* 7
「どっち行った!?」
「次の道左!」
後ろからの指示通り左に曲がって、走り続ける。
蓋からゴミが溢れているメタル缶を通り過ぎ、太陽が当たらないせいでじめっとした路地を抜け、違う路地に出る。
「ベルちゃん、あそこよ!」
セウレラが指差したのは、空。
顔を向けると、青い空を横切る赤いシルエットがあった。
「逃がすかっ。セウレラ、ウィップ!」
アルベルの右手に水で出来た縄が纏わり付き、それを勢いよくビルの側面を走る配管に飛ばし巻き付けると、ゴムのように伸縮してアルベルの体をビルより高く舞い上がげる。
下から現れた人影に、赤いシルエットが驚いて鳴き声を上げ、空中で身じろぎした。
「お縄につきやがれ!」
アルベルが両手を差し出し生まれた水球の中に、それを閉じ込める。
空中にいたアルベルの体をセウレラが運び、地面に着地させる。
「手こずらせやがって。」
「始めから私を使えばよかったのに。」
「動物相手に精霊の力使うの卑怯だろうが。」
「使ったじゃない。」
「依頼人を待たせるわけにはいかねぇだろうが。」
ほっぺを可愛らしく膨らませたアルベルの手の中にいるのは
水に囲まれパニックになっている、赤いインコであった。
水籠の中は空洞で細かい通気口から空気も入れているのだが、見えない壁を鳥は理解出来ず嘴でつついたり羽を広げたりしまったりを繰り返している。
水球に入っている鳥を抱えながら、アルベルとセウレラは街の北側にある高級住宅街地域にやってきた。
貴族や富裕層が多く住む地域で、どの屋敷も大きく豪華な造りとなっている。
もらった地図で確認しながら、赤い屋根が目立つ家のチャイムを鳴らした。
中から顔を出したマダムは、厚化粧でアクセサリーをこれでもかと身につけていた。
扉を開けるなり冷たい目線を向けてきたが、手の中にいるオウムを見た途端大喜びで手を叩いた。
依頼完了の受領書にサインを貰ってから、その家を後にした。
「よーし、依頼完了。事務所戻るか。」
高級住宅街から再び市内に戻り、街の東にある旧市街に入る。
ヴォルクの昔の様子が残る建物群はレンガ造りが多く、都市開発と共に中心地ではなくなってしまったが、今も人が多く住み昔ながらの店がマイペースに営業をしている。
ビルとビル間にある、3階建ての細長い建物にアルベルは入っていった。
窓ガラスには『メートル探偵事務所』と書かれている。
細い螺旋階段を登って、2階の扉を開ける。
窓を開けてないせいでこもった埃臭さが鼻に入る。
部屋の中は日が入りづらいせいか日中でも薄暗く、陰鬱な雰囲気が拭えない。
フロアをぶち抜いているので広いはずの空間は、どこか狭く息苦しく感じる。
壁沿いに寄せられた書類と大量の本の山、部屋の奥でパーテーションに隠されている小さな給湯スペースではゴミの山がチラ見えしている。
部屋の中央で向かい合わせ置かれている黒革のソファが、この部屋で一番立派で一番綺麗な家具である。
窓際に置かれたワークデスクに座っている太った中年男性は、今日も呑気に新聞を読んでいた。
「メートルさん、終わったよー。」
「ん?ああ、アルベルお帰り。お疲れさん。」
「はい、受領書と依頼料。」
紙切れとむき出しのままでお金を手渡す。
アルベルは此処、メートル探偵事務所で働かせてもらっている。
探偵事務所といっても、逃げたペット探しや失せ物探し、時には水道管修理まで依頼される何でも屋。
大きい仕事が入らない事務所なので、ディアナの許可も下りた。
普段は雑用で大忙しの所長だが、今日は珍しく事務所でのんびりしているようだ。
「次は何する?」
「働かせすぎだって、ネスタ様に怒られないかなぁ。」
「アタシは動いてる方がいいんだ。気にしないでよ。」
「ウチは助かってるよ。おかげでペット探しは繁盛してる。すぐ見つけてるれるってね。」
「精霊の力使って、ずるしてるだけだ。アタシで出来ることなら任せてよ。」
「頼もしいね~。でも残念。今日はもう依頼が入ってないんだ。また明日、よろしく頼むよ。」
やる気十分な気持ちを削がれたところだが、依頼がないなら仕方が無い。
再び新聞を読み始めた所長のメートルに挨拶して、事務所を出た。
「不完全燃焼だなー。」
「難しい言葉、どこで覚えたのよ。」
「うっせ。」
話ながら角を曲がったところで、大通りに何人も集まっているのを目撃した。
白い制服を纏ったグアルガンの姿や、がたいのいい男達も幾人かおり、
群衆の中に見慣れた八の字眉を発見して駆け寄る。
「おーい。シャルル。何事だ?」
「ん?ああ、アルベル。狂犬がヴォルクの街に迷い込んだらしいんだ。」
「犬?たかが犬でこの人数??」
訝しげな顔をしながら改めて辺りを見渡す。
グアルガンの制服を着た男女が20人ほど、難しい顔をして話し合ったり、テントを組んで機械を設置したりしている。
一方私服姿の屈強な男達数人は一箇所に集まって、こちらも難しい顔を付き合わせて何か話している。魚屋ゲントまでそこにいた。
「僕もよくわからないんだよ。商工会メンバーに緊急招集が掛かったんだけど、父さんは他の街に買い付けに行ってて、僕はただの代理なんだ。」
「病気持ちか、人間を襲うヤバい犬なのか?」
「さあ?」
シャルルとアルベルは揃って首を傾げる。
「よく分かんないけど、街の騒ぎは見逃せないからアタシも加わるよ。犬の捕獲ならセウレラの能力使えるだろうし。」
「アルベル、今やペット探しのプロだもんね。」
「それ褒めてる・・・?まあいいや。ここに居てもやること無いし、散歩がてら探しに行こうぜ。」
弱々しく頷いたシャルルを連れて、違う道に入る。
旧市街を走る3本の大通りはマス目状に規則正しく並んでいるのだが、大通りを繋ぐ脇道や無数にある小道はカーブしていたり斜めに渡っていたりと複雑に入り組んでいる。建物は当時主流だった赤レンガ造りの壁ばかりのため目印を付けづらく、馴れない人間は迷子になりやすい。
アルベルも最初の頃はよく迷子になっていたが、探偵事務所に出入りするうちなんとなく全貌を把握出来るようになった。
「セウレラ、犬の気配あるか?」
アルベルの顔の横には、逆三角形のブローチみたいなものが浮いていた。
それはセウレラが探知能力を高めるための形状であった。
水色の逆三角形から声が返ってくる。
「猫と鼠なら何匹か。犬はこの辺りいないわね。人間と一緒にいる犬ならいるけど、飼い犬でしょうし。」
「もう別のとこ行っちゃったのかもな。シャル、犬の特徴聞いてないの?」
「うん、ごめん・・・。」
「見た目分かんないと探せないし、一回ゲントさんにでも聞きに―」
無意識に、あるいは反射的に。顔を左に回した。
ちょうど左に別れる小道が続いている。
大人一人が通れるだけの、建物と建物の僅かな隙間は昼間だというのに濃い闇が落ちている。
赤く光る点が二つ、まず目についた。
暗がい海の底から這い出てくるように、シルエットがだんだんと浮かび上がる。
大型犬が四足歩行でゆっくりと近づいてくる。
犬ならここにいるじゃないかとセウレラに小言を言おうとしたところで、犬が後ろ足を蹴って飛びかかってきたので、一歩先を歩いていたシャルルの背中を思いっきり押した。
いきなりのことで躓いて転んでしまったシャルルが振り返る。
「い、いきなり何、――っ!?」
シャルル、そして彼を庇うように立つアルベルの前に出て来た影は、大型犬などではなかった。
四足歩行の人間であった。
骨が浮き出るほど痩せこけた年齢不詳の男性で、無精髭がみすぼらしく生え、肩より長い髪は油でべとっとしている。
元々白かったであろうシャツとズボンはかなり汚れ、裾は破れ穴がいくつも開いている。
口から涎を垂らし、窪んだ眼窩の奥にある目は血走って赤くなっていた。
男性は、握った手と膝を曲げた足で地面を歩いていた。まるで犬のように。
理性的なしぐさは何一つ感じられない。人間で居ることをやめた同族の姿に、未知の生物と遭遇したときのような底知れぬ恐怖がわき上がってくる。
男性は足で地面を強く蹴って、再びアルベルに突進してきた。
「セウレラ、スフィア!」
逆三角形のままだったセウレラが水の人型に変化しながら、大気中に水を生み出し
主に飛びかかろうとする男をすっぽり包み込んだ。
巨大な水の塊が宙に浮かび、中で男が暴れる。
その動きも理性ある人間がやるとは思えぬ不格好な暴れ方であった。実態があるようでない水の壁を叩いて、破れぬとわかると足で地団駄を踏みながら、口を大きく開いて膜に噛みつき始めた。
「なんだコイツ・・・?」
「ベルちゃん気をつけて。この人間、狂い人に落ちてる。」
「狂い人?」
「気が狂ってる相手には、精霊の力が効きづらくて・・・ごめんなさい、もう解かれる!逃げて二人とも!」
「はぁ!?」
忠告が終わるか終わらないかで、水球から男が飛び出してきた。
セウレラのスフィアに閉じ込めた人間は自分から出ることは出来ない。
相手が正規適合者か腕輪持ちのグアルガンならば話は別なのだが、四足歩行の男から精霊の気配はしない。
シャルルに走れと叫んだのが精一杯で、アルベルは男に両肩を押されてそのまま地面に押し倒されてしまう。
後頭部の痛みで一瞬意識が遠のく。
歯を食いしばって目を開けると、野生の動物のように歯をむき出しにした男の顔が鼻先に迫っていた。
黄色い歯はほとんど欠けて無くなっていて、酷い悪臭が鼻につく。
口からだらしなく垂れた涎が首筋に落ち、全身に悪寒が走る。気持ち悪い。
セウレラが水の鞭で男の首を絞め必死に引き離そうとしているのが分かるが、男は気にしてる様子も無く、血走った眼をアルベルに落とす。
本来白い部分の目は赤く染まり、虹彩は真っ黒だった。まるで闇が、こちらに手招きしているかのような恐怖。
背筋が再び凍る。大きく開かれた口に、人間の歯とは思えぬ鋭利な牙が残っていることに気づく。
ああ、自分は今捕食される側なのかと、思い知らされる。
遠くでセウレラの声が聞こえる。
男の牙が喉元に噛みつく―その刹那。
体に乗っていた重みが消え、甲高い声―それこそ犬のか細い鳴き声―が聞こえた気がした。
「ベルちゃん!!」
セウレラが主を抱きしめながら、安全な場所に移動させる。
セウレラの腕の中で、暗がりに逃げていく四足歩行の影を見た。
「ベル、大丈夫かい。」
放心状態のアルベルを壁を背に座らせると、視界に赤いものが入ってきた。
白い制服を着た赤髪の男―ヴァンが、膝をついて心配そうに顔を覗き込んでくる。
「ヴァン・・・、お前が、今のやつを―。」
「ごご、ごめん・・・僕、何も出来なくて・・・!」
セウレラに水を借りて塗らしたタオルで、アルベルの首元をシャルルが拭き取ってくれた。
タオルを借りて手首なども拭き取る。まだ悪臭が鼻についており気分が悪い。
「怪我はないね?怖かっただろう。」
「大丈夫だ。」
「狂い人はヴァン君の炎に脇腹焼かれて、逃げていったから、平気よ。」
3人が必死に自分をあやしている様を客観的に、俯瞰して見ている自分がいた。
餌にされる恐怖は確かにあったが、それよりも、両肩を強く押さえつけられて抵抗すら出来なかった自分の不甲斐なさがじわじわと湧き上がってくる。
「水の力が効かなかった・・・。」
「精霊の特質は執事から習っただろ?水の精霊は育み。気狂いの人間は特に特質の影響を受けるんだ。よくも悪くもね。」
「今の男なんだよ?本当に犬みたいだったぞ。迷い込んだ狂犬って、あいつのことか?」
「その通り。ケルベロスが開発した新種の薬を飲み続けた人間は、ああやって理性を無くし本能のみで行動するようになる。」
「麻薬みたいなもんか。」
「それよりもっと悪いよ。」
ヴァンが差し伸べた手をとって、立ち上がる。
彼はズボンのポケットに入れていた携帯通信機で仲間に今狂人と接触して逃がしたことを伝えた。
普段のチャラついた柔らかい雰囲気は封印し、厳しい顔つきで男が逃げた方を見つめながらいくつか指示を出して、通話を終了する。
「薬の被害者達は野生に戻り同族である人間を襲う。腹が減って肉を求めるというよりは、苛立ちをぶつけている感じかな。特に女子供は襲われやすい。」
「頭ぶっとんでるくせいに、そういう区別はつくのかよ。」
「彼らは狂人とか、狂犬とか呼ばれていて、ヴォルクに入り込まないよう公道は24時間監視してたんだけど、隙を突かれて入り込まれた。この旧市街全域の出入り口全てを封鎖させている。
特別な檻を用意したから、おびき寄せて捕まえる。」
「アタシもやる。やられたばっかで帰れるかよ。」
「でも、狂人に水の力は効かないじゃないか。」
「囮でもやるさ。次は捕まる前に逃げればいいだけ!」
「平気?」
「しつこい!」
「はは、ごめんよ。正規適合者だもんね。一度作戦本部に戻って作戦練ろう。シャルも一緒に戻るよ。人が多い場所の方が安全だ。」
「うん・・・。」
「あ、シャルもビビった?泣きそうじゃん。胸貸してあげようか。」
顔を真っ赤にして怒るシャルルを、いつもと変わらぬ様子に戻ったヴァンが茶化しながら歩き出すので、のろのろと後に続く。
人型になったセウレラが、浮いて地面を滑りながらアルベルの顔を覗き込む。
「ベルちゃん、本当に平気?」
「平気だっつの。それより、どうするよ。水の力全然効かないじゃん。相手がキチガイだからって、さすがにアタシら役に立たなすぎじゃね?」
「ごめんね・・・。」
「なんでセウレラが謝るんだよ。」
「精霊は人間を傷つけられない。その誓約は人間と結びつきが強い私が一番強いのよ。」
「でもさ、この街に来てすぐ、変態を2人スフィアに閉じ込めたことあったろ?あん時は普通に技使えたじゃねぇか。」
「その行為は悪いことである、って本人に罪の意識があるからよ。私にしても、主に危害を加える者に対する、守る意味での反撃は有効。でも狂い人は悪いことをしているという知性すらない。あるのは本能だけ。でも人間であることに代わりはないから、精霊は不利になる。」
「なるほど、納得したわ。そしたら、ダークは?人間界で色々悪さしているじゃん。」
「あの子は特別なのよ。」
暗い声でそう答えながら、視線を逃がした。
どう特別なんだと聞こうとしたところで、ヴァンに名前を呼ばれた。
話ながら歩いていたら、先程シャルと出会った通りに戻ってきていた。
通りには先程より人が増え、立派なテントが完成していた。
私服の一団から、商工会の顔役で魚屋のゲントがシャルルとアルベルに気づいて歩み寄ってきた。
「嬢ちゃん、狂犬に襲われたって?大丈夫か。」
「へーきだよ。捕まえられずに悪かったな・・・。なあ、檻って、あれ?」
「おおよ。こんなこともあろうかと熊捕獲用檻を改良して用意しておいた。まあ、使わないで済むのが一番だったがよ。」
テント横に正方形の黒い鉄檻が堂々と鎮座していた。
高さは成人男性が一人入れるぐらい。長身のゲントだと頭がぶつかるかもしれないが。
柱の一本一本は太く、感覚が狭いので、小柄なアルベルですら腕を出すのが精一杯だろう。
「電圧線を内臓してるから柱に触れたら死なない程度に感電する。狂人でも脳みそがあるから、本能で手を触れなくなるらしい。重さ600㎏、一度降りたら抜け出すことは不可能って品さ。」
「どうやって運ぶの。」
「そりゃコレよ。」
と行って、腕まくりした自身の二の腕をペチペチと叩く。
「嘘でしょ!?」
「ハッハ!冗談さ。クレーン車を用意してつり上げてもらう。だが建物にぶつけねぇように、俺達商工会が支えて運ぶ。」
冗談に引っかかったのが面白くないのか、アルベルが頬を膨らませる。
その横に、シャルルがやって来た。
「ゲントさん、僕も手伝わせてください。」
「おめえさんは代理だろ?親父さんがいない時に大事な工具店の跡取りに怪我させるわけには―」
「やらせてください。僕も、自分の街を守りたい、です。」
八の字眉毛は今にも泣き出しそうな印象を与えるのに、紫がかった青の瞳はどこか力強い輝きを秘めていた。
ゲントはシャルルの肩を叩いて歓迎した。
何故かヴァンは得意げな顔をして頷いていたが、地図を持ってやって来た部下の無言の視線に、思い出したようにアルベルの後ろに控えていた水の精霊に声を掛けた。
「セウレラさん。さっきの狂人の場所分かったりします?」
「ええ。もちろんよ。」
「よかった!今どのへん?」
部下が手にした地図を見せ、セウレラが場所を高騰で説明する。
集まってきたグアルガン数人と共に話に加わるゲントを、遠巻きに眺めるアルベルとシャルル。
「アルベル、さっきから呆けてない?大丈夫?」
「驚いているだけだ。日常とは違う事件とか、あんまり体験したことないからさ。戸惑ってるって言った方が正しいかもな。なのにあいつらはテキパキ動いててすげーなって、素直に感心もしてるとこ。」
「うん。ヴォルクは強い街だよ。自分達でいつも戦って、守ってきた。」
シャルルに顔を向ける。
「この街を守るってディアナと約束した。アタシも手伝うよ。」
「僕も、一員として頑張るよ。」
集まっていた人員がばらける。
指示を出す声があちこちから上がり、クレーン車が顔を出した。
ヴァンが戻って来て言った。
「狂人捕獲作戦、開始だ。」