは慣れない。
背をカーペットに預け、指で石を持ち直し見上げる。
「ホント、何なんだろうこの石。勝手にワープしてきて。・・・ちっちゃい子供みたいだね。」
「まあ、その通りですわね。母親を求めて寄ってくるようで、可愛らしいではありませんか。」
「ポジティブに言えばそうだけど・・・。正体がわかんないから怖いんだよなぁ。」
「透夜様が悪いモノじゃないと仰るのなら、問題ありませんわ。そろそろ夕飯の買い物に行って参ります。何か必要なものございますか?」
「お菓子買ってきてー。家から出られないなら好き勝手ダラダラしてやるー。」
「かしこまりました。」
まろんは買い物かばんを持って出掛けて行った。
白虎はテレビから流れる旅番組に集中し始める。
夏海はまだ小石を手悪さしながら眺めていた。
窓から入る陽がオレンジ色を帯び始めてきたことに気づく。何もしないまま一日が終わる虚無感が押し寄せる。
と、家のチャイムが鳴った。
立ち上がって、リビングの壁にあるインターホンの画面を覗く。
来客は、中学生ぐらいの女の子であった。
「誰だろ、知らない子だ。」
「居留守を使え。」
「回覧板かも。まろんなら分かるんだろうけど、出てみるね。」
「門の線からは出るなよ。」
テレビに夢中で背中を向けながら偉そうに話す白虎にハイハイ、と返事をして玄関に向かう。
靴を履いて扉を開けると、そこにいたのはフランス人形のように可愛らしい少女だった。
金色の繊細な髪に、マスカラをつけてるわけでもないのにボリュームのあるまつげ。バシバシのまつげまで金色だ。
サファイアのようにキラキラした瞳はこぼれ落ちそうなくらい大きい。丸い頭にちょこんと乗った帽子も可愛らしい。
思わず見とれて動けなくなるような子だった。
夏海が挨拶をすると、女の子はニコッと微笑んだ。
なんて愛らしいのだろう。漫画やアニメに出てくる美少女がそのまま具現化して現れたような感動がある。
知り合いだったら絶対抱きついていた―
「扉開けてくれてありがとう、お姉ちゃん。」
返ってきた事が女の子のものではなく、声変わり前の男の子のものだということに驚いたあまり、
彼が背中に隠していた刀に気づくのが一瞬遅れてしまった。
ハッとして扉を閉めようと伸ばした腕に、鋭利な刃が上から降りかかる。
キーンと耳をつく金属音が響いた。
夏海と少年の間に現れた白虎が大きな前足で刀を弾いて、ドアに当たった。
白虎が前足に体重を乗せ後ろ足で少年の腹を蹴り飛ばす。
が、肉球が触れる前に刀を引き寄せた少年は自分で後ろに大きく飛んだ。
白虎は夏海を玄関に押しやって、敵を威嚇し牙を見せ唸る。先ほどまでテレビに夢中になっていた虎とは思えない。
「貴様っ、昨晩の侵入者だな。」
「さすが式神。気づいていたか。」
「なぜ結界内に入っている!」
「さあ?なぜでしょう。」
わざとらしくとぼけた発言をした少年が、白虎の奥にいる夏海を見た。
「お姉ちゃん。石、預かったでしょ。」
気づくと手の中に石があって、隠すようにぎゅっと握る。
ふさふさしたまつげの奥にある瞳が鋭い色を見せ、可愛らしい顔が急に怖く感じる。
「この石が、欲しいの?」
「うん。素直に渡してくれれば大人しく帰るよ。」
「わかった、・・・と言いたいところなんだけど。」
突然、夏海が庭の方に小石を投げた。
白虎が慌てた顔をしたが、少年は口元に笑みを携えたまま夏海を睨み続けていた。
庭先に投げたはずの石は、夏海の手の中に戻ってきていた。
「この石、アタシのことお気に入りみたいで、だいたい二メートル離れると戻って来ちゃうんだよね。だから、これが欲しいならアタシを殺すしかないね。」
威嚇を続ける白虎の脇を夏海がかすめたと思った時には、夏海は地面を強く蹴って少年すら飛び越え門の上に立ち、自ら道に出てしまった。
白虎が叫ぶより早く、夏海は住宅街の道を全力で走り出した。
長い足で家の間を駆け続ける夏海の影から、ぬるりと白虎が現れ併走する。
アスファルトに当たって爪が音を立てるが、すれ違う買い物帰りの主婦は当然大きな虎など目に入らず、長い髪を踊らせ全力で走る少女に怪訝な目を向けただけである。
後ろをチラリ振り返ると、案の定刀を持った少年が追いかけてきていた。
今すれ違った主婦は、今度は反応を見せなかった。
身の丈に合わない長い武器を持った金髪の可愛らしい子供が走っていたら、もっと驚いたリアクションを見せるだろうに。
「馬鹿者!何故家から出たのだ!」
「子供と戦ってる姿なんて、近所の人に見られたらマズイでしょ。」
「人の目など気にしている場合か!家にいれば主の結界に守られて―」
「あそこはお兄ちゃんが帰る家なの。お兄ちゃんが自然でいられる場所を、アタシが守らなきゃいけないの。」
まだ何か小言を言おうとした白虎だが、言葉を飲み込んで前を向いた。
「兄妹揃って自分を第一に考えぬのだな・・・。怒られるのはわしなのだぞ。」
「また一緒に怒られよう。」
なるべく人通りが少ない小道を選び右に左に折れながら走り続ける。
少年は何か仕掛けたくて仕方が無いといった様子であったが、標的はタイミングが合わぬよう上手く道を曲がるし、何より足が速く後を追うので精一杯の様子であった。体格によるリーチの差が有利になっている。
けれど、諦めて帰る気配は全くない。
夏至を過ぎた初夏の夕方はまだまだ明るく、家で確認した時はまだ十七時半。陽がくれて暗くなるのはまだまだ先。闇に紛れて人の目から隠れるのは難しい。かといって、住宅街もそろそろ抜けてしまう。
このまま走る続けるのは問題ないのだが、少年が暴れて一般人や建物に危害を加えないという保証はない。
「手伝うか?」
真剣に策を練っていた夏海に問いかけてきた声は、間の抜けた緊張感のないものであった。
走りながら左上を見ると、真ん丸で巨大な三毛猫が、ふわふわ浮かびながら夏海に併走していた。
長い尻尾をくねらせ、空中で前足を枕に寝そべっている。
「主より、夏海になにかあれば手伝うよう言いつかっておった。」
「伽羅ちゃん!ナイス!」
風船みたいに膨らんだ猫は、兄が調伏している化け猫の伽羅。
兄も手を焼く自由気ままなオス猫だが、江戸時代の絵画に描かれるほど有名な妖怪である。
現代になってずいぶん太ってしまったが、実力は一流だ。
「白虎がお守りをするならわしの出番はないと怠けていたのだがなー。やはり平和ぼけしたのぉ白虎。昔のお前さんなら―」
「その話はもういい!手伝うなら早くしろ!」
「伽羅ちゃん、あそこのグラウンド使いたい!」
「ギャラは高く付くぞ。」
「ちゅーる沢山買ってあげる!」
よし来た、と真ん丸の体を空中でくるりと回し前を向く。
ちょうど夏海が走る道の先に土手が横に伸び、その向こうにある緑地公園の野球場に張られたネットが見えてきた。
三毛猫は一足先に野球場に飛び、ネットを張ったポールの上に器用に足を着く。
「妙技・猫の目!」
脂肪で埋もれ糸目であった両目が開かれる。
カッと見開かれたネコ目から一般人には見えない圧が掛かる。
夏海が土手に登った時には、野球場で遊んでいた子供達も、近くをランニングしていた人達も、野球場に背を向け一斉に帰っていくところだった。
妖怪のプレッシャーによる圧が人間の本能に語りかけ、無意識に逃げることを選んだ結果、人払いの効果を得る。と、前に兄が言っていた気がするが、夏海は細かいことは気にせず土手を駆け下り少年を誘い込む。
障害物も何も無くなり好機と捉えた少年は、土手の真上から高く飛んで抜いた刀で夏海の背中に斬りかかる。
「続いて、猫の踊り場!」
夏海が振り返りながら左に飛び一撃を避けた。
少年はそのまま追撃はせず、真上を見た。
夕焼けに染まる空の下、彼らの頭上には、見えないが確かに壁が張られていた。範囲はちょうど野球ホームと一緒。
ネットのポールの上で、巨大な丸い猫が器用に丸くなって尻尾を振っていた。
「簡易結界か。」
「べべん、とな。夏海ー、わしは結界に集中するぞ。」
「ありがと伽羅ちゃん!」
「こんな薄っぺらい結界で、僕を閉じ込められるとでも?」
「逃げる前に気絶させればいい。」
口角をつり上げた少年が地面に鞘を投げ、刀を顔の横で構えた。
「殺す気で来なよ。昨日はお兄ちゃんに軽くあしらわれて鬱憤溜まってたんだよね。お姉ちゃんで発散させてもらうから。お姉ちゃんが言った通り、死んでしまえば石は離れる。」
夏海も身を低くして構えた。
足下から緑混じりの青白い風が吹き上がって長い髪を揺らした。
両者同時に地面を蹴った。
砂煙が舞った時には、夏海の眉間を突こうとしていた少年の刃を白虎がはじき、夏海の右腕が少年の頭に伸びる。
首だけ右に逃がし、弾かれた刀の柄を握り直し、くるりと回し切っ先を白虎の首に突き刺す。
刀は横から白虎の首を串刺しにしたのだが、ぐにゃりと姿が歪み、再び夏海の影から現れ両前足を広げ飛びかかってくる。
短く舌打ちをし、左足に重心を置いてむき出しになった虎の腹部を横一閃に狙うが、今度は夏海が顔面めがけ蹴りを繰り出してきた。
スニーカーに青白いオーラを纏っており、少年は本能でそれを避けて後ろに飛んだ。
牙をむき出しに掛けてくる虎の頭部を刀の石突きでたたき落とすも、やはり実感はなく再びぐにゃりと歪んで消えてしまう。
代わりに真上から夏海が降ってきて、回転しながら蹴りを落とす。
少年はまた大きく飛んで避けたが、夏海が繰り出した蹴りで土の地面が大きくえぐれてしまった。
「怪力女めっ!」
毒々しく吐いて、少年はしゃがんだ姿勢のまま刀を鞘も無いのに鞘から抜くような格好で構えた。一呼吸の後、右足を踏み出しながら刀を振るった。
鞘のない抜刀術。その道の達人が使えば一瞬で決着がつく技だが、狙いは夏海の首ではなく、着ているパーカーの前ポケットであった。
家から走り出す直前、彼女がパーカーのポケットに石を入れるのを見ていたのだ。刀でポケットを切り裂き、こぼれ落ちた小石に手を伸ばす。
しかし、夏海も器用に身をくねらせ少年の指が小石に触れるより前にそれをキャッチ、身を後ろに引きながら左足を蹴り上げ顎を蹴り上げた。子供の小さな顎を夏海が本気で蹴れば骨は砕けるであろうが、少年は飛び上がり体を回転させることで威力を殺した。
「子供相手に本気蹴り?容赦ないね、お姉ちゃん。」
「もう君は敵だよ。アタシが排除する。」
下を向いた夏海が顔を上げた時には、その目の瞳孔は縦に細長くなっていた。
髪は毛先が白く染まり、頬に黒い縞模様が浮かぶ。白虎と同化した夏海は、一瞬で姿を消し少年の頭を地面に叩き付けていた。
口の中に土が入り込んできた不快感で少年の綺麗な顔が一気に憎しみと怒りで歪む。
美しい顔だからこそ迫力は凄まじく、細い喉から絞り出された唸り声は凄みがあった。
片手で少年の頭を抑えながら、もう片方の拳で少年の顔を叩こうと振り下ろしたが
無理矢理その場から離れた少年が落ちた刀を拾って振り下ろす。
青い宝石のような目が、赤く染まっていた。
怒りで煌々と燃えさかり、感情より膨れ上がった殺意で鈍く光っている。
―その時であった。夏海の手の内から目映い光りが漏れた。
目映さに少年は反射的に目を瞑ってしまい、その場から逃げる。
夏海も驚いて、白虎との同化が解けてしまった。
夏海が、拳を解いた。
手の中にあった白い小石に、ヒビが入っていた。
「え。」
続いて、バチ、と青い稲妻が走り、穴が開く。
深淵のような穴の中から、青い煙が細く薄く吹き出し始めた。
「なななな、なんか出た!?」
戦闘の緊張感を一瞬で手放し、足をバタバタさせながら敵の存在を忘れ手元の石に集中する。
「あああああアタシ、なんもしてない!どーしよ、怒られる!」
石への恐怖より、兄に怒られることの方が勝るらしい夏海の様子に、少年は投げ捨てていた鞘を拾って刀を収めた。
「その石は誰にも起こせないはず。」
白虎も石に気を取られていたが、再び威嚇の姿勢を見せる。
「お姉ちゃん、何者?」
「知らないよー!この現象知ってるなら教えてよっ。」
明から様で大げさなため息をこぼす少年。
目を開けた時、もう瞳は青色に戻っていた。
「まあなんだっていいや。口が開いたなら、送らせて貰う。」
「へ?」
どこか遠くで化け猫伽羅が叫ぶ声を聞いた気がする。
景色が遠ざかり、一瞬暗転した。
先ほどまで夕焼けに染まっていたグラウンドに立っていたはずなのに、ブルーに染まった美しい空と、並び立つ無機質なビル群が見える。
「ここどこ?建物多い・・・、都内?」
少し遅れて、夏海の影から白虎が飛び出してきて、同じように周りを見渡した。
「小僧に転移させられた。この気配、渋谷駅で閉じ込められた結界と同じ。」
「またあのかまいたち戦法術士の中!?やばいじゃん。」
「呑気な口ぶりだな・・・。」
「だって―・・・、アレ!?石が・・・!」
白虎が夏海を振り返ると、手の上には何も無かった。
「石、消えちゃった。」
「なんだと?」
「夢・・・?さっき、たしかに割れてたよね。」
「ああ、そのはずだが・・・。とにかく、あの化け猫が追いつくのを待つか別の方法を―」
白虎が不自然に言葉を切る。
夏海が立っていたのは、四車線の広い道路のど真ん中だった。
だが車もなく、人もいない。時刻はまだ夕方だった気もするが、夜の入りの時刻のように薄暗い。
一番異様なのは、足下を流れる水色の霧。霧よりもしっかりしていて、雲のようである。
白虎が見つめる先を、夏海も見上げた。
ビルとビルの間に、同じ水色の雲が集まって形を作っていく。
「あれは―・・・。」