神宿りの木 たまゆら編 10
立派な鎧を纏った男達が武器を手に進軍している。
100人はいるだろうか。
皆勇ましい表情で肩を怒らせながら大股で歩き続けている。
左右に流れていた田畑の風景が、がどんどん痩せた土地に変わっていく。
草木はなく、地面は乾ききっている。
空は曇だし、分厚い黒い雲が所々で鎮座するようになる。
進軍は止まらない。
男達は、長い長い坂を下っていた。
乾いた土が延々続き、次第に視界が明るくなってきた。
晴れたからではない。黄色い霧に包まれだしたせいだ。
霧は明瞭さを増していき、体に纏わり付く不快感が高まる。
やがて、坂が終わる。
彼らの前に、巨大な両開きの門が現れた。
どんな建物より高く頑丈に建てられた木製の門は厳かではあるが華美さはいっさいない。
最低限の堀がされているだけで周りを囲む塀の立派さから、ずいぶん分厚い門であると見て取れた。
門の前に、小柄な女性が一人立っていた。
水色の髪をふくらはぎまで伸ばし、髪と同じ色の袖の無い着物に白の領巾。
近づいてくる群衆に怯えた様子もなく、優雅にお辞儀をして見せた。
先頭にいたひげ面の男性が難しい顔をしたまま問う。
「此処は黄泉か。」
「ええ、そのように呼ばれております。」
返って来た声は涼しく、丁寧でもあり控えめだが、しっかりとした芯を感じた。
この夢を見ている真人は、この人は違う。と本能的に察した。
膝を折り頭を低くしているため、長いまつげがよく見える。
むき出しの白い肌に赤く小さな唇。なぜこんな美女が黄泉の門にいるのか。
見たところ、人間ではなかった。かといって神でもない。
今はそれを聞いている暇はない。
「黄泉の王はいづこか。」
「奥でお休みでございます。」
「お前は黄泉の住民か。」
「はい。」
「ならばお主が中を案内せい。」
「それはどうかお許し下さいませ。此処は死んだ魂が行き着く場。皆様方はまだ生者でいらっしゃる。この門の先へは行ってはなりませぬ。」
「我々は神の子らぞ。生も死も持ち合わせてはおらぬ。だが、縁者が次々魂を抜かれてしまっている。
これも全て黄泉王の仕業と見た。王を出せ。我が子の魂を返してもらう。」
「ご勘弁願います。どうか、お帰りを。」
態度を変えぬまま言い放つ女の淡々とした声に、ひげ面の男が腰から剣を抜き切っ先を眉間に突きつける。
「我らはこの世界を想像せし造化三神の子孫なり!穢れた人間のように我らの命すら好き勝手にしようなどと企む黄泉の王、我らが父神様に変わって成敗してくれる!」
「お帰りを。お帰りを、どうか。」
そればかり繰り返す女に、ひげ面の男は何も言わぬまま、いきなり女の肩口から下腹部へ斜めに体を斬りつけた。
女の細い体はあっさり崩れ、仰向けに地面に倒れた。
女を斬ったのは。子供が溺れて死んだと嘆いていた父親だった。
ひげ面の男が何か叫び周りを鼓舞すると、男達は近くに生えていた桃の木を切り始める。
木こりのように息を合わせあっさり根元近くで伐採すると、余分な枝を落とす。
太い木の幹を全員で持ち上げると、それで門を叩き出した。
ピッタリ揃った掛け声を発しながら4,5度叩いただけで、門はあっさり口を開く。
倒れたままの女の死体を気にすることなく、男達は桃の木を放り、武器を手に黄泉の国に侵入した。
黄泉の国がどうなっているか。誰も知らない。
誰も入ったことが無いからだ。神々ですら。
国というからにはさぞかし煌びやかな都でも出来ているのかと思えば、
中には木製の小さな小屋がいくつかあるだけで、枯れた木と乾いた地面しかない。
黄色い霧は相変わらず充満しており、土も黄色く変色している。
辺りを見回した彼らは、黄泉王を探せ!と躍起に叫びながら、小屋を丁寧に壊し始めた。
怒りが静まらないのであろう。足で扉を蹴り、壁を叩き、家具を叩く。
それでも足りぬと言いたげに、火打ち石で木の枝に火を移し燃やし始める。
群衆の半分以上は、破壊活動よりまず奥を目指した。
黄泉の国は奥に行けば行くほど何もない。池や大岩があるだけ。
きっと此処に黄泉王はいると信じ、男達は破壊の限りを尽くしながら細部に渡るまで捜索を続ける。
その光景を真上から見ていた真人は、門の前で踏みつけられ放置された女の死体が、ビクンと震えたのを見た。
顔は毛量ある水色髪に隠れてしまっているが、呼吸している様子はない。
斬りつけられた傷口が、黒く染まっていた。血の色と全く違うし、闇の黒とも違う。
じっと眺めている内に、傷口が蠢いた。
中からウジ虫のような黒い何かがうねうねと動き、ドロドロとしたものが流れ出す。
半液体のスライムみたいなネバついたそれらが、傷口から空に向かって伸びだし、女の背中が反った。
ゆっくりと傷口が広がり、黒いうねりは女の頭より大きくなり、そして、爆発して一瞬で辺りにばらまかれた。
木箱を破壊していた男が、急に咳き込みだした。
火を持って叫んでいた男は、腹を探って首をひねり出す。
黄泉の最奥で洞窟を見つけた男達は、必死に閉ざされた口を開けようと指に力を入れていたが、
その指が急に赤くなり皮膚が落ち始めたので何事かと己の手の平を見下ろした。
ほとんど同時であった。
100人近くいた男達の鎧が地面に落ち、むき出しとなった肌が赤黒く変色した。
ある者の頬は溶け目はたるみ、ある者は口が裂け歯がむき出しに。
肩と太ももが急に誇大化し、体が引き延ばされひどい猫背姿になる。
そこに居たのは、痩せこけた異様な姿の鬼妖であった。
神の子と名乗っていた男達は、化け物に成った。
「あれがシンです。」
傍らの女神が、急に話し出した。
話せないものとばかり思っていたが、神妙な顔をしたまま眼下の光景を難しい顔で見下ろしている。
その横顔は相変わらず美しいのに、纏う気配が少し張り詰めたように感じた。
「落ちた神々の子、と呼ぶわけにはいかず、神という字のもう一つの読みとして名付けました。」
「細いけど、あれは鬼妖なの?」
「正確には違います。シンを封印した神の檻から抜け出そうともがいた彼らが産んだのが、鬼妖と呼ばれる生物です。
当初彼らは、鬼妖を使って自分達を閉じ込める檻を破壊しようと試みました。
私はそれを阻止するため、天つ神様のお力を借り、そして自らの厄を司る力で鬼妖を人間に変えました。」
「赤畿のことだね。」
突然化け物になったことに理解が及ばないのか、痩せ醜い化け物たちはぼんやりその場に立っていたが
それが自分の新しい姿形だと嫌でも気づいてしまい、絶叫しながら暴れ回る。
突然神の子が化け物になったら、たしかに現実を受け入れられないだろう。
「あの者達は、長い時を経て、個であることをやめ、一つの意識の集合体に融合しました。
曲がりなりにも神であったために、黄泉の穢れを受けたことで、悪い変化が起きてしまい
因果を産み、柵を絡ませる術を身につけました。厄災の神である私が傍らで奴らを監視していたせいか、もしくは鬼妖を人間に変えたせいでしょう。
神や動物にはあまり関係ありませんが、短命であり感情や思考で動く人間相手では、非常に相性が良かった。
シンは、いつか自分達を解放する駒が揃うように、人間の運命とやらを操作し始め、いつかの未来に希望を託したのです。
幸いにして、黄泉から吹き出た穢れの影響で天つ神は完全に芦原に降りることが出来なくなってしまったのですから、彼らのやりたいように葦原は変えられていった。」
「彼らは、神に戻りたいんだね。」
鬼妖同士で争ったり、焼けきらぬ小屋や岩に八つ当たりをした鬼妖立ちは
ひとしきり暴れ回りすっきりしたのか、黄泉の国を出て長い坂を上がっていく。
長い手をぶらぶらさせて、猫背のまま進軍する彼らが
つい先ほどまで鎧を着た勇ましい男達だと誰が信じてくれるだろうか。
「私は、天災や病を恐れた人間が神の仕業だと納得するために生まれた厄災の神。
大半の人間には嫌われておりましたが、私を祀ることで厄災を逃れることが出来ると慕ってくれた人間もいます。私は人間を愛しています。
それに、本来私が担う役目をシンに奪われましたが、穢れから生まれた私だからこそ、助けなくてはならないのです。」
「誰を?」
「我が主。そして、大切な友を。」
視界が急に歪み、場面が変わる。
地上世界に戻ってきたようだが、様子は一変していた。
神々と人間が暮らしていた集落の田畑は枯れ、建物は朽ち、死骸がそこらじゅうに転がっている。
空は赤黒く変色し、地面は枯れ、黒い霧が辺りを彷徨っている。
動いているのは、肌の赤黒い鬼妖に似た化け物だけだった。
化け物は、まだ腐りきっていない人間の死体を食い荒らしていた。
その馬鹿力で腕を引きちぎり、はらわたを咥え、足に噛みつく。
吐き気をもよおしそうな光景に、隣にいたマガツカミが長い袖で真人の目を覆った。
「大丈夫、大丈夫だよ・・・。」
夢の中にいるのに、青白い顔をした真人が震える声で答えながら、彼女の腕を降ろした。
「黄泉の国が壊されたことで、地上に穢れが充満したのです。
化け物となった神の子らは、ああやって人間を襲って全滅に追い込みました。」
「全滅?じゃあ僕ら人間は、どうしてまた地上に?この土地だって―」
「あれを。」
マガツカミが指差した方に顔を向ける。
一本だけ、生きた木があった。
こんな枯れた大地には不釣り合いな立派なその木は、金色に輝いていた。
青々とした葉を茂らせ、枝は横にも縦にも伸び、太く凜々しい幹でどっしりと構えている。
樹木の周りには注連縄が張られ、その周辺だけ、綺麗な草が茂っている。
幹や葉から金色の粒子が生まれ、それに向かって真っ直ぐと飛んでいる。
まるで天と地が繋がっているような。
この寒々しい世界で、あの木だけが暖かかった。
化け物達も、その木には近づこうともしない。
真人は、その木に見覚えがあるような気がした。
枯れた大地に、動く影があった。
黒い固まりのように見えたので、最初はもやが固まって歩いているのか思ったのだが、どうやら生きた人であった。いや、人間はこの世界で生きてはいけない。
その人は足下、背後に黒いもやを携えながらも、金色の木に向かって歩き続けている。
水色の長い髪に、重そうな水色の衣をまとっていたが、袖はなく細く白い腕がむき出しだった。
従うもやはゆったりとした足取りで女性の後を追うが、もやが通る度大地はさらに割れ、なんとか立っていた枯れ木達は生気を吸い取られ幹からポキッと折れた。
化け物達は木より遙かにその女性を嫌がり、駆け足でどこかに去ってしまう。
空気も振動し、遠くで雷が落ちる。
女性は優雅な足取りと、口元に笑みを宿したまま、金色に輝く樹木を囲む注連縄の前で足を止め、深々と頭を下げた。
「葦原は死んだ。」
低い男性の声が響く。
重厚で気品あり、穏やかで慈愛を感じる声音だった。
金色に光る樹木の前に、一人の男性が現れた。
白い衣に、赤い腰紐を巻き、腰に剣を、首から水色の勾玉を提げている。
眉は一本線を描き、どこか憂いだ瞳は美しく、ほっそりとした体は完全な大人というにはまだ若く感じる。
真人はその人を見て、少し驚いた。
兄瑛人に似ている気がしたのだ。そして、自分にも。
金色の木が脈動し、天に向かって伸びていた粒子が大地に空気の波紋として広がる。
袖なしの服を纏った女性に付き従っていたもやが完全にかき消され、大地が少し息を吹き返した。
「見よ。神によって生まれた土地が、神によって滅んだ。神が産んだ生き物は皆絶えた。これもまた因果なものよ。」
顔を上げた女性から、またもやが生まれだした。
この暗がりで異様なほど、気味が悪いほど白く冷えた肩を滑りながらもやが吹き出し、足下に落ちる。
「お主、黄泉の王ではないな。」
男性が眉間を寄せ訝しんだ表情を向けると、女性はニヤリと笑った。
顔に影が差し、白い肌がみるみるドス黒くなり顔が溶けていく
体の内側からドロドロとした黒い粘り気のある何かが吹き出し、あっという間に人の形ではなくなった。
液体のようになった黒い塊が地面に落ち水が染みるように広がっていく
溶け出した黒い闇から、先ほどの女性がうずくまって眠っていた。
水色の長い髪も服装も同じだが、腕だけが人間のそれと違って関節意外同じ細さで気味悪さがある。
女性を吐き出した黒い塊が、彼女の脇でまた一つに纏まり、心配そうに女性の顔を見下ろした。
その女性を見た男性が、静かに息を吐いた。
「・・・そうか。わざと主の姿を真似て、腹の中で必死に守っていたのだな。」
黒い塊がその体を震わせ、何かを訴え出す。
男性は片膝をつき塊と目線を合わせる。
言葉を発していないのに、言いたいことを理解出来たのか、男性はしっかりと頷いた。
「よく此処まで送り届けた。後は私が受け持とう。」
男性の目線に会わせて背丈を縦に伸ばした黒い塊は満足したのか、体を震わせるのをやめ
大きな球体に姿を変えた。
再び樹木が脈動し金色の粒子が周囲に広がると、黒丸の体が手の平より小さくなった。
男性は横たわる女性を抱き上げ樹木の根元に座らせると、首に下げていた首飾りを彼女の手に握らせた。
勾玉が僅かに輝いた。
「人間から落ちた穢れを受け入れてくれたというのに、受け皿である黄泉の国は壊され、穢れは地上に吹き出した。
だが、そなたの努力を無駄にはさせない。私がその役目受け継ごう。
どうかゆっくり休むといい。」
男性は立ち上がり、手近の細い枝を折り手に持ってから樹木の幹に手を上げ、天を仰いだ。
彼が大声で何かを叫び出したと同時、真人の体が急に後ろに引っ張られた。
樹木と男性がどんどん遠くなるが、隣に寄り添ってくれていたマガツカミはその場に居続けた。
このまま別れてしまう木が居て、真人は女神に手を伸ばす。
「マガツカミ!」
「どうか、主と神樹様をお助け下さい。絡まった柵が、お二人までも食べてしまおうとしているのです。また世界がこのようになる前に。真人様、あなただけが――」
声がどんどん遠ざかったせいで、最後の方は聞き取れないまま真人の体はその夢から追い出されてしまった。