幻黒竜
3日後。
台地を目指し移動をしていた騎士団だが、その日は珍しく朝から雨が降っていた。
雨と言っても殆ど霧雨である。
レイエファンスは空の近くにあるため、雫が大きくなるまえに大地を濡らすのだ。
防水加工をした外套を纏い、フードを目深く被った格好で馬を進める。
現在彼らは、ゼネガル台地を大きく南に迂回し、背が高く枝が無い木々が
規則正しく並ぶ林道をゆっくり進んでいた。
それは悪魔の襲撃を回避するための遠回りだった。
悪魔と言えど、神聖なレファスの森に侵入は出来ない。
神秘の浮遊島は、取り分け森の力が強いのだ。
少しの林でも守りは強く、数日隊長が悪かったサキョウも木々に囲まれたその道に入るなり
体調が回復してきたようだった。
タカヒトはフードの奥から一本道の先を見据えた。
深く濃い霧であまり遠くは見渡せず、外套を叩く弱い雨音と緩くなった土を跳ねる蹄の音で耳も頼りにならない。
だが今は、森の精霊が辺りを警戒してくれていた。
前回の戦いで何も出来なかったバッサム達が張り切っているのだ。
その日はずっと霧雨が振り、特に何も起こらず一日を終えた。
夜を好むバシュデラを警戒して夜から早朝も移動を続けていたが、
林の中なら安全だろうと草むらの上にテントを張り馬を休ませてやることにした。
翌朝は昨夜の雨が嘘のようによく晴れ、朝露を輝かせていた。
テントを出たタカヒトは斥候の話を伺っていた。
「でわ奴らは、ゼネガル台地を更に進み、ユークリア低地に居るんだな。」
「はい。かなり堂々とテントを張り、逃げも隠れもせずといった様子で。」
「なるほど。奴らテダム山岳にいたのか。見付からんわけだ。数は検討ついたか。」
「バシュデラが約2000、ウロボロスが約3000」
「それに悪魔も加わるなら、数でいえば此方が不利か・・・。悪いが、このままガムールに行ってトキヤにアクリラを連れて合流するよう伝えてくれ。」
「御意に。」
斥候は表情を変えずそのまま何処かへ行ってしまった。
テントに戻ると、兵が一人朝食の準備をしていた。
「・・・小姓をつけた覚えはないが、いつもお前が食事を届けるな。」
「はい。自分は食事配給班におりまして、タカヒト隊長に憧れているのを同僚も分かってくれているので、
恐れ多くも隊長への配給担当をさせていただいております。」
「名前は。」
「ケンタ・オミと申します!」
「覚えておこう。下がれ。」
オミという兵士は頭を深々と下げ出て行った。タカヒトの青い瞳がしばらく出入口普及を見つめていたが、
やがて食事を開始した。
太陽が真上に登った頃にようやく隊は進んだ。
十分に休んだ馬も上機嫌だ。
林は段々と道をなくし、木々も規則正しくは生えてこなくなり、隊は林の外に出ることにした。
林は森へと変貌していたらしい。
森を右手に警戒しながら長いゼネガル台地をひた進む。
それから2日経っても敵襲に遭うこともなく、ついにユークリア低地を一望出来る縁に辿り着いた。
レイエファンスは、北に行くほど標高が上がる特殊な地形をしており、北端には竜が住むと言われる山々が連なり、その手前に人は滅多に訪れない深く広い森がある。
更にその手前にあるのがユークリア低地だ。
まるで巨人に土をえぐり掘られたかのように他の土地に比べ極めて低くなっている。
高低差は5m程。
かなり広い低地で、そこにかつてはイルの大地が埋まっていたが、
エルフが自由を求めレイエファンスの大地を切り抜いたのではないか、と唱える学者は後を絶たない。
茶に近い黄土色の低地が視界一杯に広がり、埃っぽい匂いが乾いた風に乗っている。
枯れかけた木が左の手前に数本生えてる他は土と石しかない。
そして、ほぼ地平線上に黒い固まりが見えた。
混合軍だろう。
あちらも騎士団の到着に気付いただろうが、動く気配はない。
「どうなさいますか。」
「あちらが動くまでは、トキヤを待ち策を練るか・・・。本部テントを張り軍令会議を―」
言葉の途中で、視界の端に黒いモヤが移った。
騎士団と混合軍の丁度中間地点に、黒い竜が飛来した。
コウモリのようだがたくましく肉付きのいい翼を動かせば風が巻き起こり、
鱗は美しく、爪は鋭く、目は燃えるようである。
だが、違和感があった。
タカヒトや上級隊員は気付いたが、多くの兵はうろたえ悲鳴を上げる。
「リセル、あれは幻だとすぐ伝令を隊の後ろまで走らせろ。」
「はい。」
「隊長。」
「どうした、ミレイナ。」
「あれは確かに幻ではありますが、黒魔術を介して作られ、邪悪な力を感じます。
触れれば呪いを受けたかのように肌を焼くでしょう。」
「敵方がほんの挨拶で作った竜に思うが?」
「そうでしょう。ですがあれは火を吹かぬ変わりに存在してるだけで空気を汚しております。
我々ウィザードも、精霊召喚士も清いマヤーナの息吹がなくては力を全て発揮出来ませぬ。」
「なら早くあれを消さねば俺もいずれ―」
「誰だ、あれは!?」
兵士の一人が叫んだ。
幻竜の前に、一人の人間がヒラリと何処からか舞い降りた。
小柄な体と茶の髪、そして松葉色の外套にタカヒトはハッとして手綱やんわり引いた。
「サキョウ様に防壁を張ってもらい、プリーストに空気を浄化させろ。」
「隊長?」
「隊を少し下げ、絶対待機だ。いいな!?」
「なりません隊長!いくら貴方様でも・・・!」
ミレイナの制止も耳に入らぬ様子で、タカヒトは手綱を引き愛馬を走らせた。
低地に降りるため、縁を左へ行くほど低くなる誰かが作った土の道を辿り、
低地に降りると数本の木々が生えた場所で馬を乗り捨てマヒトの元へ走った。
「来るな!」
幻竜から目を離さぬまま背を向けたマヒトが叫ぶ。
彼は両の拳に青い炎を宿していた。
それが魔法かどうかすらタカヒトにはわからない。
「コレはタカヒト達人間には害だ。近付いちゃダメだ。」
「だからってお前一人では・・・」
「俺はなんとかなる。だから下がって。」
腰の鞘から剣を取り出しマヒトの隣に並ぶ。
そこで初めてタカヒトの顔を仰ぐ。
「部下がいるから見栄張ってるの?」
「バカを言え。俺の剣は特殊だと言ったことあるだろ。」
「白竜か!なるほど。ならなんとかなるかもね。でも触っちゃダメだよ。」
「誰に物を言ってる・・・!」
幻竜が鈎爪がついた右翼を降り下ろして来たので二人は別々に飛び退いた。
幻のわりに、爪が降り下ろされた地面に鋭いひっ掻き傷が三本平行して刻まれた。
避けながらマヒトは幻竜の腹に手に宿した炎を投げつけ、タカヒトは羽を斬りつける。
竜が低い悲鳴を上げ、牙の間から紫と赤が混ざった黒いモヤを吐いた。
二人とも素早くよけたが、吐き出されたモヤが空気を黒く汚すのを目視出来る程だった。
汚れを体内に吸収するのはマズイ。
タカヒトは風の魔法を体に装備し回りの空気を常に動くようにした。
だがマヒトはモヤに大して危険視してないようで、軽く地面を蹴ると竜の目と同じ高さまで上がり
今度は顔面に炎を叩きつける。
双眸を焼かれた竜狂ったように翼と爪を振り回すのを避け、風の助力を得てタカヒトも飛び上がり、
留めとばかりに長い竜の首を横に切り裂いた。
切口からモヤが噴射したが、竜の輪郭がぼやけはじめた。
どうやら幻が解かれたようだ。
一安心したタカヒトが剣を鞘に戻そうとした時、最期のあがきで左の爪を真っ直ぐマヒトに向けてるのを見た。
マヒトは空中から着地する所で、避けられるわけがない。
風を纏ったタカヒトの動きは俊足であった。
マヒトの前に立ちはだかり、幻黒竜が伸ばした爪を左腹に受けた。
マヒトが息を止めた小さな音を発しただけで、竜は静かに姿を消した。
貫通こそしなかったが、腹に穴が開いたタカヒトは口からも血を吐き、後ろに倒れた。
「タカ、ヒト・・・?」
大男を受け止めたマヒトは、今起こった事が理解出来なかった。
彼は目を閉じ意識を失っている。
腹部から大量に血を流し、それは気を失ってるのに流れ続ける。
「おいこらタカヒト・・・何寝てるんだ・・・。」
ずっと兄と二人きりで過ごしてきたマヒトにとって、親しい人間が傷ついた場面を見るのは初めてで、
治療という二文字はすっかり無くなっていた。