第二部 南十字は白雨に濡れる 6
山の天気は変わりやすい。
先ほどまですがすがしい青空が広がり、肌を焼こうと躍起になっている太陽が頭上で燦々と照っていた。
分厚い雲が現れ始めたと思ったら、あっという間に大粒の雨が降り出して土砂降りとなった。
民宿まで戻ろうかと思案したが、先方との約束の時間を考えると進んだ方がいいだろう。
スーツのジャケットを被って細い砂利道を走っていたら
トタン屋根の駄菓子屋を見つけて軒先に滑り込んだ。
寂れたベンチはあるものの、駄菓子の引き戸はしまりカーテンも几帳面に閉められている。
今は営業していないかもしれない駄菓子屋に、先客がいた。
先日出会った小学生の男の子だった。
びしょ濡れの自分と違い、男の子に濡れた様子はない。
ズボンのポケットから取り出したハンカチで腕や顔を拭きながら、笑みを向ける。
「やあ、また会ったね。」
「おじさん、まだいたの。」
「別の仕事が入っちゃって。天狗の件は教えてくれてありがとう。君のおかげで、天狗と揉めずに済んだよ。」
一昨日の夕方。
隣にいる少年が九度山にいる天狗を紹介してくれた。
天狗と言って絵巻物で描かれる赤く長い鼻を持つ、山伏の格好をした妖怪を思い浮かべていたが、実際の天狗は、Tシャツにジーパン姿の人間と同じ見た目をしていて驚いた。
しかも日室より年上の中年男性で、Tシャツの下で緩んだ腹が張っていた。
なんでも、天狗とは元々山の守り神で精霊に近い存在で、現代にまで伝わる姿や逸話の大半は創作物なんだそうだ。実態はあってないようなものだが、長い年月の中で人間の姿を取って、人間社会に馴染んで生活するようになったとか。
この人の先祖はのちの源義経、牛若丸に剣術を教えたらしいという面白い話も聞けた。
さて、本題の大阪奈良で悪さをする天狗とは、彼の一族に属する天狗らしいのだが、事の顛末はこうだった。
大阪奈良を拠点として、悪徳霊感商法で壺や数珠なんかを売りつけるグループがいた。
彼らが不動産屋を連れ立った廃ビルで祟りだの怨霊だのと脅して仕事している最中に、天狗が一人通り過ぎた。何も居着いていないビルにあれやこれやと理由を付けて高額な金銭を要求するので、たまらず口を出したところ、グループ内に本物の術士がおり、ちょっと―風の秘術でビルの窓を全部割ってしまう―騒ぎになった。
彼らは、騙して高額の除霊料を巻き上げる予定だった不動産屋から、ビルに傷を付けたと逆に訴えらる羽目になった。
自分達の自業自得なのに、通りすがりの天狗を逆恨みした彼らが被害者を装って術士協会に相談の電話を入れた。
天狗相手なら慎重に動かねばならない、ということで日室が派遣されたのだが
事の真相を得て、ツテのある警察に声を掛け逆に詐欺グループを捕まえることに成功した。
全て、隣で他人を懐疑的な目を向けてくる少年のおかげだ。
Tシャツ姿の天狗もこの少年には大層目に掛け信用しているのは、端から見ていてよく理解出来た。
天狗は古い歴史の中でも高位存在。妖怪の中でも由緒正しき貴族みたいな立ち位置だ。
人間に悪さをする天狗もいるが、概ね頭がよく力も強い尊厳あるナバリ。
そんな存在に一目置かれる少年だ。よっぽど力が強いか名が知れた一族の子なのだろう。
一昨日は警戒されていたこともあって、詳しい事は聞き出せなかった。
ランドセルの側面ポケットに入れられた名札を盗み見た。
"四斗蒔透夜"。それが名前らしい。
すぐさま頭に入っている術士や一族のデータを検索するが、四斗蒔という名前はヒットしない。
全ての術士を把握しているわけではない。この土地を拠点とする四斗蒔という一族がいるのだろう。
雨はどんどん強くなり、湿度と一緒に薄い霧が立ちこめ始めた。
砂利道の向こうに立つ林の先が霧に飲まれ白くなっていくのをぼんやり眺めることしか出来ない。
赤く寂れたトタン屋根を容赦なく叩く雨の音が一帯を支配しているかのようだ。
腕時計を確認する。アポイントの時間まで十分時間はある。
「夕立だね。そのうち止むだろう。」
「わかるの?」
「僕も山育ちなんだ。」
雨音が強すぎて言葉を交わすのも困難だったので、しばし黙って降りしきる雨を眺めていた。
次第に、雨音が小さくなる。霧が薄くなり、空から降る雨の線も弱く間隔が広くなる。
雨上がりを喜ぶ虫とカエルの声が聞こえ始めてきた。
あと十分もあれば完全に止むだろうなと予想を立て先方に遅刻の連絡をしなくて済むと安堵した時、右手の方からランドセルを背負った男の子が二人、黄色い傘を差してやって来た。
あの豪雨の中も傘を差して歩いてたのだろう、服の袖は濡れランドセルから水がしたたっている。
履いている長靴の中も、水が溜まっているのだろう。歩く度カエルを押しつぶしたような変な音が鳴っている。
激しい夕立に遭っても、友人と一緒に馬鹿騒ぎでもして過ごしたのだろう。
と、駄菓子屋の軒下に立つ少年を見つけて、彼らはケラケラと笑い出した。
「四斗蒔の奴、傘忘れてやんの。ダッセー。」
「坊ちゃん、今日は執事のお迎え来ないのかー?」
透夜少年は何も言い返さなかった。
日室は、奥の少年の傘に、丁寧な文字で四斗蒔透夜と書かれているのに気づいた。
少年二人はそのまま彼を馬鹿にしたような言葉をいくつか交わしながら、道の先に行ってしまった。
「お友達かい?」
「・・・ただの低俗で馬鹿なクラスメイト。」
声は低く、重みが乗っていた。
彼の日常はいつもこうなのだろう。
高圧的な態度は部外者の大人に対してだけでなく、同級生にも取っているのかもしれない。
同調圧力の輪から出た人間は容赦なく除け者にされてしまう。
小学生の正直な世界は特に残酷だ。
傘を盗まれ、駄菓子屋で部外者の男と雨宿りする羽目になってしまったのだ。
気にならない程の小雨になったところで、透夜少年が駄菓子屋から出て、クラスメイト達が去った方に歩き出した。
古びたベンチの背もたれに掛けてあったずぶ濡れのジャケットを手に持って、後を追う。
「ついてこないでよ。」
「ごめんね。僕もこっちに用事あるんだよ。」
山を沿うように作られた獣道は一本道。他に道はない為、少年もそれ以上文句は言わなかった。
登りだった道が平坦になり、やがて下りに変わると、田んぼのあぜ道に交わる。
稲刈りを終えた田んぼに先ほど降った水が溜まって今にも溢れそうになっている。
黒い重そうな雨雲が早足で左に流れながら去って行く。
水に濡れて美しい水色の空と、夕焼けに照らされた高い位置の雲とが田んぼの水鏡に反射して非現実的で幻想的な光景が広がる。
徐々に薄まる霧に雨雲が去ったことにより強くなり出した夕日に照らされてゆく。
時計を早送りしているような次々移り変わる色、雲、空。
仕事さえなければ、足を止めてこの生きている絵画のような光景を目に焼き付けていただろう。
ゆだるような暑さも夕立が綺麗に連れ去ってくれたようで、生まれたてのような清々しい空気に包まれる。
クラスメイトの後ろ姿はもう見えない。どこかの分岐で別れたのだろう。
田んぼを通りきり、すぐ隣にあった次の山にたどり着いた。
入り口には背の高い石の鳥居が建っており、石段が上に上に続いている。
石段に足を掛けたところで、数段先にいた透夜少年が振り返った。
相変わらず訝しげな目で見下ろされる。
「今日来る客人って、おじさんなの。」
「そうか、君は―・・・。ここからもう領域なんだね。もしかして、鳥居の手前から結界内なのかい?」
「そう。この山自体一般人には目に入っていない。認識をずらしてあるから境界に立つことすら不可能。星宮が拒絶しなかったから、おじさん、悪い人じゃないんだね。」
「やっと認めてくれた?」
「僕の山で変なことしたら生きて東京には返さないからね。」
「僕の山?」
慣れた足取りでどんどん階段を登る少年に付いていく。
体力には自信がある方だったのに、斜面がきつい階段を登りきった頃には息が切れ、足を止め浅い呼吸を何度も繰り返す羽目になった。
顔を上げる。
日室が足を止めた前に綺麗な石畳が一直線に伸びていた。先にまた石の鳥居が置かれ、奥には更に上へ続く石段が続いている。此処はまだ中腹のようだ。
左手に水の出ていない手水舎があり、左手には木造の小屋。
目的地はまだ先だと気づいて軽く絶望しかけた時、
「おにいちゃーーーん!」
可愛らしい女の子の声がした。
手水舎の向こうから、花柄にピンク地ワンピースを着た幼い女の子が手を振りながらこちらに走ってくるところだった。明るい茶色の髪を三つ編みに結って、顔は満面の笑み。
女の子の後ろで、真夏だというのにびっちりとジャケットを着たパンツスーツの女性が慌てて後を追っている。
「待って夏海、そんなに走ると――。」
すぐ前にいる透夜少年が慌てた声を出してところで、女の子はぬかるんだ土に足を取られ、見事に転んでしまった。
少年が走り寄り、後ろにいたスーツの女性が女の子を立たせてやる。
石畳の上ではないので外傷はないようだが、頬や手、可愛いワンピースも泥に汚れてしまっていた。
転んだことに驚いてぽかんとしていた少女だが、転んだ現実が遅れてやってきたのか、顔を醜く歪めて泣き出した。
喚く、と言った方がいいか。大きな声が山に木霊して、近くの木に止まっていたらしいカラスが驚いて飛び立った。
女性がハンカチで顔の汚れを取ってやり、少年が必死になだめているのを、日室はぼんやり眺めていた。
子供は好きだが、泣いて喚く子供の扱いがわからなかったのだ。
「夏海、ごめん。お兄ちゃんが受け止めてやればよかった。ごめんよ。」
しかめっ面で日室を睨んでいた少年と同一とは思えないぐらい、彼の声は優しく穏やかだった。
女の子をあやすのも慣れているようで、次第に女の子は泣くのを止め、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、泥に汚れた手で綺麗な少年の手を握った。
「迎えにきてくれたのか。ありがとう。さ、帰ろう。」
女の子にはそう優しく声を掛けたが、立ち上がって日室を振り向いた時には、あの厳しい目に戻っていた。
「僕は夏海と先に帰ってるから。蛍火、この人に付き添ってて。」
「はい。」
「悪さはしないよ。君、立派なお兄ちゃんなんだね。」
「・・・僕が守るんだ。夏海には、僕しかいないから。」
少年の目に、影が落ちた気がした。
頭上を通り過ぎる雲の影だったのだろうか。
言葉の意味を確かめる前に、妹の手を握って行ってしまった。
残されたスーツの女性が頭を下げた。
女性の平均身長より背丈は高めだが全体的に小柄でほっそりしており、変わった水色の髪をしている。
「お話は伺っております。東京の術士協会から参られたと。」
「はい。日室誠司と申します。この度はお取り次ぎありがとうございました。」
「全て透夜様の決定にございます。」
「彼が?」
さあ此方へ、と導かれたので腹を決め次の石段を登り始める。
「あの・・・透夜くんは、此処七星の子なのですか?」
「はい。宗家四斗蒔家の御嫡男でいらっしゃいます。次期当主として期待されいる大事な方です。」
「それは、驚いた・・・。ああ、でも今日お会いするのは、当主の方だと伺いました。」
「透夜様の伯父上にあたります。透夜様が成人されるまでしっかりと七星をおまとめ下さっております。
それにしても、透夜様が赤の他人を信用なさるとは、余程気に入られたのでしょうね。」
「そうでしょうか?」
「ええ。でなければ、この土地には入れません。一族以外の人間がこの山に入るのも、何年ぶりでしょうか。」
再び陽が差してきた。葉の隙間から石段に夕暮れの染まる陽が落ち木漏れ日となる。
まったく息を上がっていない女性と違って、日室の息はもう上がってくる。
腕にかけたジャケットはまだほんのり湿っている。
二回目の階段を登り切ると、木々に囲まれた日本家屋が現れた。
瓦を乗せた白壁塀がぐるりと囲み、木造の門が聳え立つが両扉は開かれていた。
門の厳かな雰囲気の横に広い平屋は入母屋屋根の下に家紋があり、訪問者を見下ろしているようであった。
此処は日本地図にすら載っていない、七星の本拠地・朔山。
あるのに無いとされている守られた神聖な土地。
中に入れたのは、術士協会からの紹介状があったからだと思っていた。
何せ七星は秘密主義の術士一族で、名前と実力こそ知られているが実態を知る者はほとんどいない門外不出、他者との交流皆無の一門。
透夜少年が天狗に一目置かれる理由も、七星の次期当主ならば納得が出来る。
門をくぐる前に、女性が声を抑えながら告げた。
「用心なさいませ。」
「え?」
「今の七星は権力に取り付かれ他者を蹴落とし合う醜い者が掬っております。
前当主である透夜様のお父上が亡くなってから、状況は悪くなるばかり。今の七星は神聖な御技を守り語り継ごうという高潔な意思はありません。貴方様が透夜様と連れ立っていたのも、中の人間は把握しているでしょう。部外者の貴方様を利用する輩は多数いるはずです。己の仕事のみをお考え下さい。」
「ご安心を。そのための交渉役ですから。」
乱れた息が整ってきたので自信満々に微笑むと、女性はそれ以上何も言わず先導を続けてくれた。
古来より存在する星詠みの一族。謎が多く内部の情報を一切外に漏らさない彼らがなぜ部外者の申し出を受け入れたか、日室は身をもって知る事になる。
特に一人、熱心に日室に話しかけ懐に入ってこようとした男がいた。
灰色の髪にしっかりとした体つきで、目は鋭く狐のようであった。
透夜少年が他人を警戒し、睨むような目つきになってしまったのも、納得だ。
同時に、あのか細い少年が背負う未来の重たさに驚いた。
あの小さな肩にどれだけ大きな荷物を抱えているのだろう。
仕事を終え、民宿に戻った日室は本郷会長に電話を掛けた。
今回は術士を増やすためスカウト役として七星を訪れのだが、収穫はほぼ無い。
むしろ、七星の参入は止めた方がいいと進言した程だ。
彼らにいくら術士としての実力があろうと、自分達が高貴な生まれの上位存在と勘違いしている以上、今後協会にどんな悪影響を及ぼすか、目に見るより遙か、といった具合。
次期当主の少年と出会ったことは、なんとなく黙っていた。
報告したところであの会長が野心を持って少年を利用しようなどと考えないとわかってはいたが、あのまま妹と静かに暮らして欲しいと勝手な願望を抱いてしまう。
部屋の窓際で、煙草を味わう。
山の麓にある民宿のため、部屋の明かりがあっても、星がよく見えた。
* * *
「ひきつぼし星団?」
部下からの報告を聞きながら、本郷が怪訝な声を出した。
「聞いたことがないな。」
「長野を拠点とする新興宗教団体です。派手な広告は打たず山奥でひっそり活動してようです。
占星術天文学などを基盤に、日本で独自に発達した陰陽五行説とか、二十八宿を取り込んで展開していった集団が、近年になって資金集めのため怪しい新興宗教になった、と報告がありました。」
部下は手元の紙を見ながら続けたが、強い風が吹き出したので両手でしっかり紙を掴む。
本郷も目線を前に戻した。
緑色の円陣が三辺の半透明な壁となり、三人の人物を取り囲んでいた。
結界術士が呪文を唱え続け、派遣された術士達が本郷の前に整列して、同じく前を睨み付けている。
「更衣君からの報告によりますと、ひきつぼし星団の目的は人類の半減。
自身の星団以外は邪教として忌み嫌い、星の導きにしたがっていない者は悪と考え、日本に眠る楔型封印を全て解き俗世にまみれた人間を排除。星本来の形に戻そうという過激思考を持っているそうです。
なお、彼らは星団の基礎を作った祖が残した予言書を軸に行動を起こしているようで、更衣君はこの予言書と、星団の中腹を探ってくる、と昨晩の電話で言っていました。」
「透夜は。」
「相変わらず家から一歩も出ておりません。出入りは式神のみ」
「引き続き監視を続けろ。どうやら敵は、透夜も狙っている。
日室が言葉巧みに透夜を引き込む可能性はゼロじゃない。あいつが敵の手に渡れば、日本は簡単に終わる。」
「そこまで、特位の彼にとって日室誠司は特別だったのですか?血縁者というわけではないですよね。」
「俺は話の断片しか知らんが、恩人だと透夜は言っていた。日室がいなかったら
今も七星の腐った空気を吸いながら鬱蒼とした気分で暮らしていただろう、と。
昔、七星の助力を得るために日室を派遣したことがあった。
あの時は金銭や無理難題を要求してきたから断ったが、結果透夜が協会に入る運びになったのも、日室の功績だ。」
術士達と睨み合うのは、ビロードのような上質な素材で作ったであろう紫色外套をまとった人物達、計三人。
本郷の真後ろには夜明けを待ち佇む赤い立派な鳥居がある。
此処は、埼玉県大宮市にある氷川神社境内。
三の鳥居の先、石畳の細い道と砂利が敷き詰められた広場で、左手には神楽殿もある。
本殿へ続く道を背に立つ紫外套達は、夜明け前の暗がりに乗じて事を成すつもりだったのだろうが突然出現した協会の術士の不意打ちを食らい身動きが取れなくなった。
内側から不可侵領域を作り出して抵抗を続けているが、人数差から見ても時間の問題であろう。
そろそろ一般人が起き出す。夜明けと共に参拝客が来てしまう恐れがあるので、そろそろ事態を収拾させねばなるまい。
「どうして奴らが此処に来ると分かった。」
「人類選別なんて考えている奴らだ。武蔵国結界を狙ってくるのは道理。つい先月も、六之宮が狙われておったしな。全ての宮に鈴をつけておったのだ。千年以上忘れておったくせに、この時代になって、人気じゃのぉ。」
部下ではなく、真横に現れた気配に話しかける。
可愛らしい声のくせに老人くさい喋り方をする少女がクスリと笑った。
黒いボブカットの髪に、大きな釣り目に濃すぎるぐらいの派手なアイメイク、まとう服はフリルがたんまりついた西洋貴婦人が着てそうなミニ丈ドレス。娘が見ていた雑誌に書いてあったが、これはゴスロリと呼ばれる服装だろう。
雨が降っているわけでもないのに、服とお揃いの黒地に同じようなフリルが縁取られた小さな傘を持っている。
「此処は武蔵国結界三之宮。都内の警戒だけ高めても無意味だったな、本郷。」
小娘の嫌味にも反応せず、後ろに手を組んだまま仁王立ちを崩さない。
だが言われた通りだ。隣の少女の助言が無ければ人員を此処に向けることなく、敵に好き勝手をされていた。
先日の新宿襲撃も、警察と連携してマスコミを黙らせこちら側の世界をなんとか隠し通したばかりだ。
目撃者も多く苦労したが、警察の事情聴取ということで帰宅される前に術士による記憶書き換えを済ませられたのがデカい。
目の前に立つひきつぼし星団とやらが新宿に開けた三つの大穴は、下水道工事の際引き起こされた地盤沈下という工作を施し、日室によって壊されたビルは解体中の機械操作ミス、それによって通行人の頭上に瓦礫が降ってしまった、というシナリオを立てた。
あと数日もすればこの”事故”も人々の記憶から忘れ去られるだろう。
もちろん、怪我を負わせてしまった一般人には謝礼金をたんまり送ってある。
死人が出なかったのは、透夜の式神が守ってくれたおかげであるので、術士協会の長として情けなさは感じている。
「氷川神社を抑えられたとして、奴らに結界を解く程の力があると思うか?」
「策があるから動いておるのだろう。存外、六之宮を狙った奴らがあやつらとグルである可能性もあるかもしれんぞ?透夜程の実力者を凌ぐ敵がいることは、横浜の一件で確定しておるから。
だが幸い、わしの結界が破られていないところを見ると、そやつは此処におらぬということ。」
少女は傘を持ってない方の腕を伸ばして力の入っていない手を軽く上下に振った。
敵を逃がすまいと結界術士達が張った領域を無理矢理解除し、力の均衡が一瞬緩んだ隙に、紫外套達の頭上から白い塊が降ってきた。
それが人であると気づいた時には、二人の人物は倒れ、中央の人物は地面に押しつけられ片腕をひねり上げられていた。
拘束している人物は、白い衣に紺色の袴を履いているショートカットの女性だった。
女性にしてはとても高身長で、涼しげな目元を持った凜々しい顔立ちで力を入れてる様子も表情もなく紫外套の一人を捕らえていた。
男のフードは落ちることはなかったが、輪郭や首筋から男だというのはわかった。苦しげに口元を歪めているが、暴れることも叶わず、拘束が解けることもなかった。
「薬師寺まで連れてきたのか。」
「たまたま居合わせてのぉ。声を掛けたら参加すると言うんで連れてきた。
さてさて、素直に口を割るとは思えぬが、話を聞くとしようか。」
「・・・その為に俺まで連れ出したな。主の入れ知恵か。」
「フッフ。その目で見て証言をしっかり聞いておいてもらわねばならぬ。まずは星団の実態を―――離れろ薬師寺!!!」
突然、ゴスロリが表情を固くして大声で叫んだ。
何かを察した薬師寺が、拘束していた腕を離して本郷の手前まで大きく飛んだ。
周りにいた結界術士達は転がって砂利道の上にうずくまっている。
紫色の円陣地面に広がり、砂利の上で光り出す。
下から照らされる強めの光で艶のある外套が白っぽく染まる。
拘束されていた男はのろのろ立ち上がり、本郷達をフードの奥から睨み付けた。
そして、叫ぶ。
「まもなく!黄王様の導きにより星の審判が下る!
邪教に溺れた醜い術士共も、欲にまみれ恩情を忘れ自分勝手に生きる人間も皆滅びる!
ひきつぼし星団の教えを守る選ばれし者だけが生き残るのだ!天罡よ導きたまえ!」
男の口端から、鮮血がこぼれ、起き上がったばかりだというのに、その体は再び顔面から地面に倒れた。
地面に刻まれた紫色の円陣は溶けるように消えていき、一瞬の静寂が降り注ぐ。
近くにいた術士が慌てて駆け寄り容態を確認したが、本郷に向かってゆっくりと首を横に降った。
肌にピリっとした痛みが走ったので少女を見下ろせば、毛を逆立て握った拳を振るわせていた。
「簡単に命を捨ておって、なんと愚かな・・・!」
アイメイクで囲んだその瞳孔は、縦に細くなり、白目は黄色に染まっていた。
本郷は淡々と部下に命じて事態を収拾していく。
側にいたはずの薬師寺は姿を消しており、ゴスロリ少女もまたどこかへ行ってしまっていた。
夜明け前に撤収は完了した。術士達の胸に空しさだけを残して。