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まず感じたのは激しい頭の痛みだった。
刺すような痛みが脈打ち、重りを乗せられたようなダルさが全身にあると理解してから、動きの鈍い瞳を開いた。
視力を失ったかと疑ったが、目を開いてもそこは闇だった。
光源が一切無い場所にいるのだろうか。床に触れる頬が冷たい。
困惑する意識を無理矢理大人しくさせて記憶をたぐり寄せる。
たしか、キアラとマリオと一緒に街の巡回をしていて、ベルと会って、その後―
―突然空間が明るくなった。
闇から反転目映すぎる光が目に刺さり、眼球に痛みが走る。
時間をかけて瞳を少しずつ開いていく。そこはとても広い大部屋だった。
壁も天井も黒いのだが、床は大理石なのだろう。天井のライトを反射している。時間が経って目が慣れると、天井に埋め込まれた光源は最低限で、この空間を照らすには不十分であるように思う。部屋の隅の闇はまだ巣くっていた。
その空間の真ん中で、自分は手足を拘束され床に横たわっている。
唯一自由が利く頭を回して辺りを確認すると、部屋の奥に一段高くなっている場所があり、大仰な飾りの椅子に座る男がいた。
部屋と同じく真っ黒なスーツに黒いワイシャツ、赤いネクタイがぼやける目には浮いて見えた。
男が座る椅子の真横に、黒いドレスを纏った黒髪の女が立っていて、こちらは白すぎる肌が不気味な程浮いて見える。
その女を見た瞬間、ヴァンの全身に鳥肌が立った。血の気が引いて、手足の先がすぐに冷たくなるのを感じた。

 


「ダーク・・・。」

 


掠れた声で漏らすと、女―闇の精霊ダークは隣の背もたれにわざとらしく手を掛けて、赤すぎる唇をつり上げた。

 

「久しぶりね、坊や。ずいぶんいい男になったじゃない。」
「なんだ、俺の事は呼んでくれねぇのか。つれないねぇ。」
「?」


まだ少しぼやける目を細めて椅子に座る男を見る。
ダークが隣に控えるのを許すぐらいだ。この男がダークの主なのは間違いないだろう。
歳は30代後半か、40代前半辺りだろうか。肌は焼け、太い首に、二の腕辺りがキツそうなスーツからがっちりした体格だとわかる。
ヴァンの心臓が、一際高く動揺の音を鳴らした。

 


「う、うそだ・・・。」


両の手は後ろに縛られているため体を器用に捻らせて、床に座り真正面から男を捕らえた。

 


「ケルベロスのボスは、ジェットだと・・・。そんなはず、だって、あの時・・・。」

 

眠らせ沈ませていたはずの遠い記憶が、海底から浮上してくる。
常に乾いて荒んだ街、最低な住民、差し出された手―。

 


「ロベルトは、死んだ筈だ!!!!」

 

椅子に座る男―ヴァンの恩人であるロベルトが、顎を撫でながらいやらしく笑った。

 

 

*  *  *

ヴォルクの南東にピエドラという街がある。


統治が隅々まで行き届き、技術発展と生活水準が高いヴォルクと違い、統治者から見放されたスラム街や貧民街ばかりが目立つ荒れた街であった。
ある程度栄え物流が行き届き治安維持されているのは、中央にある貴族の邸宅近辺だけ。
当時ピエドラを治めていたボイドゥ家は市民に一切の施しはせず、国家から与えられている街のための予算を着服し私服を増やし、親族などの貴族連中と豪勢な暮らしを送っていた。
市民は飢え仕事を失い、貧民と死者が増えた。
それでもボイドゥ家は街を救わなかった。
ピエドラが街としての機能が失われ底辺を彷徨っていた時代に、ヴァンは生まれた。

 

貧民街の長屋をこれでもかと細く分けた一角、家と呼んでいいのかも分からぬ木造の小さな空間で母親と2人でなんとか生きていた。家具はほとんどなく、最低限の調理器具と服が唯一の財産。
隣家との壁は薄く話し声は丸聞こえ。夏は暑く冬は隙間風が入り放題なので恐ろしく寒い。
父の顔も知らない。生きているのかもわからないが、興味もなかった。
母は自分と同じ赤毛を持つ美人で、息子に生活のストレスとぶつけるような酷い人間ではなかった。いつも優しくて、温かかった。
大人になったらヴォルクにでも働きに出て、母と一緒に普通の暮らしを送ろう。幼いながら、ヴァンは当たり前の目標を胸に日々生きていた。
だが、夢は叶うことはなかった。
ある夜、スラム街にいるはずの不良が貧民街にやってきて、運悪く母が餌食になった。
母に乱暴を働く不良達に立ち向かったヴァンは簡単に吹っ飛ばされて、壁に頭を打ち付けて気を失った。
意識が途切れる直前に、自分の名を呼ぶ母の声が遠くで聞こえた気がした。
目が覚めた時、夜は通り過ぎ外が明るくなっていた。母は台所で裸のままうつ伏せになって事切れていた。
体中に痣が残り、乱暴をされていたのは明白であった。
冷たい母の肌に触れて揺すってみても、当然反応はない。壁にぶつかった頭が酷く痛む。
辺りが焦げ臭いことにそこで初めて気がついた。火が上がっているらしく、近所の住人が騒いでいる。
きっと不良達が去り際暴れて火事でも起こしたのだろう。
ヴァンにはどうでもよかった。土間口で感じる火の気配よりも、冷たくなって動かぬ母から意識が離れないのだ。
いつかお金を稼いで、広い家で一緒に住もうと、何度も約束したじゃないか。母を失ったら、子供の自分には何も無い。
火の手はヴァンの家にまで入り込んできた。呼吸するのも辛くなってきたが、体は母の側を離れたくないと動こうとしなかった。ヴァンも、何も考えられなくなっていた。
―燃えさかる火の手を越えて、出入り口から誰かがやってきた。
ヴァンを見つけると、そのまま抱き上げ外に逃げる。
最後に見たのは、赤い母の髪をまた別の赤が燃やすところであった。

 

 


 


目を覚ます。
体が鉛のように重いのに、意識だけはすぐ覚醒した。
見慣れた薄汚い天井ではない。裸電球がぶら下がっていた。やけに天井が近い。首を回す。
自分が寝ている布団のすぐ横に柵があり、何もない空間が広がっている。下に降りることが出来るのだろう。
不透明な窓が向こうの壁に並び、鉄骨がむき出しになっている。のろのろと体を起こして。下を覗く。
そこは縦長の小さな倉庫の中だった。
けれどヴァンが住んでいた部屋より清潔感があり、家具一式が揃い、本棚がいくつも並んでいた。おまけに、小さな観葉植物がチェストの上に乗っている。倉庫を改造して誰かの居住スペースにしているのだ。
と、人の気配がした。

 

「起きたかチビ助。喉渇いただろ?まずは水飲め。階段、気をつけて降りるんだぞ。」

 

頭がぼんやりしていたため、ヴァンは何も考えず声に言われた通り布団の脇にあった鉄の階段を降りた。
手すりに掴まる手は綺麗に汚れが拭き取られ、着せられた大人サイズのTシャツは洗濯され柔軟剤のいい匂いがした。
素足で床に足をつけるが、倉庫の中なのに薄いマットが敷かれていた。
背が高く、黒髪の若い男に、プラスチックのコップを差し出され、素直に飲む。
中身はほどよく冷えた水で、体はとても乾いていたらしい。喉を鳴らして一気に飲み干した。
此処は倉庫の中は、立派な部屋が出来上がっていた。
一番奥に簡易ベッド、その手前にテーブルと椅子のセットが並び、キッチン台に水場。ガス台の上にはちゃんと換気扇が付いていた。
今ヴァンに水を与えた男は、キッチンでフライパンをふるっているところだった。

 


「腹も減ったろ?もう出来るから、そこの椅子座って待ってろよ。」
「お母さんはどこ。」


掠れた声で問うと、フライパンを揺らす手が止まった。
苦い顔をして、ヴァンを見やる。

 


「すまない。お前を助けるので精一杯で、お母さんは間に合わなかったんだ。」

 


ヴァンは近くのテーブルにコップを置いて、踵を返す。

 


「待て!どこに行く。」
「帰る。」
「あの一帯はもう焼けちまったよ。貧民街は木造ばかりだからな。」

 


それでも倉庫を出て行こうとすると、青年はフライパンを置いて火を止めると、細すぎるヴァンの手首を掴んだ。

 


「身寄りはもう無いんだろ?此処にいろ。」
「嫌だ。お母さんのところに行く。」
「もう灰になっちまったよ。」
「・・・放っておいてよ。なんで助けたの。」
「それは―」


その時だった。倉庫の扉が乱暴に開かれ、人相の悪い大人達が何人もなだれ込んできた。
青年が咄嗟にヴァンを背に隠す。
この街の治安が一向によくならず、貧困の差が広がり、貴族達が政治を諦めた大きな要因がある。
オルトロスという組織がこの街を牛耳っているからだ。
彼等は不良達の寄せ集めであったが、今や組織化され統率力を得た。
最近では人身売買、危険な薬物の斡旋も行っているほど力を付けたとかで、絶対に近づいてはいけないよ、と母にきつく言われたものだ。
ヴァンもこの街でずっと暮らしているので、ただの不良とオルトロスの違いぐらい見抜けた。
倉庫内に広がる男達は、紛れもなくオルトロスであった。
男達は青年を囲むように広がると、出入り口から杖を突いた初老の男性が入ってきて、一同は頭を下げた。


「やはり此処に逃げたかロベルト。」
「父さん・・・。」

 


灰色の髪をきっちりとまとめた痩身の初老男性は、格好こそ綺麗にしていたが、皺が深く刻まれた肌に埋もれた双眸は、鈍く油断なく光り野蛮さが隠せていなかった。
あれは世間を恨み罪を重ねた者の目であった。悪を是とし人を傷付けることにためらいのない大人は、皆あの目をしている。鋭く、暗く、陰鬱そうで、この世の全てを殺してやると息巻いてるような殺意を感じる。

 

「ボスの息子がこんなところで平民ごっこか。いい加減飽きて家業を継げ。」
「嫌だ。俺はギャングなんかにならない。学校へ行って、学問を習うんだ。」

 


杖に両手を突いた男は、忌々しげに本棚にずらりと並んだ本を一瞥した。


「その学費やら教科書代は誰が払うんだ?この本も、俺の金だろう。」
「っ・・・。」
「いいから家に戻れロナルド。望み通り、前線には出さず会計の仕事でもさせてやる。家業に貢献を―・・・。」

 


男が、息子の背に隠れている子供を見つけた。
そのまま、杖を突いて近づいてくるので、青年は子供ごと数歩下がったが、逃げ切れなかった。
しゃがみ込んで、男は子供をマジマジと眺めた。
近くで見る知らぬ大人の双眸も、ヴァンは怯えることなく見返した。

 

「お前、ヘイズの息子か?」
「母さんの、名前・・・。」
「やはりそうか!」


初老の男性は杖を床に投げると、突然ヴァンを抱きしめた。
突然のことにロベルトと呼ばれた若者も、周りを囲む不良達も、当のヴァンも困惑した。
ただ一人、ボスと呼ばれた男だけが、嬉しそうに笑いながらヴァンの背を撫でていた。

 

 

結論から言うと、オルトロスのボス・マルセロが寵愛していた女がヴァンの母ヘイズで、何度も求婚したが逃げられ行方を掴めずにいたらしい。
もう別の街に逃げたと思っていたから、まさか貧民街でひっそりとくらしていたとは知らず、知っていたら親子共々引き取って面倒をみてやったのにと嘆いた。

ヘイズとは清い関係であったので、お前の父ではないから安心しろとも言われた。


「ヘイズと同じ綺麗な赤毛だ。目の色もそっくりじゃねぇか。」


ヴァンはオルトロスのボスが住む邸宅に連れて行かれ、体を丁寧に洗われてから綺麗な服を着せられたのち、ボスの膝に乗せられ頭を撫でられていた。

 


「お前の母さんを乱暴したやつは、もう地獄を見せてやったからな。ヘイズも生きてりゃよかったのになぁ・・・。」


この男は、自分を通して母を見ているのだとすぐにわかった。
ヴァンは見知らぬ男に頭を撫でられるのが気持ち悪かったが、逃げられないのを察していた。
この部屋の外には見張りの男がいたし、邸のいたるところにオルトロスの部下が配置されている。
もとより。ヴァンはもう生きる意味を失っていた。
されるがまま、もうどうでもいいかと男の膝に座っていた。

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