*** 11
濃い雨の匂いが世界に満ち満ちていた。
湿気で空気は重たく肌に絡みついてくるが、肌を通り過ぎるときは清冷さをひたすらに主張してくる。
強い雨が容赦なく体を打ち付けてきて、雨霧で視界は悪い。
夜に入る直前の、青く染まった薄暗い路地を、少年が一人歩いていた。
決まった動作しか出来ないロボットのように、のろのろと足を動かし続けている。
雨に冷えた足は重く、つま先は冷えとずっと靴に納められた痛みを感じるようになってきた。
関節は痛いし、全身はダルく疲れきっていたが、止まることを忘れてしまったかのように、ただ歩く。
突然、意思に反して体の限界を迎えた。
膝がガクンと折れ、支えきれない体は左手にあった壁に打ち付けられ、そのまま支えきれず座り込んでしまう。
強く降る雨のせいで地面に溜まった水が、ズボンや靴下を容赦なく濡らす。いや、浸かるが正しいか。
彼の右側を走る道路には時折車が通り過ぎるが、濃い霧に飲まれた小さな子供を見つけだせなかった。
夜が迫ってきているらしく、世界はどんどん暗くなり紺色の中に沈んでいく。
指一本動かせず、動いたところでどこへ向かえばいいかもわからぬまま、彼は世界を支配する騒がしい雨音だけを聞いていた。
視界の中に、赤い色が混じった。
「あら、生きてましたのね。」
雨粒を弾け飛ばすかのように、鈴のように軽やかで可愛らしい声がした。
目に入ってきたのは、赤い小さな靴だ。もたげていた重たい頭をゆっくり、ぎこちない動作で持ち上げた。
夜が迫る霧深い世界を拒絶しているような、鮮やかで綺麗な金の髪。宝石のように輝く青い瞳。
少年の足元に立っていたのは、レースをあしらった黒いドレスを着た、彼より幼い少女だった。
少女の隣でモーニングスーツを纏った初老男性が、無表情のまま少女に傘を差し出している。
少女の回りだけ、雨は降っていない。
彼の肌の上には、容赦なく大きな雨粒が降り注ぐ。髪を伝って雫が容赦なくまつげに落ちるせいで、目を開けているのも難しい。
境界線は、確かに此処にあるように感じる。
「まだ生きているのなら、なぜそんなところで座っているのですか?」
「・・・。」
「雨が好きなのですか?」
「・・・。」
「それとも死ぬ予定でしたか?」
幼げな顔と可愛らしい声とは相反する、大人びた台詞が雨に混じって降りそそぐ。
矢継早に繰り出される質問は、雨に浸る少年に届いたかどうかすらわからない。
でも、顔を上げ少女の目を真っ直ぐ捉え外さなかった。
「死ぬ気がないのなら、私のところに来ませんか。」
隣にいた男性もさすがに戸惑いたしなめる言葉を吐いたが、構わず少女は差し出されている傘をひったくり、彼の上にかざした。
境界線が交わって、音が遠のいた。
雨が止んで、彼は一歩近づいてきた少女を見た。
瞳に迷いも哀れみもない。笑みも悲しみもない。
ダイヤモンドより強固な意思だけが、その瞳に存在しているような気がした。
「私と一緒に、来ませんか。」
小さな手が目の前に差し出された。
幼い少女の、小さな小さな、可愛らしい手。
髪から垂れた滴が彼の頬を流れた。
あんなに騒がしかった雨音が遠ざかった気がした。夜が少しだけ後ろに逃げていくのを感じる。
指一本動かせなかったはずの腕が勝手に動き、少年は、少女の手を取っていた。
*
昨日の雨が嘘のように、よく晴れた朝だった。
雨粒をつけた葉っぱを朝日が照らし、滴達がキラキラと輝く庭は清々しい空気に包まれ、生き生きとして見える。
とある屋敷の、広大な庭に面した部屋に、彼はいた。
その部屋は食堂のようで、奥に長く、部屋のほとんどを長机が占めていた。
皺一つ無い白いテーブルクロスの上には、生花が生けられた花瓶と金の燭台が二つ。
奥行だけではなく、横にも広く、大人数でのパーティーや、貴賓を招いた夕食会でも出来そうな雰囲気だ。
ほんの少しだけクリーム色を混ぜた白い壁と明るい茶の床。
天井まである木造扉と部屋の辺を囲うように組み込まれた木が温かみを感じさせた。
部屋の奥は全面ガラス窓で、庭が一望出来るため室内はかなり明るい。
長机の扉側の席で、真新しいリネンのシャツと黒いベスト、半ズボンを着せられた少年は、微動だにせず、うつ向き加減で椅子に座っていた。
両開きの扉が開き、二人の男が入ってきた。
片方は、茶色の髪に仕立てのいいスーツをまとった中肉中背の男性。
片方は、黒いだぼだぼとした上衣を引きずっている色黒の若い男。
煙管を持ち、無精髭を生やし、怪しげな風貌ではあるが、もじゃもじゃの黒髪の下にある金の目だけは、朝にあって月のような神秘的な輝きをみせている。
「そのガキか、ディアナちゃんが拾ってきたってのは。まだ5歳なのに男連れ込むとは、やるねぇ。」
「私も同じ事を思ったよ。」
冗談に笑いながら、茶髪の男性が少年に近づき背を丸めた。
「おはよう。体の調子はどうかな?」
気品が良さそうな男性の言葉にも、少年は反応せず、膝の上にのせた自分の手を見下ろしている。
男性は背を元に戻す。
「昨日からずっとこんな調子でね。何を聞いても答えてくれないんだ。朝食を食べさせるのも苦労したとティナが言ってたよ。」
「素性もわからねぇガキを快く受け入れて大丈夫かよ。お前のカミさん、育ちのいい貴族の出だろう。」
「私の妻は母性に溢れた優しい女性だ。気高く強いしね。」
「あの娘にこの母ありってか。」
「とにかく頼むよ。迷子にしろ親に捨てられたにしろ、素性がわからないと動きようがないんだ。」
「名前まではわからねぇぞ?」
「ヒントが得られれば十分さ。」
黒髪の男性が椅子に座る少年に近づき、煙管を持っていない方の手を伸ばした。
「悪いなガキ。記憶覗かせてもらうぞ。」
少年の頭に手を乗せる。
しばらくそのまま動かなかったが、やがて手を退けると、眉根を寄せ難しい顔をした。
「どうした、アウル?」
「・・・このガキ、心を無くしてる。」
「無くす?」
「断片だけだが、虐待まがいの教育を受けさせられてる映像を見た。朝から晩までお勉強、厳しい規律。間違えたら鞭で叩かれ、激しく罵られていた。乗馬の授業じゃ事故にみせかけ殺されそうになってたぞ。それも1人2人の仕業じゃねぇな。沢山の顔が見えた。」
「ひどいな・・・。」
「こいつの心が塞がってるせいで余り記憶が残ってなかった。場所までは特定出来なかったが、相当金持ちの屋敷だったぞ。貴族の息子とかじゃねぇのか?」
「可哀想に、逃げてきたのかもしれないね。」
茶髪の男性が今度は膝を折って目線を合わせ、大きな手で頭を撫でてやった。
少年は表情筋一つ動かさない。かなり綺麗な顔をした子供なので、瞬きさえしなければ生きた人形のようである。
「慎重に動くとしよう。この子の正体と家庭環境が把握出来るまで、我が家で預かるよ。」
「おいおい、いいのかよ。ダークがお人好しのお前の為に送り込んできた刺客かもしれねぇぜぇ?」
「その時は君に働いてもらわないとね。西区の永住を認める変わりに街を守ると契約したんだ。」
「契約させた、の間違いだろうが。流浪の身だった俺様を無理矢理留めさせたくせに。」
「アハハ。」
「笑い話じゃねぇよ・・・。ホント恐ろしい男だよ、お前は。」
茶髪の男性は少年に向き直る。
「せめて、名前だけでも教えてくれたらいいんだけど・・・。ああ、そうだった。私も名乗っていなかったよね。私はエミディオ・ネスタ。このヴォルクの統治者でネスタ家の主だよ。
隣の彼は見るからに怪しいけど、れっきとした魔術師なんだ。私の友人だから、心配しなくていい。」
「魔術師じゃなくて占い師だ。会話はしばらく無理だと思うぞ、エミディオ。心が壊れてんだ。覗いた記憶から推測するに、恐怖による洗脳で、そいつ家庭教師達の命令しか聞かないよう教育されてる。他人と会話すら許可なきゃ出来ねぇって思考回路が完成されてる感じだった。」
「ネスタ家の力を持って、そんな家を潰してくれようか。」
幾分鋭さを見せた声で恐ろしい事を呟きながらネスタ当主は立ち上がり、少年の肩をポンポン、と優しくあやす。
「街中の行方不明者、失踪者情報を洗ってくれ。酷い教育を受けさせたとはいえ、子供が消えたら捜索願を出しているかもしれない。片っ端から頼む。依頼料は払うよ。」
「はいよー。・・・じゃ、俺は帰るぞ。嬢ちゃんが来た。」
「ディアナと顔を合わせても問題ないだろ?」
「裏の世界で生きてる占い師と将来有望な次期当主が顔見知りってのはまずいだろうが。」
踵を返し、後ろ手を降りながら黒衣の男は早々去っていった。数秒後、パタパタと可愛い足音が近づいてきた。
木造扉が勢いよく開き、金髪の少女が顔を出した。
朝日を含んだ金の髪は美の女神も嫉妬してしまうぐらい美しく輝いてみえた。
「此処にいましたのね、リカルド!」
少女は扉から少年の姿を確認するなり、小走りで部屋の中に入って少年前に並ぶ。
少女の父親が首を傾げる。
「リカルド?」
「彼の名前よ。呼ぶ時に困りますでしょ?」
「この子には大切な名前があるんだ。勝手な名前で呼んでは失礼だよ。しかも今読んでる小説の主人公から取るなんて。」
「あら、妖精騎士リカルドは立派な男性よ、お父様。」
その本はエミディオの書斎にある一冊で、妖精と人間が協力しながら冒険するシリーズに今娘は夢中なのだ。
まだ5歳なのに分厚い本格ファンタジーを読み漁るとは、流石自分の娘と自賛するべきところではあるが。
「名前がわからない以上、あだ名という意味でいいでしょう?お父様。名無しくん、とかその子、とか呼ぶわけにはいきませんわ。」
「・・・仕方ない。でも最低限にしなさい。」
「はーい。いきましょう、リカルド。」
娘は少年の手首を掴むと、そのまま無理やり引っ張って部屋を連れだしてしまった。
どうやらあだ名の意味がわかっていないようだ。
