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神宿りの木    沙希編 5

 

篠之留斎にとって、その日はいつもとなんら変わりない夜になるはずだった。

 

捨てられた集の一部を改装して、勝手に住み着いたのが彼の居城。
そこで委託された研究を進めながら、愛しい恋人とその弟と一緒にたわいない会話をして食事をしながら1日を過ごす。
特別なことは何もないのに、尊く貴重な時間だと感じるようになったのは、人間の心を得た証であろう。
10年前の彼を知ってる人間達は、皆口を揃えて彼の変わりっぷりを茶化しながらも喜んでくれた。
人になれたのも、美也子と誠がいてくれたおかげだ。それと、拾ってくれたあのじいさん。
夜も更けた頃、義理の弟になる予定の誠が眠い目を擦りながらベッドに入った。
大人が寝るにはまだもったいない時間だったので、恋人と再び研究室にこもりながら
彼女が煎れてくれたコーヒーを楽しんでいた。


来訪を知らせるチャイムが響いたのは、日付が変わった午前0時過ぎだった。
こんな夜更けに人が訪ねてくることなどまずない。
第一、この住居に人が来ることすら稀なのだ。
美也子にこの部屋にいるよう指示して、警戒をしながら扉を開けた。
そこにいたのは、女の子を背負った血だらけの少年と、顔を涙で濡らした茶髪の少年だった。
3人とも世話になった人の子供たちで顔見知りだが、異様さは嫌でも気づく。

 

「孝仁、どうしたんだその血。沙希は、」
「俺の血じゃないです。沙希も外傷は負ってません。」
「とりあえず中に入りなさい。」

 


子供たちを家の中に入れると、様子を見に来た美也子が短い悲鳴を漏らした。
孝仁に沙希をソファーに寝かせるように指示すると、少女の脈を確認する。
気絶しているだけのようで、二人の少年に向き直る。


「お前たちは怪我をしてないんだな。」
「はい。」
「何があった。都羽子さんは?」


子供のくせにいつも無表情で感情を滅多に表さないはず少年は、眉根をぐっと寄せ俯いた。
頬にべったりとついた血は乾いているが、重大な事件が起きたことは明白。
弟の瑛人に至っては、なんとか意識を保っているギリギリの精神状態で、顔面は心配になるほど青く、肩はあから様に震えていた。
ただ必死に、小さな手で抱えている赤く染まった白い布でくるまれた何かを落とすまいと抱えている。
二人とも、言葉を発するのを酷く恐れているように見受けられたが、やがて孝仁が口を開いた。


「水面が、誰かに襲われました。和輝さんは、俺達が駆け付けた時には・・・。
都羽子さんと少し話せましたが、何が起きたのか俺達にもわからないんです。ただ、逃げろと言われて此処に来ました。
誰にも見つからず来ました。負っ手の心配はありません。」

 


水面というのは、彼らが住んでいる集だ。
現在天御影で最大の集である水面が襲撃を受けた。誰か、ということは鬼妖でも十杜でもない。人間だ。
孝仁が下唇を噛んで、普段対面しないはずの感情をどう扱っていいかわからず必死に堪えているようだった。
弟妹の前で長男の自分がしっかりしなければという責任感だろう。
彼は呆然とする弟の腕の中からそっと、抱えていたものを受け取り篠之留に差しだした。

 

「都羽子さんから預かりました。イツキさんに渡してくれ、すべてはここに記してあるから、と。」

 


血だらけの布をめくる。
そこにあったのは、空ビンに入れられた、人の目玉だった。
こびりついた血はまだ乾いておらず、フタをしているのに濃厚な血液の匂いがする。
中身だけ確認すると素早く布を纏い直し美也子を見た。


「この子たちを頼む。」


彼女は戸惑いながらも、力強く頷いた。
篠之留はすぐさま研究室に飛び込んで、瓶を机に置いた。
ビーカーの中に目玉を取り出す。
血がこべりついたままだったが、まだ温もりが残っていそうなそれの白い部分はとても綺麗だった。
これが、あの美しい人の残骸だと思うと、吐き気が器官の奥から込み上げてくる。
全てを拒絶したくなる衝動を抑え、“研究対象”としてそれ顕微鏡に固定してレンズを覗き込む。
子供たちの母である都羽子さんが残した最後のメッセージは、全て網膜に刻まれていた。
世界の真実というやつも、すべて。


『全く、腹立たしいったらないわ。』


突然、研究室内に女性の声が響いた。
顕微鏡から顔を上げると、机のすぐ脇に、赤いドレスを纏い煙管を手にした妖艶な女性が立っていた。
胸元は大きく開いており、スリットも際どいせいで太ももがむき出しになっている。
女の顔は曇っていた。苛立ちと悲しみと、いろんなものが混ざり過ぎていて
篠之留では理解出来るかも怪しい複雑すぎる感情が渦巻いているのだと察した。

 

「運命の輪が回り始めましたか。」
「狂った輪よ。歯車を壊すために色々やってきたっていうのに、こんな…。」
「水面はどうしたんですか。都羽子さんは。」
「集民も含め全て燃やされてしまった。研究室もよ。駆けつけたのが遅すぎて、何も残らなかった。」
「神籬はどうしました。」
「シベリウスに連れて行かせたわ。」
「瑛人も連れて行ってあげればよかったじゃないですか。」
「それが叶わないことは、貴方もよく知ってるはずよ。」


言葉が詰まり、握った拳を解いて机に乗せた。
冷静を取り繕うため、質問を続ける。


「首謀者は?」
「紫黒・櫟葉(いちいば)、松下よ。」
「孝仁の…。あの時殺しておけば、とまでは言いませんが、ちゃんと捕えておくべきだったのでは?」
「牢獄に入れてたわよ。反神道を掲げる過激派の残党が隙をついて逃がした結果がこれよ。侵入すら気づけなかった。このアタシがよ?」
「それで苛ついてるわけですか。さすがの貴女もシンには適いませんね。」

 

柳眉を歪めた彼女だったが、篠之留の嫌味をあっさり受け入れてから
すぐ真面目な顔に戻って、キセルを握ったまま両腕を豊満な胸の前で重ねる。

 

「都羽子が死ぬなんて、誤算中の誤算だった。」
「・・・。」
「坊や達から詳しい話を聞いておいて頂戴。都羽子が神籬を匿っていた事実は極一部の人間しか知らないはずだったの。
裏切り者は必ず捕らえ代償を払わせる。」
「これもまた運命かもしれませんよ。狂った歯車に乗せられたんですよ、あの子達は。」

 


きっと今俺は、自嘲的な皮肉たっぷりの笑顔でも浮かべていたのだろう――。
人をおちょくることしか、してこなかったのだ。混乱した頭を抱えたまま、どういう顔をすればいいかわからない。
今は陰っている神秘的な瞳が真っ直ぐと篠之留の真意を探ろうとしてくる。
ただ引きつってるだけなのだけれど。

 

「あの子達が真実を知れば、きっと動き出す。“三神”として神籬を守らせるために、シンがかき回しているんですよ。」
「・・・だとしても、選ぶのはあの子達よ。」
「選ばされているの間違いでは?」
「ならば、口を閉ざし操り人形に興じるしかないわ。糸が繋がったままでも、あがくことぐらい許される。そうして絡んだ糸が、世界の秘密を引きづり出すかもしれないじゃない。」
「・・・クイーン、奇跡をただ待つには、もう時間は残されていません。」


そうね、とため息とともに自虐的な微笑みが一瞬過ぎっては消えた。

 

「神籬は地上の施設に運んだわ。アタシとシベリウスが責任を持って守ります。
あなたも混乱しているでしょうけど、今は悲しむ余裕はない。しっかりと見守りなさい“注連縄(シノノメ)”。

また後で話を聞きに来るわ。
ああそれから、都羽子の忘れ形見は私が処分を決定するまで厳重に保管しておくように。」

 

勝手に表れて勝手に色々押し付けてから、彼女はまた空間のどこかに消えて行ってしまった。
本当は誰よりも悲しんでいるはずの彼女は、誰よりも気丈に振る舞っていなくてはいけないようだ。

30分ほどしてリビングに戻ると、綺麗なシャツに着替えた少年二人が寄り添うようにソファーに収まっていた。
美也子が風呂に入れさせたのだろう。
顔の血は綺麗に落ちたのだが、青白さは変わらない。
タイミング良く美也子もリビングに戻ってきた。


「沙希ちゃんは着替えさせてベッドに寝かせたわ。瑛人くんは誠の服で大丈夫だったけど、孝仁くんはイツキくんのシャツ貸したわよ。」
「構わない。助かったよ、美也子。」

 

男の、しかも生活感の欠片無い上に気遣いも出来ない彼では、子供たちを風呂に入れるなんて思いつきもしなかったろう。
机を挟んで向かいのソファーに美也子と共に腰掛ける。
少年たちの前には湯気の立つココアが並べられていたが、口をつけた様子はない。
篠之留はまず、長男にぴったりと体をくっつけている次男の方に顔を向けた。
震えは止まったようだが、心此処にあらず危ない状態であった。
風呂上りとは思えないぐらい青白い顔をして、意識を手放して呆然としてしまっている。

 

「瑛人、俺の布団に入ってなさい。」
「・・・。」
「寝なくてもいいから、目を瞑って頭と体を休ませ―。」
「・・・―こ。」
「瑛人?」
「真人は、どこ。」

 

夜の闇に消えてしまいそうなほどか細いわりに、とげが見え隠れしている声だった。
瑛人と唯一血のつながった兄弟。気になるのも、怒るのも当然だ。
きっと何も知らされてないのだろう。あのじいさんなら親切丁寧に状況説明なんてしていかないだろう。
孝仁も、切実な瞳を向けてきた。

 

「沙希のお祖父さんが来て、真人を水槽から出してどこかへ連れて行ってしまったんです。瑛人ですら、同行を許してくれなくて。」
「真人は、クイーンが安全な場所に避難させたと言っていた。あのじいさんもついてるなら問題ないよ。」
「俺たちも、そこに行きます。」
「残念だがそれは無理だ。真人は無事だから、それだけは信じてくれていい。」
「真人には、もう会えないんですね。」

 

隣にいる弟の肩を抱き寄せながら、考仁が決定打の言葉を自分から言ってくれた。
本当に優しい子だ。
こういうとき、どういう言葉を選べば良いのか、ひねくれた自分には判断しかねた。
確信めいた言葉に、やや間を開けてから
篠之留はああ、と返事をした。

 

「水面を襲ってきた奴らの理由と、関係ありますか。」
「直接的にはないが、遠い道の先の真実として、真人は狙われていた。だからクイーンとじいさんは真人を地上へ移すことにした。」
「地上へ?」

 

考仁が、驚きの声を上げる。
瑛人も少なからず反応をみせた。
天御影にとって地上は近くにあって遠い場所。本当に存在するのかどうかもわからなくなるぐらい、一般人にとっては無関係の世界だった。
決して交わらない平行線にある二つの世界は、子供にとっては絵本の中にある空想上の創作物に近いだろう。
本当にあるのかもわからないそんな場所に、大事な弟が連れていかれたと聞けば不安になるのは当たり前だ。
どう言えばいいか、言葉を口の中で転がしてから慎重に繋げる。

 


「喜ばしいことに、真人はもう水の中じゃなくても生きていけるようになった。いづれ目が覚めて、普通に暮らしていけるだろう。」
「地上で、ですか。」
「真人をさらおうとする悪い奴がいるんだ。天御影にいるより、地上の方が安全だ。」
「なら・・・僕も行きたいです・・・。」


言葉を重ねてきたのは、瑛人だった。

 

「・・・どうして、僕は地上には行けないのですか。」
「地上と地下の間には結界があるんだ。生きた生物はその結界を通れない。
ただし、例外がある。沙希のじいさんはその例外に該当し、部下達は全員人形(ひとがた)の使い魔だから、問題無い。」
「僕は帝一族の末裔です・・・。」
「父親に聞いたのか、真人の父親に。」

 

幾分か鋭くなってしまったイツキの声に、考仁が反応して瑛人を見た。
瑛人は人工授精で生まれた子で、失敗作というレッテルを貼られたせいで破棄されそうになっていたところを
都羽子さんが拾って人知れず育てていた、と聞いていた。
瑛人の本当の父親は、ただの精子提供者であり、真人とは異父兄弟であるらしいことも。
母親の話も、父親の話も考仁は聞いたことがなかった。
都羽子の弟子でもある篠之留なら、何か知っていても不思議ではないが、どうも釈然としなかった。
瑛人が口を閉ざしたので、イツキは小さくため息を吐いて指を合わせた。

 

「確かに、瑛人は通れるよ。でもね、瑛人が結界を超えれば、真人を狙ってる奴が感づいてしまうんだよ。
瑛人が真人に会いにいくと、真人が狙われるんだ。」


瑛人が小さく息を吸った音が聞こえた。
たった一人の肉親に会いにいける可能性は、その肉親を危うくすると脅されてるのだ。
こんな残酷なことがあるだろうか。
美也子が小さくイツキの名を非難を込めて呼んだが、言葉を続けたのは瑛人だった。

 


「真人は・・・ひどいことになったりしませんか。誰か、近くにいるんですか。
ずっと眠ってたんです。きっと、わからないことだらけなんです。」
「大丈夫だよ。じいさんが面倒みてくれる。不自由なことはしないし、危ない目に合わないように
監視もつけてくれるはずだ。混乱が収まったら、真人の様子を定期的に報告してもらえるようお願いしてみるさ。
今は、それで勘弁してくれ。」

 

瑛人はゆっくり瞳を閉じて、そのまま考仁に寄りかかって意識を手放した。
慌てて脈を確かめると、どうやら眠っているだけのようだった。
緊張の糸が切れたのだろう。
考仁の近くがいいだろうと、そのまま毛布をかけてソファで眠らせることにする。
ふぅと一息ついた考仁が、瑛人の髪を撫でながら顔を上げた。
先ほどより幾分か不安が表情にのっていた。
弟の前では気丈に振る舞っていたのだろう。今は弟に触れることで正常心を保とうとしているようだった。


「すまん、考仁、お前はもう少し付き合ってくれ。何が起きた。」

 

孝仁はゆっくり、数時間前に起きた壮絶で残酷な出来事を事細かく教えてくれた。
母・都羽子が最後に子供たちに掛けた言葉も。
報告が終わると、俺の隣に座って黙っていた美也子が目元に手をあて鼻をすすった。今泣いているのは美也子だけだ。
孝仁は話し終わっても泣かなかった。
冷静さを取り戻した彼は、子供ながら現実を受け止める方法を知っているが
悲しみと悔しさをどう処理していいのかはわからず、子供のくせに素直に出せないのだ。

 

「水面は、どうなりました。」
「全部燃やされたそうだよ。助かったのはお前達だけだ。」
「誰がこんなことを?真人を狙っていたのですか。」
「そうだ。今は詳しく話せない。」
「そうですか・・・。大切な家も、なくなりましたね。」
「しばらくは此処を使うといい。別の廃棄部屋がよければ整備してあげるから、少し時間をくれ。」
「お世話になります。」
「都羽子さんに散々世話になったんだ。お前達を世話するのは同然の勤めだよ。」

 

少し眠りなさい、と美也子が考仁にも毛布を掛けてやる。
素直をに目を閉じて、やがて規則正しい寝息が聞こえてきた。
長兄としての務めを立派に果たし疲れたに違いない。
普段なら他人の家で絶対眠ったりしないのだろうが。
子供達の寝顔を見つめながら、篠之留は背を丸め口元に合わせた手を添えた。
そんな彼の背を、美也子は撫で続けて寄り添ってくれていた。

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