神宿りの木 たまゆら編 8
ふわりと。
なびく白いマフラーが背中に落ちるより早く、沙希が廊下に着地した。
「お待たせ。八千代鶯の巫女から、鏡の形代持ってきた。」
「ご苦労様。少し休むかい?」
「平気よ。」
天井にまだ残っている埋め込み式ライトの明りが、沙希の真っ黒な瞳に吸い込まれていく。
胸の奥の奥、その芯すら見透かされそうな真っ直ぐで強い瞳が瑛人を正面から映す。
その目は幼い頃より大分鋭く隙が無くなったように思うが、この子の優しさはずっと変わらない。
「民はもう天御影にいない。今なら大丈夫よ、瑛人。」
「わかった、ありがとう。」
「ここまで長かったわね。」
沙希も兄達と同じように廊下の向こうを見下ろして、そう呟いた。
「そうかい?あっという間だったな。」
「神々の恩恵が無い世界で、皆戸惑うわね。」
「結界は半永久に続くよう設計してある。十杜も鬼妖も入れないから、<シンジュ>石も不要になる。大丈夫さ、人間は思っているより図太く逞しい。薄暗い地下世界でも適応して社会を作れたんだ。問題ないよ。」
瑛人の声に違和感を感じて、顔を向け首を傾げる。
「どうかしたの?」
「いや・・・存外、実感が湧いてないのかもしれない。この瞬間に立つことを待ち望んでいたのに。
すまない、二人とも。今日まで付き合わせたね。」
「謝ることはない。俺も沙希も、自分で決めた。俺達にとっても、真人は大事な家族だからな。」
「そうよ。それに私は守姫よ?真人を守るのは私の仕事で望みだわ。この世界を終わらせるつもりもない。」
別々にこちらを見つめてくる兄妹達の視線に、瑛人はかすかに微笑んだ。
だが顔を前に戻した時、もうそこにいるのは気の優しい次男ではなく、綴守の司令塔であった。
頬をかすめる空気が殺気立つ。チカチカと照るのは電気のように痺れる力の流れだった。
すべてはこの時のために―――必ず真人を救い出す。
「・・・それじゃあ始めようか、神殺しを。」
瑛人のかけ声を合図に、3人は綴守1階の正門前に立っていた。
3人を起点にして、青白い光が水面のように円形に伸び綴守の建物、岩肌の天井に伸び空間全体を包み始める。
光は柱や壁にまで這い、波紋が触れた箇所から古代文字が浮かび上がりやはり青白く灯る。
宙にも細かい光の粒が浮かび、まるで蛍のように舞い上がった。
綴守全体が青く照り、足下から差し込む灯りが3人の輪郭線がはっきりとなぞられる。
沙希の黒髪も静かで深い瑠璃色のグラデーションに染まる。
向き合うように並ぶ3人の目の前が歪み、空間を割ってそれぞれの前に神器が現れた。
沙希の前には剣、考仁の前には勾玉。そして瑛人の前には鏡。
どれも古い時代のデザインで、銅か鋼で造られており宝石などの装飾品は無い変わりに、厳かな佇まいと無言のプレッシャーを放っていた。
それらが出現した直後、正門の向こうから金切り声がかすかに空気を震わせた。
彼らが張った結界の外側、ちょうど口を開けている正門の向こう側に、赤い霧が現れたのを瑛人が横目で確認する。
霧の体で、正門の間にある見えない壁を叩き続ける。
次いで、天御影全体を激しく突き上げる揺れが襲い天井の岩肌がミシッという音を立てたが、結界内の彼らに影響は無かった。
シンが焦っているのが手に取るように分かる。彼ら御子が何をしようとしているのか察したのであろう。
今この瞬間、彼らはシンよりも立場は上であった。
神器が浮かび上がり、頭上高くでぐるぐると回転を始める。残像が青い線を描き、特殊なフィールドを形成する。
神聖な光が主に刃向かうもの全てに睨みを利かせているような圧が生まれていた。
2年前。
シンを封印している結界を緩めるため神器を使った。
結界を緩めることに成功はしたものの、反動でシンの柵に絡め取られ神器・鏡は割れてしまった。
帝一族の資格も完全に無くしてしまい、本来帝一族の血族には不要であった御子の力―青い炎が使えるようになってしまった。
体も弱り自分では歩けないほどになったが、たった一人の肉親を救うことだけを頼りにここまで回復させた。
今使用している鏡は形代だが、儀式を経て神力は取り戻している。問題はない。
「神の子であると思い上がり人間を家畜の用に扱ってきた。死が手招いたのもその傲慢さが原因だと気づかなかったのがそもそもの罪。
封印されてもなお柵で人間を操り続け、鬼妖を生み出し続けた愚かなる者ども。
天つ神に見放されたお前達を、此処で完全に消し去る。
神籬を使って天つ神に帰還しようと企んでいるようだが、お前達にその資格はない。初めからな。」
侮蔑を含んだ鋭い言葉に赤い霧が一層色を濃くし体を膨らませたが、瑛人はもうそちらを見ていなかった。
頭上で回り続ける神器を見守りながら、自分達の体が神器と一体化していく感覚に身を任せる。
もうすぐだ。もう少しで真人は神籬という役目から解放され普通の人間に戻る。
穢れの内側で守られた新たな地上世界で共に生きられる。もう何者にも邪魔をされず、自由に生きて行けるのだ。
失敗作として生まれ一度は捨てられた自分も、御子という柵も、運命という足かせもなく、ただの人として生きられるのだ。
もう水槽を見上げて待っているだけの子供ではない。
自分で掴みに来たのだ、未来を。
綴守だけではなく天御影全体に結界を張り巡らせ終わった神器達が回転をやめ、長い時の間に溜め込んだ神力を放出し始める。
もはや人間のいた次元ではなく幽世に書き換えられた地下世界に黄泉が引きずられ顔を出す。
体を巡る神の力が、シンが封印されている場所を探り当てた。
―ああ、そこにいたのか。
あとは顔を出した黄泉の国に異空間と化した天御影をぶつけ、吹き出した穢れを操ってシンを消滅させた後、地上を覆うだけ。
手筈は全て整えてある。発動すれば自動で事が成せる。
前に立つ沙希と考仁は目を閉じ神器と一体化している。
二人の顔を眺めながら、瑛人はどこかホッとしていた。兄弟達とも、これでやっと普通の暮らしというものをさせてあげられる―。
―――鏡の面にヒビが入った。
次に刀がどろりと解けて朽ち、勾玉が粉々に砕けて消えた。
ハッとして目を閉じていた二人も顔を上げ、地下世界全体を包んでいたはずの力が一気に収束し消えたのを確認する。
綴守の柱や壁に刻まれた古代文字は消え、目映いほど青白かった灯りはふいに消え元の薄暗い空っぽの建物に戻る。
「瑛人様!」
あまりの出来事に唖然とする3人を呼ぶ声がした。
正門の向こうに待機していた茜音だった。
彼女の足下は黒いもやに包まれており、一瞬のうちにもやが全身を覆い、彼女の体は消えてしまった。
それがどんな意味を示すのか、3人は理解したが、飲み込むことが出来なかった。
茜音は枇居名という帝に降りかかる厄を肩代わりする形代の一族。
今は主の真人を守る役目があった。その彼女が消えたということは、主である真人に何かが起きたということ。
失敗という本来ありえない文字に、瑛人の思考が現実を拒絶する。
沙希が瑛人の名を叫んだと同時、コンクリートの床を割って何かが複数現れた。
視界が大きく揺れ足下から突き上げる衝撃に膝が地面にぶつかる。
現れたのは黒い触手のようなものであったが、体は半分透け、中に赤い実のようなものが埋まっている。
赤い実は、わずかに脈動していた。うねる触手は何本も何本も床から生え、その体をうねらせながら綴守の壁や床、渡り廊下を叩き付けながら壊していく。
沙希がいち早く反応し、足下を狙う触手を回避しながら降り注ぐ瓦礫を刀で弾く。
まだ動くことが出来ない瑛人を抱えて考仁が後ろに逃げる。
考仁が耳元で何かを叫んでいたが、瑛人の頭には入ってこなかった。
現状が受け入れられず、上へ上へと伸びつづける一際太い触手の姿を目で追うことしか出来なかった。
「あの触手、地上を狙う気よ!今結界はないもの。たやすく上れる。」
「俺達も地上に行くぞ。おい瑛人しっかりしろ!」
大小さまざまな瓦礫が雨のように降り注ぐ。
無限かと疑う程に何本も生えてくる触手によって、第二の家が粉々に砕かれていく。
形成は逆転、術式も解かれ奴らの独擅場だった。
―失敗するはずがない。ではなぜ、神器が割れた。あれはもう天つ神の持ち物ではなく、御子の独立した力だったはずだ。
なにがそうさせた。どこで間違えた。
(まだ隠された真実があったというのか・・・?どこにいるんだ、真人・・・。真人を、見つけないと・・・。)
執拗に綴守を襲う触手から逃れ正門の向こう側で一旦足を止めた。
自分で立つことすらしなくなった瑛人を考仁が無理矢理立たせようと苦戦する脇で、沙希の刀が青い粒子となって消えるのを見た。
沙希は信じられないといった顔で自分の手の平を見下ろした。
指先が震え、いつも落ち着いた深みのある黒曜石のような瞳は、今大きく見開かれ揺れている。
考仁も沙希の異変に気づいた。
「沙希、どうした。」
「刀が・・・出せない。」
「何だと?」
「主である真人に、何か――」
言いかけたところで、蔓のような細い黒触手が後ろから沙希の体を捕まえ縛り上げた。
考仁が手を伸ばすより早く、鞭の用にうねる触手が沙希の体を持ち上げ、細かく振る瓦礫の合間を縫ってどこかに連れ去ってしまう。
名を叫び後を追ったが、綴守の領域内に入った途端、暴れ回る大きな触手が天井の岩肌を叩き、頭上に巨大な瓦礫が降ってくる。
瑛人が最後に聞いたのは、自分の名を叫ぶ考仁の断末魔に似た大声だった。