第二部 南十字は白雨に濡れる 7
ビジネスホテルから出ると、今日は夏の日差しが弱いことにホッとして夏海は大きく上に伸びをした。
曇天が広がるも、都内より温度も湿度も低いおかげで爽やかな早朝に夏の暑さでうだっていた体が喜んでいた。
「お腹空いたねー。何か食べに行こうよ。」
「あなたは調子いいみたいね・・・。」
「比紗奈ちゃん、調子悪い?」
腹部を押さえながら自動ドアを抜けてやってきた比紗奈は今日もセーラー服姿なのだが
いつもと違って背が曲がり顔色が悪い。
「昨日元日室に当てられた気が抜けきらないのよ。夏海、二回も食らっていたのになんともないの?」
「こやつは術士としての才能は極めて低いからな。気を探知出来るほど敏感でもないのだ。」
「手助けせず影に引きこもってたくせに、偉そうに言わないでよねー。」
肩に登ってきた子虎を軽く睨み付けて口を尖らせる。
昨晩、ひきつぼし星団の信者が集う館近くの森で偶然、本当にたまたま日室誠司と鉢合わせることに成功した。
戦って捕らえようと試みたが簡単にねじ伏せられてしまった。
白虎は本調子ではないとかで戦闘には参加しなかった。今朝も子虎姿のままである。
「おかげで星団本館の場所が大体把握出来た。よくやった、二人とも。」
「体張ったの私達だってこと、本部によく言っておいてよね。」
二人の分も合わせてチェックアウトを済ませた更衣がバックを肩に背負って出てきた。
曇天の下でも彼の容姿は輝いているようで、黒いTシャツにジーンズ姿というシンプルな格好でさえ様になっている。
「場所はわかっても、中に入れないのでしょ?」
「夜更かしして辺り探ってみたけど、認識させない術が掛かってて、許可がない人間にはただの山にしか見えない。入り口に触れたら知らぬうちに出口に移動させられている。一般人は場所が移動したことすら気づかないよ。日室誠司につけた追跡用人形も森に捨てられていた。」
「どうするの?やっぱり姿を見せないで潜伏続けた方が良かったんじゃない?」
更衣は幾分か表情を引き締め首を横に降った。
「今朝方、星団の奴らが埼玉の神社に現れたと本部から報告があった。結界の一つを狙ったらしいんだけど、事情を聞く前に一人は自殺、二人は術式で命を奪われていた。
奴らは何をしでかすかわからないし、一般人を狙うことにも命を捨てる行為にも躊躇が無い。事態は急を要すると判断して、協会の術士達を此処に呼んだ。夕方一斉に本拠地を落とす。」
「・・・わざと警戒させたのね。私達、そして術士は囮。」
「そう。俺達が派手に暴れている間に本殿を探し出して、黄王と呼ばれるボスを捕らえる。
お前達が日室の注意を引いてくれてる間に、予言書の写しを手に入れたんだ。本部に解析してもらったら、東京への大規模襲撃を示唆する箇所があった。日付も指定されていた。」
「今月?」
「明後日。」
「猶予無しね。」
「更衣さん、お兄ちゃんについての記述あった?」
「うん。天狼星が、・・・あ、タイム。」
更衣の携帯が鳴り出した。
スマートジーンズに差していた携帯を取り出して通話ボタンを押して話し出す。
「・・・いや、それは―・・・ごめんて!そんなに怒らないでよ・・・っ!」
真面目に話していた更衣の雰囲気が一気に代わり、謝りながら二人に背を向けて街路樹が並ぶ場所まで行ってしまった。
足元に鞄を下ろして、話続けている。
肩に子虎を乗せた夏海が、比紗奈に顔を向ける。
「森の結界、調べたいの。比紗奈ちゃん、場所覚えてる?」
そう小声で問うと、比紗奈の口角がグイっとつり上がった。
「もちろんよ。荷物お願いしましょ。」
夏海のボストンバッグと比紗奈の小さな鞄を、電話を続ける更衣にこっそり近づいて足元に置いてから、ダッシュで離れた。
電話に夢中らしく、呼び止められるようなことはなかった。
一時間近くバスに揺られ、昨夜日室誠司と戦った山に戻ってきた。
山の麓には昨日潜入した星団の館があるが、この山は個人の私有地のため立ち入り禁止の看板が立っているため教団の信者も地元民も足を踏み入れない。
獣道はかろうじてあるのだが、背丈のある雑草が生い茂り、湿った土が足元を冷やしてくる。
虫の音はするが、生き物の気配が一切無い。
「誠司さんが出てきたのは・・・、あの辺だ。」
緩やかな上り坂が続く獣道の先を指差す。
昨日更衣と信者から情報を集めていた比紗奈は、飯炊き女と呼ばれる食事を作る役職者が山道を登るのを見たという情報を得た。
更衣が奥を探るというので、単独で山を調べていたところ、別れたはずの夏海と鉢合わせた。
なんでも、白虎が日室誠司の気配を感じたというのだ。
それで夜まで山を捜索していたところ、突然山の道から現れたのだ。
「此処が結界の境目ってことね。大抵の結界は内側から膜を覆うみたいに掛けるのよね。
結界術士とか、専門家呼んだ方がいいかもしれないわよ。よっぽど強い力じゃないとー・・・」
と言いかけた比紗奈の横で、真横に伸ばした夏海の腕が半分無くなっているのに気づいた。
肘から先が消えている。切断されたのではない、透明になっている。
目を見開いて驚く比紗奈と変わって、夏海は落ち着いた様子で自分の腕を観察していた。
「境界線、此処みたいだね。」
「うそ、だってー。」
比紗奈も同じように空へと腕を伸ばしてみるが、彼女の腕は消えることなくそこに有り続けたまま、何も無い空を掻き続けていた。
「これは驚いた。七星の結界とほとんど同じ仕様だ。」
「うん。身に覚えがありすぎる感覚だね。」
地面に可愛らしくお座りをしている子虎が、土の上で尻尾を左右に振った。
夏海が腕を引くと、肘から先はしっかりとくっついており
拳をグーパーと開いて閉じる指も無事そうである。
まだ驚いて口を開けている比紗奈に顔を向ける。
「私の故郷七星も、自分達の土地全部を結界で覆って余所者を入れないようにしてるの。」
「こやつは結界に耐性があるとでも思ってくれて構わん。幸い、七星と同じ術式だったから体に刻まれ拒絶されなかったのであろう。」
「ああ、やっと納得出来たわ。チートが過ぎるわね、貴方。」
「ひきつぼし星団って、もしかして七星出身者が作ったとかあるかな?」
「可能性は十分ある。星の教えを基板としておるようだしな。」
「ちょっと中入って偵察してくるね。」
「私は入れないし、仕方ないわね。何か起きたら――っ!?」
比紗奈が勢いよく来た道を振り返り、ポニーテールが踊った。
夏海もつられて緩い坂となっている獣道の向こうを見ると、紫色の布を被った人物が木の陰からこちらを盗み見しているようだった。
比紗奈が視線を向けたのに気づいて、踵を返し山の奥に走り出す。
二人と一匹は反射的に走り出してその背を追った。
「仲間を呼ばれたらマズイっ、」
「何かする前に捕まえる!」
夏海が走るスピードを上げた。
長い足で背の高い雑草を踏み分けて逃げる背中を追う。
背格好から男で、フード付きの紫布は胸までの長さしかない。
更衣の推測では、短い外套持ちは身分が低く、二十八宿の名前を宿した幹部ではないらしい。
だが色は一般信者が着られない紫を着ている。油断は禁物。
走りながら拳と足に青い焔を纏い、更に距離を縮める。
目の前の男が、突然姿を消した。
術でも使われたのかと思ったが、地面が急に途切れ、地面が数段低くなっていた。
そこに飛び降りて辺りを探ると、そこにコンクリート作りの小さなトンネルがあった。
高さ三メートルぐらいの天井、地面以外円となっている先に、先ほどの男が見えた。
夏海もトンネルに入る。
光度は極めて低いもののライトが天井に埋まっている。
放棄された下水かと思いきや、水も嫌な臭いも無い。森の中にあるには随分不自然な人工物だ。
男が走りながら一度振り返る。後ろを追ってくる若い女性に小さく悲鳴を上げ、走る速度を上げた。
トンネル内は何度も分岐があり、かと思えば右や左にカーブしたりもする。
いったいどれだけ長く広く続いているのか。どこに繋がっているというのか。
前方の男が突然くるりと向きを変えた。
それでも体は逃げたがっているのか、後ろ向きで小走りしながら、それが夏海達と男の間に現れた。
半透明で紫色の巨大ゼリーのようだった。
楕円錐台の体に細い手足がくっついている。頭は天井すれすれ。顔らしきパーツはない。
幼い子供がデタラメに作った工作のようなナバリを男は召喚し、また前を向いて走り出した。
「私が斬る、夏海は前。」
「了解!」
ナバリの脇を通り抜けようと夏海がスピードを上げると、巨体を軽くひねったナバリが右腕を振り下ろしてきた。
見た目の割りに攻撃は重く鋭いものであったが、夏海は一瞥もくべることなく、比紗奈が刀でナバリの腕を落とした下を走り抜けナバリの後ろに回った。
気配を感じた男が再び振り返って、ナバリをすり抜けやってくる追っ手に驚き戦いた様子を見せた。
二匹目のナバリを召喚する様子はなかったので、今の紫色ゼリーが男の取っておきの策であったのだろう。
ナバリの気配を察して仲間が駆けつける可能性がある。
夏海は足に力を入れると、青い電気が足元に走る。
強く地面を蹴って左側の壁まで飛ぶと左足で壁を強く蹴る。
高く飛び上がった体は、走り続ける紫外套の男の頭上に迫り、肩に両手を添え遅れてやってきた重力で地面に押さえつけた。
肩を押さえ、背中に両膝で乗る。男の上で正座をしているような姿勢だ。
気道は確保しているが、苦しいのか、それとも捕らえられた事に対する焦りか、男は見苦しい程手足をバタつかせて暴れ始める。
捕らえてみたはいいが、この後どうしたら良いか頭に浮かばない。
比紗奈の合流を待つかと後ろを振り返ろうと頭を動かした時、男の拳が鼻先を掠めた。
顔に当たるような事は無かったが、夏海の脳裏に、昨夜の出来事が鮮明に浮かび上がった。
肌に張り付く気持ち悪い湿気、虫の声、擦れる雑草の音。
鼻先で止められた拳の向こうに、兄が送った腕時計が動き続けていた―。
息が止まる。全身の血が湧き上がり、喉、指先、臓器が震えるのがわかった。
夏海の全身から青い雷がチリチリと音を立て空気に放電し、男の肩を押さえていた右手を引いた。
どこか遠くで子虎が叫んでいたが、夏海の耳には入らない。
見開かれ正気の失った目には、組み敷いた男の姿すら消えていたに違いない。
苛立ちを拳に乗せて、そのまま男の背中に突きつけた。
地面がえぐれ、コンクリートの床が粉々に割れる。
衝撃で天井の電球が不規則に点滅を繰り返す。
口端に青い稲妻を吐きながら立ち上がり、深くえぐれたせいで低くなってしまった地面から、元いた廊下を見上げた。
夏海の霊力に触れたせいで口から泡を吐いて気絶している男を肩に抱え立っていたのは、術士協会会長・本郷だった。
「殺すつもりだったのか、この男を。」
冷たくも優しくもない、淡々とした重厚な声音。
責めているわけでも軽蔑しているわけでもない目を向けられても、夏海は何も言わず、ただ目線を反らさず立ち続けた。
やがて後ろから足音が二つやってきて、比紗奈と更衣が顔を出し、紫フードの人物を抱えて立つ本郷の出現に驚いた声を出していた。
夏海は体の周りに纏っていたオーラを解いた。
「頭を冷やせ。数時間後、ひきつぼし星団本部を抑える。」
「本殿は結界に守られて中に入れないようになっている。」
「更衣から報告は受けている。結界に触れられるお前を媒介にして入り口をこじ開ける。いいな。」
「アタシ・・・、」
「お前は術士協会に属する術士であろう。守るものを間違えるな。」
本郷は踵を返し、更衣を連れ立って歩き去って行く。
比紗奈は白い刀を抱えるようにしゃがみ、頬杖ついた手の先に顎を乗せながら、へこんだ穴の中にいる夏海に声を掛けた。
「お腹空いたわ。本郷会長に何かおごってもらいましょうよ。これから、大仕事よ。」
「うん・・・。」
「貴女の手で元日室を捉えて、話を聞けばいいじゃない。忘れないでよね。私が一位になるために来たの。手伝ってよ。」
「わかった。」
自分は何をやっているのだろうといった疑問は、今は忘れることにしよう。
今は、やるべきことをやる。
もう日室誠司を取り巻く問題は、術士全体の問題にまでなっているのだ。
迷った心中に、無理矢理理由をこじつけて歩き出す。
自分で長野まで付いてきたくせに、神奈川にある自宅が恋しくてたまらなくなった。
兄は、相変わらず部屋に引きこもっているのだろうか。