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第二部 南十字は白雨に濡れる 5

 

平安時代の寝殿造りを再現したような建物の廊下を、紫外套を纏い深くフードを被った人物が歩いていた。
檜の立派な丸柱が並ぶ庇を通り、渡殿を使って寝殿に渡る。
空は薄ら曇りで夏の強い陽光を遮ってくれている。
梅雨明け前の充満した湿気は、山奥で標高が高い場所のため都会より随分過ごしやすい。
小さな庭に咲く菖蒲は鮮やかだが、塀の影に隠れてどこかもの悲しく、
池に掛けられた石橋は今は放置されているせいで汚れが目立つようになってきた。
庭も池も最低限の手入れはされているが、素人の仕事だとすぐに分かる。
庇を左に曲がり、柱の間に掛かっていた緑色の御簾が上げられた場所をくぐって室内に入った。
板張りの三十畳程の広間。部屋の隅に調度品が並び、奥は御簾ではなくふすまが締め切ってあるせいで影が目立つ。
上座には、黒地に白模様の畳縁が使われた置き畳が敷かれ、更にその上に黒塗りの倚子が置かれていた。
金枠で装飾された低い倚子には、小柄な老人がたっぷりとした装束を纏って座っていた。
髪と眉は全てそぎ落とされ、頬は痩け目は窪んで頭蓋骨がそこにあるのだと嫌でも見て取れてしまう。齡八十は超えているだろう。かなり痩せ細った骨と皮だけと言っても過言ではない老人だ。
打って変わって黄色い装飾は立派である。模様の入った鈍色の裘代に紫色の五条袈裟を付けている。首をすっぽり隠すような僧綱襟、手には檜扇、数珠は椅子の横に置かれた小さな漆喰の台座に置かれている。
平安時代の法皇が宿装束として着用していたものを常日頃纏っているこの老人こそ、この山一帯を牛耳るひきつぼし星団の星団長。
黄色の衣から、黄王と呼ばれている。
立派な装束だが、服を着ているというより布で拘束されてるかのよう。
どこか気怠そうに座り、体がやや斜めになっている。
座っているのもやっと、と行った具合。
部屋に入った紫外套の人物は、置き畳の前、何も無い板間に座り深く頭を下げた。


「結果が全てという輩はいるが、過程を無視しては潤沢に物事は進まない。そうは思わんか、畢宿(ひつしゅく)。」


しがれ掠れ、疲れ果てた老人の声に、頭を上げた大柄の男はフードを背中に落とした。
黒い瞳に感情は見られないが、口角が下がっているためやや不機嫌そうな印象を受ける。


「東京で術士協会の結界を解くのは予言書にもありましたが、
他2箇所の襲撃は予言書にも、もちろん事前の打ち合わせにも無かった事と存じます。天狼星への攻撃も、予定よりいささか早く驚きました。
変更をお知らせして下されば、もっとスムーズに事を進め準備を整えました。
あの子供は心から私を信用しておりましたので、言葉のみで連れ出すことも可能だったかと。」
「許せ畢。星の声が変わったので、事を急いだ。それだけふるいの時は迫っていると言うこと。」

 

椅子に腰掛ける老人が、体をやや左に傾ける。
御簾が開いているのに、陽光はこの広間に入ってこようとしない。
老人の顔の皺に落ちる影が濃くなった。
第一声こそしがれた黄王の声だったが、話していく内に幾分かしっかりしてきており、声に重みと威厳が備わっていた。


「順序が変わろうと、天狼星を連れ帰るというお前の役目は変わらなかった。儂を失望させないでくれ、畢よ。」
「天狼星本人では無く、式神達による反発が思いのほか強かったのです。
ご安心下さい。長い接触期間で天狼星は私を好いております。頭でいくら考えようと、こちらが手を伸ばせばやってくる。次は式神を封じます。」
「天狼星の導きがなくては、我らが目指す箱船には辿り着けない。」

 


黄王は一間置いて、短く小さく息を吐いた。
窪み皺に埋もれた目に憂いが差す。庭からの弱い陽光が老人の左半身だけを浮き彫りにさせる。
畢はタイミングを見逃さず口を開いた。


「お聞きしてもよろしいでしょうか。」
「許す。」
「黄王様。私には星の声が変わってしまったのではないかと不安で仕方ありません。」


剃り落とされた黄王の眉が反応し僅かにつり上がったのを見たが、素早く言葉を続ける。


「ここまで長い時間を掛け、予言書に基づき我々は緻密な計画を練り、入念に準備をして参りました。
にも関わらず、ここしばらくの星の声は慌ただしく急かしているように感じます。新宿の三箇所同時襲撃もその一つ。天狼星への接触も葉月の予定だったかと。以前の黄王様なら―」
「言葉が過ぎるようだな、畢。」
「申し訳ありません。」
「人間が動けば縁も運命も複雑に変わる。細かな部分が変わっても、予言は必ず起きる未来を示しておる。
心配することはなにもないのだ。役目を果たす、それだけでよい。そなたは南十字の運命を背負い、天狼星を守る宿命なのだ。」
「はい。心得ております。」

 


黄王は深く椅子の背もたれに埋もれ、手にしていた檜扇を骨張った親指でいじりだす。


「天狼星が乱れた宇宙の波動を緩やかに正常へ誘い、人類は次の扉を開ける。我々は星の声に従い、次の次元へ誘う人間を選別し悪しき思考を消し去らねばならぬ。
占いにより、次の儀式は壬辰の日に行う。それまでに連れてこい。必要なら他の宿も連れて行け。」
「御意。」

 


軽く頭を下げ、畢宿は立ち上がり部屋から出た。
黄王がいる本殿を出て、門に待機していた部下にローブを預け身軽になると、いくつか指示を与え一人砂利道を歩き出した。
本殿の玄関に至る石畳を抜け境界線を越えると、一気に夜が降り注いでいた。
本殿にいる間は黄王の星詠みに合わせ昼と夜が不定期に切り替わるが、現実の世界は今、夜半前。
虫の音と日中の暑さの名残が不快感を伴って足元から肌を伝ってまとわりつく。
ズボンのポケットから煙草の箱を取り出そうと手を入れたが、それを止め、山道の途中で足を止めた。
道を塞ぐように仁王立ちしている、髪の長い筋肉質な若い女。

 

「お兄ちゃんのとこには行かせないよ。」

 


偽りだったとはいえ、付き合いの長い間柄であった。
初めて向けられる、まごうことなき敵意。
殺意が見受けられないのは、まだ戸惑いがあるということだろうか。
兄と違って妹の方は単純だ。兄を裏切った敵。
そう認識はしているのだろうが、兄が信用した相手を叩きのめすことに対する戸惑いがあるのかもしれない。
一体一での付き合いは余りしてこなかったのが原因だろう。
何せ、標的は兄の方であったのだから。

 

「どうやって結界内に入った。」
「私は落ちこぼれだけど、七星の子だよ。」

 

理由になっていないが、説得力はあった。
ひきつぼし星団が買い取った山は何重にも古代術式による結界が張り巡らされており
選ばれた人間しか入ることを許されない。特に本殿には強固な結界が張ってある。
場所すら特定は難しいはずだが、同じように山一帯を結界で覆い隠した七星と同じ手法を使っている。
七星のほうが歴史は古い。結界に対して耐性があると言われても、信じざるを得ないだろう。
四斗蒔夏海は術士としての才能は平凡以下だが、持ち前の身体能力と、致命的損傷すら即座に治る強力な治癒力が備わっている。
加えて、兄の過保護過ぎる守りが常に彼女を守っている。影に神獣である白虎を飼っている点もでかい。

 

「素の状態の方が若々しいわね。日室誠司はくたびれたおじさん感が強かったのかしら。」


ストン、と木々の合間から軽やかにセーラー服姿の少女が降りてきて、夏海の隣に並んだ。
白鞘の刀が明かりの無い山中でよく映えた。


「子供が来る場所じゃないぞ。」
「元・日室誠司。あなたを捕まえに来たわ。」
「相変わらず身の程をわきまえていないようだな、来栖。」
「あなたを捕まえてひきつぼし星団とやらも潰す。」


はぁとため息を吐いて、親指で眉根あたりを掻く。


「だから会長が出世させないんだよ。まあいい。侵入者ということで、いいな。」


比紗奈の隣で夏海が顔面を鷲づかみにされ後ろに倒されようとしていた。
一瞬。いや、それより短いかもしれない。
息を飲むより早い挙動に驚きながらも、比紗奈は本能で鞘から刀を抜いた―その手も、夏海を鷲づかみにしていない手で弾かれ抜こうとした刀を鞘に戻されてしまう。
夏海は後ろに大きく吹っ飛ばされ地面に転がり、背後に回って攻撃しようとした比紗奈の手首を後ろ向きのまま握ってひねり、足元に叩きつけた。
夜の山道が一瞬で歪み、もの凄い勢いで天地がひっくり返った。
地面に強く打ち付け呼吸が止まる。
何が起きたか理解したのは、起き上がった夏海が元日室に突っ込んでくれたおかげで拘束が緩んでから。
困惑を頭から払いのけ、二度咳き込み、顔を上げ今度こそ刀を抜いた。
強く地面を蹴って、夏海の攻撃を躱す男の頭上から刀を振り下ろす。
夏海の蹴りを躱す男の死角を取ったつもりだったのに、夏海の腹に蹴りを入れてから、
落ちてくる比紗奈の手首を横に殴って軌道を大きく反らし少女の横腹を容赦なく殴りつけた。
再び地面に落とされ、隣に夏海も転がされる。

 

「七位ってのも嘘かよ!」
「一位レベルよこれ。会長の組み手より重いし痛い。」


腹を押さえながら夏海は起き上がり、比紗奈は刀を杖にして立ち上がろうと力を入れるが
不思議と全身に力が入らない。殴りながら力の一部を注ぎ込まれたのだろう。
強者の力は体の支配権すら奪う効力がある。
ゆっくりと男が振り返る。
対面する男は、見知らぬ目をしていた。
日室誠司が微笑みの絶えない穏やかな人物であったからこそ、光も生気も感じられない死んだ目を持った男が、本当に日室誠司を演じていたのか。姿形さえ同じかどうか疑わしく、
トレードマークであった前髪の白い筋も、急に不吉な象徴に思えてきた。
――まただ。
男が目の前から消えたと理解した時には、眼前で拳を振り上げていた。
回避の2文字が脳裏を掠め本能が筋肉に働きかけたが、比紗奈は木の幹に背中を叩き付けられ、雑草の上に倒れる。
追撃の気配を本能で察し、草と土の上を転がって回避する。
耳のすぐ脇で衝撃音が聞こえた。比紗奈が落ちた地面がえぐれ高く舞い上がるのを視界の端で捉える。
反撃したいのに、相手の速度と攻撃威力が凄まじく対応出来ない。付いていくことが出来ないのだ。
相手はまだ術も使ってない。ただの肉弾戦。

 


「夏海!」
「わかってる!」


向こう側に転がった夏海の拳が青白く灯る。
元日室の意識が一瞬夏海に逸れた隙を見逃さず、比紗奈が右後方に大きく飛んで土の上に片膝を突き刀を鞘から抜かず居合いのポーズを取る。
比紗奈を囲むように白い円が浮かび上がり、目映く灯る。
下から風が湧き上がり、長いポニーテールが巻き上げられる。
男の背中に向かって、凄まじい早さで鞘から刀を抜くと、白い斬撃が三日月のような形で飛んだ。
高速で飛んだ斬撃だったが、男の背中を切りつける前に男が斬撃を腕で弾いて見せた。
腕も着ていたシャツも無傷である。
自身があった一撃を簡単に弾かれ、比紗奈は唖然としてしまい再び眼前に移動してきた男に反応が出来ず、ポニーテールを掴まれ無理矢理立たされる。
相棒を助けようと夏海が青白く灯った拳で背後を狙ったが、地面から生えてきた紫色の触手に足を掴まれ雑草が生えた土の上に投げ捨てられる。
男は空いた手の中に白い球を作り出し、無遠慮に比紗奈の顔面にそれを叩きつけた。
比紗奈の手から刀が落とされ、髪を掴まれたままぐったりと全身から力が抜けてしまう。

 


「この、よくもっ!!」

 


比紗奈を掴んだままの腕を狙って、爪が長く伸びた手で斬りつける。
攻撃は外れたが、男はあっさり比紗奈を離し軸足でくるりと向きを変え、夏海の腕を掴もうと腕を伸ばした。
夏海は腕を避け、体を半反転させ右前に体重を掛け体をひねりながら裏拳をたたき込む。
拳と拳がぶつかり合い、漏れた力が周りの木々の枝を揺らす。
夏海の瞳孔はは虫類のように細長く、足や腕の筋肉が盛り上がっていた。
睨み合ったのもまた一瞬の間。隙をついて放たれた白い球も素早く左に飛んで避けた。
身を低くし一撃を男の脇腹に打ち込もうとしたとき、夏海は見つけてしまった。
男の手首に巻かれた腕時計。
兄が、高校に上がり初めて術士協会から給与を得た時に日室誠司にプレゼントしたもの。
夏海も、可愛い女性ものの腕時計を送ってもらった。
同じ日に、同じプレゼントをもらい一緒に喜んだ。あの家で―――。

 


「貴様ぁぁ!!!!」


突進した頭を簡単に掴まれ、仰向けに倒され、腹部に拳を落とされた。
打撃に加え、霊力の込められた一撃に体がくの字に曲がり、指先から足先めで痺れが駆け巡る。
目がチカチカとくらみ、指一本自由に動かせなくなる。
致命的外傷がないため備わった超再生力が働いてくれない。
肘を引いて、日室だった男がトドメの一撃を繰り出すのが分かった。
黒い双眸は相変わらず無。感情の一つも見受けられず、拳が白く灯る。
出会って十一年。本当にこの人は私達を裏切ったのだと理解できた。
最後に兄に対する謝罪の言葉を胸の内に刻む。
――男の拳が、鼻先で止まった。
そこで呼吸を止めていたことに気づく。顔の近くで雑草の葉が擦れる幽かな音が、とても大きく聞こえてきた。
空を仰ぐ視界の中から、男の姿が消えた。
気配が遠くなり、完全に消えてしまった。何も言い残すこともなく。

 


「なんで、トドメを差さなかったの・・・。」

 


倒れたまま空を仰ぐ。
重なる木々の間から、夜が見えるが、この一帯に張られた結界のせいで星が見えなかった。
こんな山奥じゃ街の灯りも届かないから綺麗に星が見えただろうに。
いや、もともと曇り空なのかもしれない。

 


「アタシなんて、眼中にないってこと・・・?」

 


夏海は悔しげに下唇を噛んだが、比紗奈のことを思い出して起き上がった。
何度も打ち付けられた腹の痛みは残っているが、内臓に与えられたダメージはもう再生されていた。

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