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* 6


記憶の始まりは、雨。


顔を叩き続ける強めの雨粒、濡れた服はぴったりと体にくっついている。
指や足先の感覚は無く、雨音が耳元で響き続ける。
霧に埋もれた薄暗い世界がそこに居座って、雨粒が瞼の上を滑りまつげを渡って落ちる。
雨に歪んだ視界の中にやって来たのは、赤い靴。


 

 


「でわ、お願いしますよ。」
「かしこまりました。」

 

羽ペンを握っていない反対の手で書類を差し出した老年の男性。
片眼鏡を掛け、真っ白な髪をワックスできっちりと固め、皺一つないスーツを纏っている。
名はエドゥアルト・ベックマン。
ネスタ家の上級使用人であり執事長。昔はランド・スチュワードと呼ばれていたこともあった。
全使用人の長であり、主人であるネスタ家の領地、財産などを管理している。
半世紀以上ネスタ家に仕えてきた古株だが、先代当主であるエミディオが亡くなってからは前線を退き管理業務に専念。家主であるディアナの世話や下級使用人の管理は、リカルドが引き継いで行っている。
リカルドに使用人としての知識、作法、心得を教えてくれたのはこの人であり、執事としてだけではなく、人生の師であった。
座る姿勢、封筒を持つ指の先々までマナーが行き届いているかのような美しさは齢60を過ぎてもいまだ衰えず、自分もまだまだ精進するべきだと己の未熟さをつい噛み締めてしまう。
分厚い封筒を受け取ると、ベックマンはまた視線を落として羽ペンを動かした。

 


「お客様がお泊まりになるようになってから、ディアナ様も随分笑うようになられたご様子。昔に戻ったようで、嬉しい限りですよ。」
「私も同じことを思っておりました。」
「ルカのご出身と伺いましたが、どうやら身元を証明出来るものがございませんね。」

 


穏やかな口調で世間話のように軽く発するが、その真意をリカルドは見抜いていた。


「山で暮らすようになった民がそのまま居着いたようで、忘れ去られた土地として長い間放置されていた様子。村に役所のような行政は存在せず、国による管理も行われておりませんでした。
ゲント様が昔ルカを訪ねたことがあると証言が頂きましたので、詳細な場所と裏付けを調べさせております。それまではユリウスが監視を。」
「正規適合者様とは言え、ディアナ様に万が一のことが起きては困ります。よろしく頼みましたよ。」
「心得ております。」

 

一礼をして、ベックマンの私室を出て廊下に出る。
扉から離れたところで、人知れずため息を吐いた。
ベックマンが言いたいことはわかる。いくら正規適合者とはいえ、身元もハッキリしない田舎娘を、由緒正しきネスタ家の屋敷に住まわせるなど本来ならあり得ない。
彼女はマナーも言葉遣いもなっていないため、上流階級に仕えるのが誇りだと思っている一部使用人からは不満の声も上がっている。
とはいえ、決めたのは家主であるお嬢様だ。異を唱えることなど出来ようか。
廊下を歩いていると、窓から賑やかな声が聞こえてきた。
裏庭で、アルベルとヴァンが騒ぎながら修行をしているようだ。すっかり裏庭がたまり場となってしまった。
お嬢様が対談場所に使う執務室からは離れているため問題ないのだが、執事長に見つかったらまた小言を言われそうだ。
気づいたら足が止まっていた。
薄暗い廊下に一人立つ自分と、太陽の日差しを浴びて楽しげな二人。
目に見えないがはっきりと存在する境界線。
ぶら下げていた書類の束が急に重さを増した気がして、指が震える。
封筒を腕に抱え直し、目線を外して廊下を曲がった。
その後はキッチンでシェフと夕食の相談、食材の不足分を下働きに買いに行かせた。
掃除の点検、不足品のチェック、使用人同士の打ち合わせ。
ディアナとは明日以降のスケジュール確認と面会予定者の選別。
日常業務を一通りこなしたところで、ユリウスが現れ伝言を伝えてきた。裏庭の二人に呼ばれているらしい。
扉を開け花壇の花を軽くチェックしてから、緑トピアリーの脇を通り、レンガ道を渡って奥にある庭へ入る。
アルベルとヴァンは、蔦で編まれた細長いの箱の中で、ぬいぐるみを操作しながらレースを楽しんでいた。
これは先日、細やかな指示が苦手なアルベルのために考案した修行方法だった。
手の平サイズのぬいぐるみを精霊の力で操りながら、道中にある罠や難所をくぐり抜けゴールを目指すというもの。
最初は操作以前に、ぬいぐるみを持ち上げるのすら苦労していたというのに、水の鞭で胴体を巻かれたうさぎのぬいぐるみは、すいすいとゴールに向かって進んでいる。
ユリウスは、主が仕事している最中も此処で二人に協力していたとみえる。
今もアルベルの横でニコニコしながらレースの行方を見守っていや。
アルベルが怪しい動きを見せないか常時監視しろと言ってあるのだが、何故かユリウスはアルベルを気に入り、やたら協力的であった。主の意見は無視して。
どう声をかけたものか思案していると、ユリウスがまず気づいてこちらを振り向き、続いてアルベルが声を上げた。

 


「あ!リカルド来た。なあ、新しいコース考えてくんない?もうこれくらいなら簡単にゴールできるようになったぜ。」
「それは素晴らしい。すぐ構築を―」
「スピードはオレの方が速いけどなぁ。」
「うっさい!新コースで勝負だ!」


ヴァンが腕を組み、挑戦的な笑みをアルベルに向けて勝ち誇った物言いをする。
確かにに彼はアルベルに比べ戦闘の経験も多く応用も上手い。疑似召喚というハンデがありながらも、精霊と上手くコミュニケーションを取り力を引き出している。


「実力があろうとも、この屋敷への無断侵入を繰り返すのはいかがかと思います。」
「オレはネスタ様との連絡係だから、屋敷への立ち入りは許可されてるっての。」
「今までチャイムを鳴らしたことありましたか。」
「うぐ・・・。」
「グアルガンの幹部でありながら、雇い主の屋敷を我が物顔で、ノックもせず入るとは無礼千万。」


小言を吐き続けるリカルドにヴァンがキレて、いつも通りの口げんかが始まった。
ユリウスが代わりにコースを編んでくれている横で、アルベルは頭の後ろで手を組んで止まらない口喧嘩を眺めていた。

 


「リカルドってさー、普段は表情一切変えないし感情も見せないのに、ヴァンにだけは噛みつくよな~。あいつらも同級生とかだったりすんのか?」


ユリウスは、笑って首を横に振るだけだった。

 


 

 


家主と客人の夕食が終わり、自室に戻ったのを確認してから、リカルドは最後の仕事に取りかかる。
シェフと朝食メニューの確認、領収書をまとめ収支の記入と計上。
使用人達と明日の打ち合わせをしてから、屋敷全ての戸締まりを確認。
それを終えると、やっと自由時間となる。
使用人は本来本邸の離れで寝泊まりをするのだが、リカルドは身分が高いため個室を与えられている。
それに、本邸内にいたほうが何かが起きた際すぐ動けるのだ。
ディアナ家には今男性がいないため、本邸にある男性用浴室を借りてシャワーを浴び、1階にある使用人用キッチンで夕食の余り物で食事を済ませる。
食事を取りながらも、今日届いた郵便を確認し、書類に目を通す作業を続けていた。
さっさと食事を終えると、安物の豆でコーヒーを煎れる。
食後のコーヒーが、彼にとって唯一の贅沢であった。
ミルに入れた豆を挽き、ドリッパーの上に湧かしたお湯を回すようにゆっくり静かに注ぐ。
自然と、リカルドの口から、声がもれる。
口を閉じたまま奏でるハミング。
軽やかなリズムが誰もいないキッチンに響く。


「リカルドも歌ったりするんだな。」


ポットを握ったまま勢いよく振り返った。
キッチンの入り口で、部屋着姿のアルベルが立っていた。
風呂上がりなのだろう、髪がまだ少し湿っていた。
普段冷静沈着なリカルドであったが、平静を取り戻すのに時間を有した。
というのも、彼は仕事柄人の気配に敏感だった。足音はもちろん、布が擦れる僅かな音すら聞き逃さぬよう訓練を受けてきた。仕える主の変化や要望を見抜くためだ。
今はオフタイムで完全に気を抜いていたとはいえ、ここまで接近されて気づかないことが今まであったであろうか。

 


「あ、驚かせた?ごめんな、プライベートってやつだよな。」
「い、いえ・・・。どうかなさいましたか?」
「喉渇いたから、飲み物もらいに。」
「メイドをお呼びになればよろしかったのに。」
「申し訳ないじゃん。飲み物ぐらい自分で取りにいけるしさー。」
「此処は使用人用キッチンです。お客様用のキッチンは2階にある食堂の隣です。」
「え、そうだったの?ごめん。もう何度か此処のジュースもらっていったことあるわ。」
「構いませんよ。何をお飲みになりますか。」
「レモネードある?」
「かしこまりました。」


ポットを置いて、棚に並べてある砂糖漬けされた輪切りのレモン瓶を取り出す。
どの家庭にもあり、簡単にビタミンが取れることから、昔からこのキッチンにある。
誰が作り続けているか、リカルドも知らない。
グラスにレモンの輪切りを2枚取り出して、はちみつを2杯と氷を入れる。炭酸水とリクエストがあったので、水では無く炭酸で割って軽くかき混ぜた。
氷がグラスにぶつかって涼しげな音を立てる。
椅子に座って待っていたアルベルに差し出すと、彼女はすぐに半分ほど飲み干した。

 


「んー、美味い。リカルドはコーヒー?」
「お飲みになりますか?」
「ううん。苦くて好きじゃない。それ、置いておくと苦くなるんだろ?」


放置していたカップの中には、もう十分黒い液体が溜まっていた。
彼女の言うとおり、蒸らしすぎた豆から落ちた液はとても苦い。
ドリッパーを外して、ゴミ箱に捨てる。


「って、コーヒー煎れてる最中に声掛けんなって話だよな。アタシが自分で作ればよかった。」
「何を仰いますか。お客様にそのようなことさせるわけには行きません。では―、」
「ここで飲めばいいじゃん。アタシすぐ戻るからさ。今オフなんだろ?気にすんなよ。」

 


カップを持って立ち去ろうとしたリカルドをアルベルが引き留める。
家主やその客人の前で飲食をするのは禁じられ、マナー違反とされているが
確かに此処は使用人用スペースで、自分はプライベート時間。
彼女は上流階級の人間ではないから、マナー違反などと気にも留めないだろう。
お言葉に甘え、シンクに体を預けコーヒーを飲む。やはり苦くなってしまった。

 


「ねえ、さっき歌ってた曲は何?」
「翠のゆりかごです。ご存じありませんか?」


国民なら誰もが知っているはずの歌を、彼女は知らないと首を横に降る。
ルカという村はよほど文明から離れた過疎地にあるのだと想像する。

 


「誰しも母親から歌ってもらったことがある子守歌の代表曲です。」
「リカルドも?」
「いえ、私は・・・。」


目を伏せて、カップの表面を見でも無く見た。


「私も、親はおりません。捨てられていたところを、お嬢様に拾って頂いて、この家で使用人として雇って下さいました。」
「お前も親無しか。でも子守歌は知ってんだな。」
「私は、お嬢様に拾って頂いた以前の記憶がありません。よほど酷い目に遭ったのか、記憶を失っているようで。ですが、この歌だけは聞き覚えがあるような気がしています。遠い昔、もし母と呼べる人がいたならば、歌ってくれていたのやも、と。
・・・まあ、その後捨てられているので複雑なところではありますが。」


コーヒーをまた一口すする。時間が経って冷めたせいか、苦みが増した。
向かいで、氷がカランコロンと軽やかな音をたてる。


「リカルドも、敬語やめてくんない?アタシ苦手なんだよ。」
「・・・申し訳ありません。家主のお客様にそのような失礼をしては、家令の恥になってしまいます。」
「今は仕事中じゃないんだろ?」
「この屋敷に、いえ・・・お嬢様がアルベル様を客人として招いている間はいついかなる時も、お仕えするお方。このように私服でコーヒーを飲んでいる姿を見せておいて、説得力はないかもしれませんが。」
「アタシは気にしないからいいよ。まあ無理にとは言わないけど・・・。それと、もう一つ聞きたいことあるんだけど。」

 

アルベルが幾分か表情を引き締めて椅子に座り直したので、コーヒーカップの位置を少し下げる。

 


「街の人間はさ、働いてお金ってのを手に入れて、それで飲み食いしたり、服買ったり、家賃?ってのを払ったりするんだろ?」
「はい。」
「どうやったらお金は手に入れられるんだ?」


ひどく的外れというか、突拍子もない質問に面食らってしまったが、彼女の住む村は物々交換が主流であったと聞く。
金銭という概念もシステムも使うこと無く生きてきたのだろう。
この時代にそんな先時代的なシステムが残っていることが驚きだが。


「そうですね・・・。仕事をするのが一般的です。」
「仕事はどこで探せばいい。」
「求人雑誌や紹介所で・・・。あの、アルベル様、必要なものがあれば仰って下さい。私相手で恥ずかしいようでしたら、メイドが代わりに―」
「違うんだよ!ほら、アタシの衣食住はディアナが面倒みてくれるだろ?でもさ、どう見たって大飯食らいのただ働きじゃん。美味しいご飯食べさせてもらって、広いお風呂にも入れてもらってるのに何もしないの、さすがに嫌なんだよ。」
「アルベル様は、正規適合者としてケルベロスを睨む役割を担っていらっしゃいます。
滞在して頂けるだけで役目は果たしておられるかと。」

 

いやいや!とアルベルが激しい否定を見せる

 

「街に出ていざこざ解決しようにも、白服が全部やっちまうし、今のとこケルベロスもやってこないから街は平和そのもの。やることないんだよ。もらうだけっての、性に合わない!せめてなんか仕事くれ。そうだ、庭の手入れとかしようか?雑草取りとか。」
「それではウチの庭師が職を失います。」
「じゃあ街に出て働くよ。」

 

リカルドには、アルベルの言い分はそれなりに理解できた。
そもそもじっとして待っているのが苦手なのだろう。
家主であるお嬢様がいいというのだら、ダラダラと屋敷に滞在してても誰も何も言わないとは思うが。
執事長の横顔が脳裏を過ぎった。直接言わずとも、不平不満は募るもの―・・・。

 


「アルベル様は有事が起きた際にすぐ動いてもらわねばならないので、出来る仕事も限られましょう。まずはお嬢様に相談し、許可を得られれば、私が何か探します。それまでは、精霊の勉強を頑張りましょう。」
「助かるよ!」

 


グラスに残ったレモネードを飲み干して、おやすみと言い残しアルベルは去って行った。
狭いキッチンが再び静寂に包まれる。
ぬるくなってしまったコーヒーを一気に飲み干し、彼女が使っていたグラスも一緒に洗って、水切りに並べる。
キッチンの電気を消して、与えられた自室へと戻る。
リカルドの自室は、とても質素であった。
書き物机と椅子、壁に寄せられたベッド。ベッド脇の小さな棚。
絨毯もなくカーテンは単色。棚に時計が置かれている以外、家具や趣向品の類いは一切置かれていない。
使用人である以上贅沢するわけにはいかないとは言え、恐ろしいぐらいに個性がない部屋であった。
部屋の隣にある洗面台で歯を磨き、寝る支度をしながら書き物机の上に置かれた分厚い封筒をちらりと見る。
執事長ベックマンから預かった、書類の束。
このまま寝てしまおうかと少し考えてから、諦めて封筒を手に取り中身を確認する。
分厚い書類束の1枚目には大きく『宝具・剣及び冠の所在調査 中間報告』とだけ黒字で書いてあった。

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