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​4.赤と夜と青


真人は急に浮上する意識に引っ張られて、目を開けた。
今は夜。

自室のベッドの上で寝ていた彼は、肌寒さをまず感じた。
昨晩、窓を開けっ放しで寝ていたらしい。真夏とはいえ夜更けから夜明けは肌寒い。
開け放した窓から、話し声がする。
目に映る天井に、赤い光による点滅が反射していた。
話し声は近くで聞こえる。片方は兄の声だった。これは夢じゃないとわかると、体を持ち上げた。頭も体も意識も重かったが、窓の傍に行ってみる。
赤い点滅の正体はパトカーだった。
玄関の斜め上にある真人の部屋から。我が家の前にパトカーは横づけされているのがはっきり見え、玄関口に誰かが立っているのもわかる。
何かあったことは明白だった。
真人は寝起きの格好のまま階段を駆け下りた。
玄関に半袖制服の警官が一人、中途半端に開いた扉に挟まれるように一人。
計二人の警官の前に、兄が立っていて、弟が降りていたことに気付いた警官に続いて振り向いた。
兄の顔は、真っ青だった。
冷たい海に何時間も浸っていたときのような血色の悪さ。
兄は警官二人に何か声を掛け、頷いた警官は一旦玄関を出て行ったが、扉横にある擦りガラスにはばっちり影が映っていた。パトカーの赤いサイレン色の影は、気味が悪い。
扉がしまってから、瑛人は動き、真人の前までくるといきなり両肩をぐっっと掴んだ。


「兄さん…?一体、何がー―」
「落ち着いて、聞いてくれ。」
「?」
「母さんと威さんが…旅先で、自殺、したって…。」


真人には、今兄が発した言語が理解できなかった。
耳には確かに届いて音を鼓膜がちゃんと聞き分けたのに、脳みそが理解できなかった。
知らない国の言葉を投げつけられ頭をひねるしかない。
しかし、数秒立つと、言葉が急に形になって頭のなかで振動しだした。自身を主張するかのように。
“カアサンガ、ジサツシタ”
言葉は変換を繰り返し、ゆっくり確実に、そして残酷に浸透していく。


「え、なんて…」
「旅行先で、海に飛び降りたって、今警察の人が知らせにきてくれた。」
「兄さん、僕わからないよ。」
「死体は現在捜索してくれてるらしくって、俺、立ち会ってくるから。」
「兄さん、」
「孝仁に連絡して来てもらうから、大人しく待っててくれ。」
「アキ兄ぃ!!」


兄が動揺しているのは目に見て、耳に聞いて明らかだった。
唇も声も、下手したら瞳孔までも震えている。
理解できない状況が無理やり頭の中に入ってきて暴れまくってる症状は、兄も同じだった。
受け入れたつもりもないのに、勝手に巻き込んでくる現実という毒。
腕も体も震えさせながら、瑛人はそっと真人を抱きしめた。
片方の不安により、真人の混乱はどんどん落ち着いていく。
普段冷静な兄の動揺っぷりに、頭が心がしゃんとしだしたのだ。
だって、今誰が兄を支えねばならないかなんて明白だ。


「兄さん、僕も行くよ。」
「大丈夫だ…。お前はここにいてくれ。何かわかったら連絡するから。」
「ねえ、今はさ、考えるのよそうよ。今だけ。せめて夜が明けるまで。こういう時こそ落ち着かなきゃ。」


自分が冷静なのか、パニックで頭がおかしくなってこんな無責任な提案をしたのか、正直真人自身にもわからなかった。
ただ、瑛人の震えが収まったことは確かだ。


「僕、待ってるから。この家で。兄さんには、僕がいるじゃない。」
「ああ。」
「すぐ帰ってきてね。」
「そうする。」


兄はすぐ着替えて警察と一緒にどこかへ行ってしまった。
近所の人が家の中で立ち尽くす真人を覗いたりこそこそ話したりするのは耳にうっすら入ってきたが、誰も門を超えて尋ねることをしなかった。
残酷なのは現実よりも群衆だ。
赤いサイレンもなくなって、こそこそ声もなくなって、虫の声だけがする静かな夜に変わった。
空はどんどん明るくなっていくのに、真人の思考は止まったまま動いてくれなかった。
考えないようにしてみたら、本当に何も受け付けなくなってしまったのだ。
孝仁が玄関の扉をすごい勢いで開けて入った時も、反射的におはよう、と話しかけることしかできなかった。
 

 


この街からそう遠くない場所に、温泉で有名な地域がある。
都心から近く、旅館も多い観光スポットだ。
真人の両親はその中心部から少しずれたさびれた温泉街に宿泊していた。
静かで落ち着いた場所は、新婚ではないが仲のいい夫婦が一緒に過ごすにはちょうど良かったのかもしれない。
7月の末あたりに二人はそこで一番大きな旅館に宿泊を初め、8月が数日過ぎた昨日、立ち入りが禁止されている崖に揃えられた男女の靴と遺書らしき紙が発見された。
靴を見つけてくれたのは散歩中の地域住民らしい。
兄と見ていたお昼の再放送刑事ドラマでよくあるような突き出したような崖から二人は飛び降りたと推測され、眼下の海は深く流れが激しいためまだ遺体は発見されていない。
兄が警察と一緒に明け方現場に訪ねてから、時間はあっという間だった。
連日警察が家に訪ねてきてあれやこれやと実にならない報告をしにやってくる。
ご両親のご遺体は見つかりません。現在全力で捜索にあたっています。
そんな感じ。
警察も、このクソ暑いのに大変だ、と真剣みも真摯さの欠片もない報告を聞きながら真人は胸中でぼやく。
そしてお盆直前。捜査は打ち切られ、自殺として処理された。
公務員はお盆も休みをとるのかもしれない。
兄は孝仁夫婦に手伝ってもらいながらお通夜と葬式の準備に奔走した。
遺体もない葬式に呼べる人は限られているが。
その間、真人はずっと白昼夢から覚めずにいた。
寝てても起きてもぼんやりとしていて、熱中症になったわけでもないのに1日中気分が悪く部屋にこもっていた。
葬式後は○都に行ったはずの緑延を初め、クラスメイトが見舞いに来てくれたらしいが、人と会えるほど回復していない弟に変わって兄が対応した。
真人は、カレンダーの日付さえ、下手したら自分さえ把握できないままだった。
残ったままの夏休みの宿題、数学のことだけは一時だけ心配したことがあったが、手は付けてない。
扉にノックがあり、真人が返事をする元気もないと知っている兄がドアノブを開ける。


「真人。桃那ちゃんと絵美ちゃんがお見舞い持ってきてくれたぞ。」


手に持っていたのはカットされたフルーツ達。
真人が食べやすいように一口大に兄が切ってから持ってきたのだろう。
皿を机の上に置き、ベッドに横たわる真人の脇に腰掛ける。


「二人ともちょっと見ない間に大人っぽくなったな。兄さんビックリしたよ。」


わざと明るい声音で言ってみるが、真人に反応はない。
ずっとこんな感じだった。
真人は明るくどんな壁でも乗り越えられる強さを持った子だ。
しかし、年頃の少年に両親の自殺という現実は重すぎたようだ。
瑛人も、葬式準備等で忙しくしてなかったら、真人のように現実に押しつぶされたままだったろう。
手を伸ばし、髪をそっと撫でつけてやる。
風呂にだけは毎日入らせているので、ふわふわの猫っ毛は健在だ。


「真人。」


応えないとわかっていて呼びかけてみる。
2日前の夜。真人は、洗面台の鏡を割っていた。
母親とそっくりな自分の顔を見て、幽霊でも見た気にでもなったのだろう。
幸い怪我はなかったが、その夜初めて震えて泣き叫ぶ姿を見た。
瑛人は真人とはよく似ているが、母とはあまり似ていない。
真人は中性的な外見なので余計似るのかもしれない。


「夕飯は孝仁が作ってくれるって。何がいい?」
「…。」
「外で食べてもいいし。嫌なら断っておく。」


壁の方を向いて、自分には背を向けている弟。
子供のころから犬みたいに後ろをくっついてきて離れなかったのに、反応一つみせてくれないのはさみしいものだ。
髪を優しく撫で続けていると、ふいに真人が兄の手を取って動きを止めさせた。


「どうした?」
「兄さん。」
「ん?」
「母さんは、僕たちより父さんを選んだの?」


掠れた見っとも無い声を出してから、真人は後悔した。
こんな幼稚なことを言って兄を困らせたいわけじゃない。
けど、お腹の底から押し寄せて口の外にでてしまったのだ。
掴まれた手を、瑛人はぎゅっと握り返した。強く、しかし壊さぬように。


「…俺は何があっても真人を守るよ。」


真人の質問には答えなかった。
応えられるはずもない。
母がもしかしたら、自分たちの事を重荷にしか考えてなかったかもしれないなんて考えたくもなかった。傷も乾かぬ今は、特に。
兄の手をぎゅっと握りしめたまま、真人は瞳を閉じた。
――いつの間にやら意識まで閉ざしていたようで、再び開いた時には部屋の中は真っ暗になってしまっていた。
兄の姿はない。ベッドの腕で寝返りを打つ。
あれから水分すら取ってなかったので、ひどい喉の渇きを覚えて、だらだらど体を起こす。
机の上のフルーツは当然片付けられていたが、書置きに変わっていた。

 

『フルーツは冷蔵庫に入れておきます。お腹がすいたらいつでも起こすように。 瑛人』

大切そうにメモを机に戻し、そっと部屋を出て階段を軋ませないようにつま先で降りる。
そういえば時計を見なかったが、今は何時なのだろうか。あまり興味はないが、習慣で気にしてしまう。
電気もつけずにリビングに入り、冷蔵庫を覗く。
カットフルーツの皿と、夕飯の残りと思われる皿数枚。牛乳と、麦茶と、炭酸水のボトル。
真人は炭酸を取り出して、コップに注ぎ喉を潤した。
微炭酸と甘みが一気に体に広がって、体が生き返るようだった。
次に真人は思い出したように冷蔵庫を覗いた。
目的物発見。ついでにフルーツ皿も持ち食卓に座って、先月沙希の家からもらった水羊羹を添えられた爪楊枝で食べ始める。
餡子の甘味が今度は脳を活性化させてくれた。
ここ数日、意識の脇に置いて放っておいて見ないようにしていた問題達が一気に輪郭を帯びる。
すると、母の書置きがこのテーブルに置いてあったのを思い出して急に水羊羹がのどに詰まりだす。詰まるわけもないのに、通りが悪くなった。
炭酸でそれらを無理やり流し込んで事なきを得た。
今となっては、あの書置きが最後の母からのメッセージ。兄に見せた後すぐ捨てずにとっておけばよかった。
頭の再生機はもう少しだけさかのぼる。
真人が座る席の、真ん前に、父は新聞を読んで座っていた。
顔は向けず、声だけこちらに一方的に投げつけてくる、無愛想なオーラ全開の父。
真人の頭が、炭酸の弾けるような音を奏でた。
爽快な、高音を聞いた気がする。
意味もなく爪楊枝を強く握る。
頭で導き出したロジックの答えに、なぜ始めから気付けなかったのだろう。
悲しみとは頭に靄でも発生させるのか。
違和感だらけの、簡単な話じゃないか。
真人はいても立ってもいられなくなって、小学校からの仲である女友達が持ってきてくれたというフルーツをかきこみ、水羊羹のゴミを捨て炭酸を冷蔵庫に戻すと、行動を開始した。
再び階段を音を立てぬよう慎重に上り部屋に戻る。部屋着を脱ぎ捨て着替えると、鞄に必要最低限の荷物だけを詰めてあっという間に部屋を飛び出す。
計3度階段を使っても兄は顔を出さなかった。自分のことしか考えられれなかった弟と違って兄は色々疲れているのだろう。毎日のように来客が来ていたことは真人も知っていた。
テーブルの上に、母と同じように書置きを残す。
暗がりに加え興奮していたので字がかなり汚くなってしまったが、読めれば問題ないだろう。


『あき兄へ。
2、3日出かけてきます。必ず、絶対戻るので待っていてください。』

 

急いで書いたが文面には問題ないだろう。
真人は玄関扉が音を立てないようにかなり時間をかけてから、外に出た。

 

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