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神宿りの木    吉良編 1

 


息を切らして通路を走る。
体が弱いので走るなと薬剤師から再三注意されているのに、逸る気持ちが抑えきれなかった。
枝のように細く白い足を持つ6歳ぐらいの男の子が、ぶかぶかの上着を煩わしそうに引き上げながら必死に足を前へと急かしている。
見張りの番や大人達の目が離れるチャンスは、そう訪れないのだ。
里を抜け、人が居ない細道を選びながら走り続けると、領域ラインのギリギリに立つ掘っ立て小屋が見えてきた。
汚い板で簡易的に組み立てただけの木造小屋は風が吹けば崩れてしまいそうな見た目で、屋根になってる素材も色もバラバラ。
でも彼は、あの小屋が大好きだった。
あまり体力がない子供だったので、目的地が見えたことで気が抜けたのか、足が急に重くなって、膝に手をつきながら大きく息を吸う。
肺がぜぇぜぇ言い出して、か細い気道だけじゃ酸素が足りない。頭がくらくらしてきたが、ちょうど小屋から人が出てきた。
少年よりいくつか年上のボブ髪の子供が、木材を抱えている。その姿を見て、男の子は最後の体力を振り絞って走り出した。

 


「宝鬼(ほうき)!」

 


叫びながら走り寄ると、驚いた顔をしながらも木材を脇にずらしてくれたので、その胸へ飛び込んだ。


「斗鬼(とき)、また走ってきたの?喘息治ってないんだからダメだって言ったじゃないか。」
「だって、はやく宝鬼に会いたかったんだ。今日は集会があるから、大人もいない。」
「勝手に居なくなって、また教育係のおじさんに殴られるよ?」
「平気だよ。」


強がってそう呟いてはみたが、抱きつく腕に力を込めて、顔を全部シャツに埋めた。
本当を言えば、戻れば絶対殴られるし、またご飯を何日も抜かれた上で退屈な勉強会を強要される。
帰りたくなんかないし、ずっとここに居たい。
そうすれば殴られることもないし、毎日毎日怒られることもない。
けど、それは不可能だと幼子にもよくわかっている。此処にいれば、宝鬼に迷惑がかかることも。
宝鬼は、今にも折れそうな細い肩に乗ったプレッシャーを知ってるので、黒髪を優しく撫でてやった。


「疲れたでしょ。まずは中で休もう。お茶を入れてあげる。」


招き入れられて、小屋の中に入る。
中は外観より幾分かマシであった。隙間風が入らぬようにカラフルな布を壁側にぶら下げており、手作りの装飾品が縫い付けてある。
最低限の家具も手作りらしく決して美しいとは言えないものの、大事に使われているのがわかる。
小屋の大半を占めるのは、宝鬼の母が寝ているベッドだった。
斗鬼の来訪に気づいたのか、彼女がゆっくりと起き上がって微笑んだ。

 


「斗鬼、いらっしゃい。」
「母さんにもお茶を入れるね。今朝はご飯食べられそう?」
「起きたばかりだから、お茶だけ頂くわ。」


分厚い木の板に足をつけただけの低めのテーブルに備え付けられた、丸太を輪切りにした椅子に座る。
宝鬼は起き上がった母にカーディガンをかけてやった後、巨大な桶に入れた水を柄杓で汲んで、やかんに入れる。
此処には電気も水道も通ってない。水は宝鬼が毎日上水路まで汲みに行き、ガスはコンロを使っている。
里に来れば電気も水も好きに使えるのに、この親子はそれを許されない。
だからこんな端っこに住んでいる。外に出ることも許されず、十分な支援を得られずに。
宝鬼が入れてくれた花のお茶を飲みながら、手作りのお菓子もつまむ。
すると、彼の母がにっこり微笑んだ。痩せ細っているが、笑うと若々しく可憐な花のようだった。


「今日は斗鬼にプレゼントがあるのよ。」
「ほんとぉ!?」
「はい、竹とんぼっていうの。遊び方は宝鬼に聞いてちょうだいね。」
「ありがとう!」


差し出されたのは、串のような細い棒に刺さったねじれた竹板。
それが何かはわからなかったが、宝鬼の母が作るものはいつもわくわくするものだらけだった。
斗鬼は目をキラキラさせて、それを受け取った。
じゃあ外で遊ぼうかと宝鬼が言ってくれたので、渡されたばかりのおもちゃを握って小屋の外に出る。
こうやるんだよ、と宝鬼は手の中に挟んだ竹串を擦り始めた。何度も手の中で往復させると、棒に刺さった板がぐるぐると高速で回転しだす。
と、宝鬼は突然手にしていたものを上を投げ出した。
竹とんぼという名前の新しいおもちゃが、薄暗い空洞の中を飛んだ。
最高点まで到達すると、くるくる回りながら舞うように落ちてくるそれを、宝鬼が見事キャッチした。
斗鬼は大喜びで拍手しながら小さくピョンピョン跳ねた。
やってごらん、と差し出された竹とんぼを掌に挟み、くるくる回す。
小さな手の中で木の棒はぎこちなく、そら、と投げてみたが飛ぶことはなくそのまま床に落ちた。
宝鬼は優しく微笑みながら、竹とんぼを拾ってもう一度と促す。
何度も、何度も回して、繰り返し、繰り返し上に送る。
そのうち上手に飛ばせるようになって、竹とんぼの浮遊時間が長くなるたび、斗鬼は無邪気な声を出してはしゃぎだす。
狭くて暗い空を飛ぶ竹とんぼを必死に追う度、あんな自由に飛べたらいいなと頭の片隅で考える。
なんの柵もなく、縛るものもなく。

 


この時間がずっと続いてくれればよかったと竹とんぼに祈ったけど、やっぱり叶うわけがなく。
あの穏やかな時間だけが僕の全てだった。

 

 


 

 

子供時代の夢を見たのは、いつ以来だろうか。
留めることが出来なかった幸せの余韻が、早足で逃げていく。
そんなに急がなくてもよかろうに。
目を開けた瞬間から、ひどく頭が痛んだ。脈打つ痛みにしばらく起き上がるのを拒んだ。
体の節々が痛い。
もう一度同じ夢を見られるならばと、目を閉じる。


「ベッドでお眠りになった方がよろしいかと。」

 


目を閉じたままでも、寝そべる黒張りソファーの横で控える女の姿が見えるようだった。
此処は彼の私室。他人を決して近づけないし場所も教えない秘密の隠れ家だが、世話係のこの女だけは出入りを許されている。
顔の上に腕を置いて、諦めて目を開けた。

 


「薬をくれ。」
「お食事を取った後の方が。粥でも用意します。」

 


気配が遠のく。
昔から頭痛持ちではあったが、最近特にひどい。薬を飲み過ぎて、効きが悪くなってきた。薬剤師も変えるべきか。
布が擦れる音がした。人間では気づけないほど、かすかで消え入りそうで遠慮がちな音。
しばらく天井の模様を睨んでから、諦めて起き上がる。
頭全体が激しく脈打つ度頭が内側から叩かれているみたいな痛みが響き、目頭まで痛みが届く。痛みで気持ちが悪くなってくる。
目を開けて部屋を見ているのすら辛くなってくるが、首を右に回す。
向かい合わせに置かれた黒張りソファーの向こう側に、部屋にあるべきでは無い黒い鉄格子が立っていた。
決して広いとは言えない部屋の一角を牛耳りる太い格子の向こう側で、10歳ぐらいの男の子がぱっちりと目を開けて彼を見つめていた。
白い着物に、水色の袴。しっかりと正座をして手を膝に載せている。
短めに切られた前髪の下にある双眸は黒くてまん丸。整った顔というわけではないが、あどけない子供らしさは十分残っている。
怯えた様子もなく、ただ部屋の主を見ていた。まっすぐと。
その目は子供らしくなくて、彼は気に入っていた。
頭痛を刺激しないようにゆっくり立ち上がり、ソファを超えて鉄格子の前に立つ。
格子の向こう側には、布団に本棚、ぬいぐるみやおもちゃも詰めた。女が少年の朝ご飯も持ってくるだろう。
風呂にも毎日入れている。自由が制限されている以外VIP待遇だ。

 

「おはよう。今朝の気分はどうだい。」


少年は何も言わない。ただじっと見つめ返してくるだけ。
構わず続ける。

 


「僕はいつもの偏頭痛で頭がガンガンしてるよ。正直、こうして立っているのも辛い。」

 


ズボンのポケットに手を入れる。
彼は寝るときも服のまま。裾が皺だらけになっても、食事の後シャワーを浴びて着替えるので気にしない。
当然、新しい服は女が用意してくれている。

 


「名前ぐらい、教えてくれていいんじゃないかな。僕は協力さえしてくれれば家に帰してあげるつもりでいる。」

 


もちろん嘘だ。家に帰すつもりはない。この少年は二度と家にも親と会うこともないし、故郷にも戻すつもりは無い。
それを彼もわかっているのだろうか。真意は不明だが、辰巳からさらってきてから一言も喋らない。
世話係の女には心を許しているのか、口は開かずとも大人しく食事はとるし風呂にも入る。
ただ、頑なに声を発しない。最初は声を出せないのか、声帯が潰れているのかとも疑ったが、一度だけ、寝言を聞いたことがある。

 


「君のお役目を、僕は全力でサポートするつもりでいる。それには何をしたらいいか、教えてくれ。」

 


少年は目を反らすこともせず、自分を見下ろす金髪の男を見据えていた。
敵意があるわけでもない、怯えているわけでもない眼で。
扉が開いて、女が二人分の食事を抱えて戻ってきた。
吉良が右手だけポケットから手を出して鍵を渡してやる。その鍵で檻を開けた女中は、中に入ってお盆を差し出してやる。
葉が載ったお粥に、煮物の小皿に、漬物。少年のお盆にだけ、甘い果物が載っている。
どうぞ、と言われ初めて少年は吉良から目を離し、几帳面に手を合わせてから箸を取った。
女が檻から出てきたので、吉良もソファに戻り腰を下ろす。
箸を使わず粥だけすすって、檻の向こうで食事をする少年を眺める。作法は完璧。姿勢も綺麗だ。
生きる意思はあるらしい。
盆に添えてあった薬を水で流し込み、彼はシャワーを浴びるために退室した。

 


 

 

 


自分達の領域外にある隠れ家から赤畿の里に入ると、吉良は同族達にバレぬようにため息をついた。
せっかくシャワーを浴び新しいシャツに着替えたというのに、鼻孔につく血の匂いと、差し出された戦利品達に嫌悪感が抑えきれない。

 


「長様。空木の集落から米俵3つと、保存食、それから蓄電器3本。お納め下さい。」
「また空木か。貯蓄が多そうな集を狙えと言ったろう。」
「水縹や火群は警戒が高くなってやす。人型でいっても不審者として目をつけられまさぁ。」
「戦利品があるだけまあいいか。倉庫へ運べ。」


男達が抱えた荷を運んでいく。彼らは皆返り血で服を汚しており、運ぶ荷物の上には、赤い塊が載っているものもある。
あれが食料品じゃないことを祈る。
運ばれる荷物たちを見ていると、幹部の一人である葛ノ葉が駆け足で吉良に合流した。

 


「水は?」
「申し訳ありません。やはり貯水槽だけは警備が厚く、鍵を破る前に実行部隊に追いつかれました。」
「梔子の技術者をさらって水路作らせるべきか・・・。まあいい。ご苦労だった。」


吉良に褒められ、葛ノ葉は頬を染め隣に並んだ。
此処は常に血の匂いがする。道は汚れ、悲鳴と怒号が行き交っている。
赤畿の住民は常に苛ついている。隣人と争う事を好み、命を失うことを恐れない。
腐敗臭がしないのは、野良の十杜が綺麗に掃除してくれるからだ。
結局のところ、彼らは人間のシステムに依存しなければ生きていけない哀れな一族なのだ。
自分たちで植物を育てるということが出来ず、水を無事に汲んで溜めたとしても、争ってかめを割ってしまう。
見た目は人間でも、能力はずっと劣っている。人の真似をした知能の低い動物だ。時折、脳みそはちゃんとあるのか、頭をかち割って見てやりたくなるときもある。
赤畿の人民はみな鬼妖が人型に退化した種族である。一人と数えるべきか一体と数えるべきか、未だに誰も答えを出せていない。
鬼妖とは、元は世界を作った神が地下深くに落としたシンを監視するために作ったシステムの一種だという。
そのシステムにシンが眠りながら干渉し、人間を襲う化け物へと作り替え、人間が地下に落とされた時期に、人間の姿で生まれ落ちるようになったという。
人間の脳みそ、感情、生殖能力を手にしてしまった人型の鬼妖は本能のままに数を増やしながら言葉と文化を学び、いまり成長を見せぬまま今に至る。
ずっと黙って脇に控えていた葛ノ葉が顔を吉良に向けた。

「吉良様。九郎が逃亡した今、新しい幹部を入れた方がよいのではないでしょうか。
人間の集落に行くにしても、知能と力が高い者が居なくては統率がとれません。私一人では、効率が落ちます。」
「残念ながら、今お前ほど知能が高い個体がいないんだ。いい素材を見つけるまでは我慢してくれ。」
「私は、吉良様のためならばいくらでもやり遂げます。」
「わかってるよ。お前は優秀だ。備蓄量を増やすって話だろ?今は現状維持するしかないよ。
それにそろそろ世界は終わるらしいから、備蓄しても無駄になるかもしれない。」
「人間共の戯れ言を信じておられるのですか?我らの主さえ目覚めれば、人間が醜くため込んだ食料や品が手に入ります。」
「僕たちに物を作ったり育んだりする能力はない。」
「奴隷にして労働を強いればよいのです。」
「そう簡単にいけばいいとけどね・・・。少し散歩に出る。後のことは任せた。」
「はい。」

 


資源が有限であると理解できる赤畿の民はいない。食べ物が人間の集から沸いて出てきているという奴もいる。
朝飲んだばかりの頭痛薬が切れてきたのか、また頭が痛くなってきた。
里を出て、一人でふらりと配線が走る天井近くを飛び回る。腰には鮮やかな赤い鞘の刀を差している。
今し方いたのは人間にもバレていない赤畿の隠れ里。
人間が認知している赤畿の領域もあるが、あれは目くらましだ。
人型から変化出来ず戦闘も行えない者も多くいるため、人間に弱みを見せたくはないので常に隠している。
目的も無くふらふらとしていると、血の匂いが急に濃くなった。
足を止めて人間が走らせた太いパイプや配線の下を覗くと、十杜が人間の死体を喰い漁っていた。
暗がりでも、十杜の口元がねっとりと僅かに濡れているのがわかった。
十杜は人間と違い、食事や栄養を取らなくても半永久的に生きていける。
それでも人間の血肉を喰らうのは、恨み故か、その体を喰らって元の人間に戻ろうとしているのか。
さっぱりわからないが、哀れだなとは思う。
神との繋がりを失っただけで、化け物に成り下がり同族を喰らうのだ。
シンも中々に――


「悪趣味ですねーー。」

 

胸中で思っていたことと、左から聞こえてきた声が重なった。
気配の正体に吉良はずいぶん前に察していたので、ゆっくりと顔を向ける。
青白い光を放つ手持ちランタンを下げた人間の男が、配管を辿って隣にやってきた。
生きた人間の匂いに反応した十杜だが、食事に忙しいらしく動かない女の腕に食らいついた。
男は足下で同族が喰われている場面に対して特に反応は見せなかった。
落ち着いた声と表情。中肉中背の男で、特徴が全くないので、年齢が読みづらい。
若くも、年上にも見える。
彼は顔なじみの情報屋だった。地下世界を歩くうちに知り合って、辰巳の家宝についても彼から情報を仕入れた。

 


「見てて楽しいです?」
「たまたま遭遇して、人間の哀れを改めて感じていただけさ。」
「同情してくれるんですか?あの醜い共食いを。」
「十杜もまた同族だと言ってしまうとは、やはり感覚がこちら寄りだね、君は。」
「幼少期色々ありましてね。いわゆる普通の感覚とやらが激しく欠損してるらしいんですよ。
自分ではただ合理的に物事を判断して最善を行っていると自負しているのですが。」
「だからこそ人間の輪を外れて闇で情報屋なんてやってるんだろ?」
「俺は好きでやってるだけですよ。自ら進んでね。」


自分の事なのに、世間話のように素っ気なく喋る彼は、そういえば知ってますか?と違う話を始めた。


「トモリとは、元々神の使い、神使(しんし)の名らしいです。かつて人間を納めていた王族にしか目に見ることが出来ず、神の贈り物であるご神木を守っていたとか。」
「君から教えてもらったサカキってやつかい?」
「おそらく。帝一族が途絶えたと同時に神聖な守人は消え、<シンジュ>石を失った人間が十杜という化け物に墜ちる。
それはシンの悪戯と呼ばれ、歴史から消えたのに、天地平定前にはあの生き物はトモリと呼ばれていたと文献には残っている。
貴方達が信仰するシンは神使であるトモリの存在を知っていたってことですかね。」
「僕は信仰してないよ。どうでもいいかなと思ってる。」
「その割には、シン復活のために最前線で動いてるじゃないですか。」


吉良は一拍置いたのち、首だけ振り向いて微笑んだ。いつもの優男の笑みだった。


「また新しい情報ない?サカキに対して、手詰まりなんだ。」
「渡した情報以上のものは無いです。水縹一族が代々のサカキ守護役ってことらしいですが、水縹は昔から他の一族と交流はあれど手の内は見せないタイプみたいでね。内部に侵入するしかないと思いますね。」
「それが出来れば簡単なんだけど。」
「また何か仕入れたらお教えしますよ。貴方は支払いがいいですから、信用できる顧客ですし。」
「それは嬉しいね。上の階まで送っていこうか?」
「十杜ごときじゃ、俺は殺せませんよ。」
「そうだった。」

 


ゆったりとした足取りでまた配管の上を歩き出す。
情報屋が持っている青白い明かりが徐々に離れていき、再び闇に包まれる。
指先から冷えていく。此処は下層に近く、気温は低い。
人間なら、ワイシャツしか着ていない格好で練り歩くなんて不可能であろう。
ゆっくり考え事をするには静かでいいが、退屈になってきた。
縦に伸びる気圧調整用の穴を見つけたので、配管を蹴って上へ上へ移動していく。
体がピタリと止まる。この感覚を知っている。吉良は急に向きをかえ、とある通路に入った。
塗装はされてないが、蛍光灯がランダムに設置されている。
きっちり等間隔には並んでないので、闇が深いところも存在する一直線の廊下に、動く闇があった。
吉良は体内に喜びの痺れが走るのがわかった。
まだ気づかれてはならない。出会いを台無しにしてはならない。足音も気配も消して近づいて、腰に差した刀をゆっくり鞘から抜いた。音は立てていないし気配も完璧に消したのに、振り下ろしたそれを、振り向いた影は防いでみせた。

 


「こんにちは、沙希。君もお散歩かい?」
「鬼妖が出たというから見回ってるだけ。」

 


涼しい顔を崩さないまま、振り下ろされた一撃を細い腕で押し返してくる。
本気で戦う気は彼には無かったので、素直に刀を引いた。鞘には戻さず、脇に下ろす。
だが白いマフラーが愛らしい彼女は刀を構えたまま、彼を睨んでいた。
その殺意に似た強い敵意を向けられて、彼は満足げに微笑んだ。
沙希と遊んでる時間が、彼にとっては一番楽しかった。彼女にとってこれは遊びではないのだろうが。
彼女はまっすぐと、この目を見てくれる。
そこに嫌悪感も興味も侮辱も軽蔑も何も無い。無駄な慈悲もなければ哀れみもない。
ただあるのは、向かってくる敵を排除しようとする純粋な使命感だけ。
彼女は自分の家を守ることを重視している。そこに下手な見栄はない。わかりやすく、綺麗だった。
綺麗な石のようなまん丸の大きな瞳も、間近で観察したいぐらい美しいのだが、近づくと刀で牽制されるので中々叶わない。
武器を刀にしたのも、彼女を真似たくて赤畿に伝わる工芸品を盗んだ。模造ではなく、本物なので切れ味はいい。
彼女のコートを切ってしまったときは申し訳なく思ったが、彼女の肌に傷をつけなくて良かったような、残念なような。
複雑な感情をわかせてくれる。

 

「クロガネさんから聞いた。貴方、鬼妖を束ねているんでしょ。」
「まあ、そんな感じかな。」
「最近鬼妖の出現が多いのは貴方のせい?」
「違うよ。野生の鬼妖は僕のいう事を聞かないし、人型をやめた鬼妖ですら、制御は不可能。
僕ら赤畿一族は人間に落ちた鬼妖ってだけだし、長は同族の鬼妖化を強制的に行うことしか出来ない。
野生がざわついてるのは、そちらに理由があるのでは?」

 

揺さぶりをかけてみたつもりだが、沙希は眉一つ動かさなかった。
吉良の顔をじっと見つめた後、刀の具現化を説いて青い粒子に戻した。
彼女の刀は、彼女の力で作った作り物だ。もちろん切れ味はある。

 


「あれ、もう終わり?もうちょっと遊ぼうよ。」
「貴方、関係ないのでしょ。なら鬼妖を警戒しに行くわ。」
「つれないじゃない。会ったばっかりだよ?」
「なら鬼妖連れて帰って。」
「無理。」

 


用無し、と言われたわけではないものの、彼女は高い位置で結った髪を揺らして踵を返した。
背中を追おうかと思ったが、今ちょっかいを出すと本気で怒られそうだからやめた。
彼女は怒ると、しばらく遊んでくれなくなる。それは耐えられなかった。
時たま、自分から逃げるように去る時もある。いや、そちらの方が多いのかもしれない。
沙希の背中が見えなくなった。
急に興味を失って、部屋で昼寝でもしようかと踵を返した時、激しい痛みが湧き上がってきて足を止めた。
ふらふらと壁に寄って手をつきながら、頭を抑え目を閉じた。
ドクドクと脈打つ痛みが頭全体を内側からたたき割ろうと暴れ出す。
頭だけではなく、眉間の周辺もやこめこみにも脈打つ痛みが走り、気分が悪くなり吐き出しそうになる。
脳裏に、見たこと無い景色が高速で通り過ぎ、交わした記憶のない言葉が反響する。
脳みそが嘆いていた。
映像の写し出しが終わって、やっと痛みが引いていく。気持ち悪さも幾分か楽になって、その場にしゃがみ込んだ。

 

「ご丁寧にちょっとずつ見せてくるなんて、厭らしい。」


この痛みは子供の頃からの付き合いだが、見たこと無い映像を見るようになったのは、長を引き継いだ直後からだ。
その度様々な景色と言葉、感情までも吹き出て記憶として彼の中に蓄積される。
一気に、そして直接的かつ強制的に送り込まれる映像に脳みそがオーバーヒートするのだと思う。
覚悟は決めたはずだったが、いざ体感するとキツいものがある。
沙希が去った後で良かったと安堵しながら、のろのろと立ち上がって、家に帰ることにした。

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