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第一部 青星と夏日星 10

 


横浜で調査をしていた透夜は、一帯に強力な結界が張られたのを察して
ビルの屋上に上がっていた。
渋谷で夏海を囲んでいたものと同じ気配だが、ずいぶん大規模なものになっていた。
範囲は円形に三キロメートル程だろうか。
結界を作っている術士―鬼灯の仮説では生田目家の末裔―がどこかにいるのだろう。
周りに人の気配はなく、音も消えた。ご丁寧に走っていた車やマスコミのへりも消されている。
さてどうするべきかと思案しているところで、水色の雲が眼下の道路を始め、辺り一帯に広がりだした。
雲は透夜がいるビルの二つ隣のビルの隙間でどんどんと大きくなり、やがて形を成した。
水色の巨大な山が動いているようであった。
先に行くにつれ細くなる山頂の辺りに、牛に似た角が生えており、山の中腹辺りに不格好な手がくっついている。
山は一歩ずつゆっくりと歩いていたが、動く度に地面が揺れビル群のガラスが音を立てた。
子供の落書きみたいに簡易的で雑な姿。
あれは術士なら誰もが知っているが、誰も姿形を知らず都市伝説として語り継がれてきた最悪で最凶のナバリ。
妖怪の祖とも言われ、日本半分を滅ぼしかけたことで、語るのも恐ろしいと表の歴史から消された存在。
引きつった真っ白な顔で、透夜は一歩後ろに下がった。
中途半端に上げた手は、ガタガタと震えていた。

 


「此処に・・・いるはずがないんだ・・・。」

 


現実を否定するように顔を僅かだけ左右に降る。見開かれた瞳から無意識に涙が流れた。
刻まれた感情は、恐怖。それだけ。

 


「あいつは、・・・あいつは母さんが今も封じてるはずだ!!!!」

 


大妖怪・冥王は、大きな口を開け、空を震わせるような咆哮を上げた。

 

 

 


*    *    *


十一年前。

 


木漏れ日が差す優しい午後であった。
山から吹く風は心地よく、本日も晴天である。
社に続く石畳に落ちた葉を、赤い袴姿の女性がほうきで掃除をしていると、トタトタと可愛らしい足音が聞こえて来たので顔を上げた。
石階段を必死に登って、こちらに駆けてきたのは、水色袴を履いた小さな男の子であった。

 


「お母さーん!」
「お帰りなさい、透夜。」

 


陽光に照らされた可愛らしい笑顔で、しゃがんで迎えてくれた母の胸に飛び込んだ。


「修行お疲れ様でした。今日はどうでした?」
「式神の白虎を調伏しました!師匠の虎と違って、まだちっちゃい赤ちゃんの姿だけど。」
「まあ、神獣の一匹を?凄いわ。」

 


息子の黒くて柔らかい髪を撫でてやると、嬉しそうに目尻を下げて鈴のように笑う。
母は息子とよく似ていたが、この世のものとは思えぬぐらい美しかった。
艶もあり絹のように繊細な長い黒髪、それに反して透き通るような白い肌。
顔立ちは天女ののうに完璧で、穏やかな笑みと丁寧で上品な仕草。
幼い息子から見ても、母は美人であった。
しかも、母は山の麓にある星宮神社の由緒正しき巫女である。


「僕の息子とは思えないぐらいの天才だな、透夜は。さすがお師匠。」
「お父さん!」

 


袖を合わせながらやって来た水色袴にベージュの羽織を肩に掛けた男に、今度は走って抱きついた。
茶色の跳ねたボサボサの髪に、真ん丸の眼鏡。いかにも人が良さそうな笑みを浮かべている。

平凡な容姿をしているが、この山を始め辺り一帯を収める七星の宗家当主、四斗蒔慧俊。透夜の父である。
足に抱きつく息子をひょいと持ち上げて腕に抱きかかえてやる。


「お前がいれば七星は安泰。鼻が高いよ。な、麗華。」
「ええ。」
「お父さん、的当て勝負しよ!負けたらデザート僕がもらうよ!」
「ええ~?もうコントロールじゃ透夜に勝てないんだぞー?将棋か囲碁にしない?」
「フフフ。大人げないわよ、あなた。」

 


妻も隣に寄り添って、笑い合う。
並ぶとどちらも長身で、平凡な夫が妻と不釣り合いということはなく、端から見てもお似合いのおしどり夫婦であった。
見た目こそ地味目な慧俊だったが、七星の当主として実力は申し分なかった。
知識量はどの術士よりも勝り、彼を慕い付き従う同胞も教えを請う弟子も沢山いた。
今年六つになった透夜は山を降りたところにある小学校に通い出し、放課後と土日は父の師である桂可和尚の元で修行を積んでいる。
嫡男として十二分の才能を持っており、将来を期待されている。
穏やかな母に似て性格も優しく、夫妻にとって、七星の人間にとって自慢の子供だった。
周りに恵まれ、透夜は順調に育っていた。

 

その夜は、いつもと同じになるはずだった。


父とお風呂に入り、母に布団を掛けてもらって眠りについた。
暖かな布団に包まれ楽しい夢を見ていたはずなのに、悲鳴と轟音に飛び起きた。
目を明けてすぐに、カーテンの向こうで揺らいでいる赤い影が、部屋の中で波打っているのに気づく。
慌ててカーテンを開けて飛び込んできた光景に、これはまだ夢なのかと我が目を疑った。
自宅の窓からは、家族で住んでいる香宵山から、隣にある総本山である朔山が一望出来るのだが、その朔山が一部燃えていた。
赤い渦を巻ながら高く高く火が燃え上がり山を包んでいる。真っ黒な煙が夜空の星を穢していた。
此処は本部から離れているのに、男性や女性の怒号がやまびことなって木霊している。
透夜はベッドから飛び降りて部屋から出ると、両親の寝室へ走る。
だが寝室にも、リビングにも、家のどこにも両親の姿は無かった。
母は山を守る巫女で、父は七星当主。きっとこの異常事態に対処しているのだと理解して、透夜は寝間着から袴に着替え外に出た。
手で印を結び、調伏済みの黒鳥を呼び出した。大きな背に飛び乗って頭上から事態を把握することにしたのだ。
山を飲み込み続ける炎はどんどん手を伸ばしているようで、着替えの間に香宵山まで辿り着いているようだった。

家まではまだ距離はあるが、時間の問題であろう。
総本山に済む七星全員が火災に対処しているのか、人の波があちらこちらで見える。
両親はどこだろうかと首を回していた時、耳を覆いたくなるほどけたたましい音が響いた。
それが咆哮だと気づいたのは、山の峰からにゅき、と出てきた黒い塊を目にしたからだった。
スライムのような簡易的で雑な姿、牛に似た角が生えており、ごま粒のようにつけられた両の瞳は赤く燃えている。
子供の落書きみたいな手が左右の山に手をつき、押し出して歩を進めている。
その姿を見たとき、透夜の全身に震えが走った。
今まで色んなナバリを見てきた、強い式神も、気味の悪い妖怪も。
だが、目の前のスライムは、格別だった。
ふざけた見た目のくせに、プレッシャーが半端なく頭から押し潰されそうになる。
目尻に涙が溜まり、不安で心が折れそうになる。
本能で危機を察した黒鳥が、主の指示無くとも旋回して現れた巨大なスライムから距離を取った。
胸を押さえ止まり掛けていた呼吸を整える。
眼下の人達は、誰も彼も山の合間に現れた物体に気づいているようだが、次々に倒れていった。
化け物からのプレッシャーに皆気絶したのだ。
気絶し倒れた人々を、山からじわじわと忍び寄る炎が今が好機と舌舐めずりしながら焼いていく。
―これは悪い夢だ。そう思いたかった、だが両親のところへ行かねばならないという使命感が透夜を現実に引き留めた。
黒鳥に再度命じて、少し高度を下げ両親を探し続ける。
すると、家のすぐ近くで母が炎と対面するように立っていた。
逃げる様子もなく、炎と睨み合う母の元へ慌てて黒鳥を急旋回させ、降下後地面に飛び降りた。
引き続き父を探すよう黒鳥に命じて、母に駆け寄る。


 

「母さん!」
「透夜。」

 


家から出てきた息子を責めるわけでもなく、母は穏やかに笑った。
まるで目の前の火事や化け物など目に入っていないかのように。


「お母さん、逃げないと!火が山を焼いてるんだ!もう鎮火は無理だよ!」
「いいえ、この山は私が守ります。私は星宮の巫女ですから。」


母は透夜に体を向けて、目線を合わせるようにしゃがむと、愛おしそうに一度だけ抱きしめた。
大事そうに頬に手を当て、綺麗に微笑む。
黒い宝石のような瞳に、焔の揺らめきが宿る。


「いいですか、良く聞いてください。あの化け物は冥王。話ぐらいは、聞いたことありますね。」
「うん・・・。大昔に、七星の開祖・摩夜が封じたっていう大妖怪。」
「そうです。今宵、冥王の封印が緩み、奴の力の一部だけが漏れ出しました。」


一部?たった一部であのプレッシャーなのか。
透夜は先ほど感じた恐怖を思い出して、頬に添えられた母の手に自分の手を重ねた。
母の手は暖かく、一時の安らぎが気持ちを落ち着かせてくれる。


「私と慧俊が、再び封じます。透夜とは、これでお別れです。」
「え、何言ってるのお母さん?」
「ああ・・・。あなたの成長した姿を見られないのがとても残念です。私達の大切な子。」
「待ってよお母さん!何をするつもりなの!?」
「愛しています。これからも、此処であなたを見守っていますよ。」
「母さん!!!」
「運命に、呑まれてはなりません。あなたは、あなたの人生を楽しむのよ、透夜。」


頬から母の手が離れていくが、透夜は動けなかった。
見えない三角錐の結界に閉じ込められ、動きが奪われていた。
母の結界術だと気づいていたが、指先一つ動かせず、声も出せない。ただただ、涙が頬を流れ続けていた。
青白い柱が透夜の周りを囲みだし、母の背後まで忍び寄ってきた炎の熱さが遠くなる。
すぐ背後まで炎が迫ろうと、最後の瞬間まで愛しい息子の姿を目に焼き付けようとしているのか、母はこちらを向いて微笑み続けていた。
一瞬のことでだった。
母が片腕を上げ、袖から白い腕が覗いたかと思えば、突然現れた氷の壁が炎を鎮火させ、焼けた森ごと閉じ込めてしまった。
結界の中にいるのに、冷気が刃となって喉や肌を刺す痛みで胸が詰まった。
冥王の咆哮が遠くで聞こえた気がしたすぐ後に、肩にのし掛かっていたプレッシャーは綺麗に消えていた。
視界いっぱいに広がった氷の壁は、やがて母の体も飲み込んでいく。
結界が消えて、母の方へ腕を伸ばすも、薄まった酸素に意識が遠くなり体に力が入らなくなっていく。
それでも土をかき分け、なんとか母に近づこうともがく。


「お、母、さん・・・。」
「いつでも、透夜を想っています。」

 


母は笑った顔のまま氷の中に包まれ、そっと瞳を閉じた。
氷に閉じ込められたその向こうで、あるはずのない星を見た気がしたが、透夜の意識もそこで途絶えた。


目が覚めたのは、桂可師匠の家であった。
本能的にむくりと起き上がる。

頭が酷く痛み、ぼんやりした視界がしっかりと形尽くまで数秒かかった。
畳の部屋に敷かれた布団で眠っていたようで、いつもの袴ではなく綺麗な着物に着替えさせられていた。
見慣れた師匠の家の一室だが、布団の足下に、水色髪の若い女が申し訳なさそうな顔で透夜を見守っていた。

肩口で綺麗に揃えられた髪に、濃いグレーのパンツスーツを着ている。
寝起きでぼんやりした顔の透夜が口を開く前に、畳に額を付けるような勢いで女性が頭を下げた。


「申し訳ございません・・・!私たち影がついていながら、このような・・・!」
「蛍火、何があったの。」
「その・・・。」
「全部説明して。」

 


数え年七つの子供が放つとは思えぬ冷たい声に、背を正した父慧俊の部下・蛍火は話し出す。


「原因は不明ですが、冥王の封印が一瞬緩み、僅かな隙で力の一部が漏れ出しました。
本山の三分の一が焼け、末社八つが落ちました。死者は二百を越えました。
再度封印のため慧俊様が儀式を行い、・・・あの。」
「続けて。」
「禁術を使い結界を結び直し、自ら即身仏になることで冥王の一部を送り帰されました。
麗華様は山にはびこった邪気と炎を全て巻き込み、慧俊様の結界の補強をなさって下さいました。お二人とも、生存はほぼ不可能かと・・・。」
「即身仏ってことは、父さんの体はあるんだね。」
「はい。自らを基盤にして結界を張って下さっているようで、動かし供養することも出来ず、今もそのままに。」


布団から立ち上がった透夜は、冷たい声で言い放った。


「父さんと母さんの元へ連れてって。」


蛍火、そして外で警備に当たっていた父の秘書兼ボディーガードの鬼灯を連れ、森の中に入る。

昨晩の騒乱が嘘のように森は穏やかだったが、まだ空気には濁って焼けくさかった。
香宵山と朔山のちょうど境目辺りにある山道で、父慧俊は土の上に直接胡座をかいて座っていた。
彼が座る地面から梵字で書かれた術式が四方に伸びている。
いつもの袴姿でなく、ちゃんとした正装に身を包んでいるので、ミイラとなって乾いた土色の肌でもずいぶん霊験あらたかに映る。
即身仏とは、仏教で行われる過酷な修行の後に、生きた仏となる僧侶のこと。
だが父は、たった一夜で仏となった。
ふわふわの猫っ毛は全て落ち、皮膚は骨にくっつき、眼球は無くなり空洞の穴が二つあるだけ。眼鏡は膝の上に乗っていた。

後で誰かが乗せてくれたのだろう。
かつての面影が全くない父を見る透夜の目は、蛍火から見ても冷えていた。恐ろしい程に。

 


「蛍火、此処にすぐ社を作って。父さんを動かせば結界が緩む。動かせないけど、雨風に晒しては、父さんが風邪を引いてしまう。」
「すぐ手配いたします。立派な社を作りましょう。」
「質素な木造小屋でいいよ。父さん、派手なの嫌いだし。」

 


透夜は汚れることなど気にせず土の上に正座し、丁寧に三つ指をついてお辞儀をした。


「七星のため、この国のため、その身をもってお守りいただき、感謝いたします。」


そして立ち上がると、骨張って固くなった父の肩に手を置いた。

いつも優しく抱き上げてくれた温もりは、もう無い。

纏っていた鋭利な空気を少しだけ柔らかくして、引きつった笑みを浮かべた。


「また囲碁か将棋で勝負しようね。僕が勝っても、デザート取らないからさ。これからもずっと大好きだよ、父さん。」
「透夜様・・・。」
「次は母さんの元へ。」


昨晩、夜の中で見た光景より、氷に包まれた母は随分幻想的で絵本に出てくるお姫様のようであった。

重なる葉の隙間から差す優しい陽光がベールのように母を照らしていた。
僅かに水色に灯る氷の中で、母麗華は目を瞑ったまま穏やかに微笑んでいる。
美しさも凜々しさもそのまま閉じ込められて、まるで眠っているようだ。

​今にも瞳を明けて、微笑んでくれそうな希望を抱かせる程に。

 


「これ、逆だね。」
「逆?」
「母さんが冥王の一部、そして封印の祠ごと再度結界を張って封じている。その結界を守るように、父さんの祈祷術が覆い被さってる。父さんが、母さんを守ってるんだ。」


その台詞に、蛍火は耐えられず口元に手を当てて顔を背けた。
透夜は氷に手を触れる。
ほんのり冷たいが、本物の氷より触っていて痛くはない。母の氷だと知っているからだろうか。

 


「まるで生きてるみたいだ。」


そう言って、両手で氷の壁に手を当てると、透夜の体から青白い光りが溢れだす。
幾重にも重なった術式が模様として現れ始めて、後ろに控えていた二人が慌てた様子を見せる

 


「透夜様、何をっ―!」
「いけません。結界を解けば冥王が再び動き出します。」
「―・・・ダメだ。今の僕じゃ解けない。」

 


術式が消え、青白い光が収束し、透夜が小さな手を氷から剥がす。
二人は明らかにホッとした顔をした。

 


「母さんの息吹を感じた、母さんは、この氷の中で生きている。」
「まさか、そんな―。」
「でも氷の中に散った母さんの力の欠片を全部集めなきゃだから、相当細かくて繊細な腕が必要そうだ。」
「冥王はいかがされるつもりですか。」
「倒すよ。魂の一変まで残さず、僕が倒してやる―・・・。」

 


その時、小さな背中に確かな決意と、芽生えてしまった根強い恨みを感じた。
穏やかで心優しい両親に育てられた愛らしい子供の運命がねじれたのを、二人は悲しく思いつつ、止めることは出来なかった。

 

その数日後により、当主を失ったことで七星は荒れ、権力争いの波が宗家嫡男である透夜にも及んだ。
鈴のように笑う心優しい子供は、周りの大人を警戒する疑い深い性格になっていく。

透夜はそんなこと気にもせず、ただひたすらに、血の滲むような修行の日々を繰り返すのだった。

平穏な日々を奪った宿敵・冥王を完膚なきまでに倒すために。

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