雨海亭2
港を横切り、港のすぐ近くにある木造の食事処『雨海亭(うかいてい)』に入る。
扉を開けると備え付けのベルが鳴る。客はチラホラ机に居る程度で雨海亭昼の最大混雑はまだ無かった。客かと思い声を出したが娘だとわかり、雨海亭のオーナーでありサキの母は盆を適当な机に置き彼女を出迎えた。
「お使い頼んじゃってごめんねサキちゃん。」
「平気。気分が和らぐお茶も貰ったよ。」
「まぁ、イツキ君にはいつもおまけもらっちゃって悪いわね~。」
「いいんですよ、トワコさん。あの人は暇なんですから。」
会話に入ってきたのは、美しい黒髪と勝気な瞳をもつ女性。
サイドの髪を綺麗に三編みにして後ろに束ねている給仕は、イツキ医師の妻ミヤコ。
スラリとした体や立ち振る舞いは、一児の母とは到底思えない。
「こっちこそお世話になってるんですから構わないで下さい、トワコさん。マリンも預かって貰ってるし。」
マリンとは夫妻の3歳になる娘で、ミヤコが仕事をしている間はサキの祖母が雨海亭の裏にある自宅で面倒を見ている。
「いいのよ。ミヤコちゃん来て貰ってウチは助かってるんだから。この辺りじゃ唯一の食事処でお昼は戦場でしょ?私とサキちゃんだけじゃ中々さばけなくて大変だったのよ。」
肩の上で緩く内側に巻かれた茶の髪をした母は、17歳になる娘がいるとは思えないぐらい若々しく、今だに夫とラブラブだったりする。
夫カズマが病気であっても明るく支え続け、尚且店も上手に切り盛りしている。
サキは母を尊敬していた。
「お茶煎れてお父さんに持っていくね。」
「あら、じゃあ一緒にお昼も持っていってあげて。消化にいいお粥作っておいたの。」
盆に粥とお茶と薬を置き、慣れた動作で両開きの裏口扉を抜け、自宅脇にある外付け階段を上がり3階の一室に入る。
もともと2階建てだった自宅だが、見晴らしがいい静かな部屋を、と祖父が父の為に増室した場所だ。
「お父さん、気分はどう?」
部屋に入ると、大きな窓のすぐ脇に置かれたベッドに半身起こし座って、港を眺めていた人物が此方をむ向いた。
黒髪に黒い瞳。柔らかく微笑む姿はトワコと同じで年を感じさせない。
だが、病人らしい顔色の悪さは隠せない。
「おはようサキ。少しよくなったよ。」
「イツキ先生にお薬貰ってきたの。お母さん特製のお粥食べたら飲んでね。お茶も先生が煎じてくれた気分が和らぐお茶だって。」
「それはありがたいね。イツキ君にはお世話になって・・・」
「お母さんと同じ事言ってる。」
テーブルの上に食事を並べ終えたサキはベッド脇に移動して父の隣に腰かける。
サキの黒曜石のような深い輝きをもつ瞳は父譲りのようで、父も同じ瞳を持っていた。
艶やかな黒髪も目元もそっくりだった。
「私に魔力があれば、都市一番のプリーストになってお父さんの病気治してあげるのに、私は欠片も魔力が無いんだもの。」
「魔法じゃこの病気は治せないさ。それに魔力ならサキにもあるよ。」
「ないわ。」
「あるんだ。サキがいるだけで父さんは元気になるんだ。トワコと結婚してサキが生まれて、信じられないかもしれないが、父さんは前より丈夫になったんだよ」
自分をなだめるように優しく笑う父の首に抱きついた。
父の病は命を脅かすものじゃないにしろ、自由に歩けない病気だ。
筋肉細胞を侵す病原菌のせいだとイツキは言っていたが、明確な治療法が見つかっていないのも事実。
サキはベッドで寝たきりの父が港の労働者のように元気になってくれればいいと常に願っているのだが、状態は平行のまま。
だから学校に行かず母の店で働くことを選んだのだ。
「お店が忙しくなる頃だから、戻るね。」
「頑張ってな。」
「また夕食に。」
父の頬にキスをして、店に戻る。
階段を降りていると、都市中央にある大聖堂の鐘が鳴り響くのが聞こえてきた。
通りの方も騒がしい。
「騎士団が帰ってきたそうよ。」
家の前に祖母と、祖母に手を引かれているマリンがいた。
二つに結われた金のくるくるした髪は父親似だが、顔は母親そっくりの少女はサキを見つけて手を降った。
「マリンちゃんがお馬さんみたいって言うから、ちょっと通りに出てくるわね。」
「人が多いから気を付けて。マリンちゃん、おばあちゃんの手を離しちゃダメよ。」
「ハーイ。」
手を降って祖母と幼い少女を見送る。
家と家の間にある人一人がやっと通れるだけの狭い隙間から、物音がした。
首を向けるが誰もいない。
猫だろうと判断し、騒がしくなり始めた店に戻った。