怪我人
イツキ医師の診療所に息を切らしたサキがやって来たのは、夜が深まる直前だった。
子供達は眠りにつき、酔っ払いがそろそろ歌い出す時刻で、妻のミヤコと娘は日付が変わる前に帰宅するためイツキ医師はゆっくり読書を楽しんでいた。
だが「怪我人がいるの!」と血相を変えた少女の来訪に本をすぐ投げ出し、診療バックを抱え少女と共に住宅地を走る。
少女に連れていかれたのは、港に隣接された馬小屋だった。
大陸から馬を引き連れてやって来る人間も多い為一時預かり所として作られたのだが、現在馬は一頭も滞在しておらず、ワラがあるだけで臭いも無く綺麗なものだった。
イツキ医師は、そのワラの上にいる人物を見てすぐにバックを開けた。
「水とタオルを持ってきてくれるかい?」
「はい。」
少女がすぐ馬小屋を出て行って、医師は患者の横に膝をつく。
息は浅く不規則で、松葉色外套の右半分は血で汚れていた。
不思議な事に横たわるワラ以外血痕は見られない。
その理由は特に興味が無いため、患者の服を脱がし怪我の治療を始める。
刃で斬られた傷が炎症を起こしてはいるが、命に関わる程ではないだろう。
患者が衰弱してるのは出血によるものと、もっと別の理由からかもしれない。
金髪の医師はプリーストや魔術士が行う魔法治療も勉強していた。
きっと魔法の類で血を無理矢理制御したせいで体内バランスが崩れたんだ、と一応の推測を終えると少女が戻ってきた。
血を拭き取り、薬を塗り包帯を巻くとあっさり治療は済んだ。
医師が出来る事は終えたが、まだ苦しげな患者の様子に少女は不安げな眼差しを向ける。
「麻酔を打ったから時期落ち着くよ。」
「そう、良かった。」
「でも怪我人をこんな所に寝かす訳にはいかないな。」
「なら、店の宿泊室に。」
宿泊室と言っても、酔いつぶれて寝てしまった客を一時撤去するための狭い場所。簡易ベッドがあるだけで何も無い。
丸眼鏡の奥から、少女を探るように覗く。
「いいのかい、彼はどう見たってわけありだよ。トワコさんに迷惑かけたくなくて俺を呼んだんだろ?」
「もう既に3つ部屋は埋まってるの。一人増えてもお母さんは気にしないわ。それに、先生の診療所に連れて行く方が心配。マリンちゃんもいるし。」
「ウチは構わないけどね。病院だし。でもサキがそうしたいなら。」
麻酔が効いてきて大人しくなった少年を背負い、こっそり夜の道を抜け雨海亭の裏口から宿泊所の一番端部屋に少年を寝かせた。暖かいオレンジ檜が包む部屋は狭いながら患者にはもってこいな赴きで医者としても一応の納得。
一人サイズベッドに眠る少年に布団を掛けてやる少女を伺う。
「確かにこないだ、無料で怪我人を診るとは言ったけど、こんなに早く連れてくるとはね。」
「面倒掛けてごめんなさい・・・。配達帰りに馬小屋を通ったら物音がして、この人が倒れてたの。ただの傷じゃなかったし、血が止まらないからどうしたらいいかわからなくて。」
「俺は構わないし、ワケアリの患者は沢山診てきたから平気だよ。」
猫背の金髪医師が少女の黒髪を撫でた。
この患者が何者だろうと、恩人を傷つけるようには見えない、と長年の勘が言っていたので
替えの包帯や痛み止を渡し、何かあったらすぐ呼びなさいと付け加え金髪医師は裏口から来た道を戻った。
自分は滅多に騒がしい雨海亭に顔を出さないので、妻に怪しまれたらサキが匿った患者もバレてしまうからだ。
「いやはや、あんな可愛い顔した少年は騎士団相手に何しでかしたんだかね~。」
せわしなく港道をかっぽし何かを―あるいは誰かを探している風な兵士達を横目に見つつ、ニヤリとその医者は中指の腹でメガネを上げ、人知れず愉快そうだった。
何かが、始まる気がするからだ。
あの黒髪少女は両親の迷惑をかけるような事柄に自分から顔をつっこむようなことはしない。彼女の本能は限りなく悪を遠ざける。
だが、今宵はどこか違う。
両親のために人生を送っている優しい少女が自分の為に生きる目的が近づいているような、勝手な予感。