神宿りの木 沙希編 6
考仁は特殊な生まれなこともあり、朝6時きっかりに目が覚める。
すぐにベッドから起き上がることはせず、そのままじっと布団にくるまれる。
やがて廊下からパタパタと足音が近づいてきて、部屋のドアが勢いよく開かれた。
「起きろ―、お前達!朝だぞー!」
その声を聞いてから考仁は目を開けて、体を起こしおはようと挨拶する。
隣で寝ていた瑛人は本当に今目が覚めたところなので、目を擦りながらむくりと起き上がる。
「ハハ、今日も髪の毛爆発してるな、瑛人。顔洗ってこい。今日は姉さんがスクランブルエッグ作ってくれたぞ。」
「はい、すぐ行きます。」
この家の住人高井誠―美也子の実弟―は、イツキ邸に考仁達が保護されてから、自分の部屋を快く兄弟に貸し与えてくれた。
何かと面倒を見てくれているし、毎朝律儀に起こしに来てくれるのだ。
誠は考仁より一つ年上なのだが、小柄なので背丈は考仁の方が高かった。
部屋主である誠自身はイツキの部屋に転がりこんでいる。もうすぐ姉のものになる義兄を独り占め出来る時間が出来た、と喜んでいた。
誠がまた忙しなくパタパタとスリッパを鳴らしてリビングに去って行ったので、ベッドから出てパジャマから着替える。
まだ寝ぼけている瑛人の髪をなでつけてやってから、一緒に洗面所に向かう。
廊下の途中で、考仁だけがある扉の前で足を止め物言わぬ木製扉を見つめた。
此処はイツキの婚約者である美也子の私室で、沙希が寝ているのだが
水面から脱出してきた夜以来、沙希は塞ぎ込んでしまい、部屋から一切出ようとしなかった。
考仁や瑛人の声も届かず、布団をかぶったまま目も合わせてくれなくなった。
もう何日、沙希の声を聞いてないのだろうか。もう何日、あの笑顔を見てないのか。
ノックしようと持ち上げた手を下ろす。
イツキさんには、心の傷が治るには沢山の時間が必要だから、今はそっとしておこうと言われた。
いつか自分で部屋から出てくれるまで、二人は待つことにしたのだ。寄り添ってあげられない事がこんない辛いとは。
兄を必要としてくれず意識の外に追い出されることが、こんなに―――。
リビングで美也子さんお手製の朝食を揃って食べていると、あくびをしながら篠之留がやってくる。
いつも夜中遅くまで研究室にこもって仕事をしているので、朝食の席に現れるのは希である。
「おはよう。私たち先食べ終わっちゃったわよ?」
「コーヒーだけでいい。」
「ごちそうさまでした。片付けやります。」
「あら、任せちゃっていいの?」
「もちろんです。」
「僕、紅茶淹れますから、座ってて下さい。」
「さすが都羽子さんの子供達だわー!」
「僕だって毎朝皿洗い手伝ってるじゃない。」
「はいはい、膨れないの誠ちゃん。」
「そうだぞー。誠はいつもえらいぞー。」
「・・・コーヒーいれればいいんだね。」
「さすが。」
和やかな時間に割って入るように、篠之留邸のリビングにチャイムが鳴り響いた。
眠たげな顔をしていた篠之留の顔が一気に引き締まり、立ち上がりかけた美也子を制止させ玄関に向かった。
玄関で何やら話し声がしていたが、考仁と瑛人が食器を片付け終えた時、リビングの戸口に女性が現れた。
20代半ばか後半、ブルーグレーのスカートスーツを着こなし、きっちり結った黒髪に、シルバーフレームのメガネを掛けている。
どちらかというときつめの印象を受けるので、人見知りの瑛人は無意識に考仁の背中に隠れた。
「お前が人間らしい家に住んでるとは、母さんが泣いて喜ぶぞ。」
「いつの頃の話をしてるのさ。」
「あの時は、父さんがわけのわからない不潔な野生生物拾ってきたと驚いたものだ。」
美也子は不思議そうに首を傾げながら、席を立った。
「美也子、この人は島田じいさんの次女。昔居候させてもらってた縁で顔見知りなんだ。悪いんだけど、子供達連れてちょっと散歩にでも―」
「待て。姉さんが引き取った子供二人は残してくれ。少し話がある。」
軽く会釈をしてから、美也子は誠を連れて奥の部屋へ向かう。
誠は自分が世話を焼いてる―と勝手に思っている―考仁達が心配なのか、姉と同じ不安そうな顔をしていたが口は挟まず素直に去って行く。
台所で立っていた二人は座るよう言われ、イツキと来客の女性と向かい合う形になったため、瑛人はますます小さくなった。
「改めて紹介する。彼女は雨条鏡子さん。都羽子さんの妹さんで、沙希の叔母さん。」
「その呼び方、沙希には絶対させないわよ。」
「年取ってるって意味じゃないからいいじゃない。」
「響きが嫌よ。」
考仁はまじまじと義母の妹という女性を観察した。
メガネの奥にあるつり目がちな細い目に、下がった口角がきつめな印象を与える。
本当に血が繋がっているのかと疑うほど、都羽子とは全く似ていなかった。
都羽子はおっとりして柔らかく花が似合うそうだったが、叔母という女性はキリッとした氷山のような冷たい印象を受ける。
この人は父親―沙希の祖父―に似たのかもしれない。
「沙希を迎えに来た。」
「連れてくの?」
「血の繋がった家族が迎えにくるのは当然だろう?」
「そうだけどさ・・・。」
篠之留がちらりと兄弟を見る。
「沙希はすでに何度か地上に来ている。小さすぎて本人に記憶にないだろうがな。上の疑似太陽の下でも沙希なら適応出来るだろう。」
「まあ、そこは心配してないよ。時乃さんも喜ぶし俺としても安心だ。けど―」
「あ、あの・・・、沙希を地上に連れて行くのですか?」
恐る恐る会話に入ってきたのは、考仁だった。
普段なら大人の会話に入ろうなんて考えないのだが、大事な妹の話だ。
責任感から口を開いてくれたのだろう。
沙希の叔母・鏡子は考仁ではなく、その隣でずっと不安そうな顔をしていた瑛人を見て、一層目を細めた。
「そこのもやし君が神籬の兄か?」
「ひどい言い方やめてよ。瑛人だよ。」
瑛人は生まれてから他人と接する事を禁じられていたので、面識ある大人はごく僅か。
よって、見ず知らず-というわけではなく、一応義母の妹―にまるで睨みつけように見下ろされ肩を寄せ縮こまる。
鏡子は机の上で手を組み、威圧的な態度は止めず、話し出す。
「あなたの弟、目が覚めたぞ。」
瑛人の肩が跳ねた。目を大きく見開いたものの、瑛人は何かを考仁や篠之留隠すようにぎゅっと拳を作った。
体は無意識に前に傾いた。
「言語をまだ覚えてないため喋ることはないが、声は出せた。これからゆっくり言葉や食事の方法を教えていくらしい。
常に医者や監視が見張ってるし、万全の体制だ。身の安全は保証しよう。我々にとっても大事な子だ。
検査が終わった後は、病院ではなく綺麗で十杜も居ない恵まれた場所で人間としての知識を与えてから、最終的に社会に送り出そうと考えている。いつまでも病院で匿ってるより、社会に紛れ込ませた方が何かと安全だからな。」
「・・・それって、」
「普通の生活よ。学校に行って、違和感が無いように父母を用意する。普通の、どこにでもいる子供になってもらう。
ただ、一つ問題があってね。」
組んだ手の上に顎を乗せると、メガネの奥に潜む目が色合いを変えた。
彼女がまとう雰囲気が幾分か柔らかくなる。
「神籬は、ずっと何かを探しているのだ。まだ筋力がないから身振り手振りも出来ないのだけど、目で何かを探し続けてる。
それがずっと分からなかったけど、父がね、兄を探してるんじゃないかって言うのよ。」
「・・・っ、」
「あなた、上に行きたい?」
非難するように篠之留が彼女の名前を叫んだ。でも鏡子は話すのをやめない。
「私や父、沙希が結界を行き来出来るのは結界を作った人間の縁者の血族だから。何度往復しても気づかれることはない。
お前は違う。帝一族の血が僅かでも入ってるお前が結界に触れたことは、確実にシンに伝わる。」
「シン?」
「篠之留、まさか何も教えてないの?」
「うん・・・。」
呆れた、と尖りある声を漏らしつつ鏡子は再び瑛人に向き直る。
「シンとはこの世界を壊そうとしている悪い神様だ。
今は神々によって封印され地中深くで眠っているが、目覚めた時災いが降りかかると言われている。
帝一族の中でも証を持つ神籬という役職を与えられた子をずっと狙っている。今の神籬は、お前の弟真人だ。」
初めて聞く難しい話でも瑛人は頭がいいからすぐ理解出来てしまう。
篠之留は鏡子の口を今すぐ塞ぎたい衝動を抑えた。これは運命の分かれ目だ。
大事な選択が目の前に迫っているなら、分岐の前に立つ子供達に余計な事を言って狂わせてはならない。
「神眠りの日に今代の神籬様はお役目を果たすと予言書にも、名だたる夢見達も告げている。
神籬の場所は遅かれ早かれシンにはバレる。今は僅かな時間稼ぎをしているに過ぎないからな。
その僅かな時間だけ、共に居ることは可能であろうと私は考えている。
あなたが望み、覚悟があるならば、上に連れて行ってやる。血が繋がらないそこのごぼうみたいな坊やも一緒にだ。」
子供達には何も伝えてないし、運命を背負わせるつもりもなかった。
いずれ背負うものならば今ではないと思っていたし、それを伝えるのはあまりにも酷だった。
同時に、弟と幸せに暮らすという本来なかった選択肢が与えられたのもまた運命だと感じていた。
これは絶望の底に隠された希望である。
「僕は地上には行けません。」
きっぱりとした瑛人の声に、篠之留の眉が頼りなく下がった。
目の前に座っているのは、人見知りで縮こまる臆病な子ではなかった。
れっきとした、帝一族の末裔。今代の位に相応しい凜々しさと威厳を携えた王位継承者の顔をしている。
その切り替えが、篠之留は切なくて仕方がなかった。
「たしかに僕は、帝一族の血族ですが失敗作です。安全に結界を通れる保証はないです。
結界を無事通れたとして、せっかく地上に真人を逃がした意味がなくなると思うんです。
シンって悪い神様から真人を守れなくなるんですよね。真人が危険にさらされるのは何があっても避けたいです。
言葉や事象が理解出来るようになったら、兄は死んだと伝えて下さい。」
「いいのね?」
「はい。」
「まだ子供なのに、賢いわね。さすが姉さんが育てだだけはある。」
「リスクを承知で、上に行く提案を言ってくれたこと、感謝します。
上が安全で、たまにこうやって真人の話を聞けるなら、僕はそれで十分です。」
「その役目、私が責任を持って承ろう。」
ずっと黙っている考仁は横目で瑛人を盗み見た。
その返事を口にするのに、どれだけの決意と後悔が混じってるのか
感情が複雑過ぎて考仁には全部理解出来なかったけど
そこに違和感を覚えたのは確かだった。
「沙希は今後地上で預かるけど、元気になれば会いにくることもあるでしょう。自由に出入り出来るのだから。」
鏡子が腕を上げると、玄関に黒服の男達が現れた。
水面が襲われ、真人が水槽から出された時にいた男達だった。あれが人間では無いと、言われても見分けはつかなかった。
彼らはぞろぞろと廊下を渡り、数秒後、沙希を抱えて現れた。
人形の使い魔に抱きかかえられている沙希は目は開いていたが、意識は遠くに飛ばしていた。
手足は力無くだらりと下ろされ、考仁が名前を呼んだが、何も反応をしめさなかった。
鏡子が立ち上がると、では沙希は預かる、とだけ告げ、黒服達を連れ玄関に向かっていく。
これが、永遠の別れになる気がして、考仁は立ち上がり衝動的に声を荒げた。
「俺と瑛人はいつだって沙希の家族だ。血は繋がってないけど、兄妹だ。それは忘れないでくれ!」
玄関の扉がバタリと閉まる音がした。
全身から一気に力が抜け椅子に落ちた考仁の髪を、立ち上がった篠之留がくしゃりと撫でた。
「なら、俺はお前達の保護者だ。都羽子さんに変わって必ず守ってやる。忘れるな。」
返事は無かったが、考仁は一度だけ、ささっと袖で目元を拭った。
瑛人は沙希を見送ることはなく、鏡子が座っていた椅子をただぼんやりと見つめていた。
*
篠之留が住みついていた廃集に、大規模な改装工事を行われることが決まって
篠之留は研究室のテーブルに頬杖をつきながら、不服そうに口を尖らせた。
いかにも異議ありという様相をこしらえてみても、煙管片手に本をめくる美女には効果なしであった。
「三神の御子としてのお役目は放棄して、普通に暮らしていいんでしょ?設備整える必要あります?」
「都羽子の大事な忘れ形見よ?こんな狭い家に住ませられないわ。男の子はいずれ大きくなるの。」
「美和子と誠は喜んで住んでるけど。」
「二人は適応力が高い優しい子だからよ」
有無も言えなくなり、野生生物の唸り声みたいな醜い声をもらして、フンと顔を反らす。
この辺りは人が近づかないので篠之留は大層気に入っていた。
自分たちが暮らすだけの電力と水道設備があれば十分だった。今更子供2人が増えても問題はなかったはずだ。
「静かに暮らしてあげたいんですよ、俺は。わざわざ渦中のただ中に放り込むようなことはしないで欲しいなー。」
「でもあの子達、進むことを決めたんでしょ?」
「その道が茨の道だと知らせる必要はないじゃないですか。」
「ふふ。ずいぶん優しい子になったじゃない、シノノメ。」
聖母みたいな、見透かすような笑みにさらに口を尖らせる
「考仁は志ケ浦に戦術を習って、瑛人は和輝が残した書物読みあさってるんでしょ?戦う気満々じゃない、運命と。」
「ただ純粋に、弟に会うために頑張っていて欲しいんです。余計な情報はシャットアウトして。
考仁なんて、必要なら火中の栗拾いまくりますよ?」
「フフ、そうね。一際優しいからね、勾玉の御子は。」
クイーンは読んでいた古い書物をパタンと閉じた。
先ほど、考仁の様子を覗きにいった隙に志ケ浦の戦術本を一冊盗んできたと言った。本の作者は天地平定の結界を作った術士と親しかった人物だと聞く。きっとクイーンとも面識があったに違いない。
そういえば、いつから彼女はクイーンと呼ばれているのだろうかと、全く関係ない疑問がぼんやり頭に浮かんだ。
「本人が望まずとも、渦は子供達を飲み込むでしょう。ならば、その時溺れぬように立派な船を作っておいてあげたいの。
船首をどちらにむけ、どこに舵をきるかわ、あの子達の勝手。運命に抗えないもの。どんなにはね除けても遠ざけてもね・・・。
さ、あとは、貴方が共に戦う覚悟を決めるだけよ。」
「大事なものは大事にしまっておいた方が傷つかないのに。」
「ふふ。大人しく宝箱にいる宝石じゃないってことよ。」
「自分の足で立って歩き回るのに、どうやって守れと・・・」
「あら、子育てに悩む母親みたいな事いうのね。」
「せめて父親と行って下さいよ。というかクイーン、子育てしたことあるんです?」
「失礼ね。天地平定で預かった子らを何人育てたと思ってるの?」
「ああ、そうでした。初代御影様を育てたの貴女でしたね。」
満足したのか、本を持ったままクイーンが姿を消した。
顕微鏡を覗いたりデータ整理をする気分にはとてもなれず、白衣を脱ぐと家を出て外廊下に出る。
この集の元々の名前は知らない。ただコンクリートの馬鹿でかい家を左右対称に作っただけの施設。
そこそこ大きさがあるので、人は沢山いたのだろう。
どうして廃墟になったのか知りたくもないが、血痕や荒らされた跡は無かったから、此処を捨てて移住しただけなのかもしれない。
たしかに此処は不便な場所にある。
中央区から離れているので支援物資の運搬は困難を極めただろうし、岩場の隙間に作ったせいか肌寒く息苦しさがある。
だが、左右には岩の隙間に出来た細い道しかないので防衛面は心配がない。
今は篠之留の結界で十杜などは一切入ってこれないが、彼が力を解除した後でも門か柵で蓋をしてしまえば要塞になるだろう。
ここ数日、クイーンが手配した業者達は入れ替わり立ち替わり足を踏み入れては事前の点検や見積もりを進めている。
すでにある建物の外枠を利用しつつ、中身は大胆に改装すると言っていた。
天井にライトを埋め、センサーやカメラも設置していくとか。
本当に要塞にするつもりなのだろう。
たった2人―いづれ3人か4人になるだろう―の子供たちを守るためだけの要塞が。
ズボンのポケットから煙草の箱を取り出し一本くわえて、何度かライターをカチカチ鳴らして火を付けた。
雨条鏡子が訪問し沙希を連れていった夜のことだった。
夜中に近い時間、美也子が寝た後に考仁が瑛人を連れ出したので、篠之留はこっそり後をついていった。
篠之留の居住がある場所からずっと離れ、細い道を辿った結界内ギリギリの元水路の近くで、考仁は足を止め瑛人に向き直った。
「誠さんやイツキさんがいたら気を遣うだろ。」
「考仁?」
「素直になっていい。俺には本当のことを言ってくれ。」
夜中に呼び出されて困惑していた瑛人だったが、問いかけに心当たりがあるのか、そわそわと目を泳がせた。
「よくわからない・・・。僕、眠いから帰る。」
「本当は、地上に行きたかったんだろ。真人のところに居たかったんだろ。」
冷静だが、確実に胸の奥を見透かした考仁の静かな声に、瑛人の顔がどんどん歪んでいった。
泣くのかと思ったが、意外にもむき出しにしたのは怒りだった。
「ぼ、僕が・・・!必死で考えて我慢したのに!どうしてそれを否定するようなこと言うの考仁!!」
「うん、ごめん。」
「考仁だって話聞いたでしょ?真人は悪い神様に狙われている。この世界に神様は本当にいるんだって和輝さんも言ってた。
神様に奪われたら、きっと真人とは二度と会えないんだ!都羽子さんや和輝さんみたいに、動かなくなっちゃうんだ!
そんなのいやだよ!まだ、元気で、生きてる方が・・・!」
「俺達以外の他人とか?」
「っ!」
「都羽子さんと和輝さんじゃない他人が親になって、地上の子供たちと話したり遊んだりするんだ。そこに瑛人がいないのはおかしい。」
「なんで・・・なんでっ・・・!」
瑛人の鼻上に皺がぐっと寄って、目に溜まっていた涙が自然に落ちる。
何かを抑えようと必死にシャツの裾を握っていたが、やがて涙と一緒に本音がこぼれた。
「なんで真人に会っちゃだめなのぉ!」
瑛人の泣き声が周りのコンクリートに反響して重なって揺れた。
結界内なので十杜に聞かれる心配は無い。
地上で見た、わんわんと、おもちゃをねだって駄々をこねる子供みたいだった。
いつも大人しく引っ込み思案だった子供の、純粋に子供らしい素直な一面を引き出せるのは、やはり心を許した家族だけだったようだ。
「僕の弟なんだ!!!たった一人の・・・僕の・・・!」
「血は繋がってないが、俺も沙希も瑛人の家族だ。まだ此処に残ってる。だから、大丈夫だ。」
「やだ!真人がいい!」
「そう、だよな。」
幼子のような駄々を、考仁は必死に受け止める。兄とはいえ、彼もまだ15歳である。
心もまだ未熟で、彼も大事なものを失ったばかりだが、目の前の大切な家族のために、必死に言葉を紡ごうとしている。
きっと、何を言ったらいいか、どう伝えれば瑛人に届くか迷ってる。
不安が眉に乗っていた。
「起きた真人が最初に見るのは僕のはずだったんだよ!?知らない地上の人じゃない。」
「うん。」
「僕はずっと待ってたんだ!なのに、なのに!」
「うん。」
瑛人の顔は濡れてぐちゃぐちゃで、もう喋ってるのか泣き声なのかわからなくなっていた。
「瑛人、真人に会いに行こう。」
泣きわめいていた瑛人の声がぴたりと止む。
「沙希の叔母さんは、上に行くなら俺も一緒でいいって言ってた。ということは、俺も結界を超えられる。理由はわからない。
通れるけど、イツキさんや沙希のおじいさんがダメだと言っていた。
それにはちゃんとした理由があるはずなんだ。
今は言うとおりにしておいた方がいい。俺達は、まだ子供で、知らない事が多すぎる。
勝手に動いて、本当に真人が危ない目にあったら大変だ。
だからちょっと待っててくれ。俺が必ず合わせてやる。」
それが現実味をまったく帯びてない希望的観測だと考仁も言いながら思っていた。
それも嘘ではない真意は、瑛人にも届いたのであろう。
涙はピタリと止まり、唖然としたような、ぽかんとした顔で生真面目な顔をした兄を見上げていた。
「まだ全部話してくれないけど、俺が必ずイツキさんに話を聞いておく。
勉強も沢山して、準備を整える。出来ることがわかったらすぐ動く。
少しだけ、もうちょっとでいいんだ。俺に時間をくれないか。
必ず真人のもとへ――」
突然、考仁の腹部に、瑛人が勢いよく抱きついたた。
不意打ちに体が支えきれず、考仁は尻餅をついて二人一緒に倒れ込む。
鼻をすする音がお腹のあたりから聞こえてくるが、もう瑛人は泣いてはいなかった。
考仁は、きつく抱きついてくる弟の髪を撫でてやった。
「僕もやる。」
「うん。」
「僕も、勉強する。僕も・・・一緒にやる。」
「ああ、一緒に真人に会いに行こう。もちろん、沙希にも。」
あの後篠之留は何も言わず自室に戻った。
それから少しして兄弟も元誠の部屋に戻ったのを確認した。
翌日何事も無く朝食を食べている姿を見て、子供だと侮っていた自分を恥じた。
紫煙を遠くの岩肌めがけ噴き出す。
白い煙は匂いだけ漂わせながらすぐどこかに消えてしまう。
きっと大人達は、この煙と一緒に吐き出したい何かを混ぜて消してしまおうとしているのだ。
自分も幼少期、そんなことを考えたことがある。
「イツキさんも煙草吸うんですね。」
廊下の向こうから本を抱えてやってきた考仁が、特に驚いてなさそうな表情と声で言った。
当たり前のように隣に並んでくれるので、無意識に煙草を持つ手を変え彼から遠ざけた。
「たまにね。誠と住むようになってからは、美也子に室内の喫煙を禁止されたから、滅多に吸わなくなったけど。」
「天御影は火を嫌うから、喫煙する人少ないと聞きました。でも志ケ浦さんもクイーンも吸ってます。」
「意外と年長者は喫煙者多いよ。昔和輝さんも喫煙者だったって知ってた?」
篠之留の喫煙に関してはノーリアクションだったのに、考仁は義父の情報にやや目を見開いて首を横に振った。
「都羽子さんと出会ってからは完全に止めたらしくて、このライターは和輝さんにもらったやつ。」
「知りませんでした。」
「そういえば、和輝さんも悪友に教えられたとか言ってたなー。俺が出会った時は都羽子さんと結婚してたし、友達の話したことなんてないけど。お前、聞いたことある?」
「いえ、一度も。」
「意外と、他人のことなんて知らないもんだな。というか、何でも知ろうってのがおごりなのかもね。」
煙草の持ってない方の手で、考仁の髪を撫でる。
誠と同じ年頃のせいか、ついつい弟のように接してしまう。
「お前はえらいね。いつも弟妹のことを優先してさ。」
「俺には家族しかないから。空っぽだった体を人間にしてくれたんです。感謝してもしきれないし、感謝なんて感情を教えてもらったのは家族ですから。」
「今わかったよ。お前に抱いてたのは親近感だ。俺もどうしようもない野生児だったのに、人間にしてもらった恩がある。」
前髪をくしゃりと撫でると、くすぐったそうに考仁は目を瞑った。
その表情が子供らしくて、笑ってしまう。これが愛しいという感情だと、最近知った。
「一人で背負わせない。俺も一緒に立ち向かってやるよ。めんどくさいけどね。」
申し訳なさそうに、遠慮がちに微笑む少年は
本を抱く手に力を込めた。
その夜ようやく、篠之留は兄弟に全てを話した。
神話のこと
シンのこと
ヒモロギについて
未来について―
兄弟は黙って篠之留の話を聞いて、真面目に受け止めてくれた。
その様子を見て、篠之留は肩の荷が下りる感覚と頭が下がる思いというのを同時に味わった。
大丈夫、まだ終わりじゃ無い。
むしろここからだ。
自分にもやれることは、まだあるはず。
そう予感していた。