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そこは、闇だった。
どこを見ても黒い色しかなく、自分の体すら見えない。
目は開いているし、立っているとわかってはいるが、何も見えないし感じない。
ここは、無だ。
闇すら存在しないのかもしれない。
ヴァンは、無の世界で歩き出した。耳鳴りがするほどの静寂を割って、小さな声がヴァンを呼んだ。
母さんだ。
闇から、ピエドラの貧民街へと景色がスライドした。不衛生で狭い家であったが、母と二人で幸せだった木造小屋。
優しい母が、微笑みながら愛しい息子の髪を撫でる。
しかし突然、母が悲鳴を上げる。
身体中から血が溢れる。
先程まで笑っていた母の顔は絶叫の繰り返しで歪み、絶望をその瞳に宿して固まった。
場面が変わる。
花屋の裏通りだ。
腕の中に、血だらけになったエンリケがいた。
少女の悲鳴が響き、振り返ると、エンリカがこちらを睨んでいた。
憎しみと恨みが強烈に強まる瞳に、声を出して逃げ回りたくなる。
反らしたくても、反らせなくなってしまった。
眉間を醜く寄せる少女の睨みが、体の自由を許さない。
その口からは絶えず呪いの言葉が漏れている。
やめてくれ、エンリカ。
俺のせいじゃないんだ。
―――オマエガイタカラ、エンリケハシンダ
俺は殺してないんだ。
―――オマエノセイダ。オマエガ殺シタ
違う。
叫びたいのに、声が出ない。
指先一つ動かせない。
怖い。あの目が怖い。
少女の目が、憎しみに燃える瞳が見開かれた。
――――ユルサナイ!!
そこで、目が覚めた。
ベッドの上で跳ね起きたヴァンは大量の汗をかいていた。
呼吸が乱れ、体が震えている。
頭に黒い雲がかかったまま、現実がなかなか体に染み込まず、夢の終わりを確かめる。
エンリカの夢を見たのは、これで何度目だろう。
浅い呼吸を繰り返す度、遅い足取りだが意識は現実に帰ってきたので、とりあえず汗を拭いパジャマを取り替える。
ヴァンが宛てがわれた部屋は、最初に寝かされたあの質素な部屋であったが、滞在中にリフォームを施されていた。
家具はそのままだったが、壁紙は暗い緑に星柄のものが張られ、タンスの中にはヴァンのサイズの子供服がたんまり詰まっていた。
カーテンと絨毯は緑で、ベッドには天蓋がつけられていた。
居候に金をかけすぎだと家主に言ったら、気分転換だと返された。
長居するつもりはなかったのに、そんなことされては困ってしまう。出て行きにくくなるではないか。
汗で濡れたパジャマから着替えたヴァンは、部屋を出て、ウルの寝室を目指した。
オルトロス時代の癖で足音を立てず廊下を歩き、扉の前に辿り着いたはいいが、一体どうしようというのか。
かと言って、部屋に戻るとあの夢に押し潰されてしまう気がした。まだ完全には目覚めてないらしい。
うだうだと考えていると、中から声が掛った。
「ンなとこ突っ立ってねぇで、入れよ。」
バレた。
いくら気配を消しても、不思議な力を持つウルには読まれてしまうようだ。
ドアノブをそっと回し、恐る恐る中に入る。
ウルの寝室は、暗い藍色を基調としていて、ベッドもキングサイズ。大きな円形窓から、月明かりが淡く差していた。
眠っていたらしいウルが、寝た体制のまま細く目を開け、ヴァンを手招きする。
「ほら、こいよ。」
寝ぼけままの、低いかすれた声。
吸い込まれるように、その腕に誘われベッドに潜り込む。
ウルはすぐ瞳を閉じたが、ヴァンを抱きしめ髪を撫で始めた。
大きな存在と、温もり。
記憶に残っていた、母に抱かれている時とは、ちょっと違う。
父親がいたら、こんな感じだったのだろうかと、まだ若いウルには失礼だがそんなことを考えてしまう。
父親はロクデナシと決めつけ、居ないものだと思い過ごしてきたし、欲しいと思ったこともない。
オルトロスのボスにすら、父だと感じたことはなかったのだが、ウルの温もりはとても安心出来た。
泣きそうな程に。
「俺さ、家族とか、持てねぇんだよ。」
腕の中で顔を上げる。
ウルは目を閉じながら掠れた声で喋っていた。
「ホントはさ、オレすんごい歳なの。理由は言えないけど、長生きなんだよ、若い姿のまま。」
「それと、家族は関係ないだろ。」
「あるさ~。嫁さんは皺が増えて婆ちゃんになるのに、オレは肌とかピチピチで若いまま。女にとってそりゃ屈辱だろ。ガキが出来ても、ガキはいつの間にかオレより歳取るんだぜ?父親が若いままとか、尊敬しようがねぇよ。」
かすれた声で素っ気なく話してはいるが、その果てしない孤独と寂しさをヴァンは感じ取った。
見た目通りの人間じゃないと、気づいてはいた。
見た目の割に悟りを開いた老人のような喋り方をすることも多々あった。
ああ、この人も、温もりが欲しいのに、愛する事を怖がる人間なのか―。
「なぁ、ヴァン。オレの息子にならねぇ?」
再び顔を上げると、金の瞳は開かれていた。
月の淡い光を受けて、少し悲しそうに揺らいでいた。
「出ていくタイミングを見極めてたみたいだがな、今更別れるのも味気ねぇと思わね?」
「いや、でも・・・。俺、悪さばっかやってきて普通の子供じゃ・・・。」
「関係ないよ。」
「俺は、死神なんだ。」
「へぇーいいじゃん。オレは簡単には死なないから、他人より安心だぞ。」
「ウルより先に老いて、先に死ぬぞ。」
「耐える。」
「俺で、いいのか。」
「いいってば。これも必然だったんだ。運命とやらは、息子にしたいガキを寄越してくれた。だから、失うのを恐れない。・・・お前の返事は?」
ウルの胸元に埋まりながら、寝着をぎゅっと掴む。
「俺に父親は居なかった。・・・けど、ウルが、父親になる予定だから、居なかった、のかも。」
「フフ、必然の話がわかってきたか。」
「少し。」
「息子になってくれるか?」
「うん。」
「そうか。」
「うん。」
髪を撫でる手は止まらず、それどころか、愛しさとか優しさとかが、流れこんできている錯覚を覚える。
やっと見つけた安堵できる場所で、あの夢を見ることなくぐっすり眠りについた。
*
ウルと正式な養子縁組を組んで、ヴァンはミドルスクールに通うことになった。
ピエドラでロベルトから歳相応の知識を習っていたおかげで、勉学においてはすぐ追いつくことが出来た。
問題は、ヴァンは今まで同じ年代の子供と接してこなかったため、社会性や協調性が皆無に等しかった。
くわえて、ヴァンは護身術など一通りの体術を習っているうえ、元犯罪者組織にいたという罪悪感と、
自分は死神であり関わった人間は皆不幸になってしまう思い込みが、彼を浮いた存在に仕立てあげるのは容易であった。
ヴァンはあっという間に孤立し、クラスメイトから陰口を言われ、陰湿ないじめもやられたい放題。
反撃しようとすれば簡単に相手をねじ伏せられるが、ヴァンは一切刃向かわなかった。
ただされるがまま、流されるまま。
その日も、クラスのいじめっ子達に無理矢理放課後連れていかれ、人気の無い公園で殴る蹴るの暴行を受ける。
ヴァンからすれば、日々ジェットの手加減一切無しの八つ当たりを受けていたので可愛いものなのだが
顔や見える部分に怪我でも負ったらウルに心配をかける。
極力顔や腕を庇って受け身に徹して、早く気が済んでくれないかと時間が過ぎるのを待った。
「や、やめなよ!」
振り下ろされる攻撃が止んだ。
ヴァンも伏せた顔を上げる。
カバンを背負った金髪の少年が武器らしきものを握って此方を睨んでいた。あれは、金槌?
勇ましく睨み付けてはいるが、足は震え目尻と眉尻は下げ涙も溜まっている。
仲裁に入ってきた割には、弱々しい。
当然いじめっ子達は食ってかかるが、仲裁にきた少年も震えた声で反論してたが、突然手にしていた金槌を振り回し始めた。
子供が手にするには重そうな、本格的な品で汚れやへこみが作られている。
最初は舐めきっていたいじめっ子達も、振り回される鈍器が本物で、頭にでも振り下ろされたら桃のようにぱっくり割れて中身がこんにちはすると本能で理解したのだろう。
悪態をつきながら、あっという間に逃げて行ってしまった。
「君・・・大丈夫?」
声を掛けられ、もう終わったのかと立ち上がり体に着いた土をはたく。
「怪我してる。」
「・・・。」
「僕、絆創膏ある。あ、その前に洗わなきゃ。ほら、こっち。」
眉尻は下がっているのに、意外と強気なのか、ヴァンの腕を引いて水場に連れて行った。
腕に切り傷が出来ていて、水で丁寧に土を洗ったあと自分のハンカチで水を拭ってから、近くのベンチに移動して絆創膏を貼ってやる。
「帰ったら消毒してね。」
「・・・。」
「僕、シャルル・ロデ。同じクラスなんだけど、わかる?」
正直全く覚えていない。クラスメイトの顔などいちいち覚える気がなかった。
だが、その名を聞いたことがある。
初めてネスタ家に連れていかれた時、ダーク襲来で子供を守って亡くなった女性がいる。
「モア・ロデ・・・。」
「え!?お母さんのこと知ってるの?」
ああやはり。
まじまじと、シャルル・ロデの顔を見た。
短く切り込まれた金髪に、色白でごぼうみたいに細い。先程あんな大きな金槌を振り回してたのが嘘の用だ。
一番目を惹くのは、彼の瞳だった。
紫に青が混じっている。こんな複雑な色味をもった宝石も無いだろう。
鮮やかで軽やかな色味で、宝石だったら透明度が高いのだろう。
「8年前の・・・。」
「僕が悪いんだ・・・。地下に逃げろって言われてたのに、父さんの金槌が工房に置いたままだった聞いて。
あ、僕の家、工具店なんだ。金槌は、お爺ちゃんやひいお爺ちゃんが代々使ってきたとても大切なものなんだ。
勝手に飛び出して、悪い人にさらわれそうになって、僕を助けようとしたお母さんが犠牲になった。」
違う。元はといえば、君が俺と間違えられたせいで母親が犠牲になったんだと、もう少しで口から出てきそうにだった。
だが真実を告げたところで彼の母親は戻ってこないし、街を守ったネスタ家やウルに迷惑が掛かってしまうため、口をつぐむしかなかった。
「お母さん、元々体が悪くて病院暮らしでね。たまに出る外出許可が下りた日だったんだよ。久々に会って、家族3人でご飯食べたり、して・・・。」
目に溜まっていた涙が耐えきれずこぼれだし、シャルルは乱暴に目元を拭う。ヴァンの胸が、チクリと痛んだ。
自分がヴォルクに来なければ、この少年の母は死ぬようなことはなかったのに。死神というフレーズが、体と意識をダルくさせる。
「ごめん。」
「?なんで、君が謝るの。」
「いや・・・。」
「ヴァン・オッドくんだよね。名前。」
「何で助けた、お前。放っておけばよかったじゃないか。他のやつらみたいに。」
他人は他人を救わない。見て見ぬ振りをする。助ける方がバカを見る。
それはピエドラで育って痛感している。
「君が、痛いときに痛いって言えない人なんじゃないかと思って。」
「え?」
「お母さんが言ってた。我慢するのが得意な人は、心が先に壊れちゃうんだって。だから、そういう人がいたら、そっと手を差し伸べてあげなさいって。」
「・・・そういうの、自己満足なんじゃないのか。」
「かもしれない。でも僕は・・・君と仲良くなってみたいって、そう思ったんだ。」
あどけない笑顔を向けられて、エンリケの顔が浮かんだ。
また俺は、同じ間違いを犯すのか。彼の母を殺して、次はこの少年。
関わらなければ、きっと―
「改めまして、僕シャルル・ロデ。よろしくね、ヴァンくん。」
差し出された手を、取ってしまった。
つくづく、自分は弱くて、寂しい人間だと思い知る。他人と関わるのがやめられない。
温もりを、関係性を紡ぐのをやめられないのだ。
1人はもう嫌だ。取り残されるのは、もう―。
「ヴァンでいい。」
外はいつの間にか夕焼けに染まって、黄昏市場が開始されるアナウンスが遠くで響いている。
夕焼け空は嫌いだった。
何も始まってないのに、家に帰れと急かされる。
家に閉じ込められ何も成せないまま夜が来るのを、本能が拒絶をするような。
怖いのは夕焼けではないと、今気づいた。
夜が来れば朝が来る。明日が、ずっと怖かったのだ。
辛さや痛みに耐え凌ぐだけの明日が来なければいいのにと、逃げていた。
でも今日は何故か、焼ける夕焼けも怖くないと思えた。
エンリケ。
生きてみるよ、もう一度。
普通の退屈な暮らしとやらを、このヴォルクで。
お前も一緒にいたら良かったのにと、何度も思うよ。
